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リセット  作者: みずの
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2

「誰、あれ」

 3人揃って乗ったエレベーターの中。沈黙の降りた一瞬に、ライがそう舌の上で問いを転がした。

 エレベーターの奥に乗ったソウは、刹那少しだけ首を傾げる。そして何を尋ねられたのかを理解し、「あぁ」と小さく頷く。

「会社の先輩。ちょうどこっちに車で来る用事があるっていうから、乗せてもらった」

 何食わぬ顔で答えるソウに、隠し事をする素振りはないように思う。だがその言葉が真実なのかどうか、優雅にもライにも量りかねた。

 「ふぅん」と尋ねた張本人のはずのライが興味なさそうに返事をするものだから、この時にはソウも思わず苦笑いを浮かべてしまう。



「そんなことより、優雅久しぶりだなぁ。3ヶ月ぶりくらい?」

 そうだ。前回ソウに会ったのは、確か春休みに入る頃だった。

 その期間が「久しぶり」と言うのにふさわしいのかは分からない。だけどソウがそんな風に言ってくれることが優雅には嬉しかった。

「ソウちゃんの好きなチョコレートケーキ買って来たよ」

 箱の入った袋を少しだけ掲げてみせると、ソウが笑う。ふわっとした柔らかいこの笑顔が、昔から優雅は大好きだった。

「ありがとう。でも気を遣わなくていいのに」

「ううん。私がソウちゃんと一緒に食べたかったから」

「俺のチーズケーキなんか完全無視だぜ、こいつ」

「ははは」

 付け足すように不満を転がしたライの言葉に、ソウは声を立てて笑った。そんな彼を横目で盗み見るように眺めて、優雅はドキドキと鳴る自分のうるさい鼓動を抑えるように胸に手を当てた。



 夕方だというのに、スーツ姿のソウはその辺のサラリーマンのようにくたびれた様子はない。

 職業柄、ビシっとかしこまるほどのスーツを着ているわけでもない。おしゃれに着こなした大人びた姿は、久しぶりに見るからこそ胸を高鳴らせる。



 ソウはライより身長が低いが、それでも175センチくらいはある。

 昔から相当な美形だったであろう父親に似ているらしく、サラサラの髪に爽やかな雰囲気は明らかにインドアな職業とは不釣合いだった。

 髪の色はライと同じく、母親似なのか地毛から色素の薄い茶色をしている。



 ライとは性格もタイプも違うが、ソウだってかなり女の子にモテるはずだ。いや、もしかしたら見るからに優しそうな雰囲気の分、ライよりも上かもしれない。

 だから考えれば分かったはずなのに。ソウの周りに、どれだけ彼のことを想う女性がいるのか。

 分かっていたはずだったけれど、優雅は幼い頃から一緒にいる自分の方が誰よりも近い存在だと思って疑っていなかった。そんなもの、なんの根拠もないというのに。





「優雅ちゃん、いらっしゃい。お兄ちゃんおかえりー」

 ライとソウの母親は、玄関ドアを開けるなり嬉しそうにそう明るく言った。

 いつでも明朗快活な人だ。優雅を相変わらず家族の一員のように歓迎してくれる。

 リビングでくつろいでいたらしい父親も、わざわざ物音を聞きつけて玄関まで出向いてきた。こうしていつも通り優雅にとっても楽しい食事の時間が始まるはずだった。





「…優雅ちゃん、具合悪いの? あんまり食べてないけど…」

 ダイニングテーブルいっぱいに広げられた食事にあまり手をつけられないでいた優雅に、ライの母親はそう声をかけた。

 尋ねられて、優雅は「え、いえ!」と慌てて首を振る。

「た、食べてますし、とってもおいしいです」

 ニッコリ笑った顔すら、引きつっていただろうか。でも今は、ソウが目の前にいる緊張とさっきまでの泣きたいような気分でとても本心から笑えそうにはない。

 ライの母親がそれに気がついたかは分からないが、先に手を差し伸べたのは優雅の隣のライだった。何食わぬ低い声音で、「だから言っただろ」とそっけなく呟く。

「え?」

 どういうことかを聞き返した母親に、ライは呆れたような表情を作って応じる。

「こいつ、学校帰りに安いドーナツ屋見つけて2個も食って来たんだよ。メシ食えなくなるって言ったのに」

「え…!」

「あら、それじゃお腹も空いてないわけよねぇ」

 バッと隣のライを振り返ったけれど、当の本人は完全に無視して箸を口に運んだ。それを優雅が咎める余裕もないまま、ライの母親はのほほんと笑う。

「優雅ちゃん、じゃあ良かったらまだまだあるから持って帰って。夜中にお腹が空くかもしれないし、お母さんも今日遅いんでしょ?」

「あ…ありがとうございます…」

 ライが助け舟を出してくれたことは分かる。やはり人の感情に敏感な男だ。優雅が今食欲がないことも、それを周りに知られたくないこともよく分かっている。



(でも…! 人の心は分かっても、女心ってもんを分かってないのよ!)



