毒を盛らずに、あなたを殺す方法
毒を盛らずに、あなたを殺す方法
人間は、存在しない毒にさえ怯える。
病に効くと信じて飲んだ砂糖水が痛みを和らげることがあるように、害があると信じ込んだ無害なものが、実際の苦痛を引き起こすこともある。
前者をプラセボ効果、後者をノシーボ効果という。
もちろん、暗示ひとつで健康な人間の心臓を自在に止められるわけではない。人の身体は、そこまで単純ではない。
だが、恐怖によって息が苦しくなり、動悸が激しくなり、指先が痺れることはある。
そして人間は、自分の身体に起きた異変を、必ずしも正しく理解できない。
前世で臨床心理学と行動科学を学んだ私――侯爵令嬢エレオノーラは、そのことをよく知っていた。
だからこそ、婚約者の裏切りを知った夜、私は声を荒らげなかった。
夜会の喧騒から離れた温室。
月光に照らされたシダの葉陰で、婚約者の伯爵令息ジュリアンが、男爵令嬢マリアの腰を抱き寄せていた。
「ジュリアン様、本当にエレオノーラ様と別れてくださるの?」
「ああ、もちろんだ。彼女の実家の後ろ盾さえ確保できれば、あんな冷たい女は用済みさ」
「でも、侯爵家が怒ったら……」
「心配ない。エレオノーラは体面を何より重んじる。婚約を解消するにしても、醜聞になるような真似はできない女だ」
そして彼は、甘ったるい声で続けた。
「君のように柔らかく、守ってやりたくなる女こそ、私の花嫁にふさわしい」
二人の唇が重なった。
私は扇の陰で微笑んだ。
なるほど。
彼は私の理性を、反撃しない理由だと思っているらしい。
実に興味深い誤解である。
◇
翌朝、私は父である侯爵に昨夜の一件を報告した。
侯爵家が婚姻に際して伯爵家へ提供する予定だった融資、交易上の便宜、共同事業への出資。それらをすべて確認し、契約書を机に並べる。
幸いなことに、婚約の正式な成立に先立って取り交わされた覚書には、双方の不貞による破談について明確な条項があった。
婚約解消そのものは難しくない。
問題は、ジュリアンが素直に応じるかどうかだ。
彼は侯爵家の後ろ盾を失いたくない。
そして何より、自分が不利な立場に立つことを極端に恐れる。
「エレオノーラ。伯爵家との交渉は私に任せなさい」
父はそう言った。
「もちろんです、お父様。婚約解消と賠償については、正式な手続きをお願いいたします」
「では、お前はどうするつもりだ?」
「少々、お別れの挨拶を」
私はにっこり笑った。
父はしばらく私の顔を見つめたあと、深くため息をついた。
「……度を越すなよ」
「善処いたします」
守れない約束は、しない主義である。
◇
三日後。
私はジュリアンを、王都の一等地にある高級ティーサロンへ招いた。
「エレオノーラ、急に呼び出すなんて珍しいな」
昨夜の温室など存在しなかったかのように、彼は優雅な笑みを浮かべて席についた。
「ええ。あなたに特別な贈り物があるの」
私は卓上の小箱を開いた。
中には、小ぶりなクリスタルグラスが二つ。
給仕が赤ワインを注ぐと、ジュリアンは目を輝かせた。
「これは、ずいぶん上等なものだな」
「我が家の領地から届いた年代物よ。婚約者として、最後にあなたと味わいたくて」
「最後?」
「ええ。まずは乾杯しましょう」
彼は疑いもせず、ワインを口に含んだ。
芳醇な香り。
深い渋み。
ただの、最高級赤ワインである。
毒など一滴も入っていない。
グラスが空になったところで、私は一枚の羊皮紙を取り出した。
「ところで、ジュリアン。三日前の温室は、とても暖かそうだったわね」
彼の笑顔が消えた。
「……何の話だ?」
「シダの茂みの奥よ。マリア男爵令嬢と、ずいぶん親密だったでしょう?」
「エレオノーラ、それは誤解だ!」
早い。
まだ責めてもいないのに、もう言い訳が始まった。
「彼女が泣いてすがってきたんだ。私は慰めようとしただけで……」
「そう」
私は頷いた。
