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中華街の暗殺者 1

   1


 () (はん)(あん)は絶命していた。もう脈はない。どうやら、中華刀のようなもので喉元をぶった切られたらしい。死体の周りに飛び散っている血の量が凶器の威力を物語っていた。

 あたしは依頼された仕事の報酬金を貰いに来ただけなのだが……どういう訳か(わか)らないが、依頼人が目の前で死んでいる。厄介な事になった。こんな場面を誰かに見られたら、確実にあたしが飯餡社長を殺したと思われるじゃないか! 

 社長室にある全身金色で塗られた悪趣味な時計は夜の十二時ちょうどを指していた。幸い、今この建物の中に生きている人間はあたししかいない。飯餡社長が依頼の話は秘密にしたいということだったので人払いは済ませてあった。ご丁寧に監視カメラも切ってある。

 やることは決まった。警察を呼ぶなんて自殺行為だ。別にあたしが殺したわけではないが、状況が悪過ぎる。警察官は到着するなり事情聴取もせずにあたしを逮捕するだろう。ならば、もう一つの選択肢――静かにこの場を立ち去るという行動を取ろうと思う。こうすることによって、あたしは今夜飯餡社長に会わなかったことになる。賢明な判断だ。

「全く、迷惑な依頼人だ」

 あたしは死体に一言だけ文句を言って、その場を立ち去った。

 ここまでが昨晩の出来事。胸糞悪い話だっただろ? だが、あたしの不幸はまだ続く。これからもっと胸糞悪い話になる。そりゃあもう反吐(へど)が出るほどムカつく話だ。




 翌日。あたしは再び中華街へと来ていた。

「今日は厄日だな」

 あたしは中華街に入るなり愚痴を(こぼ)した。ライターを忘れた。これではタバコが満足に吸えない。ヘビースモーカーのあたしにとってこんなにも最悪なことはない。おまけにタバコまで事務所に忘れてきた。こんな失態、年に数回しかしない。あたしは焦っている。今までの人生で第三位に入るぐらい焦っている。

 李 飯餡が経営していた飯餡飯店の副社長から呼び出しをくらったのだ。

「社長のことについて話がしたい」

 電話の内容はたった一言だった。だが、あたしの安眠を奪うのには十分すぎる威力だった。今なら、悪い事をして職員室に呼び出された不良生徒の気持ちが痛いほどわかる。無実の罪ならなおさらだ。

 今朝のニュースが頭の中から離れない。

「速報です。今朝、(ラク)都島(トジア)中華街東地区にある中華料理店――飯餡飯店の五階オフィスで、社長の李 飯餡氏が何者かに殺害されている状態で発見されました。被害者の首は鋭利な刃物で切断されており、死因は失血死と断定されました。警察は飯餡氏に恨みを持っている人物がいないかなどを……」

 あたしは人を殺していない。それはあたしだけが知る真実だ。しかし、濡れ衣を晴らすための証拠が無いのも事実だ。どうにかして解決策を考え出さなければならない。

 副社長の(おう) 喜元(きげん)が指定してきたビルの前で立ち止まる。一昨日の出来事を悟られてはならない。あたしが飯餡社長の死体を見たことも、あたしが探偵だということも、あたしが飯餡社長の依頼を受けていたということも。

 決して感づかれてはいけない。あたしは心の中で自分を鼓舞した。バレるはずがない、と。

「あの……喜元さんに会いたいんですけど……」

 あたしは性格モードを切り替えた。今のあたしは『上品で仕事ができる美人内科医』だ。そして『社長の専属医で週に一回往診に来ている』という設定である。美人は余計だったか。あたしが探偵だと知っている人物は亡くなった飯餡社長しかいない。

「毒島様ですね。話は聞いています」

 と、がたいのいい男は言った。

「社長室までお連れします。エレベーターにお乗り下さい」

 後ろのエレベーターの扉が開く。男がエレベーターに乗り込む。ヤバい、緊張してきた。さっきのセリフが「刑務所に連行します」に聞こえた気がした。あたしは強張(こわば)った表情でエレベーターに乗った。

「ボディーガードの方ですか?」

「いえ、違います」

 と、筋肉質の男がエレベーターのボタンを押す。

『五階です』

 エレベーターのアナウンスさえも敵意が込められているように感じた。誤解、か。あたしは誤解しているだけかもしれない。喜元は内科医であるあたしの契約を切る手続きを済ませたいだけなのかもしれない。

