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中華街の暗殺者 3

   3


 わたしはKEEPOUTと書かれた黄色いテープを持ち上げようとした。

「おい! 関係者以外立ち入り禁止だぞ!」

「ごめんなさい」

「夜中に高校生がうろついていい場所じゃねぇ……って、律香か」

 と、茶色いトレンチコートを着たおじさんがわたしの所に歩いてくる。

「わたしってそんなに子供っぽく見えますか?」

「すまんすまん。悪気はねぇんだ」

 と、初老の男性は芝生の少ない坊主頭を()いて言った。八柿(やつがき)警部は警視庁のベテラン刑事。探偵であるわたしとは仕事上よくお世話になる。昔堅気の性格で頑固な強面(こわもて)刑事だが、優しい一面も多くある。特に、正義感だけは誰にも負けないものを持っている。そう感じるぐらい真っ直ぐな性分の人なのだ。

「あの、これ差し入れです」

「あー……牛乳とあんパンなら張り込みをしてる刑事(デカ)の所に持っていってやってくれ」

「そうですか」

 と、わたしは差し入れをビニール袋の中にしまった。

「猛毒女は一緒じゃねぇのか?」

「姉さんは……家で寝てます。お酒の飲み過ぎで体調を崩したので」

「そりゃあ好都合。ただでさえややこしい事件を引っ掻き回されちゃたまらんからな」

 姉さんが今回の事件に巻き込まれたという話はしない方がいいだろう。幽霊探偵派遣会社が殺された李 飯餡の依頼を受けていたという事も今は伏せておく。八柿警部をわたし達姉妹の事情に引きずり込むのは得策ではないはずだ。

「残業中の親父に何の用だ? おもしれぇもんなんて死体ぐらいしかねぇぞ」

「中華街の暗殺者について依頼されたんです。ここに来れば何かわかるかもしれないと思って……」

「やっぱりそれ絡みか。警視庁もそいつの話で持ち切りだよ」 

 と、八柿警部はダルマのような顔にしわを作って言った。

「中に入ってもいいですか?」

「律香は現場でも大人しいから許してやる。だが、猛毒女はお断りだ」

「ありがとうございます。それにしても、本当に姉さんのことが嫌いなんですね」

 と、わたしは黄色いテープを(くぐ)って社長室に入る。

「嫌いなんじゃねぇ。めんどくせぇだけだ」

 と、八柿警部は言った。性格的には結構似てると思うんだけどなぁ。どうも馬が合わないようだ。

「他の人は?」

「みんな帰ったよ。ウチの警視庁には税金泥棒しかいないらしい。定時になったらハイさようなら。殺人鬼が夜道を散歩してるっていうのにこの(ざま)だ」 

 事件が起きてまだ一日しか経っていないのに警察の捜査は打ち切られていた。刑事の声も鑑識のシャッター音もまるで聞こえない。楽都島の治安は大丈夫なのだろうか。

「猛毒女の苦言が胸に刺さるよ。この国の警察は腐ってるってな。そう言われた時は、ぐうの音も出なかったぜ」

「ひどい話ですね」

「ま、そう深刻になるな。いつものことだ」

 と、八柿警部がわたしの肩をたたく。

「それに、全員が腐り切ってるワケじゃねぇ」

 八柿警部が目で見る先にいたのは一人の女性。わたしに気付いて小走りに近づいてくる。

「鍵丘。探偵の律香が来たぞ」

「はっ。ご無沙汰しています」

 と、鑑識の女性はわたしに向かって敬礼した。この女の人は鑑識課の鍵丘(かぎおか)さん。モデルのような体型をしている生真面目な鑑識課長として警視庁では有名だ。姉さんいわく、暑苦しくてお節介な残念美人。

「こんばんは。事件現場で会うのは久しぶりですね」 

「お元気そうでなによりです」

 と、鍵丘さんは微笑んだ。雑誌の表紙を飾れそうなほどクールでビューティフルな笑顔だ。仕事が彼氏なんてもったいないとしか言いようがない。警視庁の男性陣もがっかりしているに違いない。