「それなら、何も問題ないわね」
彼の顔に、安堵が浮かんだ。
私はその表情を眺めながら、静かに続けた。
「あなたが飲んだものについても、説明しておきましょうか」
「……何?」
「東方の薬学書に、『冥府の雫』というものが記されているの。色も香りもなく、飲んだ本人にはすぐに異変がわからないそうよ」
ジュリアンの視線が、空になったグラスへ落ちた。
「な、何を言っている?」
「興味深いでしょう?」
私は微笑んだ。
「もっとも、その薬学書が本物かどうか、私には確かめようがないのだけれど」
「まさか……」
彼は喉を鳴らした。
「まさか、今のワインに……」
私は答えなかった。
ただ、彼を見つめた。
沈黙というものは、ときに言葉よりも雄弁である。
「エレオノーラ!」
「どうしたの? 顔色が悪いわ」
「お前、何を入れた!」
「何か、身体に異変があるの?」
ジュリアンは胸元を押さえた。
「……心臓が、速い」
「そう。怖いときには、そうなるものね」
「怖い……?」
「ええ。人は恐怖を感じると、動悸がしたり、息が苦しくなったりするの」
彼の呼吸が浅くなった。
額に汗が浮かぶ。
「やめろ……。何をしたんだ……!」
「私は、あなたにワインをご馳走しただけよ」
事実である。
ただし、今の彼には、それが何の慰めにもならないらしい。
「手が……痺れる……」
ジュリアンは震える指先を見つめた。
強い不安や過呼吸によって、手足に痺れが生じることはある。
彼が今まさに何を経験しているのか、医師でもない私に断定はできない。
けれど、ひとつだけ確かなことがあった。
彼は、自分が毒を飲んだと信じ始めている。
「エレオノーラ……頼む。解毒薬を……」
「私は毒を盛ったとは言っていないわ」
「そんな言葉を信じられるか!」
私は思わず笑いそうになった。
先ほどまで、彼は私に嘘をついていたというのに。
自分が疑われる立場になると、他人の言葉を信じる余裕さえなくなるらしい。
「助けてくれ……!」
ジュリアンは椅子から立ち上がろうとして、よろめいた。
私は卓上の呼び鈴を鳴らした。
すぐに控えていた護衛と、サロンに待機させていた医師が入ってくる。
「先生。ジュリアン様がひどく苦しんでいらっしゃるの。診ていただける?」
「承知しました」
医師は手早く彼の様子を確かめた。
私は少し離れて、その光景を眺めていた。
「毒だ……! この女に毒を盛られたんだ!」
ジュリアンが叫ぶ。
医師は落ち着いた声で答えた。
「まずは呼吸を整えましょう。こちらで状態を確認します」
ジュリアンは私を睨みつけた。
憎悪と恐怖が入り交じった、なんとも醜い表情だった。
やがて医師が、私に向かって小さく頷いた。
差し迫った危険を示す所見はないらしい。
私はそこで初めて、小瓶を取り出した。
「ジュリアン。あなたが欲しがっていたものよ」
「解毒薬か……!」
「そう信じるなら、きっと安心できるでしょうね」
私は医師に小瓶を渡した。
中身は砂糖を溶かした水である。医師には、あらかじめそのことを伝えてあった。
ジュリアンは小瓶を奪うように受け取り、飲み干した。
しばらくして、彼の呼吸がゆっくりになった。
「……はあ……はあ……」
震えが少しずつ収まっていく。
「助かった……?」
「落ち着いてきたようね」
私は椅子に腰を下ろした。
「よかったわ、ジュリアン」
彼は涙を浮かべた。
「エレオノーラ……私は……」
「怖かったでしょう?」
彼は何度も頷いた。
「死ぬかと思った……」
「そう」
私は扇を開いた。
「あなたは今、自分の命が誰かの気まぐれに左右されるかもしれない恐怖を味わったのね」
「……何が言いたい?」
「私の人生を、あなたはずいぶん気軽に扱っていたでしょう?」
ジュリアンが口を閉ざした。
「侯爵家の後ろ盾だけ利用して、用が済んだら捨てればいい。そう言っていたわね」
「それは……」
「私は、あなたに捨てられることを恐れてはいないわ」