「こちらです」

 と、筋肉質の男が両開きの扉を開く。室内を見て、あたしは思わず驚いてしまった。

「前社長から相当な美人だと聞いていたが……驚いた表情も美しいとは!」

 と、目のつり上がった男は言った。部屋の最奥にある高級そうな社長椅子に座っている所から見て、あの(きつね)のような顔立ちをした男が副社長の王 喜元だろう。手前の社長机なんて数十万もの値が付きそうな代物だ。

「ごめんなさい。飯餡社長の部屋とそっくりだったもので……」

 飯餡社長と喜元副社長の部屋は瓜二つだった。椅子、机、絨毯(じゅうたん)、ソファ、机の上に乗っている全身金色の時計まで寸分違わず同じ場所に配置されていた。カーテンの色から絨毯の色まで全く一緒だ。正直言って気味が悪い。後ろの壁なんて血だらけだったんだぞ。嫌なことを思い出させるな。

「そっくりにしたんですよ。私も飯餡社長も風水をとても大事にする性分でして」

 風水ねぇ。いくら占いが大切だからって言っても、これは少々やり過ぎな気がする。喜元の背後に吊るされている絵画に至っては……額縁から絵の中身まで完全に一致。龍と虎が喧嘩している悪趣味な絵をこの目で見るのはこれで二度目。うっ、なんだか気分が悪くなってきた。

