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中華街の暗殺者 6

   6


 僕は楽々酒家の前で電話を取りました。

「はい」

「英人。律香が飯餡飯店の構成員と交戦状態に入った」

「先手を打たれた、ということですか?」

「いや、喜元の手下が妨害しにくることは想定の範囲内だ。お前は予定通り隠を確保しろ」

「了解しました」

「あたしはこれから喜元に印籠(いんろう)を渡してくる。規定の時間に迎えに来い」

 と、毒島副所長からの電話が切れました。いよいよ仕事が始まった。僕はそう理解しました。

 店内に入ると楽々酒家の店長が、

「申し訳ありません。今日はもう店仕舞いなんです」

 と申し訳なさそうに言ってきました。僕は構わず近くの席に座りました。

「お客様?」

「今夜は誰を殺しに行くんですか? 隠――いえ、中華街の暗殺者さん」

「……(おっしゃ)っている事の意味が理解できません」

 と、店長は調子を変えずに訊き返してきました。

「貴方は正確に言うと二代目です。初代中華街の暗殺者は常連客のご老人」

「何を根拠にそんな馬鹿げた話を……」

「貴方は左利きです。それに、極度の潔癖症――」

 と、僕は店内を見渡しました。

「ここまで綺麗に汚れを拭き取れるのは貴方ぐらいしかいないと思いますよ」

 楽々酒家は目が痛くなるくらいに輝いていました。店内の隅々まで掃除が行き届いている証拠です。

「中華料理という物はどうしても油汚れが付いてしまう物なんです。けれども、このお店には一切それが見受けられない。机にも、椅子にも、床にも、壁にもね」

「潔癖症で左利きの人なんていくらでもいる。それだけで殺人鬼にされちゃ(たま)ったもんじゃない」

「隠の美学――すなわち、殺害現場の血痕を全て拭き取るという仕来(しきた)りが、貴方の身体に染み付いてしまったんです。深夜まで店内を一人で清掃している貴方の姿をアルバイトの方が目撃しています」

 僕は店長の目をじっと見つめて説明を続けました。

「貴方は隠に取り憑かれてしまったんです。身の回りの汚れが血痕に見えて仕方がない」

 店長が唇を微かに震えさせていました。

「俺が隠だったとして……なんであのじいさんが初代隠なんだ?」

「貴方は初代隠から指令を受け取っていたんです。おそらく、最初に受け取った手紙の内容は「わしの代わりに中華街未来化計画を阻止してくれないか?」というような文面だったはずです」

 僕は一枚の写真を上着のポケットから取り出しました。映っているのは王 喜元の横顔。写真の裏には達筆な字で『革命派の重役三人のうち最後の一人だ。この男を殺してくれ』と書かれています。

「この写真はご老人が残したラーメンのどんぶりの中に沈んでいました。暗殺の指令にはいつもこの方法を使っていたのでしょう。ご老人――いえ、初代隠は目印にある料理をラーメンと一緒に頼んだんです」

「俺は……隠なんて知らない」

「腸詰。昨日の夜、僕の上司が偶然口にした台湾のおつまみです」

 僕はお店のメニュー表を開きました。

「楽々酒家のメニューに腸詰は存在しません。どのページにも……存在しないのです」

 僕はお店のメニュー表を一枚一枚めくっていきました。そして、そのままメニュー表を閉じました。

「たとえ誰かが裏メニューとして注文しても、貴方は腸詰を提供しなかったでしょう。なぜなら、メニューにないはずの腸詰をラーメンと一緒に頼む変わり者の老人――この条件が(そろ)うのは、初代隠が暗殺を依頼しに来た時だけにしなければならないからです」

 店長はメニュー表の表紙をただ漠然(ばくぜん)と見つめていました。

「初代隠以外の人物に腸詰を提供してしまったら、目印になりませんからね」

 と、僕は椅子から立ち上がりながら言いました。

「想像力は豊かだが……証拠が無い」

「さて、どうでしょう。確かに動機までは明確に判断出来ませんでしたが……」

 と、僕はポケットからこの店の領収書を取り出しました。昨夜、律香さんから頂いた物です。

「この領収書は貴方が書いた物です。筆跡も指紋も残っています。これを警察の方、そうですね、鑑識の方に提供すれば推測は事実に近づきます」

 と、僕は領収書をキャッシュトレイに置きました。

「犯行現場に残っていた指紋と貴方の指紋が一致すれば……警察は貴方の店――つまり、この場所を隅々まで調べ上げるでしょう。そして、凶器の中華刀が厨房の奥の冷蔵庫の中から発見されれば……推測は事実になります」