 おいしそうなドーナツを我慢できずに食べるだけ食べて夕飯が入らない、なんて子どもみたいな設定を好きな男の前でされて、喜ぶ女子高生がいるわけがない。ライはそこのところを分かってない。

 だから感謝する気にはなれず、優雅はテーブルの下で一度だけライの足を思い切り蹴った。



「…っ、何だよ!」

「何が?」

 抗議の声を上げるライを「ふん」と無視して、優雅は母親の言葉に甘えて箸を置く。

 そんな様子を意味が分からないなりに目の前で見守っていたソウは、やがて「仲良いなぁ、2人共」と笑った。

 優雅にとってはその言葉すら不本意に他ならない。だけど力いっぱい否定するのも場がおかしくなる。これでも空気は読めないほうではないのだ。




 食後にチョコレートケーキとコーヒーをデザートにしている頃には、もう壁の時計は20時を指す頃だった。

 チラリと時計を気にしたことに気がついたのか、ソウが「優雅」と呼びかけてくる。

「後でさっきの会社の先輩に車で迎えに来てもらうんだけど、優雅も乗って行きなよ。もう遅くなるし」

 親切心で口にしたのだろう。だけど優雅にとって、それはありがたい申し出とは言いがたかった。

「…あ…いいよ、悪いし…」

 一緒に車に乗りでもしたら、どうなるのか。ただでさえあんな美人な女性の存在だけで嫉妬から落ち込みそうなのに、目の前で楽しそうな会話でも見せつけられたら―?

 想像しただけでも嫌気が差す。



「あと、寄りたいところもあるし…」

「こんな遅くに?」

「…ちょっと…ドラッグストアに寄りたくて…」

 苦しい言い訳しか浮かばないのは、この時間のせいだ。他にやっている店なんてコンビニくらいしか思い浮かばない。これが昼間なら、もっと言い逃れのしようもあったはずなのに。

 大体、ドラッグストアなら車で途中に寄ってやると言われればそれまでだ。

「…じゃあ…」

 まさにそう言いかけたのか、ソウが言葉を継ごうとした瞬間、チョコレートケーキを食べ終えてフォークを皿に置いたライが「兄貴」と低く呼んだ。

 手から放たれたそのフォークが、カツンと軽い音を立てる。

「俺も買いたいもんあるし、一緒に行くから大丈夫だ」

「…そうか。ライが一緒なら安心だな」

 やっと納得したように笑うソウの笑顔に、優雅は嘘をついた罪悪感で少しだけ胸が痛むのを感じた。




******



 デザートを食べ終えて少し落ち着いた頃、優雅はライを引き連れてその家を後にした。

 落ち込む気分は相変わらずで、この後迎えに来るというソウの会社の同僚のことが気にならないわけもない。

 考えれば考えるほど落ちて行きそうな気持ち。ライの家族の前ではそれを隠すのに必死だったから、2人きりになった今無理をする必要もない分、何かを話す気にもならなかった。

「……ん」

 ただ黙って歩いていた優雅に、半歩先でライが手を差し出す。

「…何よこれ」

「さっさと歩け。お前のその歩調だと朝になるぞ」

 要は捕まって引っ張られて速く歩けということか。唇を歪めて「ふーんだ」と呟いてから、優雅はその手に自分のそれを伸ばした。



 優雅の手を引くライは、しかし予想に反してグイグイ引っ張って歩くことはなかった。

 それまでとさほど変わらない歩調で、駅までの道を進む。だからだろうか、ふと思い出してしまったのは。いつも落ち込んだ時や泣きたい時に、ライにこうして手を繋いでもらったら落ち着いていたことを。