「わざわざ同じものを買い揃えたんですか?」

「ええ。私が副社長になった時に飯餡社長がこの部屋を改造したんですよ。上に立つ者は金運の良い部屋で仕事しろ。飯餡社長の口癖でした」

 と、喜元は伏し目がちに言った。

「まぁ、もうその声を聞くことは出来ないんですけどね……」

「……飯餡社長が亡くなったのは本当だったんですね」

「ええ。まぁ、立ち話もなんですからお掛けになって下さい」

 と、喜元が手の平で座るように催促してきた。

「あ、はい。失礼します」

 と、あたしはソファに座った。

「私は飯餡飯店現社長の王 喜元といいます。以後、お見知りおきを」

 と、喜元は一度立ち上がって会釈した。飯餡社長が死んだから、副社長の喜元が自動的に社長に昇進したってことか。この男は一夜にして社長の椅子を手にしたわけだ。

 続けて、筋肉質の男が喜元の左後ろに立つ。そして、

「副社長の(ろう)です。よろしく」

 と挨拶した。その風貌で副社長? そう言われても、やっぱりボディガードにしか見えない。

「楽都島総合病院循環器内科の毒島春海です。この度は、その、ご愁傷様でした……」

 と、あたしは深々と頭を下げる。我ながら嘘くさい肩書だと思ってる。誰だよ、毒島春海って。

「亡くなった飯餡社長が生前大変お世話になっていたと(うかが)っています。ありがとうございました」

「いえ、医師として当然の事をしたまでです」

 良い流れだ。このまま専属医契約の話になればあたしは救われる。

「それで? 飯餡社長はどのような病気を(わずら)っていたんですか?」

 おっと。そうきたか。

「何度か診察に行きましたが……これといった重病は発症されていません」

 と、あたしは喜元に偽のカルテを見せた。喜元はそれを右手で受け取り、

「高血圧に糖尿病か。実にあの人らしい」

「それと高コレステロール血症です。これらの生活習慣病は動脈硬化や脳卒中の原因になり、大変危険なので、お酒やタバコを止めるように注意したのですが……」

「飯餡社長は亡くなる直前まで、いつもの様にお酒を飲んでタバコを吸っていましたよ」

「やはりそうでしたか。血圧の数値が正常高値血圧からグレート1高血圧に上がっていると、あれほど忠告したのに……もう少し強い言い方をするべきでした」

 と、あたしは残念そうに溜め息をついた。本当に病気だったのかって? 知るかそんなもん。

「頑固な人でしたからね。どうしても止められなかったんでしょう」

 と、喜元は苦笑しながら言った。

「社長。そろそろ本題に」

 と、琅が喜元を()かした。本題? 契約解除のことか? それとも――

「そう焦るな。時間は充分ある」

 喜元の表情が変わった。あたしは背中にイヤな感覚を覚えた。

「単刀直入に()きます。毒島さん、あなたは医者ではありませんね?」

 直球か。今までの会話は本題に移るまでの前菜でしかなかったわけだ。気を付けろ。メインディッシュはここからだ。

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味です。お前は医者なんかじゃない。探偵だ」

 喜元の口調が突然荒っぽくなる。同時に、喜元の表情が媚を売る狐の顔から狩りをする狐の顔に変わった。

「おっしゃっていることの意味がわかりません。自分は医師です! 探偵なんてやったこともありません!」

 と、あたしは必死な顔をして訴えた。しかし、喜元は一歩も引き下がらない。

「とぼけるな。毒島春海なんて医者は存在しない。このカルテも偽物だ」

 と、喜元が飯餡社長のカルテを引き裂いた。さらに続けて、

「楽都島総合病院に所属している医師、看護師、介護士、研修医の名前と顔を全て調べ上げてもお前の顔は出てこなかった。お前に弁明の余地はない」

 と、喜元が机を両手で叩く。頭の良い狐に裁判官を任せたらこんな感じになるのか。なかなか厄介だ。

「毒島様。本当に医者だと言い張るおつもりなら……医師免許を見せて貰えますか」

 琅の地鳴りのように低い声があたしの胸に響く。化けの皮を被っていられるのもそろそろ限界か。

「医者じゃなかったら――何だっていうんだよ。狐野郎」

 と、あたしは目の前の机にドンッと両足を乗せた。さらに、ソファいっぱいに両手を広げる。

「客なんだからもてなせよ。タバコの一本も出ないのか?」

「ようやく本性を現したな。ヤブ医者め」

 と、喜元が怒りと喜びを交えたような表情をして言い放った。琅はあたしの変貌ぶりがあまりにも激烈だったことに警戒してか、喜元の前に出てファイティングポーズを取っている。

「そんなに興奮するな。武器になるような物は持ってない。まぁ、白衣の下に隠し持ってたりしたら話は別だが」

「所持しているのか?」

「こんな小さいポケットに入るわけないだろ。よく考えろ」

 と、あたしが琅をからかうと、琅はあたしを睨んでから元の位置に戻った。

「全員敬語じゃなくなったな」

 と、喜元がほくそ笑む。

「敬語を使うのには慣れてなくてね。性格の良い女を演じるのは疲れる」

 と、あたしは結わいていた髪を解いて眼鏡を掛けた。

「性格は最悪でも顔の方は相変わらず綺麗なんだな」

「それが女だよ。女の性格は最高でもあり最悪でもある」

「肝に銘じておくよ。さて、まず何から話そうかね?」

「あんたらの言う本題というやつを話せばいいだろう。回りくどい男は嫌われるぞ」

「冗談の利かない女ってのもどうかと思うがね」

 と、喜元は立ち上がり、ゆっくりと話し始めた。

「飯餡社長は殺された。それも、刃物で首を切断されてな」

「昼のニュースで知ったよ。気の毒に。ま、生活習慣病になって苦しみながら死ぬよりはマシだったかもな」

 琅が再びあたしを険しい目つきで睨んでくる。社長の死を馬鹿にした事が気に(さわ)ったようだ。

「最近、中華街で同じような殺人事件が相次いで発生している。被害者はいずれも社長クラスの重役ばかりだ」

「会社のトップばかりを狙う連続殺人事件か。あんたも殺されないように注意しておいた方がいい」

「ご忠告ありがとう。だが、犯人の目星は付いている」

 予想外の展開にあたしは戸惑っていた。てっきり、次のセリフは「社長を殺した犯人を突き止めてくれ」だと思っていたのに。

「犯人は(おん)だ。またの名を――中華街の暗殺者(アサシン)

 と、喜元は一層語尾を強めて言った。

 隠。聞いたことのある名前だ。確か、隠は鬼という日本語の語源として知られているはずだ。中国では「魂が体を離れてさまよう姿」や「死者の亡霊」の意味で鬼の字が扱われており、姿が見えないものを意味する漢語『隠』が転じて『鬼』と日本語で読まれるようになったと伝承されている。

 そして、中華街で起きた連続殺人の犯人も隠という名前なのだ。隠は楽都島中華街が出来て間もない頃に現れた『楽都島史上最悪の暗殺者』として世の人々に知られている。隠に狙われた者は確実に死ぬ。それほどまでに隠の手口は鮮やかだった。血痕は一滴残らず綺麗に拭き取られ、指紋も足跡も残らない。おまけに凶器も見つからない。現場には被害者の首が転がっているだけ。当時の警察は頭を悩ませたことだろう。隠は中華街の暗殺者として指名手配されたが、捕まらなかった。しかし、何年か前の事件を最後に隠による殺人はピタリと手を止めている。逃げたのか、死んだのか、それとも飽きただけなのか……。

