110番の手前で
飲み会からの帰り道、夜風が肌を冷やしていた。主人公は重い足を引きずりながらマンションに着いた。エントランスの宅配ボックスに目をやると、異様な光景が広がっていた。五つもの大きな段ボール箱が、無造作に玄関前に積まれているのだ。ボックスに入りきらなかったのだろう。しかし、これほどの荷物を頼んだ覚えはない。
「なんだ……これ」
胸の奥がざわついた。恐る恐る一番上の伝票を覗き込む。そこには印字された差出人名があった。——C。
思わず息を呑む。手書きではない、プリントアウトされた文字。筆跡の痕跡を残さない無機質な黒。自分の知っているCの名がそこにあった。
背筋に冷たいものが走る。ニュースで逮捕された姿を見たばかりだ。手錠をかけられ、業務上横領の容疑で連行される映像。あのCから荷物が届くはずがない。ではこれは何だ? 罠か、あるいは悪質な冗談か。
恐る恐る箱を一つ抱え上げる。ずしりとした重みが腕にのしかかる。尋常ではない重さだった。汗がにじむ手でテープを剥がし、蓋を開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に心臓が跳ね上がる。
札束。帯封のかかった紙幣が、ぎっしりと詰められていた。光沢のあるインクの匂い、紙幣独特のざらつき。まぎれもなく本物だった。
「……嘘だろ」
喉が乾き、声が掠れた。最初はドッキリかと思った。新手の詐欺か、あるいは警察の仕掛けた罠かもしれない。信じられず、何度も目を擦った。だが札束は確かにそこにある。
別の箱も開ける。中身は同じ。さらに三つ目、四つ目、五つ目。——すべて、札束が隙間なく詰め込まれていた。
五億円。ニュースで報じられた金額と一致する。
膝が震え、床にへたり込みそうになる。視界が揺れ、胃の奥から吐き気がこみ上げる。なぜ自分の元に? 何のために? 全く理解できなかった。
手は無意識にスマホを取り出していた。指先が震え、画面を何度もタップし損ねる。110番、その数字を押すだけなのに、恐怖で指が滑る。ようやく表示された「110」の三文字を見て、胸がひどく波打った。
このまま通報すべきだ。そうしなければならない。ここにあるのは犯罪の証拠だ。受け取っただけで共犯にされる。自分の人生を台無しにするには十分すぎる金額。
だが、そのとき——ふと、弟の顔が浮かんだ。
腹違いの弟。先月、珍しく電話がかかってきた。会社を設立して数年、最初は売上も好調だったが、ここ最近は低迷し、倒産寸前だと打ち明けてきた。金の工面ができなければ会社も社員も路頭に迷う。弟は必死だった。主人公は力になれず、ただ曖昧に相槌を打つしかなかった。
——あのときの会話が甦る。
『兄さん、もし何か方法があれば……』
『いや、俺には無理だ。すまん』
弟にそんなことを言ったばかりだ。自分が金に困っている話を誰かにした覚えはない。だが、なぜか今、目の前に五億円が積まれている。これは偶然か? それとも、誰かが知っているのか?
スマホを握る手が汗で滑る。表示された「110」を前に、指が止まった。通報すれば、この金は証拠として押収される。弟の会社を救える可能性は消える。だが通報しなければ、自分は犯罪に巻き込まれるかもしれない。
「……どうすれば……」
声が震える。耳の奥で自分の鼓動が爆音のように響いていた。床に散らばった段ボールと札束が、不気味な光沢を放ちながら主人公を取り囲んでいるように見えた。
スマホを握りしめたまま、主人公はその場に立ち尽くした。夜の静寂が、五つの箱の重みをさらに際立たせていた。




