孤独な銀行員
しばらく重たい沈黙が続いた。煙草の煙がゆらりと天井に昇り、換気扇の音だけが聞こえる。
やがて、Cが口を開いた。普段は聞き役に回ることが多い彼の声に、全員が自然と耳を傾けた。
「……正直、もう限界なんだ」
掠れた声だった。彼はジョッキを握ったまま、じっとテーブルを見つめている。
「毎日、上司からの言葉に耐えてる。叱責ってレベルじゃない。人格を否定されるんだ」
Aが眉をひそめたが、Cは止まらない。
「ちょっとでもミスをすれば、“お前なんか存在価値がない”って言われる。効率が悪いと、“給料泥棒だ、恥を知れ”と罵られる。周りの同僚も知ってるのに、誰も助けちゃくれない。下手にかばえば自分に火の粉が降りかかるからな」
グラスの氷がカランと音を立てた。Cの指は震えていた。
「俺がどれだけ残業しても、“そんなやり方だから時間がかかるんだ”って切り捨てられる。効率化を強制され、成果が出なければ人格を否定される。あいつは論理的に見える言葉で追い詰めてくるんだ。……気づいたら、自分の存在そのものが間違いなのかと錯覚するようになっていた」
Cは苦笑を浮かべた。
「上司の前ではみんな黙る。下を叩き潰してでも自分を守る。昭和の銀行マンを絵に描いたような男だ。上には媚びへつらい、下にはパワハラを浴びせる。それでいて“俺は支店を守っている”と本気で思ってる」
主人公は言葉を失っていた。Bが硬い表情で眉間に皺を寄せる。Dは煙草を潰し、無言で新しい一本を取り出した。Aだけが場の空気に耐えかねて、ジョッキを傾ける。
「……俺は、いつまでこんな地獄を耐えなきゃいけないんだろうな」
その呟きは、誰に聞かせるでもなく、独り言のようだった。
しかし、仲間たちの胸に重くのしかかった。
Cは続けた。
「もう何年もだ。毎日、人格を否定され続ける。今日も“お前みたいな人間がいるから組織が腐るんだ”って言われたよ。自分でも“ああ、俺は組織を腐らせてるんだな”って思わされる。おかしいだろ? でも、そう思わされてしまうんだ」
彼の声は震えていたが、泣いてはいなかった。むしろ、感情を削ぎ落として乾いた声に変わっていた。
「仕事なんか辞めればいい、って思うかもしれない。でも辞める勇気も出ない。あいつに“逃げた”と思われるのが怖い。銀行で生き残れなかった烙印を押されるのが怖い。……情けないよな」
長い沈黙が続いた。
主人公は胸が締め付けられるのを感じた。Cの声は、かつての明るい友のものではなかった。
「C……」Aが声をかけようとしたが、言葉は見つからなかった。
Cはふっと力なく笑った。
「ただな……俺が潰れるのは構わない。でも、あいつだけは許せない。俺だけじゃないんだ。同僚も、後輩も、みんなあいつにやられてる。でも誰も逆らえない。逆らえば潰されるからだ。だから……誰かがやるしかない」
その言葉に、場の空気が変わった。
Dが煙を吐き、低い声で言った。
「……だったら、俺たちでやるか」
Aが冗談めかして笑う。
「だな。ちょっとくらい痛い目見せてもバチは当たらんだろ」
Bは真剣な眼差しでCを見た。
主人公は黙ったまま、その場の熱を感じ取っていた。
その夜、俺たちは初めて、Cの苦しみを自分たちのこととして受け止めた。
笑い話で済むはずだった飲み会の空気は、もう元には戻らなかった。