 隠事件は未だに謎の多い未解決事件なのである。あたしが知っている情報はこれぐらいだ。

「帰ってきたんだよ。中華街の暗殺者が」

 と、喜元は後ろ手を組んで言った。

「待って下さい。そんな話は有り得ません」

 琅は隠が再来したという話をここで初めて聞かされたみたいだ。あたし以上に驚いている。

「隠事件は終わったはずです。今になって出てくるなど馬鹿げた話です」

「そのまさかだ。あまりにも手口が似ている。いや、そっくりだ。残念だが、隠以外に犯人は考えられない」

「中華街が出来て四十年も経っているんですよ? そんなまさか」

「お前も副社長になったなら分かるだろう。動揺している暇はない。今は連続殺人事件の全貌を掴むことが先決だ」

「ですが、隠が犯人だという証拠はどこにもありません」

「早急に現実を受け止めろ。迅速に状況を理解しろ。現時点で私達に必要な事は中華街で行われている連続殺人を止めることだ。あの計画が中止にならなければそれでいい」

「では、やはり中華街未来化計画が影響しているのですか――」

「琅、喋り過ぎだ」

「安心しな。中華街未来化計画の事は知っている」

 と、あたしはゆっくりと微笑んだ。

 喜元と琅の目つきが変わった。あたしのことを危険性の高い毒物を見るような眼で見てきている。それほどデリケートな計画ってことか。それは好都合。流れを変えるチャンスだ。

「中華街未来化計画。楽都島中華街に最新技術を導入して全く新しい中華街を作る一大プロジェクト。主なテーマは伝統ある革新。古くなった道路や門、建物などを改装。また、三百店舗ある中華料理屋のうち二百店舗以上を機械化し、生産効率を上げ、中華街全体の経済活動を活性化させるのが一番の目的だ。もちろん、伝統のある建物や料理の味は受け継がれ、中華街の最も大切な財産として保全される。このプロジェクトによって引き起こされる経済効果は約五十億円。各界の著名人も注目している重要なプロジェクトだ」

「随分と詳しいな。どこでこの計画の事を知った? 秘密裏に進められてきた計画のはずだが……」

 と、喜元は椅子に深々と腰を下ろした。その表情からは落胆の色がうかがえた。

「飯餡社長から直接聞いたよ。ああ、そういえば遺言を預かってるんだった」

「遺言だと?」

 琅が思わず口を開く。

 あたしは白衣の内ポケットから一通の手紙を取り出して、その文面を読み上げた。

「中華街未来化計画を実行してはならない。表向きはただの改装計画に過ぎないが、その実態は恐ろしいものだった。伝統のある建物は保全される。そんな契約は真っ赤な嘘だ。計画に賛成している役員――つまり、革新派の連中は古くなった建物を次々と取り壊し、伝統的な中華街の街並みを殺風景なビルが立ち並ぶコンクリートジャングルに作り変えるつもりだ。もし、この馬鹿げた計画が実行されたら……中華街の秩序は崩壊する。絶対に計画を阻止してくれ。 李 飯餡」

 喜元の表情は凍りついていた。琅もまた同じ。

「なにが伝統ある革新だ。最初から伝統を受け継ぐ気なんて微塵(みじん)もないじゃないか」

 よし、完全に主導権があたしの物になった。狐を仕留めた猟師の気分だよ。後は、この狐をどう料理すれば美味しいかを決めればいいだけだな。焼くよりも煮る方が良い味が出そうだ。しかし、あたしは気付いていなかった。仕留められたのはあたしの方だということに。

 狐の反撃が始まる。

「そこまで知ってしまったなら仕方がない。刑務所で大人しくしていて貰おう」

 と、喜元が残念そうな顔をして言った。

「は?」

 喜元の言っている事が理解出来ない。追い詰められて(わる)足掻(あが)きをしているだけならそれでいいんだが。

「飯餡社長を殺したのはお前だ。毒島ハル」

 なんじゃそりゃ。八当たりにもほどがある。

「あたしを事件に巻き込むつもりなら、もっと上手く巻き込みな。警察は恨みだけで民間人を逮捕しない」

 悪党ってのはどうしてこう他人に責任を(なす)()けたがるんだろうか。この前の犯人もそうだった。

「先日、お前が世間の悪者にした小説家――仙田紀行は、中華街未来化計画のスポンサーだったんだよ。どこまで私の計画を邪魔すれば気が済むんだ。私は……もう我慢の限界だよ」

 喜元は憤慨(ふんがい)していた。その()()ちは狐ではなく妖狐そのもの。あたしの背筋に悪寒が走る。

「自分の計画を邪魔された腹いせに、あたしを刑務所送りにするわけか。笑えるな」

「昨日の夜。お前は飯餡飯店の社長室にいたはずだ。社長から報酬金を受け取るためにな」

 と、喜元はしたり顔で話し始めた。

「その時に大事な物を落とさなかったか? 例えば、恋人から貰った名前入りのライターとか――」

 と、喜元は社長机の引き出しから一本のライター取り出した。あたしのライターだ!

