第21章 ヒーローになってやんよ
"「落ち着け!」
「……まだ、何か、あいつを倒す方法はないのか?」
リ・パイは、柔らかいクッションに寄りかかったまま、低い声で尋ねた。
「魔女の術の体系なら、魂に直接ダメージを与えることも可能だけど……私は目覚めたばかりで、準備をする時間が足りない……」
「あいつを倒すには、やっぱり、さっきの計画しかないわ」
「でも……もう、器になるものがないのよ!」
エローラの声には、絶望の色が濃く滲んでいた。
もし、この悪霊が封印を破ってしまったら、日光果ですら、もう止められないかもしれない。
「……器、か……」
「……もし、残りの日光果を全部爆発させて、悪霊を衰弱状態に追い込めたら……」
「……普通の人間の身体に、あいつを無理やり押し込むことは、できるか?」
リ・パイは素早く思考を巡らせ、顔を上げて尋ねた。
「……多分、できると思う」
エローラは頷いた。
「でも、今はそんな……」
「――あなた! 何をするつもりなの!!!」
エローラの身体が、びくりと震えた!
彼女が言い終わるか終わらないかのうちに、隣にいたリ・パイが、ふらりと前に歩き出したのだ。
エローラは、リ・パイのさっきの質問の意味を、唐突に理解した。
(まさか……)
(……自分を、器にするつもり!?)
(……自分を、犠牲にするってこと!?)
エローラは、その場に立ち尽くした。
リ・パイは、さっき、彼女を守るために、すでに傷を負っている。
それなのに、今度は……自分の命まで犠牲にするというのか!
エローラの心に、さざ波が立つ。様々な感情が、一度に押し寄せてくる。
「3秒後、全部爆破しろ!」
リ・パイは、振り返ってエローラに叫んだ。
その時のリ・パイは、笑っていた。これから死地に赴くとは、到底思えないような、穏やかな笑顔で。
「で、でも……!」
エローラは躊躇した。
(デモンハンターの矢は、もう使い切ってしまったのよ!)
(たとえ、リ・パイが悪霊に身体を乗っ取らせたとしても、もう、あいつを滅ぼすことはできない!)
「……俺を信じろ!」
リ・パイは、微笑んで言った。
(ゲームの中でくらい、一度、ヒーローになったって、いいじゃねぇか?)
(システムは、ゲーム内のダメージが現実にも影響するとか言ってたけど、どうせ大げさな脅し文句だろ……)
(今のVR技術で、そんなことが本当に可能なわけがねぇ)
(……仮に可能だったとしても、ゲーム会社が、そんな頭のおかしいことをするはずが……)
その間にも、リ・パイは悪霊の目の前まで近づいていた。
エローラはリ・パイを見つめる。視界がどんどんぼやけていく。何か熱いものが、目尻から溢れ出し、頬を伝っていくのが分かった。
(……もう、迷ってはいられない)
これ以上躊躇えば、リ・パイの覚悟が無駄になってしまう。
指が、舞う。
蔦に実る、残っていた全ての日光果が、一斉に炸裂した!
強烈な光が、再び廊下を白一色に染め上げる!
「あああああっ!!!」
「無駄よぉぉぉ!!!」
「……私を、殺すことなど、できなぁぁぁい!!!」
「……あと数秒……! あと数秒で、私は封印を破る!」
「そうなれば……! お前の身体は、私のものよぉぉぉ!!!」
悪霊は、苦痛と狂気に満ちた叫び声を上げた。
一瞬にしてこれほど強烈な光を浴びせられ、彼女は極度の苦痛と衰弱状態に陥っていた。
だが、この程度のダメージでは、彼女を殺すには至らない。
あと、ほんの数秒。それだけで、彼女は力を取り戻し、封印を破ることができるのだ。
「――今だッ!!!」
リ・パイが大声で叫び、悪霊に向かって、勢いよく飛びかかった!
エローラは、涙を浮かべながら、呪文を唱える。
リ・パイは、自分の魂が、何か強い力によって身体から引き剥がされていくような感覚を覚えた。
そして、衰弱した悪霊が、エローラの呪文によって、リ・パイの身体へと吸い込まれていく。
「き、貴様! 何をするつもりだ!」
悪霊の声には、明らかな動揺と恐怖が混じっていた。
リ・パイとエローラが何を企んでいるのかは分からない。だが、自分にとって、ろくでもないことであるのは確かだ。
悪霊は衰弱状態にあり、エローラの制御に抵抗できない。瞬く間に、彼女はリ・パイの体内へと侵入した。
リ・パイの身体は、そのまま前方に倒れ込んでいく。
そして、その前方の床には――赫然と、一本の銀色の矢が突き刺さっていた!
