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星降る夜の終わりに、あなたからの手紙を  作者: 九葉


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第7話

希望という名のロウソクの火が吹き消され、私の世界は再び、完全な闇と静寂に包まれた。

部屋の暖炉の火だけが、まるで私の消えそうな命を嘲笑うかのように、ぱちぱちと音を立てて燃え続けている。


あれから、何日が過ぎたのだろう。

私は与えられた部屋のベッドの上で、ただ毛布にくるまり、虚空を見つめるだけの日々を送っていた。

食事も、喉を通らない。

眠ろうとしても、悪夢にうなされてすぐに目が覚めてしまう。


生きているのか、死んでいるのか、それすらも曖昧な感覚。

鞄の中の木箱は、もう開ける気にもなれなかった。

あの手紙は、私を救ってくれた光であると同時に、私を絶望の淵に突き落とした呪いそのものだったからだ。


コンコン、と控えめなノックの音。

返事をする気力もなく黙っていると、静かに扉が開き、盆を持った侍女が入ってくる。

そして、手付かずの食事と差し替えると、何も言わずに去っていく。

それが、毎日の決まり事だった。


しかし、その日は違った。

扉を開けて入ってきたのは、あの氷の瞳を持つカイ様、その人だった。


私は驚いて身を起こすこともできず、ただ毛布の端を握りしめる。

彼は、侍女がいつも置いていく盆とは別に、小さなカップを手に持っていた。


「……飲め」


命令するような、短い言葉。

彼はカップを私のベッドサイドのテーブルに置くと、それ以上何も言わず、窓辺に立って外の雪景色を眺め始めた。


カップからは、薬草の混じった、少し甘い香りが湯気と共に立ち上っている。

見ると、それは温かいミルクにハーブを浮かべたもののようだった。


なぜ、彼がこんなものを?

遺言の務めは、もう果たしたのではなかったのか。

突き放したはずの私に、なぜ情けをかけるような真似をするのだろう。


彼の意図が分からず、私は戸惑うばかりだった。

けれど、その温かい香りが、凍りついていた私の鼻腔をくすぐり、ほんの少しだけ、生きているという感覚を思い出させてくれた。


私はゆっくりと身体を起こし、震える手でカップを取った。

一口飲むと、優しい甘さとハーブの香りが、乾ききった身体にじんわりと染み渡っていく。


「それは、父が母のために、よく作っていたものだ」


窓の外を見つめたまま、カイ様がぽつりと呟いた。


「母は身体が弱く、よく眠れない夜を過ごしていた。そんな時、父はいつもこれを……」


彼の声には、いつもの冷たさはなく、遠い過去を懐かしむような、微かな温もりが滲んでいた。

偉大な父と、病弱な母。

彼もまた、私とは違う形で、家族というものに心を痛めてきたのかもしれない。


『あんたも、親の亡霊に縛られた、哀れな人間だ』


あの時、彼が吐き捨てた言葉が、脳裏に蘇る。

彼は、私の中に、自分と同じものを見ていたのだろうか。


その夜、私は久しぶりに、悪夢を見ずに眠ることができた。


翌日、私が目を覚ますと、部屋のテーブルの上に、一冊の古い本が置かれていた。

見覚えのある、鷲の紋章が表紙に型押しされている。

それは、先代辺境伯の日誌だった。


恐る恐るページをめくると、そこには、私の母への想い、そして、私の持つ特異な魔力についての研究が、びっしりと書き込まれていた。


『彼女の娘、セラフィーナは、恐らく母から類稀なる「生命の魔力」を受け継いでいる。それは、万物に活力を与える祝福の力。しかし、制御できなければ、生命の循環を狂わせ、全てを枯渇させる呪いにも転じうる、諸刃の剣だ』

『魔力の暴走は、心の不安定さに起因する。彼女の心が安らぎを得られぬ限り、力は安定しないだろう』

『ヴァイスハイト公爵は、その力を恐れ、ただ蓋をしようとしている。だが、それはいつか、より大きな破滅を招くだけだ』


「呪い」ではなかった。

私の力は、祝福になる可能性を秘めていた……?


私は、自分の手を見つめた。

白い薔薇を灰に変えた、この手が。

誰かを、何かを、生かす力を持っているというのだろうか。


信じられない。

けれど、日誌に綴られた父の文字は、あの手紙と同じ、力強くも優しい筆跡だった。

嘘とは思えなかった。


その時、城の外が、急に騒がしくなった。

けたたましく鳴り響く警鐘の音。

騎士たちの怒号。


何事かと窓から外を覗き込むと、信じられない光景が広がっていた。

城へと続く街道を、ずらりと並んだ騎士の一団が、こちらへ向かってきている。

先頭で翻っているのは、見間違えるはずもない。

王家の紋章が刺繍された、深紅の旗。


そして、その旗の下で、悠然と馬を進めているのは。

私との婚約を、無慈悲に破棄した男。

第一王子、クラヴィス様、その人だった。


「クラヴィス王子が、騎士団を率いてこちらへ? ……何の目的で」


城の執務室に、カイ様の鋭い声が響く。

窓の外の光景に動揺した私は、部屋を飛び出し、いつの間にかこの場所へと駆け込んでいた。

部屋にはカイ様と、年老いた執事、そして数人の屈強な騎士たちが集まり、緊迫した空気が張り詰めている。


伝令に来た若い騎士が、息を切らしながら報告を続けた。


「はっ! 表向きの要件は、『ヴァイスハイト公爵家からの嘆願を受け、誘拐された令嬢を保護するため』とのことです! しかし、その数、三百……! 明らかに、ただの使節団ではございません!」