「社長室の前に落ちてたんでね。警察が来る前に拝借しておいた」

 事務所に忘れてきたと思っていたが、まさかこんな所にあるなんて……一生の不覚だ。

「ジッポーライターを愛用しているとは。余程タバコがお好きなようだ」

「ふん。あんたも相当吸ってるくせに。あたしもあんたも一般人から見ればただのニコチン中毒者だよ」

 と、あたしは毒づいた。しかし、小馬鹿にする表情とは裏腹に心の余裕は少しも無かった。あのライターを警察に提出された途端、あたしの操作しているパチンコ台は『犯人確定モード』になってしまう。

「廊下に落ちてる物は全部犯人の私物ですって言いたいのか? それじゃあ犯行現場に落し物をした人全員が犯人になっちまうだろ。確かに、あたしが飯餡飯店に出入りしていた証拠にはなるが……あたしが飯餡社長を殺した証拠にはならない」

 と、あたしは言った。あたしは焦ると饒舌(じょうぜつ)になるらしい。どっかの誰かがそう言ってたのを思い出した。

「安心しろ。今日の夜中にでもお前の事務所に使用済みの中華刀が届く。おまけに、飯餡社長の血痕付きだ」

「馬鹿か。そんな物が宅急便で届いたら、一切触らずに送り返すに決まってるだろうが」

 と、あたしは大きな声で悪態をついた。どんなに危険な凶器が事務所に届いたとしても、あたしの指紋が付いてなければ意味がない。あたしが使ったことにはならない。

「馬鹿はお前の方だ。もう触ってるんだよ」

「なんだと?」

「飯餡社長にアンティーク物の中華刀を触らせて貰ったことがあるだろ? あの中華刀を使ったんだよ」

 その瞬間、あたしは凍りついた。確かに触った。触りまくった。軽く振ってみたりもした。

「血だらけの社長室から社長の血液を拝借して、あの中華刀にべったりと塗っておいた」

 あたしの心臓が冷や汗をかき始める。一気に身体全体が冷えていく。そして、顔が青ざめる。

「指紋もべったり、血痕もべったり。鑑識が見たら飛び付きたくなるような証拠だと思わないか?」

「……そうだな」

 と、あたしは苦虫を噛み潰したような顔をして言った。頭の中で『犯人確定モード』の警笛(ベル)が鳴り響く。誰がどう見ても、素人が見ても子供が見ても、飯餡社長を殺したのはあたしだ。もう、弁明の余地はない。いや、違うな。弁明する時間はいくらでもある。けれど、あたしが無罪だという証拠が無い。無さ過ぎる。論より証拠。国語の授業をちゃんと受けておくべきだった。悲惨な状況を身をもって体験しているよ。