 と、僕は言いました。店長が大きな溜め息をつきました。

「俺は……この店を守りたかっただけなんだ」

 店長が覚悟を決めたような目をして語り出しました。

「じいさんは俺に暗殺の方法を伝授してくれた。そりゃあ、完璧に習得するまで何年もかかったさ。でも、革命派の奴らに親父から受け継いだこの店を潰されるわけにはいかなかった」

「革命派の方と交渉する余地は無かったんですか?」

「親父は頑固だったからな。伝統派の中でも一番革命派と対立してたんだ。嫌われ者の息子が計画を中止してくれって言っても、聞く耳を持つはずがない」

 と、店長は(こぶし)を握りしめて言いました。

「機械なんかに親父の味を再現できるわけがない。大切な……味を……客を……この店の雰囲気を……壊されたくなかったんだ」

 閉店後の店内は閑散としていました。店長の悔し涙だけが車の往来と騒音の間隙(かんげき)(とどろ)いていました。

「僕がお伝えしたかったことは以上です。では、待たせている人がいるので」

 と、僕は一礼しました。店長が驚きの表情を浮かべて、

「ちょっと待ってくれ。俺を逮捕するんじゃないのか?」

「僕は警察官ではありません。手錠も所持していませんし、自首して頂くのを願うことしか出来ないんです」

 と、僕は店から出て行こうとしました。ですが、店長に一度呼び止められました。

「そんなに急いでどこ行くんだよ?」

「大切な人の所へ……とでも言っておきましょうか。それでは、失礼します」

 と、僕は店を後にしました。掃除道具を片付ける音が背中越しに聞こえた気がしました。

 


 わたしは亡霊の凶行を止めなければならない。怜悧さんがお守りにくれた赤いナイフをチャイナドレスの中に隠す。なるべくなら最後の手段を使わずに中華街の暗殺者を説得したい。わたしはそう願った。

「邪魔しに来るの早くない?」

 と、わたしは中華街の街並みに問い掛けた。

「対象『妹』を始末しろと社長から言われたんでな」

「そんな名前で呼ばれてるの? わたし」

 中華街の中央通り。路地裏から黒服の男たちが次々と出現してくる。黒服にサングラスって……さすがに怪しすぎると思うんだけど。というか、わかりやす過ぎ。

「その格好……なんていうか、すごく目立ってるよ」

「その言葉、そっくりそのままお返ししよう」

 チャイナドレスを着た女性が黒服の男たちに囲まれている。まるで映画のワンシーンだ。

「映画の撮影?」

「PVの撮影かもよ」

「真ん中の女の子はヒロインかな」

 当然、野次馬が集まってくる。

「ほら、人だかりが出来ちゃったよ」 

「問題ない。私達は隠のように暗殺が仕事ではないからな」

「公然の場で大の大人が若い女の子を殺害したら大問題だと思うんだけど」

「安心しろ。対象『妹』は撮影中の事故で運悪く命を落とした。社長が用意した台本にはこう書いてある。わざわざビデオカメラだって用意したんだぞ?」

 本当だ。映画の撮影で使われるような機材や道具がそこらじゅうにセットされている。

「確かに安心ね。これだったら――」

 と、わたしはさっきまで話していた男を正拳突きでぶっ飛ばした。男が仰向(あおむ)けに倒れる。

「どんなに暴れても平気だね」

 一瞬の沈黙。そして、怒号。

「このガキ!」

「やっちまえ!」

 どこかの店の誰かの手元からお皿が落ちる。ガシャン、その音が戦いのゴングを(にな)っていた。

「死ね!」

 と、黒服が刀を一振り。避わして首筋に手刀をお見舞いする。黒服がその場に倒れる。

「ガキって言うな!」

 黒服がどよめきだす。ひょっとしてこの女……空手かなんかやってるんじゃないのか?

