つららひめ
嘘をつくものにとって、真実ほど怖いものはない。
いつだって、自分のいられる世界を守るためにつく嘘に、悪気なんてない。
だが、どうしてだろう。
言葉を重ねるうちに、自分の口から離れていく言葉達は、活気のないしょぼくれた自分を完成させていく。
そのうち、つまらないほどに、ポッカリと空いてしまった穴を、何もせずに見下ろすことにも慣れてしまうのだろう。
それが、「私」なのだと。
つららひめ
彼女が、その男に近づいたのは、寒そうだったから、それだけなのです。
右も左もわからないほど吹雪いていたから、少しからかってやろうと思っていました。
『そちら側には、崖がございます。風の吹く方へ、お進みください』
もしも、この声の主の姿を見てしまったら、この男は驚くでしょう。だって、彼女の容姿は三歳くらい。このような口調で、誰かに言わされているわけでもなく、思うままに言うのだから、それは異常以外の何者でもありません。
それに加え、こんな吹雪の中。姿も表さず、声だけ聞こえるというのは、どうも可笑しいものでしょう。それとも、この男は、彼女の声自体、自分の頭の中の幻聴だと思ってしまっているでしょうか。
だが、その男は「ごめんなさい、助かります」と口を開きました。
声変わりしたてのような、高い声。
おそらく、成年には達していないでしょう。
可哀想に、寒さに凍えて、吐息で一生懸命手を温めながら、今にも倒れてしまいそうな足取りです。
もう少しだけ、からかってやろう。
彼女は、ククッと笑いを堪えて、『ここはよく、地元の者でも迷うのです。でも大丈夫、もうすぐ温まれますよ』と、気休めを言い、男を導きます。
当然のように、彼の歩く先に、崖はないのだが、温まれるようなロッジはありません。
「あの、このあたりの人・・・なんですか」
正直、彼に喋れるほどの余裕と体力はない。やはり、彼女を不審に思ったのでしょう。
『ええ。子どもが迷ってしまったようで、探しているのです』
今日も、彼女の口からこぼれるのは、嘘ばかりです。
その言葉に振り回される人が、何人いたことか。今となっては、数えようもありません。
だから、この言葉の返事はわかっていました。「このままここにいると、あなたも危険だ。一旦戻りましょう」。
皆、そう言って、探すことをやめさせ、彼女がいなくなれば、「あれは雪女だったんだ」と噂する。その雪女、の心配なんかじゃなく、自分が助かりたいがために、偽善者ぶって助けようとする振りをする。
彼女は大嫌いでした。だから、その人々がどんな目に会おうと、どうだってよかった。
さぁ、この青年には、どんな目にあわせよう。
なんて考えながら、笑う彼女の青白い肌に、少女らしい表情はうつりません。
だが、彼女のペースもここまででした。
「そんな、何してるんですか!早くしないと!」
青年には絶対に見えない、吹雪の中で、その顔は確かに驚いていたのです。
「小さい子ですか?だったら、長時間こんなところにいたら、死んでしまいますよ!僕も探します。三人で早くロッジに戻りましょう」
こんなところにいて、死んでしまうのはお前の方だ。"こんなところ"をすみかにしている子どもに、「寒い」なんて感覚があるものか。
彼女は心の中で思いました。
こんな人物は初めて。
一瞬、聞き返してしまいそうでした。
「どんな子ですか。何歳くらいの!」
拍子抜けして、彼女は、少しの間黙ってしまいます。
そして、悪戯をする雪女は姿を消しました。
ですが、ひどく吹雪いて顔も見えないくせに、そんな声もでない彼女の、腕を掴むのです。
「いた!いましたよ!」
彼女はこれまでにないくらい吃驚して、腰を抜かしかけたが、その掴まれた手を、振りほどきませんでした。
これまでに触れたことのないほど、温かかったのです。もはや、溶けてしまいそうなくらいに。
「おい、しっかりしろ。お母さんがお前のことを探しているよ。もう大丈夫だ」
青年は、凍えた手で、彼女のことを抱き上げ、抱えたまま歩き出しました。
だが、二、三歩歩いたところで、青年は足を止め、彼女を下ろします。
彼は自分の手をはめていた手袋を素早く外し、はぁと彼女の小さな手に、息を吹きかけて、温めようと手袋をはめてやりました。
