訓練の幕開け
午後五時。銀行の窓口が閉まり、シャッターの重たい音が支店内に響いた。外はまだ薄明るい夕暮れだが、支店の空気はどこか湿り気を帯びていた。年に一度の防犯訓練。だが職員たちの顔には緊張などなく、誰もが「早く終わらせたい」と言わんばかりだった。
「予定どおり十五分で終わらせよう」支店長の声には覇気がなく、形式をなぞるだけの響きがあった。警備員はポケットに手を入れ、気だるそうに視線を宙に泳がせている。窓口の行員もパートの女性も、まるで余興に付き合わされているような顔つきだ。訓練の開始を告げるアナウンスが流れても、皆の目は時計や書類に向いたまま。台本どおりの儀式に過ぎないのだと、誰もが思っていた。
しかし、Cの胸の内だけは違っていた。前日の光景が頭から離れなかった。
夕方、帰り支度をしていた時、偶然見てしまった。上司がEに向かって机を叩き、顔を歪めて怒鳴り散らしている場面を。
「お前みたいな要領の悪いやつがいるから、全部が滞るんだ! 誰でもできる仕事しかしてないくせに、何様のつもりだ!」
Eは真っ青な顔で立ち尽くしていた。何度も「すみません」と繰り返す声は震え、周囲の同僚は見て見ぬふりをしていた。
Cの胸に焼き付いたのは、Eの潤んだ瞳と、無関心に背を向ける支店の空気だった。
——このままじゃ駄目だ。俺が動かなければ。
訓練が始まる。来客役のパートが窓口に立ち、支店長は応接の椅子に腰を下ろし、声だけで「はい、始め」と指示を出す。誰も真剣ではない。笑いを堪えるような空気すら漂っている。
そのとき、支店のガラス扉が勢いよく開いた。Cが現れた。
普段の彼とは違う。目は鋭く光り、動作に迷いがなかった。彼は一直線に後輩へ駆け寄り、強引に肩を掴む。後輩が「えっ」と小さく声を上げた瞬間、Cは腰から取り出したモデルガンを突きつけた。
「動くな!」
低く押し殺した声が室内を震わせる。訓練の一環だと誰もが思い込んでいたが、その迫力に空気が変わった。窓口の行員が目を丸くし、パートの女性は台本を持つ手を震わせた。
その直後、後ろの方から小さな声が漏れた。
「……台本どおりにやれよ、Cさん」
笑い混じりのヤジのような言葉。いつもの訓練の空気を守ろうとする軽さだった。
Cの反応は一瞬だった。
振り向きざまに、モデルガンをその行員に向けて引き金を引く。
「パンッ!」
火薬の破裂音が鋭く響き、閃光が一瞬室内を照らした。悲鳴が上がり、誰もが凍りつく。笑いは跡形もなく消え去った。
その場にいた全員が悟った。これはもう余興ではない。空気が現実の恐怖へと変わったのだ。
Cの額には汗が滲み、視線は鋭く周囲を睨んでいた。
「俺は本気だ」
言葉にならない叫びが、その瞳に宿っていた。
Eは窓口から彼を見ていた。昨日の自分を思い出していた。机を叩かれ、罵声を浴び、潰されていったあの瞬間。今のCの姿には、誰にも守られなかった自分の悔しさを背負う影が見えていた。
破裂音の余韻が消えた頃、支店長が慌てて立ち上がった。顔面は蒼白で、声にならない声を漏らす。
「な、なにを……」
その一歩が床を蹴ると同時に、支店全体の緊張は最高潮に達していた。訓練という名目は消え、誰もが次の一瞬を息を詰めて待つしかなかった。




