第2章 誰もプレイしたことのない最新バージョン
" 不意打ちの声に、リ・パイはびくっと肩を震わせた。
この女執事、足音しねえのかよ?
怖すぎんだろ!
これが恋愛ゲームだって知らなかったら、完全にホラーゲームのお約束だと思うところだぜ。
「いや、ちょっと見てただけで……」
リ・パイは振り返り、へらっと笑ってみせる。
たかがゲームじゃねえか、何をそんなに緊張してんだ、俺は。
リ・パイは自分が少し拘謹しすぎているように感じた。
「この洋館の物に、滅多なことでは触れない方がよろしいかと。」
「『あの方』が、お機嫌を損ねられますので。」
女執事の声は、まるで氷室から響いてくるかのように低く冷たい。
続けて、女執事がティーポットを手に、リ・パイに紅茶を一杯淹れてくれた。
黒々とした茶葉が、暗赤色の水面にぷかぷかと浮かんでいる。まるで血の海に漂う死体のようだ。
見るからに……。
食欲をそそられる。
「……いい香りだ。」
リ・パイは深く息を吸い込む。紅茶の芳醇な香りに、気分がしゃきっとした。
精巧なティーカップを手に取り、紅茶を一口含む。芳醇な液体が喉を通り、胃へと流れ込み、香りが口の中にふわりと広がる……。
認めざるを得ない、このゲームの感覚再現度は半端ない!
心のどこかで「これはゲームだ」と意識していなければ、現実かゲームか区別がつかないレベルだ。
「このお茶……変なもん、入ってねえよな……」
「いやいや、たかが恋愛ゲームの執事だろ? 何か悪巧みするわけ……」
そう考えると、リ・パイは少しだけ気が楽になった。
だが用心するに越したことはない。リ・パイはカップの中身を全て飲み干すことはせず、一口味わっただけでローテーブルに戻した。
「この家の女主人様はどこに?」
「いつになったらお会いできるんですかね?」
リ・パイは単刀直入に、女執事を見据えて問いかけた。
「ご主人様はもうお休みになられました。」
「お客様、よろしければ今晩はこちらにお泊まりになっては?」
「そうだ、お客様。夜食はいかがなさいますか?」
女執事は無表情なまま、冷ややかに尋ねてくる。
その様子からは、歓迎の欠片も感じられない。
「ああ、ぜひ。ありがとう。」
リ・パイは頷いた。
今のリ・パイは、一刻も早くこの女執事を追い払って、棚やらキャビネットやらを漁るチャンスを窺いたい気分だった。
RPGをやり込んできた性か、キャビネットを見るとどうしても開けたくて疼いてしまう。
なんたってゲームなんだからな。ヒロイン攻略に役立つアイテムの一つや二つ、見つかるかもしれねえだろ。
「ではお客様、こちらで少々お待ちください。ただいま夜食を準備してまいりますので。」
女執事はそう言うと、くるりと背を向けてリビングを後にした。
去り際に、女執事が無意識にローテーブルの上の紅茶に視線を送ったのを、リ・パイは見逃さなかった。
「……やっぱ、なんかおかしいぞ。」
「このお茶、マジで薬でも盛られてんじゃねえだろうな……」
「まさか……このゲーム、俺がヒロインを攻略するんじゃなくて、ヒロインが俺に薬盛って逆レイプする展開なのか?」
リ・パイの脳裏に奇妙な発想が浮かんだ。
それも……悪くねえかも。
だが、たとえゲームの中だとしても、意識のない状態で初体験を迎えるのはごめんだ。
「……まずはキャビネットの中身を確認するか。」
リ・パイは立ち上がった。
その瞬間、ぐらり、とめまいが襲ってきた!
「マジかよ、やっぱこのお茶ヤバかったのか?」
リ・パイは眉をひそめる。
そりゃねえだろ!