「よし、これで本当に大丈夫だ」
そう言うと、また、青年は彼女を背負い込んで、歩きはじめます。
見ているだけで、彼の優しさが伝わる、真っ赤な手袋でした。
彼の大きさじゃ、ブカブカで、腕まですっぽりとはまっています。
気がつけば、再び抱きかかえてくれる腕に、しっかりとしがみついていました。
人の温度が、これほどまでに温かいとは思わなかった。
温かすぎて、なんだか涙が溢れる。
手袋の赤い色が肌を撫でると、まんまるな頬に明かりが灯るよう。
そこには、たった一人の幼い女の子が、背を借りて泣く姿しかありません。
「怖がらなくていい。お母さんもすぐに見つかるさ」
いないよ。お母さんなんて、最初からいない。
私はただ、あなたがここに現れたから、一緒に遊んで欲しかった。
この辺りに住むような人々は、ここを怪しがって会いに来てくれないから、誰かに会いたかったの。
この寒さを、独りでいるには耐えられないでしょう。
独りでいるには、嘘が必要なのです。
誰にも会いたくない。
寒い方が心地良い。
寂しくない。
温かさを知ってしまった氷柱は、後はただ溶けてしまうだけ。
氷柱に重なった光を見て、人は美しいと言うでしょう。
しかし、彼らは、その氷柱が溶け、落ちて溜まっただけの水を、美しいとは言いません。
意味などないのならば、最初からいなければ良かったのに。
その水ですら、最後には消えてしまうのに。
でも、この温もりを感じることができるなら、身が滅びようと、いなくなってしまっても、良いと思えるのでしょうか。
やがて、泣き出した彼女に気づいた青年は、寒さに怖がる少女を気づかい、凍えて紫色になった唇を動かし、話をしてやりました。
「兄ちゃんな、ここに来るの初めてなんだ。すごいなぁ、ここは。ちょっと寒いけど、雪景色は最高だし、もてなしてくれるご飯はどれも美味しい。ここにいる人はみんないい人で、とても気遣ってくれるよ」
楽しそうに話す彼の抱きしめる手は、震えていました。
「あとちょっとだ。もう少しでロッジにつくよ。お母さんも待っている」
彼女は、その声に返事ができませんでした。
嘘をつき続けた彼女の言葉達は、まるで石のように固まってしまったのです。
いいえ、それが彼女の意思だったのかもしれません。
声を、聞かないで。
「僕は、きっともう一度ここへ来るよ。そのときは、もっとお前とも話したいなぁ」
彼なら、美しいと言ってくれるでしょうか。
皆がただの水だと言っても、あなただけは。
空から降り注いでいた吹雪が、足を止めました。
視界が広がり、嬉しくなった青年は、彼女のほうに振り返ります。
その時です。
降り注ぐ暖かい日差しが、彼女にわかれの言葉をぶつけました。
それでも、構わないのです。
その頃にはもう、頬の涙が足元の雪をつかまえて、空と同じように、清々しく晴れているのですから。
彼とともに微笑み仰ぐ空に、曇ることなど、ありはしないのです。
「なんでだろう。なんだか、やっとお前に会えた気がするよ」
彼は、自分の手で顔の全てを覆えそうなくらい、小さな顔に触れました。
彼女が初めて、彼女の言葉で、真実を口にするのは、「さようなら」でも、「帰らないで」でもありません。
「ありがとう」
彼への感謝の気持ちと、生まれたことに向けて、そう言ったのです。
最初から、意味など、必要ではなかった。
本当はわかっていたのです。
だって、いつかは自分自身に会えることが、運命なのですから。
つながった世界は、まるで今までのものとは違って見えました。
昨日の顔、その前の顔。きっと、もっともっと好きになれる。
だから、そう言ったのです。
眠っていた青年は、目を覚ましました。
ずっと眠っていたようで、なんだか頭がズキズキと痛みましたが、フラフラと窓の近くまで歩きました。
それに気が付き、心配して駆け寄ってきた彼の友人から、青年は雪の中遭難し、一人、倒れていたと知らされます。
ですが、彼は少し黙って、クスッと笑い、「違うよ」と言いました。
わけのわからない友人は、首をかしげましたが、彼は何も言いません。
快晴の空を、ただ眺めているのです。