第2話 辺境のボロ家と、最初のお客様
王都を出てから馬車に揺られること一週間。
私は北の辺境、ノルドの街に到着した。
馬車を降りた瞬間、冷たく澄んだ空気が肺を満たす。
王都の淀んだ空気とは大違いだ。ここには、あの胃がキリキリするようなプレッシャーも、山積みの決裁書類もない。
「最高……!」
私は両手を広げて深呼吸した。
ここが私の第二の人生の舞台だ。
私が購入しておいた物件は、街外れの森の入り口にあった。
元々は冒険者ギルドの倉庫だったらしいが、長らく使われておらず「幽霊が出る」なんて噂もある格安物件だ。
不動産屋からは「本当にあそこでいいんですか?」と三回くらい念を押されたけれど。
「……うん、想像通りのボロ屋ね」
目の前に立つ木造の建物を眺める。
壁はツタに覆われ、窓ガラスは曇り、ドアは蝶番が外れかけている。普通なら絶望する光景かもしれない。
けれど、今の私には無限の時間と、無駄にハイスペックな魔力がある。
「さて、やりますか」
私は腕まくりをして、人差し指を立てた。
王宮では書類仕事ばかりさせられていたが、私の本来の適性は魔法使いだ。
しかも、王太子の護衛も兼ねていたため、無駄に高レベルな魔法が使える。
「浄化! 修復! ついでに害虫駆除!」
私の指先から放たれた光が、建物全体を包み込む。
バシュウウゥゥン! という派手な音と共に、長年の汚れが消え去り、腐っていた床板が再生し、蜘蛛の巣が霧散した。
所要時間、わずか十秒。
専門業者に頼めば一ヶ月はかかるリフォームが、一瞬で終わってしまった。
「ふふん、私の魔力制御にかかればこんなものよ」
ピカピカになった店内に入り、私は満足げに頷いた。
一階をカフェスペース、二階を住居にする予定だ。
家具はまだないけれど、とりあえず持参したテーブルセットを広げる。
「まずは一杯、淹れましょうか」
私は愛用のティーセットを取り出した。
ポットに茶葉を入れ、お湯を注ぐ。
立ち昇る湯気と共に、ベルガモットの爽やかな香りが部屋中に広がっていく。
ここで重要なのが、私の固有スキル【安らぎの加護】だ。
このスキルを込めて淹れた紅茶は、飲む者の体力と精神力を回復させ、極上のリラックス効果を与える。
カイル殿下が激務の中でも肌艶が良かったのは、完全にこれのおかげだ。
「いただきます」
一口飲むと、身体の芯からポカポカと温かくなる。
旅の疲れが溶けていくようだ。
「はぁ〜……幸せ……」
椅子に深く座り、天井を仰ぐ。
誰も怒鳴り込んでこない。
「書類はまだか!」と急かされない。
ただ、美味しい紅茶があるだけ。
これこそが、私が求めていたスローライフだ。
その時だった。
ガサガサッ。
開け放していたドアの向こうから、何やら物音が聞こえた。
(……お客様? まさか、まだ看板も出してないのに)
あるいは、噂の幽霊だろうか。
私がカップを置いて入り口を見ると、そこには――。
「キュウ……?」
白い毛玉がいた。
いや、よく見るとそれは、銀色の毛並みを持つ子犬のような生き物だった。
つぶらな瞳で私を見つめ、鼻をヒクヒクさせている。どうやら紅茶の香りに釣られてやってきたらしい。
「あら、可愛いお客様」
私がしゃがみ込んで手招きすると、子犬は警戒心ゼロでトコトコと寄ってきた。
そして私の膝にちょこんと前足を乗せ、「それをくれ」と言わんばかりにカップを見上げる。
「飲みたいの? 少し熱いから気をつけてね」
お皿に少し紅茶を分けてあげると、子犬はペロペロと夢中で飲み始めた。
飲み干すと、満足そうに「キュウン!」と鳴き、私の足元で丸くなってしまった。
(可愛い……! 何この生き物、最高に癒やされるんだけど!)
私は歓喜しながら、そのフワフワの毛並みを撫で回した。
王宮では動物を飼うなんて禁止だったから、こんな至福の時間は初めてだ。
――この時の私は、まだ気づいていなかった。
この「子犬」が、実はこの森の主であり、伝説の聖獣フェンリルの幼体であることに。
そして、【安らぎの加護】入りの紅茶が、人間だけでなく聖獣たちにとっても「極上のマタタビ」のような効果を発揮してしまうことに。
「よし、決めた」
私は膝の上の毛玉を撫でながら、店の名前を呟いた。
「この店の名前は『カフェ・オアシス』。疲れた人たちが、羽を休める場所にしよう」
こうして、私の辺境カフェ経営は、一匹の可愛い珍客と共に幕を開けたのだった。
◇◇◇
一方その頃、王都の王太子執務室では。
「おい! あの書類はどこだ! 予算案の決裁が終わっていないぞ!」
「で、殿下! 隣国からの抗議文の翻訳が間に合いません!」
「私の頭痛薬を持ってこい! クソッ、なんで最近こんなに身体が重いんだ……!」
「レティシア様がいなくなってから、業務がいつもの三倍……いえ、十倍に膨れ上がっておりまして……!」
カイル殿下の目の下には、早くも濃いクマが刻まれ始めていた。