「そっちが本気ならこっちも本気だよ」

 と、わたしは言った。両腕を大きく時計回りに回した後、片脚を上げて決めポーズ。おお、我ながらカッコいい。

「アチョー!」

 わたしは香港映画の主人公になった気分だった。思いの外、黒服達はわたしがカンフーの使い手だと信じ込んでいる。

「おい、どうする」

「人数だったらこっちの方が上だ。ぶっ殺せ!」

 二人の男が突撃してきた。パンチとキックをしゃがんで避ける。

「せいや!」

 と、わたしは両手で自分の身体を支えて逆立ちスピンキック。ブレイクダンスみたいに予測不可能な攻撃を前に、黒服二人はあっけなく吹っ飛んだ。

「あ、今わたしのパンツ見たでしょ」

「見てない見てない! 白だったなんて――」

「見てるじゃん」

 と、わたしはカメラ係の(あご)を思いっきり蹴り飛ばした。ついでにカメラも踏み潰す。

「調子に乗るなよ!」

 と、通りの奥から新たな敵が現れた。武装した黒服達が全速力で走ってくる。刀、槍、ヌンチャク、棍棒(こんぼう)、鎌、斧、ハンマー。挙句の果てには金属バット。悪の組織に団結力は皆無らしい。

「おらぁ!」

 一等賞はヌンチャク男。一応、獲物は使い慣れているらしく、素早い連続攻撃を仕掛けてくる。

「遅いよ」

 わたしは連撃を見切って足払い。男が尻餅をついたその瞬間、横から斧が飛び出してくる。

「危ないなぁ。顔に当たったらどうするの?」

「顔に当てるつもりだったからな」

 ヌンチャク男の後頭部を踏みつけて戦闘不能にさせる。男を足場に屋台の上へと飛び乗る。

「真っ二つになれ!」

 大斧が振り下ろされる。わたしは屋台からジャンプして斧男に全力の(かかと)落とし。屋台と一緒に斧男が崩れ落ちる。

「貴様ぁ!」

「バラバラにしてやる!」

「殺す!」

 続いてやってきたのは棍棒、刀、槍男の三人衆。

「今度は何?」

 棍棒男の攻撃。その様子はまるでスイカ割り。

「まとめて相手してあげる」

 わたしは右足で棍棒を弾き飛ばし、左足で棍棒男を弾き飛ばした。真上に吹き飛んだ棍棒を両手でキャッチして、回転蹴りの勢いそのままにフルスイング。刀男に棍棒が直撃した。

「ぐぇ!」

 吹っ飛んでいった刀男が大きな銅鑼(どら)に命中。中華街に鈍い銅鑼の音色が鳴り響く。その音に気を取られた槍男の脇腹(わきばら)にわたしの(ひざ)蹴りがクリーンヒットする。

「あのガキ! くそっ!」

 と、鎌男が野次馬の女の子を腕に(かか)える。まさか!

「野次馬の幼い少女が巻き込まれても……事故だから仕方ないよな?」

 少女の首筋に黒光りする鎌があてがわれる。関係ない人を巻き込むわけには行かない。

「最っ低!」

 わたしは目にも止まらぬ速さで走った。

「なっ――」

「な?」

 と、わたしは鎌男の右手の甲を蹴り飛ばす。

「痛ぇ!」

 わたしは鎌が地面に落下したことを確認する。そして、鎌男の腹部に全体重を掛けた(ひじ)打ち。さらに、怒りを込めたサマーソルトキック。鎌男の腕から解放された女の子を抱きかかえる。