 友達とケンカをした時も、親に怒られた時ですらも…。



 結局、付き合ってるなんて勘違いされたくないと言いつつ、優雅にとっての1番の理解者はライなのだ。

 お互いがお互いと一緒にいるのが1番楽で、手を繋いでいるだけで暗い気持ちも半減されてしまうほどに。



「ねぇ、ライ」

 だから、やがて隣の大きな影にそう声をかけてしまった。

「何」

 前を向いたまま、ライはこちらを振り返ることはしない。落ち込んだ時や何かに傷ついた時、優雅が自分の顔を覗き込まれるのをひどく嫌うことを知っているからだ。

 さっきのエントランスで、ソウの姿を見つけた時にライがこちらを見たりしなかったように。



「あの会社の人…本当にソウちゃんの彼女じゃないと思う?」

 縋るような声になってしまったのは、自分の気のせいではないだろう。

「俺が知るか」

 あっさりしすぎたライの答えに、腹が立つどころか「それはそうだ」と思わず納得してしまった。こういう時に不必要に慰めたり無責任な言葉でこちらを励ますことをしないのがライらしいところだ。

「でもお前が、兄貴の言葉を信じたいならそうすればいいだけの話じゃねぇのか」

「…え?」

「だってそうだろ。どうせ真実なんて決定的な何かを見ない限り分かるわけねぇんだ。だったら無知だろうがバカだろうが、信じたいものを信じればいい」

「でも…それで実は彼女でした、なんて後で分かったら傷つくじゃない…」

「じゃあ今兄貴の言葉を信じないで『本当は彼女かもしれない』なんて悶々として過ごす方がいいってことか?」

「……」

「お前が落ち込むのも分からないでもないけど、どうせ暗い気分になるなら好きな相手のことを疑ってじゃなくて、信じてからの方がマシだろ」

 本当にライらしい。暗い気分になることすらも適当な励ましで防いでくれるわけではないところが。

「…ライって面白いよね」

 あはは、と笑ったこの時は、作り笑いではなかった実感がある。ようやく横目で優雅の顔を一瞥したライは、「…お前に言われたくねぇ」とボソリと呟いた。



 ライのたった一言で、少しは気分が浮上した気がするから不思議だ。

 こんな救い方、きっと他の人間ならしてくれない。互いに昔からよく知っている相手だからこその関係なのだ。




******



 優雅を家まで送り届けたライは、本来なら用事もなかったはずのドラッグストアに立ち寄って適当な薬を買って帰った。

 春から長引いている花粉症が未だ良くならないので、いつも使っているアレルギーの薬を手にする。親とソウ宛てのカモフラージュだ。ああ言って出てきた以上、手ぶらで帰るわけにはいかなかった。



「……」

 マンションのエントランスにたどり着いた時、見覚えのある車が止まっているのを見た。そう、夕方に目にしたあの黄色い車だ。

 どうやら今の時分にソウを迎えに来たらしい。



 最初は、素通りするつもりだった。その運転席の女になど興味がなかったし、自分には関係ないことだからだ。

 だがその車の脇をすり抜けようとした時に、何故か無意識のうちに、その運転席のガラスをコンコンと軽くノックしていた。まるで体が勝手に動くかのように。



「…どちら様?」

 ガラス窓を開けた女は、不機嫌そうに言ってライを見上げた。ストレートのロングの髪に、襟のピシッとしたシャツを着ている。ソウといい、今時のSEはこんなにもオシャレなものなのか。

 美人と評するには十分な容姿なのだろうけれど、そんなことすらライの興味の範疇外だった。



 ソウの名前を出して名乗ろうとしたところだったが、問うた女の方がライを見上げて「…あぁ!」と先に声を上げた。

「もしかして、ライくん? 君のお兄さんからよく話は聞いてるわ」

 ソウがどんな話をしていたのかは定かではない。しかし一見してライだと気づく辺り、それなりに詳しく話している気はした。

 それはつまり、この女とソウがそういった間柄なのか…それとも…。



「兄貴と付き合ってるんですか」

 誓って言うが、決してそこにライは興味があったわけではない。そんなことはどうでもいい。ただ、笑いたくても笑えない優雅の引きつった表情を思い出すと、自然と口から漏れていた問いだった。

