中華街の暗殺者 5
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「なんじゃあこりゃあ!」
二日酔いから解放されたあたしは自分の姿を目の当たりにして、叫んだ。
「西上っ!」
と、あたしは寝室の扉を乱暴に開け放つ。
「おはよう毒りん」
「おはようじゃないだろ! なんであたしがこんな、こんな幼稚な絵柄のパジャマを着てるんだ!」
「自分で着たんだろ。覚えてないのか?」
「着ねぇよ! 金払われても着ねぇよ!」
黄色地にヒヨコの柄がプリントされているパジャマを着る奴なんてそうそういない。
「クマさんの方が良かったか?」
「そういう問題じゃない!」
と、あたしは寝室に戻って普段着(白衣)に着替える。メガネを掛けて髪を整えて準備完了。
「まったく、油断も隙もあったもんじゃない」
あたしはリビングルームのソファに腰掛けた。ダイニングチェアに足を組んで座ってる西上が物憂げな表情であたしのことを見てくる。
「なんだよ。気味が悪いぞ」
「いや、毒りんの顔を見るのもこれが最後かと思うと寂しくてな」
そうだった。あたしは今日、逮捕されるんだった。
「……ごめんな、西上。あたしのせいでお前の探偵事務所に泥を塗ってしまった……」
急激に物悲しい気持ちが襲ってくる。
「今、律香が警視庁に交渉しに行ってる。警察が押しかけて来るのも時間の問題だろう」
「二人で死ぬまで探偵やろうって言ったのに……ごめんな……」
事務所のみんなの顔が脳裏に浮かんでくる。走馬灯とはこのことか。
「くくく……」
「何がおかしい?」
「ハルはまだ捕まらねぇよ」
「え? でも警察が来るって……」
「律香は買い物に出掛けただけだ。もうお昼ご飯の時間だからな」
思考が追いつかない。なぜそんな嘘をつく必要がある。
「八柿警部に話をつけておいたからな。なんとかなる」
「本当か?」
あたしのプライドと理性が一時的に宇宙の彼方に吹き飛んだ。
「西上ぃー! 大好きぃー!」
と、あたしは西上に飛びついた。世間体なんてどうでもいい。あたしはこの男が好きなんだ。
「おいおい、昨日の酒がまだ残ってるのか?」
「そうかも。ねぇ、キスしてもいい?」
「社員が見てる前では遠慮して欲しいな」
と、西上がニヤリと笑う。その瞬間、あたしの理性が宇宙旅行から帰ってきた。
「姉さん、その様子だと元気になったみたいだね」
「リ、リスカ! これは、その、なんだ、なんていうか、あれだ!」
「愛情表現?」
「それだ! いや、違う!」
あたしは西上から身を離す。そして、赤くなった顔を両手で押さえる。
「ツンデレという現象ですネ!」
律香の後ろから見知らぬ女が顔をのぞかせる。
「誰?」
「火星人デス」
「ふざけるな」
あたしが寝ている間に何があったっていうんだ。説明のDVDを流して欲しい。
「この人は新しい幽霊探偵よ。西上さんが雇ったの」
「周 怜悧です。よろしくお願いしマス」
と、日本語カタコト女がお辞儀をしてくる。マジで誰なんだこの奇天烈な女は。
「怜悧ちゃん。昨日は日本語ペラペラだったのに……おれは悲しいよ」
西上の指摘に怜悧がビクリとした反応を示す。
「何のコトですか? ワタシは最初からこんな感じですヨ」
「クールな怜悧ちゃんの方が好きだったんだけどなぁ」
「きっと夢だったんデスよ」
怜悧は西上に対してどことなく畏怖の念を抱いているような気がする。そんなことより現状把握だ。
「さあ、新入社員の歓迎会をやるぞ! 今日の仕事内容はすごーく濃いから、今の内に体力を温存しておくように!」
と、西上が立ち上がって言った。あたしは訳も分からぬまま西上に尋ねてみた。
「今日の仕事って……何?」
西上はあたしの耳元でそっと囁いた。
「中華街をぶっ壊すのさ」
「やはり、霊宝軒という名前の店は中華街に存在していません」
と、琅は調査結果を読み上げる。喜元が面白くなさそうな顔をして笑った。
「舐められたものだな」
「神 西櫂の目的は分かりかねますが、隠を排除するという点においては正しい意見だと思われます」
「その意見には同意する。隠には革命派の重役を二人も殺された。これ以上犠牲者が出れば、計画の続行が危ぶまれる」
と、喜元は腕を組んで言った。
「……社長」
「なんだ?」
「最近、飯餡飯店の従業員を中華街の至る所で見かけるのですが」
「中華街に四店舗も店を設けてるんだから、当たり前の事だろう」
「他店の倉庫やストックガレージに我が社の従業員がいても、それは自然な事だと社長は捉えられるのですね?」
二人の間に冷たい風が吹き込む。琅は語る口を走らせる。
「発注した商品と受注した商品の在庫が合っていません。支出と収入の計算にも大きなずれが生じています。特に酒類です。失礼を承知でお訊きしますが……他の飲食店から盗みを働いているような事はありませんよね?」
喜元は表情を変えないまま首を横に振った。
「それはお前の勘違いだ。会計審査も通っているし、在庫が独りでに増えている事はない」
「……失礼しました」
と、琅は非礼を詫びてから社長室を出て行った。
「生真面目な奴は社長になれない。先代の社長も――真面目過ぎたから殺された」
喜元は誰に聞かせるでもなく、呟いた。
「この世の中は悪人達が引っ張ってるんだよ」
「英人くん」
地上の方から可憐な声が聞こえてきました。律香さんが訪ねてきたようです。
「いらっしゃいま――」
