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証拠は全て、日付順に揃えてございます

作者: 久留トガ
掲載日:2026/08/09


 王城の大広間には、秋の夜会にふさわしく金木犀の香が焚かれていた。楽団の弦の音が高い天井に反響し、シャンデリアの光が磨き上げられた床に幾重にも映り込んでいる。


「セシル・ランドール」


 名を呼ばれ、セシルは足を止めた。


 声の主は王太子リュシアンだった。広間の中央、人の輪が自然と割れてできた空間に、リュシアンが立っていた。楽団の音がふと途切れ、談笑の声が波のように引いていく。集まった視線が、いっせいにセシルへ向いた。


「ミレイユに、意地悪をしたそうだな」


 隣に立つ聖女ミレイユが、俯きがちに目を伏せている。白い手袋の指先が、扇の縁をきつく握っていた。傷ついた娘、という体裁が完璧に整っていた。


 セシルは驚かなかった。ドレスの裾を軽く払い、姿勢をわずかに正しただけだった。


 周囲の目が痛いほど注がれている。誰かがくすくすと笑いを堪える声も聞こえた。「記録魔」「感情がない」——そう囁かれ続けてきた自分の噂を、セシルはよく知っていた。腹が立ったことはない。ただ、噂だけで人が容易く傷つけられることを、昔から知っているだけだった。


「……いつのお話でしょうか。確認させてください」


 懐から手帳を取り出す。それだけの仕草に、周囲がざわついた。この場で手帳を取り出す令嬢など、他に一人もいない。


 リュシアンが、わずかに気圧されたように半歩下がった。


---


「三日前です」


 ミレイユが顔を上げた。目に涙をためている。


「離宮のお茶会で……私が席に着いたとき、セシル様は聞こえるように、そばの方と何か話しておられました。きっと私のことを」


「三日前の、離宮のお茶会」


 セシルは手帳のページをめくった。指先が、目当ての行で止まる。


「その日でしたら、参加者は五名。ミレイユ様、私、コーデリア様、ベアトリス様、それと主催のアデール様です。開始は午後二時、私が到着したのは一時五十五分。ミレイユ様のご到着は二時十分でした」


「そ、それが何だと……」


「ミレイユ様が席に着かれた時点で、私はアデール様と刺繍の柄について話しておりました。内容は先月の展示会で見た薔薇の意匠についてです。それ以外の話題には、一切触れておりません」


 セシルはページをそのまま示した。細かい字が几帳面に並んでいる。


「よろしければ、コーデリア様、ベアトリス様に確認いただけますか。同じ卓におられました」


 少し離れた場所にいた令嬢の一人、コーデリアが、探るように周囲を見てから小さく手を挙げた。


「……たしかに、そのような話を。ミレイユ様のことは、話題にも出ていなかったかと」


 ベアトリスも、控えめに頷いた。


 ミレイユの表情が揺れた。扇を握る指に、力がこもる。


「で、でも、あの時の態度が……何か、含むところがあるような目で見ていらしたわ」


「態度についてはお答えしかねます」


 セシルは静かに言った。


「私が記録できるのは、事実のみですので」


 会場に小さなざわめきが広がった。リュシアンが眉を寄せる。


「セシル、お前は……」


「事実に基づいてお答えしております、殿下」


 アデールが小さく手を挙げ、遠慮がちに付け加えた。


「あの、私からもよろしいでしょうか。セシル様とは、あの日以外にもお茶をご一緒することがございますが、他人の噂話をなさっているところを見たことがございません。いつも、刺繍か本の話ばかりで」


 その一言に、周囲の空気が少しだけ緩んだ。数人の令嬢が、思わずといった様子で頷いている。


 ミレイユの頬に、うっすらと赤みが差した。悔しさか、それとも別の感情か、セシルには判別がつかなかった。


---


「それだけではない」


 リュシアンが割って入った。声に苛立ちが滲んでいた。


「一ヶ月前、庭園でミレイユの陰口を叩いていたという話も聞いている。侍女に厳しく当たっていたという話もな」


「一ヶ月前の庭園、でございますか」


 セシルはページを繰った。手帳には細かい字がびっしりと並び、余白には小さな注釈がいくつも書き込まれている。


「一ヶ月前、庭園に出た記録は二回ございます。一回目は十七日、侍女のアンナと共に散策のみ。二回目は二十三日、園丁のトマスに薔薇の手入れについて質問しております。会話の内容は控えてありますので、必要であれば読み上げます」