「お姉ちゃんつよーい!」

「ありがとう。でも、撮影中に入って来ちゃダメだよ?」

「はーい!」

 と、少女が笑顔で返事をする。わたしは子供を抱えて路地裏に駆け込んだ。

「そろそろ隠を止めないと――」

 一瞬の気の迷いが命取りになる。わたしの前方にはハンマー男。

「ヤバい、ちょっと逃走経路(ルート)をミスったかも」

 わたしの後方から金属バット男が追いかけてくる。

「挟み打ちだ!」

「幼稚園児もろとも叩き潰してやる!」

 と、二人の黒服が距離を詰めてくる。よく見ると、他の黒服達も後に続いて襲いかかってきている。

「今度こそ終わりだ!」

 絶体絶命。わたしの頭が真っ白になりかけたその時――空から女の人が降ってきた。

「律香サン。頭を低くしていてくだサイ」

 と、怜悧さんが華麗に着地する。わたしは女の子をかばうようにしてその場にしゃがみ込んだ。

「陀螺旋转喜欢吗?(コマ回しは好きですか?)」

 怜悧さんは両手を広げてコマのように回り始めた。走る勢いを止められなかったハンマー男と金属バット男が怜悧さんの独楽(コマ)回しに巻き込まれる。

「ぎゃー!」

「がっは!」

 男の顔面に生々しい爪跡が残る。痛い痛い絶対痛い。

「か弱いオンナノコを集団で襲うの……許しまセンよ」

「怜悧てめぇ! 王社長のことを裏切りやがって!」

「暗殺するより探偵する方が気ガ楽ネ。時給もいいですヨ」

 青く輝くチャイナドレスを身に(まと)った怜悧さんがわたしに小声で耳打ちする。

「ソコの扉、鍵が開いてます。お店の中を通って表に逃げて下サイ」

「助けてくれてありがとう。怜悧さんも気を付けてね」

「ワタシは大丈夫です。戦いのプロですから」

「黒服の相手、任せたよ!」

 と、わたしは目の前の扉を右肩で開ける。後ろ足で扉を乱暴に閉めると、怜悧さんが持ち前の爪で扉の鍵を破壊した。点心専門店の裏口は見事に(ひら)かなくなってしまった。

「アノ子を殺すならワタシを殺してからにして下さい」

「言われなくても殺してやる!」

「チンピラが殺し屋殺すの至難の業だと思いますよ?」

「うるせぇ!」

「手元がお留守デス!」

 怜悧さんの爪は黒服の腕を仕留(しと)めていた。

 わたしは厨房の中を駆け抜けた。料理人達が調理の手を止めて目を丸くする。

「何だ?」

「どっから入って来たんだ?」

 料理人達の疑問に答えている時間は無い。今はとにかく急がなきゃ!

「お姉ちゃん大丈夫?」

「大丈夫。ちょっと周りの人の視線が気になるけど……」

 と、わたしは点心専門店から大通りに出る。

「律香さん!」

「英人くん!」

 英人くんが急ぎ足で駆け寄ってきた。わたしは女の子を街道に降ろして、

「この子を安全な場所に連れて行ってあげてくれない?」

「わかりました。その後は?」

「怜悧さんが喜元の手下と戦ってる。加勢してあげて」

「場所は?」

「中央通り三番地。屋台がいっぱい並んでるからすぐに見つけられると思う」

 わたしは呼吸を整えて、再び走り始めた。英人くんが後ろから、

「必ず追いつきます! 中央通りの方は僕に任せて下さい!」

 と頼もしい声を発してくれた。わたしは一瞬振りかえって、

「信じてる!」

 と言った。




 もうすぐ日が沈む。中華街が暗闇に包まれる前に隠と接触しなければならない。隠――いや、初代隠は今夜王 喜元を暗殺する。これが、幽霊探偵派遣会社が出した結論だ。

「お願いだからもう少し待って……!」

 地平線に太陽が足を踏み入れようとしている。オレンジ色の光が一層強まる。

 わたしは飯餡飯店を街道から見上げた。中国のお城をイメージした絶佳(ぜっか)な建物が夕焼け色に染め上げられていく。その頂点に――隠はいた。

「わしを(あや)めに来たのか?」

 と、屋根の上から声が浴びせられる。隠は夕日を見つめていた。

「いいえ、あなたを止めに来ました」

節介(せっかい)な事を……」

 隠の表情はわからない。わたしは屋根の上を凝視した。

「折角助かった命を自ら投げ出すことも無かろうに……」

「わたしは幽霊です。命なんて持ってません」

「誰からも忘れ去られる恐怖を知っておるのか?」

「知っています。記録にも記憶にも……思い出にも残ることすら許されない人達の恐怖を知っています」

 と、わたしは飯餡飯店の外壁に取り付けられている配管を足場にして、屋根の上へと登っていく。

「二代目は隠の名を捨てました。同僚の説得に応じたようです」

 隠がわたしの方に振り向く。

「そうか、残念じゃ」

 淡々とした感想。二代目が暗殺を中断することを知っていたかのような口振りだった。

「あなたの本名は周 即運(そくうん)。かの有名な徐 孫楽のひ孫、徐 楽泰(らくたい)に仕えた護衛の一人です」

 と、わたしは隠が立つ屋根の反対側の屋根に辿り着く。

「昔話か……」

「あなたは楽泰の側近でした。ある時、その腕を見込まれて楽泰から命令を受けたんです」

 わたしは不安定な屋根瓦の上を頼りない足取りで歩いて行く。

「楽都島中華街創造計画に反対する(やから)を抹殺しろ、と」

戯言(ざれごと)じゃ」

「あなたは護衛から暗殺者へと転身しました。そして、中華街を創ることに反対していた権力者達を次々に暗殺していきました。哀悼の意を表して、殺害現場の血痕を拭き取ったのもあなたです」

