弟の影
玄関には、昨夜と同じく五つの段ボール箱が積まれたままだった。中身が何かを知っているだけに、その無機質な存在感は主人公の胸を圧迫し続けていた。朝の光が差し込み、紙幣の匂いがまだ鼻の奥にこびりついている気がする。
考えれば考えるほど、弟の顔が浮かぶ。十歳下の腹違いの弟。家族も親戚も、近所の人々でさえも、興味関心は常にそちらに向いていた。新しい母親は当然のように弟を溺愛し、父もまたその家庭を守ることばかりに気を配った。食卓で自分が口を開けば、形ばかりの相槌が返るだけ。会話の中心にいるのはいつも弟で、主人公は最初から透明人間のように扱われていた。
親戚が集まる席でも同じだった。「賢い子だ」「可愛い子だ」「将来が楽しみだ」と弟を褒める声ばかりが飛び交った。自分は比較対象ですらなく、そこに存在しないものとして扱われてきた。
やがて弟は大学を卒業し、会社を立ち上げ、“若き起業家”としてメディアに取り上げられるようになった。雑誌の特集、テレビのドキュメンタリー。そこで弟は「頼れる人はいなかった」「孤独な挑戦だった」と笑顔で語っていた。——そこに兄の存在など一言も出てこなかった。
まるで最初からいなかったかのように。
その一方で、弟は困ったときだけ「兄さん」と呼ぶ。先月の電話がそうだった。倒産寸前の会社をどうにかしてほしいと、声を震わせて助けを求めてきた。主人公は「無理だ」と突き放した。助ける余裕もなかったし、助けたい気持ちもなかった。だが電話の切れ際に生じた妙な沈黙が、耳に焼きついていた。弟が本気で追い詰められているのか、それとも計算ずくで自分を利用しようとしているのか、その境界は分からなかった。
そして今、五億円が玄関に積まれている。差出人はC。逮捕されたはずの男の名が、プリントアウトされた伝票に残されていた。なぜ自分の元に金が届いたのか。なぜ五つの箱なのか。弟との繋がりを疑わざるを得ない。
スマホを手に取り、110番を押そうとする。だが指は震えて画面に触れられない。通報すれば確かに自分は救われる。だが、弟を助ける可能性も、この不可解な偶然に隠された意味も、全て失われてしまう。
——初めて、弟より上に立てるかもしれない。
胸の奥で小さな囁きが生まれた。これまで弟は常に称賛され、自分は存在しない者として扱われてきた。だが、この金が手元にある今だけは違う。弟の運命を握るのは、自分だ。助けることも、突き放すことも、自分の選択次第。
その考えが浮かんだ瞬間、体が熱を帯びるのを感じた。憎しみでも、復讐でもない。もっと単純で、人間らしい衝動だった。——優位に立ちたい。ただそれだけの欲望。
段ボールの隙間から覗く札束は、相変わらず無言で光を放っていた。だが主人公には、それが弟の笑顔を押しのけて、自分の足元に初めてスポットライトを当てているように見えた。