「どうだ? 何かわかったか?」

 と、八柿警部が鍵丘さんに訊く。

「不可解な点がいくつか見つかりました」

「教えてくれ。ちょうどいい、探偵さんに推理してもらおうじゃねぇか」

 と、八柿警部が冗談みたいに本音を言う。

「わ、わたしでよければ喜んで推理します」

 いきなり大役を任されたせいで声がうわずってしまった。

「緊張するこたぁねぇ。どうせ俺ら二人しか聴いてねぇんだからよ」

「警部の言う通りです。是非、そのお力を貸して下さい」

 八柿警部のガラガラ声と鍵丘さんの凛とした声が閑散とした社長室に響いた。 

 警察の捜査に参加出来るチャンスを最大限に活用しなければならない。中華街の暗殺者についてどんな些細(ささい)情報も聞き逃しちゃいけない。わたしは五感を一層強めた。

「まず、拭き取られた血痕に関してです。こちらへ」

 鍵丘さんに連れられて社長机と椅子がある所まで歩く。部屋の最奥、被害者が死ぬ直前に座っていたとされる椅子の前だ。さすがに死体は運び出されたらしい。机と椅子だけが(むな)しくその場に取り残されている。

「一週間前、二週間前の殺人事件と同じように、この部屋の血痕は全て綺麗に拭き取られていました」

「どうして犯人は一生懸命血痕を拭き取ったりしたんですか?」

「中華街の暗殺者――通称『隠』は、プライドの高い殺し屋だ。ターゲットを殺した場所を墓場に例えて、暗殺する時に飛び散った血を丁寧に拭き取るんだ。隠いわく、犯行現場は神聖な場所なんだとさ」

 と、八柿警部が理解出来ないって顔をして説明する。鍵丘さんが話を続ける。

「ですが、外見上血の跡が確認出来なくても、ルミノール反応はしっかりと出ます。なので、部屋のどこに血痕が付着したかどうかという事はハッキリと判断する事が可能です」

「そりゃそうだ。人間の血は絵の具じゃねぇ。鉄分以外にも様々な成分が含まれてる。その成分全部が全部を拭き取ることは不可能だ」

 と、八柿警部が鍵丘さんの話を補足する。ちなみに、ルミノール反応とは……特殊な液体を事件現場に散布して、血痕を探す科学捜査のこと。血痕が付着している場所は青白く光る。

「もちろん、人間の首を切断すれば多量の血液が噴き出します。この絵を見て下さい」

 鍵丘さんから唐突に「絵を見てくれ」との指示が入る。被害者が最期に座っていた椅子のすぐ後ろに絵画が飾ってあった。二つの頑丈そうな出っ張りで大事そうに支えられている。

「何の変哲もない絵にしか見えねぇな」

 わたしも八柿警部と同意見だった。特別変わった所はない。龍と虎がにらめっこしている絵なんてどこにでもある。

「この絵からは一切ルミノール反応が検出されませんでした」

 と、鍵丘さんが風を切るような声色をして言った。

「血痕が付かなかったってことですか?」

「はい。照らしてみればわかります」

 と、鍵丘さんが特殊な光を絵に照らす。

「こりゃあ、たまげたぜ。この絵は天帝の加護でも授かってんのかね」

 鍵丘さんが部屋一帯を手元の懐中電灯で順番に照らしていった。絵画以外の場所は少なからず血痕が付着しているため、青白い光が浮かび上がっていく。けれど、背後の絵だけは全然光らない。この絵がちょっと怖くなってきた。