金出してヘルメット買ったってのに、こんな受け身プレイは望んでねえんだよ。
それに、意識を失った後、俺を襲うのが女主人なのか女執事なのか……どっちなんだよ……。
そこまで考えたリ・パイは、躊躇なく指を喉の奥に突っ込んだ。
「嘔……ッ!」
胃の中は空っぽで、少し胃液が逆流しただけだった。さっき飲んだ紅茶だろう。
「まあ、たいして飲んでなくて助かったか……」
リ・パイは頬をパンパンと叩く。
吐き出せた量は僅かだったが、嘔吐による不快感のおかげで意識はいくらかはっきりした。
この曰く付きの紅茶のせいで、リ・パイはこのゲームに対する疑念を抱き始めていた。
どう考えても、まともな恋愛ゲームじゃねえだろ、これ……。
数秒間息を整え、リ・パイはキャビネットの前へと歩み寄った。
キャビネットの中から、何かがリ・パイを呼んでいるような気がする。
強烈な好奇心に駆られ、リ・パイは両手を伸ばす。
軽い摩擦音とともに、キャビネットの扉が開かれた。
「うおっ!?」
リ・パイは反射的に一歩後ずさった。
キャビネットの中にあったのは、惨たらしいほど白い腕だった!
肩の付け根から切断されており、何らかの防腐処理が施されているのか、青白いものの腐敗はしていないように見える。
リ・パイは背中に冷たい汗がどっと噴き出るのを感じた。全身の神経が覚醒し、紅茶による眠気は跡形もなく消え去っていた。
「これ、どういうゲームだよっ!」
リ・パイは思わず叫んでいた。
心温まる快適な恋愛ゲームじゃなかったのかよ!
なんだよこの切断された腕は!
誰がこれで癒されるってんだよ!
「プレイヤーは『砕かれた美人の右腕』を発見しました。」
「美しい両手がピアノの鍵盤の上で舞う様を、あなたは鮮明に覚えています。なんと心酔わせる光景だったことでしょう。」
「引き続き、『砕かれた美人』を目覚めさせるべく、探索に励んでください。」
「探索度:5%」
場違いなシステム音声が響く。
「砕かれた美人……」
「ガチで砕かれてんのかよ!」
リ・パイは呆然と立ち尽くし、驚愕に顔を引きつらせた。
「このゲーム、もしかして体のパーツを集めて組み立てて、復活させた砕かれた美人と恋に落ちろってことか……?」
「クソ、陰鬱すぎるだろ!」
リ・パイは再び悪態をついた。
ネットじゃこのゲーム、甘くて心温まるって評判だったじゃねえか!
女子高生だの、看護師さんだの、OLさんだの……そういうの期待してたんだぞ!
なんで俺の番になった途端、砕かれた美人なんだよ???
まさか……
俺がプレイしてるのって、誰もやったことのない最新バージョンとか?
それとも、やっぱパチモンのヘルメット掴まされたのか?
リ・パイはため息をつく。
鬱だ……。
やっぱフリマサイトで中古ヘルメットなんて買うんじゃなかった。
「さて、どうすっかな?」
「ゲーム終了するか?」
「でも、なんか惜しい気もするんだよな!」
リ・パイはちらりとフォトフレームに目を遣る。
中の女主人はやっぱ綺麗だし、特にあのスタイルは……。
「ここまで来たんだ、もうちょい続けてみるか。」
「ゾンビ村8でもやってる気分でさ。」
リ・パイはその腕を手に取ると――
氷のように冷たい感触と、意外にも滑らかな皮膚の質感に、ふと妙な考えが頭をよぎった。
右腕……。
「いやいやいや……」
リ・パイは即座にその不埒な妄想を打ち消した。
「システムは『女主人はかくれんぼが好きで、洋館の至る所に彼女の姿がある』とか言ってたな……」
「つまり、彼女の体のパーツが洋館のあちこちに散らばってるってことか。」
「彼女を目覚めさせるには、まず体を全部見つけ出さなきゃならん、と。」
リ・パイは考えを巡らせ、とりあえず二階へ行ってみることにした。
あの女執事は明らかに怪しい。何しろ紅茶に薬を盛るような奴だ。
このゲームについて情報が少なすぎる現状では、まだ彼女と正面から対立するのは避けたい。
まずは二階の様子を見てみよう。
リ・パイは砕かれた美人の腕を小脇に抱え、忍び足でリビングを出た。
廊下は真っ暗で、リビングと厨房の方向から漏れてくる微かな灯りだけが頼りだ。
「ドンッ!」
「ドンッ!」
「ドンッ!」
厨房の方から、突然リズミカルな音が響いてきた。まるで何かを叩き切っているような音だ。
リ・パイはあえて想像することを拒否した。
この音……骨でも砕いてんじゃねえだろうな!
リ・パイは足早に木製の階段へと向かった。
リ・パイが最初の一段に足をかけた、その時……
ギシッ!
木製の階段が突然音を立て、廊下の静寂を破った!"