四十歳の愚痴
ジョッキの泡が消えかけたころ、俺は何とはなしにグラスを見つめていた。
「……気づけばさ、俺、社会人になってから一度も恋人ができたことないんだよな」
冗談みたいに口にしたつもりだった。笑いを誘う気持ちもあった。だが、誰も笑わなかった。
中高の同級生の多くは結婚し、子どもを育て、家を建てている。休日には家族と買い物に出かけ、運動会や授業参観に参加し、家族旅行の写真をSNSにあげる。俺の画面にも、そうした“普通の幸せ”が日々流れ込んでくる。
けれど俺には、そんなものは何ひとつない。
俺は、両親の残した実家に一人で住んでいる。兄弟といえば腹違いの弟が一人いるが、もう随分と疎遠だ。仕事はそこそこ順調で、役職も課長まで上がった。給料だって人並み以上にはある。けれど、それだけだ。
帰宅しても待っているのは冷えた部屋と、並べているだけのコンビニ弁当の袋。休日は掃除や洗濯で終わり、夕方には酒を飲みながらテレビを眺める。そこに温もりはなく、ただ時計の針が進む音だけがある。
大きな不満があるわけではない。会社に大きく損なわれているとも思わない。だが、気力も、未来への楽しみも湧いてこない。
気づけば四十。世間が俺に期待する“普通の四十歳”像――結婚、子育て、持ち家、車――それらを俺は何ひとつ持たない。
「努力が足りなかったのか?」
そう考えたこともある。だが、努力をしてまで得たいものだったのかと問われると、自信がない。
俺の人生は、ただ流されてきただけだ。勉強しろと言われれば勉強し、就職しろと言われれば就職し、転職しろと言われれば転職した。そうやって気づけば課長職についていた。
だが、その道の先に幸せはあったか。いや、そこにあったのは虚しさだけだ。
乾いた喉を潤すように酒をあおる。周りが笑っている。くだらない冗談に、薄く笑い返す自分がいる。
だが胸の奥では、ぽっかりと穴が空いたように虚無が広がっていた。
沈黙を破ったのはBだった。
「……真面目にやれば報われると思ってた」
彼は腕を組み、俯いたまま言葉を続けた。
「仕事だってそうだ。誰よりも早く出社し、資料も丁寧に作り、周囲の雑務まで率先してこなした。なのに出世するのは、要領よく立ち回れる奴らばかりだ。人当たりがいいってだけで、数字の裏も見ずに判断するような奴が、どんどん上に行く」
Bの声には苦々しさが滲んでいた。
「俺が何か提案しても、“真面目だけが取り柄”みたいに片付けられる。陰で支えている努力なんて誰も評価しない。結局、世の中は顔が広い奴と、適当に調子を合わせられる奴だけが得をする」
彼は一度、グラスを空けてから言葉を継いだ。
「婚活だって同じだ。“優しい人がいい”って口では言う。でも実際に選ばれるのは、顔が良かったり、金を持ってたり、誰とでも仲良くできるタイプの男ばかりだ。真面目に人を思いやる気持ちなんて、誰も見ていない。結局は見た目と金、それにノリの良さで決まるんだ」
その言葉は、彼自身の心をえぐるように響いていた。
「俺は間違ってるのか?」
問いかけは誰に向けられたものでもなかった。
主人公は黙って聞いていた。Dは煙草を弄びながら視線を外し、Aは何か冗談を言おうとしてやめた。Cは俯いたまま沈黙している。
「……真面目に生きる意味なんてあるのかよ」
Bの吐き出したその言葉は、煙とともに個室の空気を重く沈めた。