第3話
王都の城壁が完全に見えなくなってから、三日が過ぎた。
私が想像していた「旅」というものが、いかに甘い幻想だったのかを、骨身に染みて理解するには、十分すぎる時間だった。
昼は、ひたすらに歩き続ける。
街道沿いを選んではいるものの、時折すれ違う商人や旅人の訝しげな視線が、私の心を削っていく。
公爵令嬢だった頃の私ならば、彼らの方から道を譲り、頭を垂れただろう。
しかし、今は違う。
高価な装飾品は何一つ身に着けていない。上質な生地ではあるが、泥や土埃に汚れたワンピースとマントを纏っただけの、うらぶれた少女。それが今の私だ。
街角で子供たちが投げつけてきた石の方が、まだマシだったかもしれない。
あの石には「魔女」という分かりやすい敵意があったから。
今の私に向けられる視線は、もっと得体の知れない、粘つくような好奇心と侮蔑が混じり合っている。まるで、値踏みされているような感覚。
(しっかりしなくては)
フードを目深に引き下げ、足早に彼らの横を通り過ぎる。
その度に、鞄の中で木箱が揺れる微かな音が、私を励ましてくれた。
問題は、夜だった。
宿屋に泊まる金銭的余裕も、何より身分を明かす危険を冒す勇気もなかった。
街道から少し外れた森に身を潜め、大きな木の根元で膝を抱えて夜を明かす。
ざわざわと風に揺れる木々の葉の音。
遠くで響く、獣の鳴き声。
闇に光る、無数の虫の瞳。
その全てが、私の不安を掻き立てた。
目を閉じれば、追っ手の幻影がちらつく。
お父様が、公爵家の面汚しである私を捕らえるために放った騎士たちかもしれない。
あるいは、私の魔力を惜しんだクラヴィス様が、考えを変えて連れ戻しに来たのかもしれない。
(……いいえ、そんなはずはない)
彼らが私に向ける感情は、無関心と失望だけだったはずだ。
誰も、私など探していない。
そう分かっているのに、恐怖は心の隙間に根を張り、私を蝕んでいく。
革袋の水はとうに底をつき、鞄に入れてきた保存食のパンも、これが最後の一切れ。
乾いてパサパサになったパンをゆっくりと齧りながら、これから先の不安に押し潰されそうになる。
(カイ様……)
思わず、心の中で彼の名を呼んだ。
私は震える手で鞄から木箱を取り出し、一番最近届いた手紙を広げる。月明かりだけが頼りのため、文字を読むのは難しい。けれど、何度も何度も読み返したその文章は、もう暗唱できるほどに私の心に刻み込まれていた。
『もし貴女の心が疲れてしまった時は、どうか、この北の空を思い出してください』
私は空を見上げた。
木の葉の隙間から覗く空には、王都で見るよりもずっと多くの星が、ダイヤモンドダストのように煌めいていた。
手紙に書かれていた、星々が近くに瞬くという北の空。
この空は、あの場所へと続いている。
そう思うだけで、乾いた心に、ほんの少しだけ潤いが戻ってきた。
手首の腕輪を、そっと撫でる。
長年使い込まれてついた細かい傷が、指先に馴染む。肌に触れた時の、ひんやりとした木の感触。動くたびに、ビーズ同士が触れ合う微かな音。
カイ様が、私のために選んでくれたお守り。
これがある限り、私は大丈夫。
もう一度、自分にそう強く言い聞かせた。
翌日、私はさらに大きな困難に直面した。
近道をしようと街道を外れ、森の中へ足を踏み入れたのが間違いだった。
似たような景色が続く森の中で、私は完全に方角を見失ってしまったのだ。
焦りが、冷静な判断力を奪う。
どれだけ歩いても、見知った場所には出られない。
太陽は傾き始め、森は次第に不気味な影を落としていく。
「……っ」
木の根に足を取られ、私は無様に地面に転がった。
膝がじんじんと痛み、泥だらけになった手を見つめていると、今まで必死に抑えていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「う……うぅ……っ」
寂しい。
怖い。
苦しい。
もう、歩けない。
こんな場所で、一人で死んでいくのだろうか。
そう思った瞬間、脳裏に、あの日の光景が蘇った。
――白い薔薇が、一瞬で黒い灰に変わる様。
絶望に染まった、両親の顔。
私の魔力は、いつだって何かを「終わらせる」力だった。
命を奪い、希望を枯らす、呪われた力。
こんな力を持って生まれた私が、幸せになれるはずがないのだ。
自暴自棄な考えが、毒のように心を侵していく。
その時だった。
手首の腕輪が、ふわりと、柔らかな光を放った。
「え……?」
驚いて腕輪を見つめる。
木のビーズから放たれた淡い緑色の光は、まるで心臓が鼓動するかのように、優しく明滅を繰り返している。
そして、その温かな光が、私の荒れ狂う魔力を、まるで母親が赤子をあやすように、そっと宥めていくのが分かった。
暴走しかけていた感情が、凪いでいく。
『貴女がどのような場所にいようと、どのような状況に置かれていようと、貴女自身の価値は、何一つ変わりません』
手紙の言葉が、再び心に響く。
そうだ。私は、まだ諦めてはいけない。
この腕輪を贈ってくれた人が、私を信じてくれる人が、遠い北の地で待っているのだから。
私は涙を拭うと、泥だらけの手で地面を押し、ゆっくりと立ち上がった。
腕輪の光は、まるで道しるべのように、森の奥の一点を淡く照らしている。
光が指し示す方へ、一歩、また一歩と足を進める。
すると、信じられないことに、木々の向こう側に、小さな泉がきらきらと輝いているのが見えた。
私は夢中で泉に駆け寄り、その冷たい水で喉を潤す。
泉のほとりには、食べられそうな木の実が、まるで私を待っていたかのように実っていた。
偶然だろうか。
それとも、この腕輪が導いてくれた奇跡なのだろうか。
今は、どちらでもよかった。
私は生きている。そして、まだ歩ける。
空腹と渇きを満たした私は、もう一度、北の空を見上げた。
夕暮れの空は、燃えるような茜色に染まっている。
「ありがとうございます、カイ様……」
感謝の言葉は、風に乗り、北の空へと消えていった。
私の心には、再び前を向くための、小さな勇気が灯っていた。