「一体どうして……」

「後ろの壁はどうなんだ?」

 八柿警部が思い出したかのように言った。鍵丘さんは両手で絵画をどかして、

「ご覧の通り、一番青く光っています」

 絵画に隠されていた壁は湖のように青白く光り輝いていた。

「なるほど。そういうことか」

「え? どういうことですか?」

「簡単な話だ。犯人は被害者をぶっ殺した後にこの絵を持ってきたんだ」

 わたしは八柿警部の話を半分理解した。でも、残り半分が理解できない。

「被害者を殺害した後に絵を持ってくれば、絵に血が付かないのは理解できます。でも、絵を持ってくる理由がわかりません」

「私も律香さんと同じ結論です」

 と、鍵丘さんが(あご)に手を当てて言った。考えている姿も様になる。

「犯人からのメッセージか……それとも、ここにこの絵を持ってこなくちゃならない理由があったのか……」

 と、八柿警部は渋い顔をして言った。各々頭を回転させてみる。

「何かしらの意図はありそうですね」

「実は被害者が絵を持ってきたとか。この絵がダイイングメッセージになってたりするのかも」

「首を切られちまったらさすがに動けねぇだろ」

「警部。血痕をこの絵で隠そうとした……というのは?」

「結局血痕は全部拭き取られてる。隠す必要がねぇ」

 それらしい回答が(ひらめ)かない。探偵なのに不甲斐ない限りだ。

「まぁいい。この点は後でもう一回考え直す」

「了解しました。では、もうひとつの不可解な点に関してご説明します」

 その場で結論は出なかった。もう一度深く推理してみる必要がありそうだ。

「もうひとつの謎は……距離です。被害者と犯人の距離が離れ過ぎていると感じました」

 と、鍵丘さんは言った。

「すまん。いまいち何が言いたいのかわからん」

 ひとつめの謎で混乱した八柿警部が「置いて行かないで」と訴えている。

「そうですね。これは実演した方が伝わりやすいでしょう。律香さん、少し手伝ってもらえますか?」

「手伝う? 何をすればいいんですか?」

「事件当時の状況を再現して欲しいんです。私か犯人役をやるので、律香さんは被害者役をお願いします」

「あ、はい。やってみます」

 と、わたしはとりあえず(うなず)く。

「それでは、律香さんは椅子に座って後ろを向いていて下さい。私が律香さんを殺しに来ますので」

 その言い方は怖いよ。鍵丘さん。

「私はあちらの扉を開けてこの部屋に入ってきます。律香さんは被害者の気持ちになって行動してみて下さい」

 と、鍵丘さんが小走りで部屋から出ていく。八柿警部が扉を閉める。

「準備出来ましたか?」

 部屋の外から鍵丘さんの声。

「オッケーです」

 と、わたしは目の前の絵画に向かって言った。

「じゃあ、始めるぞ。よーい、アクション!」

 八柿警部の掛け声とともに演技が始まる。

 バンッ! 鍵丘さんが両開きの扉を蹴り開ける。そんなところまで再現するの!?

「誰だ!」

 わたしは椅子ごと扉の方に振り向く。あ! 距離ってそういうことか!

「お命――覚悟!」

 鍵丘さんの懐中電灯がわたしの首筋を捕える。鍵丘さんの顔が恐い!

「ズバッ!」

 わたしは咄嗟(とっさ)に両腕で自分の顔をガードした。

「ぐはっ! やられた……」

 わたしが死んだふりをした所で寸劇は終了した。

「なるほどなぁ。確かに距離が遠いな」

 八柿警部がこめかみに指を当てて感心している。

「本当に殺されるかと思いましたよ」

「すみません。再現にリアリティーを取り入れたくて」

 さっきの鍵丘さん。本気(マジ)でわたしを殺すって勢いの顔してた。まだ心臓がバクバクしてる。

「被害者の腕に防御痕は無かったんだよな?」

「はい。通常の状態であれば何かしらの防御行動をとるはずです」

「侵入者に気付く時間も十分にありました」

 と、わたしは椅子から立ち上がって言った。そう、社長椅子と扉の距離が相当離れているのだ。鍵岡さんは全力でわたしの所まで走ったと言っているが、接近するまで十秒以上余裕があった。

「いくら不意打ちでも無抵抗過ぎる。戦うなり逃げるなりしたはずだ。黙って殺されるような馬鹿はいねぇ」

「はい。社長机の引き出しからは護身用の短刀も見つかっています。被害者であればそれを使って抵抗していたでしょう。短刀を手にする事が出来なかった場合でも、武術で対抗したと思われます」

