第2話
羊皮紙を広げると、インクの微かな香りと共に、見慣れた美しい筆跡が目に飛び込んできた。
それはまるで、厳しい冬を越えて芽吹く若葉のように、力強くも優しい文字だった。
『拝啓、セラフィーナ嬢。
北の山々も、ようやく夏の装いを解き、赤や黄色の衣を纏い始めました。空は高く澄み渡り、夜には、まるで手を伸ばせば届きそうなほど近くに星々が瞬きます。
先日、領地の子供たちと一緒に、森へ木の実を拾いに行きました。
小さな手で一生懸命にカゴをいっぱいにする姿は、見ていて飽きないものです。
一人の少年が、それは見事な、真っ赤に熟したリンゴを見つけ、「これは騎士様にあげる!」と息を切らして私の元へ走ってきました。
泥だらけの顔で笑う彼から受け取ったリンゴは、今まで食べたどんな菓子よりも甘く、誇らしい味がしました。
王都の暮らしは、華やかで刺激に満ちていることでしょう。
しかし、もし貴女の心が疲れてしまった時は、どうか、この北の空を思い出してください。
ここには、きらびやかな宝石も、美しい絹織物もありません。
あるのは、ただ、ありのままの自然と、素朴で温かい人々の営みだけです。
セラフィーナ嬢。
貴女がどのような場所にいようと、どのような状況に置かれていようと、貴女自身の価値は、何一つ変わりません。
どうか、そのことを忘れないでください。
貴女の心根の美しさを、私はこの手紙を通して、確かに知っています。
次に雪が降る頃、また便りを送ります。
貴女の心が、少しでも晴れやかでありますように。
敬具
カイ・フォン・グライフェン』
一文字、一文字、ゆっくりと目で追う。
手紙を読み終える頃には、私の頬を、一筋の温かい雫が伝っていた。
ああ、この人は、どうして。
会ったこともない私のことを、こんなにも分かってくれるのだろう。
『貴女自身の価値は、何一つ変わりません』
その一文が、冷え切っていた胸の奥に、小さな灯火をともす。
クラヴィス様から投げつけられた「呪い」という言葉で受けた傷が、優しい光に包まれて、少しずつ癒えていくのが分かった。
私は、机の引き出しから、古びた木箱を取り出す。
中には、これまでカイ様から届いた全ての手紙が、大切に仕舞われていた。
初めて手紙が届いた日。
お守りの腕輪に触れた時の、驚きと温かさ。
手紙の返事を書く、唯一心が安らぐ時間。
その全てが、私の宝物だった。
(行こう)
心の奥底から、強い決意が湧き上がってくる。
もう、ここにはいたくない。
私を「出来損ない」と蔑む人々の間で、心を殺して生きていくのは、もう嫌だ。
行く場所は、一つしかない。
この手紙が生まれる場所。
カイ様がいる、北の辺境へ。
私は立ち上がると、クローゼットを開けた。
中には、王族の婚約者としてあつらえられた、豪華絢爛なドレスが所狭しと並んでいる。
けれど、今の私には、そのどれもが色褪せた抜け殻のように見えた。
一番奥から、乗馬用の簡素なワンピースと、分厚い旅のマントを取り出す。
宝石箱には目もくれず、革の鞄に最低限の下着と、あの手紙が入った木箱を丁寧に詰めた。
準備を終えた私は、両親の部屋の扉を叩いた。
婚約破棄の件は、もう耳に入っているだろう。
「……セラフィーナか。入りなさい」
重々しいお父様の声に促され、中へ入る。
そこには、硬い表情のお父様と、ハンカチで目元を押さえるお母様がいた。
「お父様、お母様。急なご報告となり、申し訳ありません」
私は二人の前で、深く頭を下げた。
「わたくし、今宵、この屋敷を出て行こうと存じます」
「……何?」
お父様の眉が、ピクリと動く。
「行く当てでもあるのか」
「はい。北のグライフェン辺境伯、カイ様を頼ろうと考えております」
その名を聞いた瞬間、お母様が「まあ」と小さく息を呑んだ。お父様の表情が、さらに険しくなる。
何か、何かを隠しているような、複雑な目。
けれど、今の私には、それを追及する余裕はなかった。
「……そうか。……もう、お前の好きにしなさい。我々は、もうお前を庇うことはできぬ」
それは、突き放すような、冷たい言葉だった。
けれど、その声の奥に、ほんの僅かな安堵が混じっているのを、私は聞き逃さなかった。
厄介払いができて、ほっとしているのだ。
それで、よかった。
もう、誰にも期待しない。誰にも迷惑をかけない。
私はもう一度深く頭を下げると、静かに部屋を後にした。
涙は、出なかった。
夜が、更に深くなるのを待つ。
屋敷の誰もが寝静まった頃、私はマントのフードを深く被り、自分の部屋をそっと抜け出した。
使用人に見つからないよう、裏口から外へ出る。
ひんやりとした夜気が、火照った頬に心地よかった。
振り返ると、巨大な公爵邸が、まるで闇に浮かぶ怪物のように聳え立っている。
私が生まれ育った家。
けれど、そこは、一度も私の「居場所」ではなかった。
別れの言葉は、誰にもない。
私は、ただ前だけを向いた。
王都の城門を、一人でくぐる。
見送る者は誰もいない。
これから始まる旅は、きっと厳しく、辛いものだろう。
不安で、胸が押し潰されそうになる。
けれど、不思議と怖くはなかった。
鞄の中にある手紙の束と、手首で確かな存在感を示す腕輪が、私に勇気をくれるから。
私は、満天の星が広がる北の空を見上げた。
あの空の、ずっと向こう側に、あの人がいる。
「待っていてください、カイ様」
静かな夜の闇に溶けていくような、小さな呟き。
それは、新しい人生を始めるための、私だけの宣誓だった。




