仕返しの芽
Cの吐露を聞いたあと、しばし誰も口を開かなかった。
ジョッキの氷が解けて、水っぽくなった酒の中でカランと音を立てる。その小さな響きさえ、妙に耳に残った。
沈黙を破ったのはDだった。煙草を指で弄び、煙をゆっくり吐き出しながら言った。
「……そんな奴、痛い目に遭わせりゃいい」
唐突すぎる言葉に、一瞬全員の動きが止まった。冗談かと思った。だが、Dの目は笑っていなかった。
「は? お前、何言ってんだよ」Bがすぐに眉をひそめる。真面目な彼には、軽率な提案にしか聞こえなかったのだろう。
だが、Aが笑ってジョッキを掲げた。
「だな。どうせ俺ら、失うもんなんて大してないんだし。ちょっとくらい仕返ししたっていいだろ」
「お前らな……」Bは呆れたように首を振る。
「冗談で済まないぞ。社会人がそんなこと言っていいと思ってんのか」
「冗談でいいんだよ」Aは軽い調子で返す。
「でもさ、真面目にやって、損ばっかしてんじゃ、やってらんねえだろ? Cだってそうだ。真面目にやってんのに踏み潰されてんじゃん」
主人公は黙って二人を見ていた。
Cの苦しみは痛いほど伝わってきた。冗談で済まそうとしているAの言葉の裏に、確かに“正しさ”が潜んでいる気がしてしまう。
Bが反論しかけたが、その声は弱々しかった。
「本当にやる気か……?」
Bは問いかけるように呟いた。
Cは沈黙していた。グラスを見つめ、表情は読めない。ただ、その沈黙が答えのようにも感じられた。
「俺たちが動けばいい。誰も助けてくれないなら、俺たちが代わりにやってやるんだ」Dの言葉には妙な説得力があった。
「具体的にどうするんだよ」主人公が口を開いた。声が少し震えていた。
「そりゃあ、すぐに結論は出せねえよ。でもよ……やり方はいくらでもある」
Dの口調は軽かったが、その目は真剣そのものだった。
Aが肩をすくめながら笑う。
「まあ、殴るとかじゃなくてもいいんだよ。ちょっと恥かかせるくらいでさ。そうだろ?」
その場に漂う空気は、もう単なる冗談ではなかった。
Bでさえも「本気じゃないよな」とは言わなかった。
むしろ、全員の心に「本気になってもいいかもしれない」という芽が芽吹いていた。
主人公はグラスを持ち直した。自分でも驚くほど、胸の奥が高鳴っているのを感じていた。
「……失うものがないって、そういうことか」
誰も肯定も否定もせず、ただ沈黙した。だがその沈黙は、奇妙な合意のように重く漂っていた。
——あの夜、俺たちの間に初めて“仕返し”という言葉が現実味を帯びて芽吹いた。
それは小さな芽だった。だが、確実に俺たちの心の土壌に根を下ろし始めていた。