「飯餡社長って格闘家だったんですか?」

「太極拳と空手を習っていたと記録が残っています」

 わたしは警察の人から聞いた話を整理してみた。大きな謎は二つ。暗殺後に運び込まれた絵。無抵抗過ぎる被害者。どちらも犯人を突き止める重要な手掛かりなのは間違いない。

「警部。犯人は隠れ身の術をマスターした忍者だった……というのはどうでしょうか?」

「鍵丘……お前って時々突拍子もねぇことを凄く真面目な顔で言うよな」

 警察の捜査も難航しているようだ。わたしはカバンからメモ帳を引っ張り出す。

「絵に血が付いて無かった……被害者は抵抗しなかった……」

 と、わたしはメモを取る。すると、二人が何かを話し始める。

「そういや、今回殺された李 飯餡って伝統派の人間だったよな」

「前の二件は革命派の重役が被害者です。言われてみれば引っ掛かりますね」

「犯人の利き手も左利きじゃなくて右利きだったしな」

「それはまだ検視結果が出ていません」

 さらっと重要な事を言ってしまう。それが八柿警部の悪い癖だ。わたしとしては助かるけど。

「矛盾、か」

「犯人は必ず存在します。犯人がいない犯罪こそ一番の矛盾です」

「鍵丘は未解決事件っていう言葉が大嫌いだらなぁ」

「事件は必ず解決します。いいえ、させなきゃいけないんです」

 と、鍵丘さんは強い口調で言った。その言葉にわたしは勇気づけられる。

「八柿警部、鍵丘さん。お忙しい中ありがとうございました」

 と、わたしはペコリとお辞儀する。

「もういいのか?」

「とても参考になりました」

「そうか。今度は現場以外の場所で会えるといいな」

 と、八柿警部が特徴的な笑みを浮かべる。

「毒島さんにもよろしく言っておいて下さい。では、お気を付けて」

 と、鍵丘さんが律義に敬礼する。わたしは二人に「おやすみなさい」と挨拶して、エレベーターに乗った。




 飯餡飯店から出る。もう、一階のお店はやっていない。辺りもすでに真っ暗だ。

「……静かだな」

 午後十時。静まり返った中華街に人影は無かった。時折すれ違うのはお腹を空かした黒猫だけ。

「そうだ。あんパンなら食べるかな?」

 と、黒猫にちぎったパンの欠片(かけら)を与えてみる。

「ニャー」

 よかった。食べてくれた。

「飼い主は居ないの?」

 時々、理由もなく淋しい気持ちに襲われることがある。言い表すことが出来ないほどの孤独感、虚無感。突然事務所を追い出されるのではないかという不安。

(ひと)りは嫌だよね。冷たくて、寒くて……」

 幽霊探偵のみんなとわたしを繋ぎ止めているモノは……何もない。その事実が一番怖い。

「ごめんね。事務所でペットは飼えないから――」

「ニャー!」

 え? 上?

「危ない!」

 わたしはバック転してナイフの斬撃を避ける。痛っ!

「なかなか勘の鋭い娘さんじゃ。一筋縄ではいかなそうじゃのう」

 わたしの右肩から数滴の血が(したた)り落ちる。かすり傷だがしっかりと皮膚が切られている。

「あなた! 誰!」

「わしか? わしは娘さんと同じ幽霊じゃよ。人々の歴史から忘れ去られた(あわ)れな亡霊――」

 薄紫色の影が意味不明な移動方法で近づいてくる。

「わたしと同じ? ふざけないで!」

 わたしはカバンの中からナイフを取り出して構える。前回の事件の反省点を踏まえて、カバンの中に武器を忍ばせておいて正解だった。

「どんな優れた人間も時代の移り変わりには勝てん――」

 影の中から中華刀が飛んでくる。

「何の話を! しているの?」

 わたしは回転しながら飛んでくる中華刀をすれすれのタイミングで回避する。

「人間はいずれ老いて朽ち果てる――」

「わたしの質問に答えて!」

 わたしは薄紫色の影に向かってナイフを滑らせるが、全く手応えが無い。

「伝統を断ち切って残るものは何も無い――」

 わたしは五感が鋭い。わたしは人並みの感覚を軽々と越えてしまうぐらいの交感神経を持っている。しかし、(いま)だに相手の存在が掴めない。頬に汗が(つた)っていく。

「目的を話して!」

 と、わたしはナイフを一突き。だが、空を切る。

「そろそろ終わりにしようかの」

 影の頓狂(とんきょう)な声に油断してしまった。ナイフを弾かれる。

「あっ! やばっ――」

有為(うい)転変(てんぺん)!」

 と、影が一撃を放つ。私の身体が綿で出来た人形みたいに吹き飛ぶ。同時に、カバンの中身が地面に散乱する。

「うっ……く……」

 コンクリートの地面に叩きつけられる。信じられないくらい力が強い。身体はあんなに軽いのに。

「すまんのう。こんなに白くて細い首筋を切り離してしまうのはもったいない気がするのじゃが……中華街の未来の為にはやらなければならんのじゃ」 

 うずくまるわたしの頭上に影が迫る。中華刀との距離は三十センチ。

「……はぁ……はぁ……」

 みぞおちを蹴られたせいで立ち上がれない。地面に転がるナイフにも手が届かない。

「我、御霊(みたま)と成り都の革命を防がん」

 駄目だ。もう、殺される。こんな中途半端な所で死にたくなかったな。

「若者よ、さらばだ」

 わたしが死を覚悟した瞬間に見た物は……乳白色の液体だった。そして、鉄同士がぶつかる音。

「君はこの前の……どうじゃ? 依頼していた物は見つかったかの?」

「いえ、全く。現在調査中です」

「こんなものを投げてくるとはな。君は本当に面白い男じゃよ」

 あれ? まだ耳が聞こえる。目を開けてみる。フォーク?