 亡くなった人を悪く言うのは気が引けるが……飯餡社長の趣味のせいであたしは連続殺人犯に仕立て上げられてしまった。マズい。こんな冗談すら声に出せなくなってきた。

「社長。動機は?」

 黙っていた琅が口を開く。

「報酬金が貰えなかったからって事でいいだろ。充分筋は通る」

「でしたら、私が目撃者役をやります。目撃者がいた方が説得力も増しますし」

「おお、やってくれるか。お前を副社長にして良かったよ」

 と、喜元が右手の指でタバコを挟む。すかさず琅がライターの火を付ける。

「ありがとう」

 と、喜元はタバコに火を付けた。あたしに向かって主流煙を吹くと、一言。

「是你的输(お前の負けだ)」

 と、喜元は嘲笑(ちょうしょう)した。

 狐野郎のあの表情……完全にあたしのことを馬鹿にしてやがる。中国語の意味は全く分からない。けれど、喜元が喧嘩を売ってきたってことぐらいはニュアンスで分かった。

「そうだな。私のペットになるっていうなら見逃してやらんこともない。どうだ?」

 あたしは無言で立ち上がる。()(ぐし)で髪を整えて、左手でハイヒールを履き直して、帰り支度を済ませる。

「おい。さっきまでの威勢はどうした? 恐怖で口も利けなくなったか――」

「このあたしに喧嘩を売るなんて……いい度胸してんじゃねぇか!」

 と、あたしは目の前の机を思いっきり蹴り飛ばした。ガラス製の机が景気よく砕け散る。琅が再び身構える。

「次は王 喜元の首を切ってくれって中華街の暗殺者に頼んでおいてやる。首を洗って待っていろ」

 と、あたしは左手の親指を逆さに立てた。その親指を自分の首筋に当てて横に切る。俗に言う『首チョンパ』のサインだ。サインは上手い具合に伝わったようだ。その証拠に琅が殺気立っている。

「貴様!」

「言わせておけ。どうせ何も出来ん」

 と、喜元は琅を片手で止める。

「新聞のトップニュースを飾るのは……どっちの顔だろうな?」

 と、あたしは社長室から出て行った。




 あ、もう一階か。考え事をしていて気が付かなかった。あたしは足早にビルから立ち去る。

「昨日も今日も散々だ!」

 あたしは自然と愚痴を零していた。昨日は首と胴体が泣き別れてしまった死体を間近で見る羽目になって、今日は連続殺人犯の濡れ衣を着せられて……さらに、明日は無実の罪で刑務所にぶち込まれる日になるらしい。勘弁してくれ。

 あたしは怒りに任せて喜元の社長室から飛び出してきてしまったが……正直、後味が良いとは言えない。むしろ、最悪だ。戦略的撤退なんて格好いいもんじゃない。完全に負け犬のそれじゃないか。

 だんだん興奮が冷めてくる。海外旅行に出掛けていた『冷静さ』や『慎重さ』があたしの脳味噌に帰ってくる。不安というお土産をたくさん両脇に抱えて。

「さて、どうするか……」

 意味も無く中華街をブラつく。冷静だからこそ(こら)え切れない不安と恐怖が押し寄せてくる。立ち止まっていると、その場で座り込んでしまいそうなほどあたしの精神はズタズタだった。一歩間違えれば泣いてしまう。

 八方ふさがり、四面楚歌、絶体絶命、背水の陣。背水の陣? 後ろが湖ならまだ飛び込める。背水の陣なんて生易しい状況ではない。背マグマの陣ぐらいの方がしっくりくる。なんにせよ、現状は最悪だ。

「……腹が減ったな」

 こんな状況に追い詰められても食欲が衰えない自分を褒めてやりたい。明日から一日三食、不味(まず)い飯を食わされることになるっていうのに。まだ余裕があるんだろ? あたしの身体はそう訴えていた。

 金色の字で楽々酒家と書かれた看板の前を通る。名前の通り中華料理屋だ。店の入り口に立て掛けられているメニューを覗いてみる。その店のメニューには一皿千五百円の炒飯(チャーハン)。馬鹿みたいな値段だ。けど、美味そうだ。酒は? あ、そうか。酒家って名前が付いてるんだから酒も出るに決まってる。よし、今日の夜飯はここにしよう。

「ふふ、今夜は最後の晩餐だな」

 と、あたしは携帯電話を取り出して電話をかける。伝える内容は至極単純。

「晩飯に高級中華を奢ってやる」




 毒島ハルが尻尾を巻いて逃げだした後、社長室ではささやかな晩餐会が開かれていた。

「日本人はああやって嫌いな相手に敵意を示すのか?」

 喜元は琅に尋ねた。琅が喜元のグラスに白酒(パイチュウ)を注ぎながら答える。

「そうですね。あれはどちらかというと西洋人のサインかと」

「品が良いのは顔だけか。あの性格じゃあ折角の美人が台無しだな」

「気の強い女性は嫌いじゃありません」

「ほう。ああいうのがお前のタイプなのか?」

「自分より強い女性が好みです」

 喜元は思わず吹き出してしまった。琅が律儀に社長机を拭く。

「お前より強い女なんていないだろ!」

「性格的に強ければ良いんですよ。そんなことより、警察には早急に連絡を入れるんですか?」

「いや、まだいい。まだ時間はある。それに、強情なあの女が泣き崩れる姿をお前も見てみたいだろ?」

「それは……是非拝見しておきたいです」

 その言葉を聞いて、喜元はもう一度大きな声で笑った。


 中華街の空は衣装を着替え始めた。茜色から紫色へと。



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