 ゆっくりと薄紫色の影に近づいていく。ついに、わたしの瞳が隠の姿(すがた)(かたち)を捉える。

「周 即運という名前は歴史の裏側に封印され、代わりに隠という名前が世の中に浸透しました」

 わたしは隠を見て困惑した。柔らかい物腰の老人がわたしのことを優しい眼差しで嘱目(しょくもく)している。

「あなたは……歴史に……消されてしまった……」

「皆まで言わんでいい。言ったところで、歴史には残らん」

 夕暮れ時の生温かい風が吹く。殺人鬼とは程遠い風貌の人物がわたしの前に(たたず)んでいた。

「もう一度問おう。わしを殺めるのか?」

 と、隠が訊く。

「食い止めます」

 と、わたしが答える。

「よかろう。若者よ――死地を疾駆(しっく)せぃ!」

 空気が殺気に変貌する。わたしは全神経を目の前の敵に集中させた。

「つっ!」

 中華刀が首をかすめる。やはり、隠の動きは速い。息をしていたら首が飛ぶ。しかも、足場が悪く体勢を保ちづらい。

「もう、任務を遂行する義務は――!」

 わたしの後ろ髪が中華刀の被害に会う。白い髪の毛がパサリと屋根の上に落ちる。わたしは屋根瓦の上を疾走した。飛び前転して身をかがめる。

「わしが死ぬまで命は解かれん」

 中華刀がわたしの頭上を飛び交う。わたしは隠の命中率が下がっていることを確信した。隠が説得に応じなかった以上、最終手段を使う他ない。使わなければ……わたしの存在が消えてなくなる!

色即(しきそく)是空(ぜくう)!」

「ごめんなさい!」

 刃物が血肉に刺さる音。鉄と夜風の匂い。夕日が完全に沈んだ瞬間だった。

「……やはり、年月の経過は防げぬ、か」

 隠の右手は赤く染まっていた。わたしの放ったナイフが隠の手の甲を貫いていた。怜悧さんが愛用していたという真っ赤なファイティングナイフが長い戦いを終わらせた。隠の手から中華刀が滑り落ちる。

「律香さん!」

 建物の下から声が聞こえる。英人くんと怜悧さんだ。

「黒い服の悪いヤツラはやっつけました!」

「よか……った。ありが……とう」

 と、わたしは二人の声に答えるが、息が上がって上手く話せない。

「中華街の暗殺者――いえ、周 即運さん。貴方のご依頼を()たしに来ました」

 と、英人くんが大きくも明瞭な声で隠に話しかける。

「依頼……じゃと?」

 隠は右手を押さえたまま屋根の端へと移動する。

「生きていた証を探してくれ、そう仰いましたよね?」

「ああ、そのことか。見つかるはずがないよ。わしは亡霊じゃからの」

 と、隠はいつもの好々爺に戻って言った。

「僕の隣に立っているこの女性が……貴方の生きていた証です」

 と、英人くんが怜悧さんに目配せする。怜悧さんが二、三歩前に出て、

「周 怜悧、伝説の暗殺者『隠』の孫デス」

 と言った。隠が目を見開いて、

「怜悧じゃと!?」

「ハイ。つい先日までアナタと同じ暗殺者でした」

「そんな馬鹿な……わしの娘は家族ごと敵対していた権力者達に殺されたはずじゃ」

「記録上はそうなっています。ですが、怜悧さんは現に生きています」

 と、英人くんが言った。

「ワタシの家は全焼しまシタ。まだ、ワタシが幼かった頃です。夜中に知らない男の人が押し掛けてキテ、言ったんです。隠の血を途絶(とぜつ)させる、と」

「本来、そこで隠の血は途絶(とだ)えたはずでした。しかし、そうはならなかったんです」

「ワタシは男の人に抱きかかえられて助けられました。もちろん、知らない人デス。他の家族は全員その男達に殺され、燃やされましたが、ワタシだけは生き残ったんです。ワタシの命を救ってくれた人は自分のことを『(おおかみ)』としか言いまセンでした」

