その者、魔を焼く
血が跳ねた。まるで雨粒のように、軽やかに、鮮やかに。
その斬撃は、ゴブリンの喉元を滑るように通り、首を飛ばす。放物線を描いた頭部が地に転がり、半秒遅れて胴が崩れ落ちた。しばらくの間、その身体は死を理解できていなかったかのように、ピクリと指を動かしていた。
――愉快だ。
玖須田は笑っていた。口角が無意識に吊り上がり、眼球の奥がゾクゾクと疼いた。風の中に、血と腐肉の臭い。兵士たちの絶叫、魔物たちの咆哮、断末魔の旋律。
「――雑魚どもの悲鳴、たまんねぇな」
玖須田の周囲には、既にいくつもの死体が散らばっていた。裂かれたオークの胸。捻じれたオーガの首。真っ二つに斬られたブラックハウンドの胴。眼球を潰されたリッチが、骸骨の指で自らの顔を探っていたが、頭蓋ごと踏み潰されて沈黙した。
「ヒ、ニンゲン……? チガウ……コイツハ……!」
ゴブリンの群れが一歩退いた。彼らの小さな知能でも、そこに“捕食者”がいると本能で理解していた。
玖須田の手に握られたのは、血で濡れた特大剣─数多の魔物を切り、刃が潰れている。それを彼は軽々と振るい、リズミカルに叩き潰す。まるで打楽器だ。敵を砕くことで、音楽を奏でているかのように。
「数が多いのはいいことだ。次から次へ壊せる。壊せる!壊せる……ッ!!」
突進してきたオーガの一撃を、玖須田は顔色ひとつ変えずに受け流した。重厚な剣が迎撃する。骨の軋む音。肉の裂ける感触。オーガの両膝が逆方向に曲がり、泣き声のような呻きとともに倒れた。
「てめぇの膝、どこに行ったかわかるか? そこだよ」
玖須田は片足で、地面に転がった脚を蹴り飛ばした。
「ッガァァァァァ?!!」
オーガの叫びは野太く、恐怖と痛みに満ちていた。玖須田はそれに満足げに頷く。喜劇だった。芸術だった。彼にとって殺戮は「遊び」であり、「自分を知る行為」だった。
「さあ来いよ。カスで雑魚の畜生ども」
一頭のリッチが、燃える瞳孔の奥で呪文を詠唱しはじめる。次の瞬間、無数の死霊が霧のように立ち昇った。亡者たちの呻きと共に、玖須田に向かって雪崩のように押し寄せる。
彼は構えなかった。笑みを深くするだけで、ただ、歩いた。
「ハッ、こっちはな――死ぬほど死に慣れてんだよ」
特大剣を振る。死霊を弾き、次にはリッチの顎を砕く。残骸が音もなく崩れ、そして沈黙する。
「ほら、来いよ。まだまだ足りねぇぞ? “地獄”ってのは、もっとこう、足の踏み場もないくらい、阿鼻叫喚ってやつだろ?」
ゴブリンが泣いていた。文字通り泣いていた。仲間を盾にして逃げ出そうとするが、玖須田の一閃。ゴブリンの半身を持っていった。
「あー、でもそろそろ飽きてきたなぁ。もっと強ぇのいねーの? “心”が折れる音を、そろそろ聴きたい気分なんだけどさ」
その声に応じるかのように、戦場の奥から魔力の波動が走る。
空気が震えた。玖須田の感覚が、別種の“獣”の気配を捉える。
――来る。
まだ姿は見えない。だが気配は確かだった。
玖須田は唇を舐め、特大剣を肩に乗せて、ひとつ背伸びをした。
「ようやく、“ちょっとだけマジになれる”相手が来そうだな」
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私は、赤銅の断崖で生まれた。
魔族の中でも、かつては「戦の血族」と呼ばれた一族――その末裔だ。
母は早くに亡くなり、父は討ち死にした。
父を殺したのは人間だった。
だが、私は人間を憎んではいない。
勝てば得られ、負ければ奪われる──それがこの世の理だと教えてくれた。
剣を握り、生きるために他者を斬った人だった。
誇り高く、誰よりも不器用な背中を覚えている。
人間だって生きるためなら他者を切るだろう。
だから人間は、憎んでいない。
この戦場にきて、部下の魔物や魔人たちはよく働いてくれている。
