第48話 月夜の晩酌と、百年先へのプロポーズ
その夜は、珍しく静かな夜だった。
エリザは学園の寮へ戻り(パトリック君との料理研究が忙しいらしい)、魔王様やイグニスもそれぞれの寝床へ帰っている。
『カフェ・オアシス』の二階、住居スペースのバルコニーで、私とジーク様は二人きりでグラスを傾けていた。
「……静かだな」
「ええ。エリザが小さい頃は、毎日が戦争みたいでしたのに」
ジーク様がワインを揺らしながら、夜空を見上げた。
彼の目尻には、笑いジワが少し増えている。それがまた、この最強の皇帝陛下に渋い魅力を与えていた。
「レティシア」
「はい」
「手を見せてくれないか」
私がグラスを置くと、ジーク様は私の両手を包み込むように握った。
公爵令嬢だった頃の、白くて柔らかい手ではない。
包丁ダコがあり、火傷の跡が薄く残り、少し節くれだった「料理人の手」だ。
「……荒れてしまいましたね。お恥ずかしいです」
「何を言う」
ジーク様は、私の手の甲に愛おしそうに口づけを落とした。
「俺は、この手が世界で一番好きだ。この手が、俺を救い、エリザを育て、たくさんの人々を笑顔にしてきたんだ。……俺にとっての勲章だよ」
真っ直ぐな瞳に見つめられ、私は頬が熱くなるのを感じた。
結婚して十年以上経つのに、この人はいつだって新婚の頃のような情熱で私を口説いてくる。
「レティシア。俺は、君を幸せにできているか?」
「もう、何度その質問をするんですか?」
「何度でも聞きたい。……俺は皇帝だ。公務で君を待たせ、危険な目に合わせることもある。普通の夫のようにはいかない」
彼は少しだけ不安そうな顔をした。
世界最強の男が、私の前でだけ見せる弱さ。
「ジーク様。私は今、『悪役令嬢』として追放されたあの日よりも、ずっとずっと幸せですよ」
私は彼の手を握り返した。
「貴方がいて、エリザがいて、騒がしい常連さんたちがいて。……これ以上の幸せなんて、想像もつきません」
「そうか……」
ジーク様は安堵の息を吐き、そして居住まいを正した。
彼は椅子から立ち上がり、私の前で片膝をついた。
まるで、騎士が姫に忠誠を誓うように。
「ジーク様?」
「レティシア。……俺と、もう一度結婚してくれないか」
突然の言葉に、私は目を丸くした。
「えっ……? もう結婚していますよ?」
「今世の話ではない」
ジーク様は真剣な眼差しで言った。
「生まれ変わっても、だ。……もし俺たちが寿命を迎え、魂が巡り、次の人生が始まったとしても。俺は必ず君を見つける」
「……来世でも、ですか?」
「ああ。たとえ君が別の国の人間でも、姿形が変わっていても。俺の魂は、君の作る料理の匂いと、君の笑顔を覚えているはずだ」
彼はポケットから、小さな指輪を取り出した。
かつて贈られた豪華な宝石ではない。ミスリル銀で作られた、シンプルで丈夫な、彼の手作りの指輪だ。
「だから、予約させてくれ。……来世も、その次も。俺の妻になってほしい」
二度目のプロポーズ。
それは、「死が二人を分かつまで」という誓いを超えた、「魂が消えるまで」の永遠の約束だった。
視界が涙で滲んだ。
私は溢れる想いを込めて、何度も頷いた。
「……はい。はい、喜んで。貴方が私を見つけてくれるなら、私はずっと待っています」
「ありがとう、レティシア」
ジーク様が私の左手の薬指に、新しい指輪をはめた。
それは、どんな高価な宝石よりも温かく、私の指に馴染んだ。
「愛している」
月明かりの下、私たちは静かに口づけを交わした。
十年分の思い出と、これから先の百年分の約束を込めて。
風が優しく吹き抜け、庭の「スライム小屋(要塞)」のセンサーが小さく点滅した気がしたが、今夜だけは見なかったことにしよう。
世界で一番幸せな夜は、静かに更けていった。