「当時の作戦報告書にも『コードネーム:狼 反す』と書かれています」

 と、英人くんが補足する。わたしは呼吸が乱れて口を挟む余裕がなかった。

「ワタシはその人に育てられ、その人を追って楽都島に来ました。そこで、祖父が生きているコトを知ったんです」

 と、怜悧さんは言った。

「依頼は達せられた。近頃の若者も……なかなかどうして捨てたもんじゃないのう」

 と、隠は笑った。運命の悪戯に翻弄されていたのは自分の方だったのかと。

「革命派の二人を暗殺したのもこのわしじゃ。楽々酒家の店長さんに罪は無い」

「残念ですが……今の貴方にあのような殺人を行う力はありません」

 英人くんが一層語調を強めて言う。

「四十年前に起きた隠事件では七名の方が暗殺されています。四人目までは完璧に血痕が拭き取られていましたが、五人目から血痕の拭き取りが完璧ではないのです」

「それが……なんだというんじゃ?」

「貴方は色盲なんです。特に、赤系統の色がほとんど見えない」

 初代隠が色盲になっているという事実を掴んだのは英人くんだった。四十年前の事件資料を調べていた時に思い当ったらしい。バーで隠と会った時にも違和感があったと言っていた。

「二週間前の事件と一週間前の事件……さらに、李 飯餡氏殺害事件。いずれも血痕は完全に拭き取られています。赤色が見えない貴方が赤い液体――つまり、血痕を拭き取ることは不可能です。よって、貴方は近年の隠事件の犯人ではありません」

 わたしが真っ赤なチャイナドレスを着ているのも、仕事の時間が夕方なのも、初代隠の色盲が関係していた。まともにやり合ったらわたしに勝ち目は無い。だけど、赤い背景に赤い服を着ている人を狙うことは、目の衰えた隠にとって簡単な事ではない。隠の弱点を利用したのだ。結果的に、隠は赤色のナイフを避けれなかった。それが、わたしの決定打になった。

「あなたの利き手は右手。二代目の利き手は左手」

 と、わたしは立ち上がりながら言った。ようやく息が整ってきた。

「わしの時代にも君達のような探偵がいたら……幾分(いくぶん)かは時代も()えたんじゃが」

 と、隠が再びわたしの方に向き直る。背中に奈落を抱えた状態だ。隠が微笑む。

「現世の幽霊達よ。どうか、中華街の未来を正してくれ――」

 わたしは身を前に進めようとした。でも、身体が疲弊(ひへい)しきっていて動かない。

「傷になります! 見てはいけません!」

 英人が叫ぶ。隠は夜空を見上げたまま屋根から飛び降りた。

「爷爷!(お爺様!)」

 怜悧さんの叫び声と共に隠は絶命した。英雄、徐 孫楽の銅像にその身を投げ出して。

「助けられなかった……の?」

 と、わたしは屋根の上から隠の最期の姿を垣間(かいま)見る。銅像の剣は隠の心臓を貫いていた。

 その顔は――安らかだった。

「また……わたしの目の前で……人が……死んで……」

 虚無。空虚な気持ちがわたしの心を支配する。

「律香さん」

 わたしは自然と泣き出していた。声を上げずに感情を出さずに。

「律香さん!」

「うぇ?」

 泣き始めた時に呼び掛けられたから変な声が出た。

「律香さん、屋根の上から降りましょう。高い所は何かと危険ですから」

「う、うん。そうする」

 と、わたしは屋根の上から慎重に降りた。

「怜悧さん……ごめんなさい……」

「律香サンに罪は微塵もありまセン! これも、祖父の遺志ですヨ!」

 怜悧さんが明るく振舞う。それがまた、わたしの心に拍車を掛ける。

「り、律香さん。ハンカチなら僕が――」

「いらないよ! 悔しくて、寂しくて泣きそうなの!」

 わたしは英人くんに泣きついた。大人気なく泣いた。わあわあ泣いた。

「律香さんは……何も悪くないんです……何も……」

 と、英人くんが穏やかな声でわたしのことを慰める。

「酒井サン。ワタシは祖父の最期をしっかりと看取ってから合流しマス。所長サンと副所長サンにもそう伝えておいて下さい」

「わかりました。伝えておきます」

 怜悧さんが銅像の方へと去って行った。改めて、怜悧さんが強い人だということが伝わった。

「律香さん。最後の仕事が残っています。行きましょう」

「……わかってる。でも、もうしばらくこのままでいさせて」

 わたしの顔はぐしゃぐしゃだった。絶えず溢れ出る涙のせいで。


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