それは、以前リ・パイが階下に降りる際、悪霊に向けて放ち、外れたあの矢だ!
「――やめろぉぉぉ!!!」
「――よせぇぇぇ!!!」
「――死にたくないぃぃぃ!!!」
悪霊が、リ・パイの声を使って、絶叫する。
彼女がリ・パイの身体に入ったばかりで、リ・パイ自身の魂はまだ完全には離脱していない。二つの魂がせめぎ合う状況下では、悪霊はリ・パイの身体をコントロールして、迫る矢を避けることなどできなかった。
彼女はただ、為すすべもなく、その銀色の矢が自分に迫ってくるのを、見ていることしかできない。
「――ブスリッ!」
銀の矢の先端が、リ・パイの胸に深く突き刺さった。
微細な亀裂が、走る。
直後、リ・パイの身体が床に倒れる鈍い音が響いた。
リ・パイの胴体が、粉々に砕け散る。
四肢が、それに続いて崩壊していく。
そして、頭部も……。
「……ゲーム、終了……!」
意識を失う、その寸前。リ・パイは、心の中で、大声で叫んだ。
サラサラ……。
リ・パイの頭部が粉末と化したことで、廊下は、水を打ったように静まり返った。
エローラは、漆黒の闇に包まれた廊下を見つめ、身体が意思とは無関係に小刻みに震えるのを感じていた。
彼女は、リ・パイと初めて会った時のことを思い出していた。
あの男は、やけに度胸があって、一人で2階をうろつき回っていた。
3階に来た時には、なんと自分を脅してきたのだ。むかついた……。
その後、彼は自分で汗を拭いたり、自分を掴んで道を探ったりした。
そして、最後には……彼は、自分の身体にあんなことを……。
殺意すら覚えた。
それなのに、まさか、自分が彼によって目覚めさせられるなんて!
ベート家数百年の呪いが、初めて、破られたのだ!
同時に、エローラは、今まで経験したことのない「喜び」も味わった……。
だが、その余韻に浸る間もなく、エローラとリ・パイはすぐに2階の悪霊との戦いに身を投じた。
戦闘におけるリ・パイの冷静さと知恵は、エローラを感心させた。
そして、エローラを守るために、身を挺して前に立ちはだかった彼の姿は、彼女の心を強く打った。
出会ってから、まだほんの1時間ほどしか経っていない。
だが、エローラの心は、すでにリ・パイによって、完全に攻略されてしまっていた。
……なのに。
彼は、自分のこの気持ちを知る機会すらないまま……。
エローラは、両手で顔を覆った。
熱い涙が、指の間から絶え間なく流れ落ちる。
長身のエローラが、今はまるで、無力な小さな女の子のように、嗚咽を漏らしていた。
――パチッ。
灯りが点る。
女執事のレイクがオイルランプを灯し、廊下の向こうから駆け寄ってきた。
「お嬢様! 悪霊は? それと、あのお方も見当たりませんが……」
レイクがトイレから飛び出した時には、ちょうど日光果の光が消えた後で、廊下は真っ暗だった。
彼女は、最後の瞬間を見ていなかったのだ。
「……悪霊は、倒したわ」
「……あの方は……」
「……あの方は……」
エローラの声が、震え始める。
悲しみが、抑えきれずに、ますます濃くなっていく。
「……彼は、私を守るために……」
「……自分を、犠牲にしたの」
「……私、まだ、彼の名前すら、知らないのに!」
「……うわぁぁぁ……ん……!」
エローラは、もう感情を抑えることができず、床に膝をつき、声を上げて泣きじゃくった。
女執事は、そっとエローラのそばに寄り添い、その肩を優しく叩いた。
「……お嬢様。魔女の術の体系には、確か……復活の類の術も、あったはずでは?」
女執事は、静かに尋ねた。
「……ええ、あるには、あるけれど……」
エローラは、涙を拭う。
「でも、魔術による復活には、相手の身体の一部が、どうしても必要なの」
「……あの方の身体は……」
エローラは、前方に視線を向けた。
リ・パイの身体は、とっくの昔に、灰と化してしまっていた。
「……そうですか……」
「……はぁ……」
女執事は、ため息をついた。
どうやら、もう、どうしようもないらしい。
彼女は、ただ、エローラの背中を優しく撫でて、慰めることしかできなかった。
――突然! エローラの身体が、びくんと震えた!
「……そうだわ!!!」
「……彼、私の身体に、まだ『アレ』を残していったんだったわ!!!」
エローラは、まるで最後の希望の光を見出したかのように、ぱっと顔を上げ、興奮に目を輝かせた。"