ゴブリンの斥候部隊が、城壁の死角を見つけ、突入口を提示してきた。
オークとオーガの主力が突撃し、リッチたちが後方から魔導支援を重ねる。
想定通りに戦線は押し上げられた。
「これなら……このままなら、私が出ずとも砦は落ちる」
私はそう判断し、天幕へ戻った。
想定では三日もあれば落ちるはずだった。
だが人間たちは、思いのほか頑強だった。砦の壁より硬いのは、彼らの意志かもしれない。
仲間を庇い、矢面に立ち、自らを犠牲にしてでも盾となる兵士の姿を何度も見た。
──敵だというのに、私はその献身に、心からの敬意を抱いていた。
私が出れば、この戦はすぐに終わるだろう。だがそれでは駄目なのだ。
部下たちの戦いは、ただの消耗ではなく、成長の機会であるべきだ。
彼らの中から、かつての私のように「魔人」として頭角を現す者が現れること──
それこそが、次代を繋ぐ私の責務であり、望みなのだ。
七日──。
十分だ。これだけの時間があれば、部下たちにも戦場の空気は染み込んだだろう。
獣のようだった連中に、戦略という言葉が芽生え始めている。犠牲もあったが、それもまた糧だ。
だが、あまりにも時間がかかりすぎた。補給線が伸びれば人間どもも策を練ってくる。
明日には私が出て、戦に終止符を打とう──そう、思った矢先だった。
天幕の外が、空気が大きく震え、唐突に朱く染まった。
何事かと幕をくぐると、そこには“風景”とは呼べぬ、赤黒い惨劇が広がっていた。
数千はくだらない部下たちが、文字通り──消えていた。
ただの爆発ではない。炎でもない。ただ「あったものが無くなった」だけの痕跡。
「……いったい、何が」
唇が震えた。目の前の現実を、脳が理解するのを拒んでいた。
否、理解したくなかったのだ。
辺り一面を覆う灰の匂い。
高熱によって焦げた肉と装備が入り混じる臭気。
そこにかすかに混じる、部下たちの悲鳴の名残──
見るに堪えない光景が、視界の奥へと広がっていく。
オーガが、片腕を引きずりながら助けを求めていた。もう片方の腕は、肩ごと無かった。
オークが、眼球を焼かれ、空を仰ぎながら吠えていた。
ブラックハウンドの一匹は、前脚が焼け落ち、後脚だけで地を擦って這ってくる。
ゴブリンたちは、小さな体を丸め、黒くすすけて震えているだけだった。
まるで、炎の余波がゾンビを作り出したような有様。
これは──兵器などではない。
天罰か。あるいは……神の力そのものか。
私の背に、悪寒が這い上がってくる。
戦場の風に、焼け焦げた毛皮と金属の臭いが乗っていた。
嗅ぎ慣れたそれらが、今日ばかりは恐怖に変わって、鼻腔にへばりついて離れない。
私は初めて、指揮官としてではなく、“生き物”としての本能で──
この戦に、何か“異常”が起きたことを悟った。
部下たちの後方──
そこに、在ってはならない気配があった。
歪んでいた。
濁っていた。
焼け爛れた空気の中で、なお際立つ“異物”。
まるで空間そのものが、そいつの存在に拒絶反応を示しているかのようだった。
この惨状の中心。
私の兵たちを、たったひと息で灰に変えた“それ”の気配。
──奴か?。
神か。
悪魔か。
それとも、人間があんなものを名乗っているというのか。
思考が焼き切れる前に、身体が動いた。
私は咆哮を上げた。喉が裂けても構わなかった。
誇りと怒りを混ぜ込んだ声が、残った者たちの心に届くことを祈って。
風を裂いて、踏み込む。
黒い灰を蹴散らし、倒れ伏した仲間の傍を通り過ぎながら──
ただ一点、その濁った気配へと向かって、私は飛び込んだ。
貴様か。
貴様が、この地獄を生んだ元凶か。
私の魔力が呼応する。血が滾る。
恐怖もある。だがそれ以上に、私には“責務”がある。
部下の命を奪った者に、戦士として向き合わねばならない。
──私は、魔族の誇りにかけて、貴様を屠る。