三百。

それは、辺境の総兵力に匹敵する数だ。

保護などという、生易しいものではない。これは、明確な威嚇であり、侵略行為だ。


(私の、せいで……)


血の気が、さっと引いていく。

私がこの城へ逃げてきたせいで、辺境全体を危険に晒してしまった。

王家の軍隊を相手にすれば、いくら難攻不落の鷲ノ巣城でも、無傷では済まないだろう。


クラヴィス様の目的は、分かりきっていた。

父の日誌を読んで、確信した。

私が「出来損ない」ではなかったと知ったのだ。私の魔力が、国すら左右するほどの強大な兵器になりうると気づき、それを手に入れるために来たのだ。


「……カイ様」


私は、意を決して口を開いた。


「わたくしを、王子にお引き渡しください」


部屋にいた全員の視線が、私に突き刺さる。

カイ様が、氷の瞳で私を射抜いた。


「それが、一番です。わたくし一人が戻れば、戦は避けられます。これ以上、この地に、カイ様に、ご迷惑をおかけするわけにはまいりません」


それは、本心だった。

これ以上、誰かの人生を狂わせたくない。

私の存在が、誰かの不幸の原因になるのは、もうたくさんだった。

それに、もう、何もかもどうでもいいという、諦めの気持ちもあった。


私の言葉を聞いたカイ様は、何も言わず、ただじっと私を見つめている。

その灰色の瞳の奥で、激しい何かが渦巻いているのが見えた。

怒りか、戸惑いか、それとも――。


「……断る」


静かだが、有無を言わせぬ強い声だった。


「引き渡すかどうかは、俺が決める。あんたの都合で、辺境伯の判断を曲げることはできん」


「しかし……!」


「これは、辺境と王家の問題だ。王子は、あんたを口実に、父の代から疎ましく思っていたこのグライフェン家の力を削ごうとしているに過ぎん。あんたがいようがいまいが、いずれ起きていたことだ」


彼はそう言うと、騎士たちに向き直り、矢継ぎ早に指示を出し始めた。

籠城の準備、兵の配置、食料の確認。

その姿は、迷いのない、絶対的な指導者のものだった。


追い詰められているのは、分かっていた。

それでも彼は、私という「厄介者」を、王家という強大な権力に売り渡す選択をしなかった。

遺言のため?

辺境伯の意地?

違う。何か、もっと別の理由があるような気がした。


全ての指示を出し終えた後、カイ様は再び私に向き直った。

二人きりになった執務室で、彼は初めて、心の奥底を見せるかのように、苦々しく言った。


「俺は、父が嫌いだった」


唐突な告白に、私は言葉を失う。


「あの人は、いつだって正しく、いつだって太陽のように輝いていた。病弱な母も、領地の民も、皆が父を愛し、尊敬していた。……だが、俺は、あの人が時折見せる、遠い目線の先にいる『誰か』の幻影に、ずっと苦しめられてきた」


それは、私の母のことだろう。

会うことのできない女性を想い続ける父。その隣で、寂しさに耐える母。

幼いカイ様は、その全てを見て、感じて、育ってきたのだ。


「父の遺言は、俺にとって呪いだ。あの人が果たせなかった約束を、なぜ俺が背負わねばならない。あんたの顔を見るたびに、俺は父の亡霊を見ているようで、腹の底が煮え繰り返る思いだった」


彼の言葉は、刃のように私の胸を突き刺す。

けれど、不思議と痛みはなかった。

彼が初めて見せた、剥き出しの感情。その奥にある深い孤独と悲しみが、痛いほど伝わってきたから。


「だが……」


彼は、一歩、私に近づいた。

灰色の瞳が、真っ直ぐに私を捉える。


「今のあんたは、父の感傷の産物でも、王子の道具でもない。ただの、震えている一人の女だ。……セラフィーナ、お前の意志を聞かせろ。お前は、どうしたい」


初めて、彼は私の名前を呼んだ。

それは、まるで魔法の呪文のようだった。

「公爵令嬢」でもなく、「あんた」でもない、「セラフィーナ」という、私自身の名前。


どうしたい?

そんなこと、考えたこともなかった。

いつだって、誰かが決めた道の上を、心を殺して歩いてきただけだったから。


私が答える前に、執務室の扉が、厳かに開かれた。

入ってきたのは、先代の頃から仕えているという、白髪の老執事だった。

その手には、一通の、古びて黄ばんだ封筒が、大切そうに抱えられていた。


「若様。……そして、セラフィーナお嬢様」


老執事は、厳粛な面持ちで言った。


「先代様より、お預かりしていたものが、これにございます。『本当の危機が訪れ、二人が共に未来を選択する時が来たならば、これを』と……」


それは、父から息子へ、そして、愛した女性の娘へ宛てた、最後の、そして本当の「手紙」だった。


全ての真実が、今、開かれようとしていた。

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