第40話 かつての王子との再会、そして最高の『復讐』
秋の雨が降る、静かな午後だった。
ランチのピークが過ぎ、客足が途絶えた『カフェ・オアシス』に、カラン……と弱々しいベルの音が響いた。
「いらっしゃいませ。お足元の悪い中、ようこそ」
私が笑顔で迎えると、入ってきたのは一人の男性だった。
泥で汚れたマント、疲れ切った顔、伸び放題の髭。
年齢は私と同じくらいだろうか。その瞳には、深い疲労と諦めが漂っていた。
「……一番安いものをくれ。温かい飲み物と、パンを」
「かしこまりました。お好きな席へどうぞ」
男性は窓際の席に力なく座り込んだ。
私は厨房に入り、温かいカフェオレと、厚切りのバタートーストを用意した。
その時、奥の席で新聞を読んでいたジーク様(皇帝)が、ピクリと眉を動かした。
彼はその男性客を一瞥すると、スッと立ち上がり、厨房に入ってきた。
「……レティシア」
「はい」
「あの客……気づいているか?」
ジーク様の低い声に、私は小さく頷いた。
「ええ。見間違えるはずもありません」
あの、少し猫背気味の座り方。カップを持つ時の小指の癖。
やつれてはいるけれど、彼は間違いなく――かつて私を婚約破棄し、国を追放した『元婚約者の王子』、レイモンド様だった。
「……追い返すか?」
「いいえ。彼はただの『お客様』ですもの」
私はトレイを持ち、静かに客席へと向かった。
◇◇◇
「お待たせいたしました」
湯気の立つカフェオレとトーストを置くと、レイモンド様は震える手でカップを掴み、一口すすった。
「……っ、温かい」
彼は深く息を吐き、それからバターが染み込んだトーストにかぶりついた。
一心不乱に食べるその姿に、かつての傲慢で煌びやかだった王子の面影はない。
「……美味い。こんなに美味いものは、久しぶりだ」
「それは良かったです」
「……俺の国は、もうダメなんだ」
聞いてもいないのに、彼はポツリポツリと語り出した。
「聖女だと思っていた女は、ただの散財家だった。国庫は空になり、有能な貴族たちは逃げ出し……俺は責任を取らされて廃嫡された」
どうやら、私を追い出した後の祖国は、散々な末路を辿ったらしい。
彼は自嘲気味に笑った。
「本当に大切なものは、すぐ近くにあったのにな。……俺は、バカな男だよ」
彼は最後に残ったカフェオレを飲み干し、ふと顔を上げて私を見た。
「……あんた、いい店員だな。こんな汚い男にも優しくしてくれて」
「店主ですから」
「そうか。……幸せか?」
その問いに、私は迷わず答えた。
「はい。世界で一番、幸せですよ」
その時。
厨房の奥から、エプロン姿のジーク様が出てきて、私の肩を抱いた。
さらに、二階からエリザ(7歳)が降りてくる。
「ママ! パパ! 魔王おじちゃんがまたケーキつまみ食いしてるー!」
「こらエリザ、告げ口するでない!」
賑やかで、温かくて、最強の家族たち。
レイモンド様は、私の隣に立つジーク様を見て、目を見開いた。
「あ、あんたは……ガルディア帝国の皇帝……!?」
そして、私の顔を改めて凝視した。
記憶の中の地味な令嬢と、今の幸せに満ちた店主の顔が重なる。
「ま、まさか……レティシア、なのか……?」
「ごゆっくりしていってくださいね、お客様」
私は肯定も否定もせず、ただ微笑んだ。
かつて彼に向けられていたような、媚びるような笑顔ではない。
一人の自立した女性としての、余裕のある微笑みだ。
「…………」
レイモンド様は言葉を失い、呆然と私たちを見上げた。
自分が捨てた女が、世界最強の皇帝に愛され、魔王やドラゴンに囲まれ、こんなにも輝いている。
その事実こそが、彼にとって最も残酷で、逃れられない『現実』だった。
「……そうか。そうだったんだな」
彼は涙をこらえるように俯き、テーブルに数枚の硬貨を置いた。
「釣りはいらない。……ご馳走になった」
彼は逃げるように、しかしどこか憑き物が落ちたような足取りで店を出ていった。
ドアが閉まる瞬間、彼が最後に見たのは、愛する家族に囲まれて笑う私の姿だっただろう。
「……行ったか」
ジーク様が私の髪を撫でた。
「何か言ってやりたくはなかったのか? 『ざまぁみろ』と」
「ふふ、そんな必要ありませんわ」
私は空になったコーヒーカップを片付けながら答えた。
「だって私、彼の名前すら、思い出すのに時間がかかったんですもの」
恨みも、未練も、もう何もない。
私にとって彼は、ただの「通りすがりのお客様A」に過ぎないのだ。
無関心――それこそが、私にとっての最高の復讐であり、勝利なのだから。
「さあ、仕事に戻りましょうか、あなた」
「ああ。……君の淹れたコーヒーが飲みたいな」
雨上がりの空に、美しい虹がかかっていた。
私の物語に、過去の亡霊が入り込む隙間なんて、もう1ミリも残っていないのだ。
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