グラスを落としてしまいそうな衝撃。律香さんが真っ赤なチャイナドレスを着て現れたのです。
「その格好は――」
「怜悧さんが用意してくれたんだ。どう? 似合ってる?」
と、律香さんがカウンターの前でくるりと一回転。
「とてもお似合いですよ。律香さん」
「可愛い?」
「可愛い……です」
「綺麗?」
「綺麗……ですよ」
律香さんは僕の事をからかっているのでしょうか? いえ、律香さんに限ってそんなことは有り得ません。僕は努めて平生を装いました。
「そろそろ仕事の時間だね」
と、律香さんは目の前のカウンター席に座りました。
「そうですね。西上所長が指定した時刻までは後三十分ありますが」
「英人くんは――好き?」
僕は自分が緊張していることを悟りました。目が、耳が、鼻が、顔全体が熱くなるのを感じました。
「…………」
「わたしが無理やり引き込んじゃったから。まだ、罪悪感が残ってて……」
「というと?」
僕が先程の質問を訊き返すと、律香さんは首を傾げました。
「この仕事好き?」
僕は自分が自意識過剰だったということを反省しました。そんなわけないじゃないか、と自分の心に言い聞かせました。僕は律香さんの質問に答えました。
「好きですよ。あの時、律香さんが僕のことを救出してくれなかったら……僕は海底に沈んでいましたから。本当に感謝しています」
「良かった。ずっと前から訊こうと思ってたんだ。あのまま死んだ方が良かった、なんて言われたりしたらどうしようかと思ってたけど」
と、律香さんはカウンターに頬杖をついて微笑みました。
「何か飲みますか?」
「英人くんのおすすめが飲みたい」
「かしこまりました」
僕は後ろを向いてカクテルを作り始めました。律香さんと目を合わせていると上手にカクテルが作れないから後ろを向きました。
僕は全ての人に裏切られて自殺を決意しました。大好きなカクテルを文字通り浴びるほど飲んで……もしかしたら、本当に浴びていたのかもしれません。そして、泥酔した状態で川に飛び込みました。朦朧とした意識の中で聞こえた女性の声。今でも忘れません。律香さんの「死なないで!」の一言が僕を救ったんです。僕は律香さんに救われ、殺されました。人生を諦めた僕は死に、酒井英人という名の幽霊としてこの世に蘇りました。冬の川に飛び込んで僕を救ってくれたのは律香さんなんです。そんな命の恩人に……恋心を抱いてはいけないのです。
僕は出来あがったカクテルを律香さんへと差し出しました。
「ブラッディ・マリーです。どうぞ」
「なんだか怖い名前だね」
と、律香さんはカクテルを一口飲みました。
「ウォッカをベースとする、トマトジュースを用いたカクテルです。今回はトマトジュースの量を減らして、はちみつを少量入れてみました。飾りのレモンはお好みで二、三滴入れてみて下さい」
「……美味しい。すっきりした甘さで、すごく飲みやすい」
「お口に合う物を作れて良かったです」
「なんか、中華街の暗殺者に勝てるような気がしてきた」
僕はカクテルを美味しそうに飲む律香さんに見惚れていましたが、ふと我に返って、
「そのカクテルには『断固として勝つ』という酒言葉があるんですよ」
「酒言葉って……花言葉みたいなもの?」
「ええ。カクテル一つ一つに酒言葉があるんです」
と、僕はぎこちなく微笑みながら言いました。
「素敵な豆知識を教えてくれてありがとう。じゃあわたし、先に行くね」
律香さんがゆっくりとカウンター席から立ち上がりました。
「では、後ほど中華街で会いましょう」
「うん、待ってる」
と、律香さんは階段を駆け上がって行きました。僕はカウンターに残された空のグラスを手にとって、
「ブラッティ・マリーの酒言葉は二つあるんです。一つは『断固として勝つ』もう一つは――」
僕は目を閉じて、もう一つの酒言葉を読み上げました。
「『私の心は燃えている』」
「長い夜が……明けようとしておる」
と、老人は遠い目をして言った。隣の男が横に並ぶ。
「何言ってるんだ? じいさん、まだ夕方だぜ?」
「すまんのう。最近年のせいか目が悪くて」
「目が悪いのはずっと昔からだろ」
「そうじゃったな。だからこそ、君に隠の名を受け継いで貰った」
二人は中華街の中心部にいた。目の前には一体の銅像が立っている。
「徐 孫楽よ。貴殿はどのような心境で……この楽都島を創ったんじゃ」
銅像は徐 孫楽を象ったものだった。馬に乗り、剣を天高く掲げている。孫楽は楽都島を創った英雄の一人と伝承されている。楽都島中華街を創ったのも孫楽の子孫だ。
「中華街未来化計画は俺が止める。じいさんは探偵達の相手をしてくれればそれでいい」
老人は夕日を見据えたまま動かない。
「王 喜元を殺せば革命派は崩壊する。後少しじゃないか」
「伝統とはなんじゃろうか」
「守らなければいけない物だ。革命なんかされたら……全部消し去られてしまう」
「革命が無くとも、時が――歴史が人々の忘却を催促する。抗えない運命なのかもしれん」
「伝え広めていけば忘れることは無い。じいさん、そう言って俺に隠の存在を教えてくれただろ」
男は諦めようとしなかった。その意思を、老人は汲み取った。
「世迷言を言ったようじゃ。すまなかった」
と、老人は踵を返して歩き出した。
「我、御霊と成り都の革命を防がん」
銅像の前にいる男が言葉を返す。
「我、御影と成り都の革命を防がん」
赤い夕日が中華街を照らす。ついに、中華街が崩壊し始めた合図かの如く。