私は微笑んだ。
「ただ、自分が人を傷つける側にいるときだけ、何も失わずに済むと思っている人間が嫌いなの」
私は羊皮紙を彼の前に置いた。
婚約解消の通知書。
そして、伯爵家との契約に基づく賠償請求の写し。
「婚約は解消します。賠償については、両家の代理人を通して正式に協議することになっているわ」
彼は震える手で書類をめくった。
「こんな額……払えるわけが……」
「それは伯爵家と相談してちょうだい。契約に記された条件を、私は変更するつもりはないの」
「待ってくれ、エレオノーラ! 考え直してくれ!」
「あなたは昨夜、私を用済みだと言ったわね」
「違う! あれは……!」
「では、どういう意味だったの?」
彼は答えなかった。
私は立ち上がった。
「安心なさい。あなたが飲んだワインには、何も入っていないわ」
ジュリアンの目が見開かれた。
「……何?」
「毒なんて、最初から存在しないの」
「そんな……!」
「あなたが経験した症状まで嘘だったとは言わないわ。恐怖によって身体に異変が起こることはあるもの」
私は空のグラスを指差した。
「けれど、あなたが信じた毒は、そこにはなかった」
「エレオノーラ……お前……!」
彼の顔が怒りで歪む。
私は護衛に視線を送った。
「先生、ジュリアン様の診察を続けていただけるかしら。必要なら、伯爵家へ連絡を」
「承知しました」
私は扉へ向かった。
「待て!」
背後から声が飛ぶ。
「こんな真似をして、ただで済むと思うなよ!」
私は振り返った。
「もちろん、あなたが今日のことを誰に話しても構わないわ」
彼は息を呑んだ。
「私があなたに毒を盛ったと言うのなら、飲み残しのワインも、購入記録も、医師の診察記録も調べればいい」
そして私は、静かに付け加えた。
「ただし、温室でのあなたの発言も、婚約解消に至った事情も、必要になれば正式に説明することになるでしょうね」
ジュリアンは黙り込んだ。
私はもう一度だけ微笑んだ。
「ごきげんよう、ジュリアン」
◇
サロンの外には、秋の青空が広がっていた。
馬車に乗り込むと、護衛が遠慮がちに尋ねた。
「お嬢様。あの方は、本当に毒を飲んだと思われたのでしょうか」
「ええ。少なくとも、一時はね」
「恐ろしいものですな」
「人間の思い込みが?」
「いえ」
護衛は一瞬、言葉を選んだ。
「お嬢様が、です」
私は笑った。
「失礼ね。私は一滴も毒を使っていないわ」
「それが余計に恐ろしいのですが」
まったく、使用人というものは時折、主人に対して率直すぎる。
もっとも、彼の指摘にも一理あった。
人間の身体は、思い込みだけで自由に操れるほど単純ではない。
私はジュリアンの心臓を止められたわけでも、彼の命を握っていたわけでもない。
それでも彼は、ほんのひととき、自分の命が私の手の中にあると信じた。
そして私は、その恐怖を利用した。
前世で学んだ心理学は、本来、人の苦しみを理解し、和らげるための学問だったはずだ。
それを、他人を追い詰めるために使った。
その自覚がないわけではない。
ただ、後悔もしていなかった。
「さて」
私は馬車の窓から流れる街並みを眺めた。
婚約解消の手続きが済めば、侯爵家が予定していた出資の一部は自由になる。
以前から興味のあった、心理学の研究施設を設立するのもいいかもしれない。
人間の恐怖、不安、期待。
それらが身体に及ぼす影響を、もっと詳しく調べてみたい。
もちろん、研究対象者の同意と安全には十分に配慮するつもりだ。
私は良識ある研究者なのだから。
……少なくとも、自分ではそう思っている。
馬車が石畳を軽やかに走り出した。
ジュリアンの胸に残ったものは、毒ではない。
私という女を見誤った記憶だけだ。
そして記憶というものは、ときに毒より長く、人を苦しめる。
私は扇を閉じ、晴れやかな空を見上げた。
なんて素晴らしい研究日和なのだろう。




