第4話
森を抜けてから数日、景色は目に見えてその様相を変えていった。
緑豊かだった草原は次第に影を潜め、ごつごつとした岩肌の山々と、針葉樹の深い森が広がる、荒涼とした風景が続く。
空気は日に日に冷たさを増し、吐く息が白く染まるようになった。
北の辺境が、近い。
その実感は、疲弊した私の心に新たな活力を与えてくれた。
しかし、北の地は、私のような旅に不慣れな者にとって、あまりにも過酷な洗礼を用意していた。
その日、空は朝から鉛色の雲に覆われ、身を切るような冷たい風が吹き荒れていた。
小さな村で食料を分けてもらおうとしたが、よそ者を見る村人たちの目は厳しく、私は早々にそこを立ち去るしかなかった。
彼らの警戒心は、この厳しい土地で生き抜くための知恵なのだろう。それを責めることはできない。
マントを固く引き合わせ、ひたすら歩き続ける。
しかし、体温は容赦なく奪われ、指先の感覚がなくなっていく。
ポツリ、と。
頬に冷たいものが触れたかと思うと、それはあっという間に数を増し、吹雪へと変わった。
「……っ!」
視界が、一瞬にして真っ白に染まる。
風が唸りを上げ、雪が容赦なく顔に叩きつけられる。
一歩先すら見えない猛吹雪の中で、私はただ立ち尽くすことしかできなかった。
寒い。
手足の感覚が、もうない。
意識が、遠のいていく。
(ああ、私……こんなところで……)
カイ様の手紙に書かれていた北の自然は、美しく、そして時に厳しいものだと綴られていた。
これが、その厳しさなのだ。
私は、この土地に、受け入れてはもらえないのだろうか。
薄れゆく意識の中、私はまた、鞄の中の木箱に思いを馳せた。
あの温かい手紙に、もう一度触れたい。
あの優しい言葉を、もう一度、目にしたい。
しかし、凍えた指は動かず、身体は雪の中にゆっくりと沈んでいった。
――どれくらいの時間が経っただろうか。
意識が浮上する直前、私は誰かの太く温かい腕に抱き上げられる感覚を覚えていた。
焦げた薪の匂いと、獣の毛皮の匂い。
そして、低い声で何かを呟く、男の声。
次に気がついた時、私は柔らかな寝台の上に寝かされていた。
チリチリと燃える暖炉の火が、部屋を暖かく照らしている。
着ていた服は脱がされ、代わりに厚手の寝間着を着せられていた。
「……気がついたかい、嬢ちゃん」
しわがれた、けれど優しい声。
声のした方へ視線を向けると、暖炉のそばの揺り椅子に座った老婆が、私を見てにこりと笑っていた。
「わ……わたしは……」
「あんた、道端で倒れてたんだよ。うちの息子が狩りの帰りに見つけて、担いできたのさ」
老婆はそう言うと、傍らの鍋から木製の器に何かをよそい、私の元へ運んできた。
湯気の立つ、具沢山のスープ。
その豊かな香りが、空っぽの胃を優しく刺激する。
「さ、食べな。身体が温まるよ」
促されるまま、震える手で匙を受け取り、スープを一口、口に含む。
じわり、と。
野菜と干し肉の旨味が溶け込んだ温かい液体が、喉を通り、凍えた身体の芯まで染み渡っていくようだった。
涙が出るほど、美味しかった。
「ありがとうございます……助けて、いただき……」
「いいってことよ。旅の者かい? こんな季節に、若い娘が一人で旅なんて、訳ありなんだろうね」
老婆はそれ以上は何も聞かず、ただ穏やかな目で見守ってくれる。
その優しさが、心に沁みた。
三日間、私はその家で手厚い介抱を受けた。
私を助けてくれたのは、猟師である息子のゴードンさんと、その母であるイーダさんだった。
彼らは、私が王都から来たということ以外、何も聞かなかった。
ただ、私がグライフェン辺境伯の城を目指していると知ると、二人は少しだけ複雑な表情を見せた。
「鷲ノ巣城へ行かれるのかい」
スープの鍋をかき混ぜながら、イーダさんがぽつりと呟いた。
「あそこは今、冬みたいに冷え切っちまってるからねぇ……。先代様がご存命の頃は、もっと城にも活気があったもんだが」
「先代様……?」
「ああ。今の若様の、お父上さ。カイ様のお父上は、それはもう太陽みたいに明るくて、慈悲深いお方だった。この辺境の民は皆、あの方を心から慕っていたよ」
イーダさんは、遠い目をして語る。
その表情は、先代辺境伯への深い尊敬と愛情に満ちていた。
「今の若様も、民を思う気持ちは同じなんだろうが……あの方は、あまり笑わない。いつも何か、重たいものを背負っているようなお顔をされてる。……お父上が亡くなってから、ずっとね」
ゴードンさんも、暖炉の火を見つめながら、重々しく口を開いた。
「若様は、ご自分にも、他人にも厳しいお方だ。だが、それはこの厳しい北の地を守るための覚悟の表れでもある。俺たちは、それを信じてる」
今の、カイ様。
手紙をくれる、あの優しいカイ様が、笑わない?
重たいものを背負っている?
少しだけ、胸がざわついた。
けれど、きっとそれは、辺境伯という重責がそうさせているのだろう。
私と手紙を交わす時だけが、彼の心が安らぐ時間なのかもしれない。
そう思うと、ますます早く会って、彼の力になりたいという気持ちが強くなった。
体力が完全に回復した日、私はイーダさんとゴードンさんに深々と頭を下げ、再び城を目指して出発した。
イーダさんは、私の鞄に、たくさんの干し肉と黒パン、そして温かい毛皮の手袋を入れてくれた。
「鷲ノ巣城は、あの山の向こうさ。もう吹雪が来なけりゃ、一日で着くだろう。……嬢ちゃんの旅が、幸多きものになるよう祈ってるよ」
二人の温かい心遣いに胸を熱くしながら、私は最後の道のりを歩き始めた。
雪に覆われた雄大な山々。
手紙に何度も書かれていた、北の景色。
もう、ゴールは目前だった。