「そんな細かいことまで、いちいち書き留めているのか」


 リュシアンの声に、隠しきれない驚きが混ざった。


「記録は全て日付順にしております。でなければ、後から何を言われたか分からなくなりますので」


 ミレイユの唇が震えた。


「侍女への意地悪も……アンナさんに、きつく当たっていたと聞きました」


 セシルはわずかに間を置いた。


「アンナは私の侍女です。彼女への言動については、私よりアンナ本人にお尋ねいただく方が正確かと存じます。今夜この場にはおりませんが、後日いくらでも」


「わ、私はただ、聞いた話をそのまま殿下にお伝えしただけです」


「誰から聞かれましたか」


 問いは短かった。ミレイユが口を開きかけ、閉じた。


「……侍女の一人から」


「お名前は」


「そこまでは……覚えておりません」


 セシルは手帳に何かを書きつけた。ペン先の小さな音だけが、しんと静まった広間に響いた。それだけで、ミレイユの声がさらに小さくなっていく。


「思い違いをしていたのかもしれません……。誰かから聞いた話を、確かめもせず、そのまま殿下にお伝えしてしまって」


 会場の空気が、じわりと変わっていった。囁きの対象が、セシルからミレイユへ、そしてリュシアンへと移っていく。扇の陰で交わされる視線が、先ほどとは違う色を帯びていた。