 尋ねられた女の方は、少しの間目を瞬いてライを見上げた後、フッと笑みを零した。妖艶と評するには怪しげな様子はなく、純粋と呼ぶには色気がありすぎる笑みだった。

「どうしてそんなことを?」

「…別に。興味本位です」

 興味すらないというのに、そう答えざるを得ない。だけど女の方はおかしそうに笑っただけで、ライの本心には無関心なようだ。



「優雅ちゃんのための質問? 聞いてるわよ、『かわいい弟のライくん』と『幼なじみの優雅ちゃん』の話。それでここからはあいつの話を聞いてた私の憶測だけど、優雅ちゃんはあいつのこと好きなんでしょう?」

「あなたはどうなんですか」

「私? …そうねぇ」

 女はそこで、窓枠に手をつくと少しだけ身を乗り出した。ライとの顔の距離を縮める。

「話は聞いてるわよ、『年上好きの弟くん』。私もどっちかっていうとあいつより君の方が好みなんだけど…28の女はどう?」

 からかうような笑みを浮かべる女に、ライも同じように唇の端を持ち上げて笑った。

「残念。『年上好き』でも、俺は熟女好きなんだ。あんたじゃ全然足りない」

 年も色気も、と付け足すと、女は無遠慮な言葉には気分を害した様子もなく更に笑った。

「かっわいくない高校生ね」

 「そりゃどうも」と応じて、ライはスッと車から体を離す。どうやらこれ以上尋ねても意味はなさそうだ。女が嘘をついているようにも見えないし、本当にソウとは恋仲ではないのかもしれない。

 …かと言って、優雅にそれを報告するのも憚られる。では何故こんな問いをしたのかと自問しても、自分の中に返る答えはなさそうだった。



「…優雅ちゃんのことが好きなの?」

 窓を閉める前に、女がそう笑いながら尋ねてきた。今まで色んな人間に幾度となく聞かれてきた言葉。そのたびにライは同じことを思う。

「低俗な質問だな」

 近い存在の女がいたら、誰しも惚れなくてはいけないのか。恋愛感情はなくても大切な存在とはありえないものなのか。

 そう問い返したい気持ちを抑えて、ライは今度こそ身を翻した。





 この女は、何故かもう二度と会わない存在という気がしなかった。…何かしらの因縁を感じたのは、嫌な予感に似た胸騒ぎだったのだろうか。

 そんな複雑な思いを苦い気分で噛み締めながら、エントランスの鍵をカードキーで解除した時ちょうどエレベーターホールから自分の兄が降りてきたことに気づいて、ライは少し眉を上げた。



「…外で待ってるぜ、『会社の先輩』」

 言うと、ソウは「あぁ」と頷く。「じゃあまたな」なんて軽いセリフを投げてそのまますれ違おうとしたライの腕を、ソウがその瞬間にクイと引っ張った。

「ライ、さっき言う時間がなかったんだけど」

「…何」

 眉を寄せて、ライは振り返る。自分より数センチ低い兄の顔を見下ろして、続く言葉を待った。



「来月、急な部署移動があるんだ」

「…へぇ」

 兄の職業は知っていても、細かい仕事内容までは知らない。どうせ聞いても分からないし、それほど興味もなかった。

「俺も人事異動に絡んで、こっちの方に戻ってくることになった」

 だけどソウが継いだ言葉に、ライは大きく目を瞠る。今ソウは、電車で2時間は離れている場所で仕事をし、一人暮らしをしている。

 職場がこちらになるのなら、今の場所からでは通いづらいに違いない。

「来月、引越しするから手伝ってほしい」

 元々仲が良いと評判の兄弟だ。手伝いをしろと言われれば行くし、断る理由もない。

 …だけど何だ。この言いようのない複雑な感情は。



「ここに…戻ってくるのか?」

 兄の部屋は今でも母親がそのままにしてある。ライにとっては不都合はない。…いや、むしろ…。

「いや、こっちに戻ってくるって言っても駅で言えば数駅向こうだし、一人暮らしは続けるよ。一度実家を出て一人暮らしすると、味をしめるっていうか…その方が楽だし」

「……」

「今週末にもう一回帰ってきて、家を決めに行く。…そうだな、どっちかって言うと、優雅の家のすぐ近く辺りになると思う」

 ざわ、と何かが胸の中で粟立つ気がしたのは思い過ごしだろうか。

 ここへ帰ってくると言ってくれた方が、マシだった。どうしてよりによって…。



「……」

 自分の中の複雑な感情。理解もできないし、どうしてこうも持て余す。

 いつもの笑顔で「じゃあまた連絡する」と言い置く兄に、ライは答えるべき言葉を失くしたまま立ち尽くした。






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