「食器をこのような用途で使うのは少々気が引けますが――緊急事態ですので」

 と、酒井くんがバターナイフを影に向かって投げつける。

「君とは()いたくなかった」

 と、影の中華刀が酒井くんの腕をかすめる。

「僕も貴方とは(やいば)を交えたくありません」

 中華刀をケーキナイフで受け流す酒井くん。わたしも助けに行きたいが、身体が言うことを聞かない。

「そこの娘さんはわしに傷一つすらつけられなかった。それでもわしと死合(しあ)うかね?」

「貴方が刃をしまわないのなら、ね」

 酒井くんが五本のフォークを素早く投げる。

「……わしも年かの。ちと、しくじったようじゃ」

 影の体にフォークが刺さっている。真っ赤なフォークが影の左足を貫いていた。

「僕は貴方の動きが見えますよ。細かい部分まで鮮明にね」

 と、酒井くんは再びナイフを投げようとする。

「娘さん、運が良かったのう。彼に感謝するんじゃな」

 わたしは影が建物の上に乗っている光景を目の当たりにした。いつの間にそんな所へ……。

「じゃが、伝統は受け継がれる。中華街の光も闇も……」

 薄紫色の影が霧のように蒸発していった。中華街の路地裏に静寂が戻る。

「律香さん。お怪我はありませんか?」

 と、酒井くんが手を差し伸べる。その手を取ってなんとか立ち上がる。

「酒井くん。洋服めくって右肩の辺り見てくれない?」

「出血は肩からでしたか、その、わかりました。失礼します」

 酒井くんが上着の(えり)をめくる。そして、散乱していた物の中からタオルを拾って肩の血を拭き取ってくれた。

「どんな感じ?」

「止血は必要なさそうです。傷もそれほど深くありません」

「よかった。じゃあ、後は一人で出来るから――痛っ!」

 わたしは思わず右肩を押さえる。血が出ていなくたって痛みはある。

「ごめん。少し休ませて」

「無理をしないで下さい。僕は荷物を拾ってますから」

 酒井くんが道端に投げ出されたわたしの持ち物を丁寧に拾ってカバンに戻してくれた。

「酒井くん……ありがとう。えっと、出来ればでいいんだけど、肩貸してくれない?」

 わたしの身体は傷だらけだった。肩だけでなく(ひじ)やくるぶしにも怪我をしていた。一人で歩くのは結構辛い。

「申し訳ありません。肩は貸せないんです」

「そうだよね……」

「ですが、せ、背中なら貸せますよ」

 と、酒井くんがその場でしゃがむ。

「背中? もしかして、おんぶしてくれる……の?」

「そのような名称の行動です……ね」

 わたしは思い切って酒井くんにおんぶしてもらうことにした。

「重くない?」

「大丈夫です。むしろ、軽いです」

 酒井くんの表情はわからない。でも、体温は伝わってくる。それがすごく、すごく安心出来た。

「酒井くん」

「なんでしょうか?」

「どうやってあの影にフォークを当てたの?」

「古典的な方法です。影に中身の入っている牛乳パックを踏ませたんですよ」

 あの時、わたしの頭上で飛び散った白い液体は牛乳だったんだ。わたしはてっきり自分の血が真っ白になっちゃったのかと思ってた。

「それで影の居場所を見分けたんだ」

「殺し屋と言えど人間です。足跡ぐらいは付くだろうと思って」

 夜の中華街を二人で歩く。間違えた。歩いているのは酒井くんだけだった。

「酒井くん」

「どうしました?」

「酒井くんのこと英人くんって呼んでもいい?」

「…………」

 相変わらず酒井くんの表情は背中からじゃわからない。でも、なんとなく赤くなってる気がした。

「……どう、ぞ」

「ありがとう。英人くん」

 だって、わたしの顔も赤くなっていたから。


 中華街の夜は――まだまだ続く。

 こんばんは。作者の万贈です。ここまでがこの物語の前半――いわゆる推理パートになっています。シーン4からは解決編になっていますので「犯人を推理してみたい」という方はもう一度前半部分を読み返してみて下さい。「こんな文章じゃ犯人なんてわかんねぇよ!」という方はこのまま次のシーンへとページをめくって頂ければ幸いです。

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