「殿下。ミレイユ様のお話だけで、この場を設けられたのですか」


 誰かの声が、小さく、しかしはっきりと聞こえた。近くにいた壮年の伯爵が、眉をひそめてリュシアンを見ている。


 リュシアンの顔から血の気が引いていく。反論しようと口を開いたが、言葉は出てこなかった。額に、うっすらと汗が滲んでいるのが見えた。


「ま、まだある」


 リュシアンが、追い詰められたように声を張った。


「先月の夜会の後、ミレイユを陥れるための文を書いていたという話も聞いた。侍女頭がそれを見たと」


 会場のざわめきが、一段と大きくなった。今度ばかりは、セシルの手も一瞬止まった。


「……それは、初めて伺うお話です」


「侍女頭が嘘をつくというのか」


「いいえ。ただ、心当たりがございませんので、確認させていただきたいのです」


 セシルは静かに、しかしはっきりと問い返した。


「その文とは、どのようなものでしょうか。日付、宛先、内容をお聞かせいただけますか」


 リュシアンが口ごもった。ミレイユを見る。ミレイユも、目を伏せたまま答えなかった。


「……そこまでは、聞いていない」


「では、確認のしようがございません」


 セシルは、手帳の余白に一行だけ書き加えた。


「もし後日、その文の実物が出てまいりましたら、いつでも拝見いたします。筆跡も、紙の質も、私が普段使うものと照合できますので」


 誰も何も言わなかった。侍女頭らしき年配の女性が、少し離れた場所で気まずそうに視線を逸らすのが見えた。


 楽団の一人が、間の悪い沈黙に耐えかねたように弓を構え直したが、指揮者らしき人物にそっと制された。広間全体が、次の言葉を待っていた。


 リュシアンが、もう二の句を継げないでいた。


「殿下。それで全てでございますか」


 先ほどと同じ、壮年の伯爵の声だった。今度はもう少しはっきりと、そして少し呆れたように響いた。周囲の何人かが、小さく頷いている。


 ミレイユが、耐えきれなくなったように顔を覆った。肩が小さく震えている。それが演技なのか、本当の動揺なのか、この段になってはもう誰も気にしていないようだった。


---


 セシルは手帳を閉じた。ぱちりという小さな音が、やけにはっきりと響いた。


「以上でよろしいでしょうか、殿下。事実と異なる点は、これで訂正できたかと存じます」


 リュシアンが喉を鳴らした。しばらく答えられず、視線を泳がせる。


「……婚約については」


「殿下のご意思は、既に伺っております」


 セシルは遮らず、静かに続けた。


「婚約は解消ということで、私に異存はございません。ミレイユ様のお話が事実であれば、私にも非があったと存じますが、そうではなかったようですので」


 深く一礼する。ドレスの裾が、床の光の上をわずかに滑った。


「失礼いたします」


 踵を返し、会場の出口へ向かう。


「セ、セシル……」


 リュシアンが呼び止めようとしたが、続く言葉が出てこないまま、それきり黙り込んだ。ミレイユも何か言いかけたが、声にならなかった。誰も、セシルの背を止めなかった。


 広間を横切る間、セシルの足取りは最初から最後まで乱れなかった。すれ違う招待客の視線を、まっすぐ受け止めながら歩いた。


◇◇◇


 廊下に出ると、楽団の音が遠のき、静けさが戻ってきた。窓から差し込む月明かりが、石畳の床に長い影を落としている。


 セシルは一度だけ息を吐き、手帳を握る手にわずかに力を込めた。ドレスの下で、心臓がまだ速く打っているのが分かった。それでも、足取りは乱れなかった。


「見事な記録でした」


 声のした方を見ると、法務院の文官グレンが柱の陰から歩み出てきた。夜会には来賓として同席していたはずだったが、広間の中では姿を見かけた記憶がなかった。おそらく、最初から少し離れた場所で成り行きを見ていたのだろう。


「以前、法務院の書類整理でもお見かけしていました。あなたが持ち込む資料は、いつも日付と証人が揃っていて、確認の手間がかからないと評判でした」


「……それは、お恥ずかしい趣味だと思われていたかと」


「いえ」


 グレンは短く言った。


「誠実さの証拠だと思っていました」


 セシルは、少し戸惑ったように瞬きをした。


「そのように仰った方は、初めてです」


「そうですか」


 グレンは、そっけないほど淡々と応じた。


「法務院では、記録の正確さより早さを求められることが多いので。あなたの資料はいつも正確な上に、余計な手間がかからない。それだけで、十分に評価されるべきだと思っていました」


 風が窓の隙間から入り込み、燭台の炎を小さく揺らした。


 セシルは手帳を握る手に、また少しだけ力を込めた。言葉が、すぐには出てこなかった。窓の外で、夜風が中庭の木々を揺らす音がした。


「……ありがとうございます」


 やっと、それだけを返した。


 グレンは小さく頷き、少し間を置いてから続けた。


「よろしければ、法務院の記録整理を手伝っていただけませんか。正式な仕事として」


 セシルは彼を見た。事務的な誘いのはずなのに、いつもより長く考えてから頷いた。


「……はい。喜んで」


 グレンがわずかに口の端を上げた。それきり多くを語らず、二人並んで歩き出す。


「一つ、伺ってもよろしいですか」


 グレンが尋ねた。


「なぜ、あそこまで細かく記録を続けてこられたのですか」


 セシルは少し歩調を緩めた。


「昔、身に覚えのない噂で、周りから距離を置かれたことがございます。十二歳の頃です。誰も、私の話を聞こうとしませんでした。噂を広めた方が誰なのかも、今も分かりません」


「証明する手立てが、何もなかった」


「はい。あの時、何も残していなかったせいで、何一つ証明できませんでした。悔しいというより、ただ——どうすればよかったのか分からなかったのを覚えています」


 窓の外の月明かりが、二人の影を廊下に長く伸ばしていた。


「以来、記録だけは絶やさないようにしております。誰に何と言われても、事実だけは残る。それだけを支えにしてまいりました」


「それで、今夜も」


「はい」


 セシルは前を向いたまま答えた。


「もう二度と、証明できずに黙るつもりはございませんので」


 グレンはそれ以上、多くを言わなかった。ただ、隣を歩く歩調を、セシルに合わせただけだった。少しの沈黙のあと、彼が付け加えた。


「法務院にも、事実を残せずに苦しんでいる者は多くいます。あなたのような人がいてくれると、助かる者が増えるでしょう」


 セシルは小さく頷いた。今度は、迷いなく。


 廊下の窓から、夜会の灯りが遠く滲んでいた。セシルは手帳を胸元に収め、前を向いたまま歩を進めた。


 角を曲がる直前、グレンがふと足を止めた。


「明日から、ということでよろしいですか」


「はい」


 セシルは振り返らずに答えた。口元だけが、わずかに緩んでいた。


「手帳なら、いくらでもございますので」



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