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映りこんだ客の表情が読めそうなほど磨き抜かれたミズナラのカウンターは、ぼくが愛してやまないものの一つだ。もっとも、日曜の夜だというのに皿やグラスの触れあう音ひとつ、結露したグラスの水滴ひとつすらカウンターにつかないのは少々いただけない。ダイニングバー『コノハナ』のマスターであるぼくには、お店に対する責任があるのだから。
「けど……まあ、こんな日もあるかな」
気取らず、落ち着いて、少しだけ大人っぽく。繁華街から離れ、地元の常連さんを相手に商売をすると決めた以上、ときには一人も客が来ない夜だってある。いさぎよく諦めて、自分のためになにか作ろうかと思ったその矢先だった。軽やかなベルの音色と共にドアの隙間から、見知った顔がひょいと覗く。
「二人なんだけど、いいかな?」
かわいらしく首を傾げて尋ねるのは、馴染み客の一人であるハルさんだった。その心から楽しげな笑顔に、ついこちらも笑みを浮かべてしまう。
「こんばんは、ハルさん。カウンターへどうぞ」
「よかった。今日は空いてるね」
「ハルさんが来なければ、もう閉めるところでした」
「そりゃラッキーだ。ねえ、いいお店でしょう?」
ハルさんは連れの男性を促し、くつろいだ微笑みを浮かべながらカウンターのスツールに腰を落ち着ける。いつもより少しだけ気取ったパステルカラーのワンピースに、シルバーのバレッタで留めたハーフアップ。ほんのりと頬を染めているところを見ると、どこかで飲んできたのかも知れない。
「ハルはここによく来るのか?」
びっくりするほどの美声は、ハルさんの連れの男性だった。仕立てのいい三つ揃いにブルガリの時計、革靴も品がいい。眠たげな目元を除けば、総じて美男と言ってよいだろう。ハルさんの隣に立っても見劣りはしない。声もいい、金もありそうとなればさぞ女性にもてるだろう、と考えたところでぼくは自分が男性を快く思っていないことに気付いた。おそらく、ハルさんを呼び捨てにしたのが気に食わなかったのだろう。
「うん。飲んだあと、歩いて帰れるから。って言うか、マスターがこのお店を開くって聞いて、歩いて通えるようにわざわざ近くまで引っ越してきたんだよね」
「ハルさんには、いつもよくしていただいています」
「ふうん……ずいぶん惚れこんでるんだな」
男性がこちらへ視線を向けてくる。ずいぶん若いな、とでも言いたげな視線を、笑顔でブロック。心のうちに湧き上がる一方の反感は、心の奥にしまい込む。一線を超えない限りは、不愉快な客も客のうちだ。店内には微妙な気まずさが漂いかけるが、それを知ってか知らずかハルさんが能天気な声を上げる。
「オイカワは、ビールが好きだったよね。マスターはすごく上手なんだよ」
「そうか。ならギネスを頼もうか」
「わたしはシンガポールスリングをお願いしようかな。つまみは何がいいかな」
「もう召し上がっていらしたのなら、当店おすすめのイベリコ豚の生ハムとサラミをクラッカーと一緒にいかがですか? ビールともぴったりですよ」
「ふむ、本格的なハモン・イベリコを目にするのは初めてだが、これはすごいな」
オイカワと呼ばれた男が、カウンターに鎮座するハムホルダーに目をやる。イベリコ豚の後脚をそのまま生ハムとして熟成させた骨付きの原木は迫力満点で、ナイフを用いて切り出す様子は客の眼も楽しませる。もちろん、味は絶品。ちょうど半分まで削り進んで、しっとりと食べごろの状態だ。
「じゃあ、それでよろしく」
にこりと笑うハルさんにうなずき返し、準備を始める。まずは手間と時間のかかるギネスからだ。よく磨いたパイントグラスを注ぎ口に近づけ、タップを一気に手前へ倒す。グラスの角度を一定に保ち続け、ギネスの象徴であるハープの刻印の中ほどまで注がれたところで止める。そっとカウンターに置き、サージングの時間を取って泡が落ち着くのを待つ。
その間に、ハルさんのシンガポールスリングの準備に移る。こちらは背の高いタンブラーにクラッシュアイスを入れ、ドライジン、レモンジュース、シュガーシロップ、オレンジビターズを加えてステア。ソーダを静かに注ぎ入れてもう一度軽くステアし、最後にチェリーブランデーを注ぎ入れる。最後にチェリーを飾り付ければ、ぷつぷつと泡が弾ける透明な液体の底に、鮮やかな紅が沈んだシンガポールスリングの完成である。かかる手間と美しさ、そして何よりおいしさのバランスが取れた、ハルさんお気に入りのカクテルだ。
「どうぞ」
「ありがとう」
お酒に酔ってふわふわしたハルさんは、なんとも言えずかわいらしい。許されるのなら、ずっと眺めていたいくらいだ。しかし、シンガポールスリングを作る間にギネスのサージングが完了している。完璧なギネス、パーフェクトパイントを提供するためにはタイミングが命なのだ。グラスを持ち上げ、今度はタップを奥に倒してゆっくりと注ぐ。同時に、グラスをすいすいと動かして泡で三つ葉のクローバーを描いていく。茎まで描いたところで泡はグラスのふちまでぴったりと注がれるので、そのまま零さないようにコースターの上へ。
「ハルが気に入っているだけある。パーフェクトパイントと呼ぶにふさわしい、完璧な手際だった。プロに向かって言う言葉ではないが、素晴らしい腕前だ」
「でしょ?」
「なぜ、ハルが得意がる。……まあいい、乾杯だ」
「ん、かんぱーい」
ちりん、と涼やかな音を鳴らしてグラスを合わせる二人をよそに、今度は生ハムの準備に入る。原木にナイフを滑らせ、一枚一枚、綺麗に形を揃えて削ぎ落とすのは骨が折れる作業だが、バーテンダーであると同時にシェフでもある身としては腕の見せ所でもある。二人の交わす会話を耳に入れるでもなく聞きながら、手先に感覚を集中させていく。
「しかしハル……流石にみんなお前を見て驚いていたな。正直、俺も驚いた」
「みんなとは高校以来だからね。変わりもするよ」
「ああ……だが、まあ、なんと言っていいか……綺麗になったな」
「褒め言葉として、受け取っておくよ」
どうやら、今夜は高校の同窓会があったらしい。いまのハルさんから高校生のハルさんを想像するのは少々難しいが、どんな印象だったのだろうか。今のハルさんしか知らないぼくと、高校のときのハルさんしか知らない同級生では、受ける印象も異なるだろう。そんなことを考えながら、薄く切り出した生ハムと、同じイベリコ豚のサラミを皿に盛りつけ、それとは別に小さめのバスケットへプレーンクラッカーを入れて、ミル付きブラックペッパーと一緒に提供する。しっとりと濡れたハムの表面は、いかにも食欲をそそる。
「……旨いな」
「でしょー?」
生ハムを乗せたクラッカーを咀嚼するや目をみはり、間髪入れずにギネスのグラスを傾けた男が感心したように呟くと、ハルさんは我がことのように悦んで自慢げな顔になる。自らも生ハムクラッカーを頬張り、タンブラーを傾ける姿は愛嬌があり、観る者を微笑ましい気分にさせてくれる。
「けどあれだねー」
「なんだ、ひとの顔をじろじろと」
「んー、そうやってギネスを飲んでるひとを見ると、あのひとと初めて会ったときを思い出すなー、って思ってさ」
「話が見えんな、誰のことだ? 俺も知ってるやつか?」
「ううん、大学時代の知り合いなんだけどさ……」
そうして、少し酔いが回った口調のハルさんは語り始めたのだった。