【第14話】瓦礫の誓い
ブロンの重い足音が、乾いた土を踏みしめる。横にはアルドが沈黙を保ち、その背後を、美閖が震える足取りで続いていた。グリムヴォルフ城塞都市を遠く背にしてから、すでに四日が過ぎていた。
最初の二日間は、美閖の憔悴は目を覆うばかりだった。手で口元を覆い、えずきながら歩くその姿は、痛々しいほどだ。ブロンは「助かった」と口にしたことを悔やみ、アルドもまた、そんな彼女に言葉をかけることもできなかった。彼ら自身の心にも、あの惨劇は重くのしかかっていたのだ。
だが、三日目を過ぎたあたりから、美閖はわずかだが落ち着きを取り戻し始めていた。顔色は相変わらず悪いものの、歩行速度は少しずつ安定してきている。この世界で魔導士として培った精神力が、彼女を少しずつ現実へと引き戻しつつあった。
そして迎えた四日目の昼下がり。アルドは歩みを止め、美閖を振り返った。
「美閖、そろそろ次の町まで転移できそうか?」
その言葉に、美閖の顔色がさっと青ざめた。転移魔法。それは、あの地獄の光景から逃げ出した最後の瞬間に使った魔法だ。その言葉を聞くだけで、脳裏にはあの断層と化した都市、そして黒い魔力に飲み込まれていく無数の命がフラッシュバックする。胃の奥からこみ上げてくる吐き気に、美閖は思わず口元を強く押さえた。
「で、できます……」
震える声で答えるのが精一杯だった。体に走る悪寒と、込み上げる吐き気を必死に抑え込む。深呼吸を繰り返し、精神を集中させようと努めるが、胸の奥がぎゅうと締め付けられ、頭痛がする。
「無理はするな」ブロンの低い声が聞こえる。
「大丈夫、です……」
美閖は、アルドの指示通り、杖を正面に構えた。瞳を固く閉じ、集中する。しかし、意識が研ぎ澄まされるほどに、あの瞬間の光景が鮮明に蘇る。魔王軍の咆哮、人々の悲鳴、そして、都市を切り裂いた漆黒の輝きが、網膜の裏に焼き付いたようにちらつく。
胃がせり上がり、喉がひりつくような感覚。美閖は、ぐっと奥歯を食いしばり、苦しみに顔を歪ませる。
(私、は……大丈夫……)
そう、自分に言い聞かせる。吐き気をこらえ、恐怖を押し殺し、震える指先から杖へと魔力を練り上げた。そして、次の瞬間。
「《転移》!」
美閖の叫び声と共に、三人の体が光に包まれ、その場から掻き消えた。数秒の後、光が収束し、彼らは道中の小さな村の入口に立っていた。美閖は、魔法を放ち終えると同時に、地面に膝をつき、そのまま嘔吐した。胃液が喉を焼く。
「っ!うおえぇぇぇぇ……」
「嬢ちゃん!」ブロンとアルドが駆け寄る。
美閖は、肩で息をしながら、汚れた口元を拭った。顔面は蒼白で、額には脂汗が滲んでいる。
「う…、はっ、はぁっ……大丈夫、です……」
再び絞り出すような声で呟く。その目は、まだ恐怖と苦痛に揺れていた。
ブロンは急いで駆け寄り、美閖の背中を大きく摩った。嘔吐の衝撃でぐったりとした美閖を支えながら、アルドは険しい表情で彼女を見つめていた。
(美閖殿は転移魔法を使用することに強い忌避感を抱いてしまっている……しかし、転移を使わずに帝都へ帰還するとなると、優に一ヶ月は掛かってしまう……。何としてでも彼女には帝都まで飛んでもらわなければならない……)
アルドの脳裏には、ザインの恐るべき力と、そこから生じるであろう帝国の危機が渦巻いていた。時間がない。一刻も早く、皇帝陛下に報告し、対策を講じなければ。
三人は、近くの村に立ち寄った。村長に事情を話し、空き家に泊めてもらうことができた。パンと水、それに少しの干した肉とスープを頂いた。温かい食事は、疲弊した体にじんわりと染み渡る。三人は黙々とそれを食し、その日の疲れを癒した。
食事を終え、アルドは意を決して、二人に告げた。
「二人ともすまない、城塞都市を落とした魔王軍の侵攻を考えると、時間がない。急ぎ帝都に戻り、このことを陛下に報告する必要がある」
アルドの言葉に、ブロンも美閖も真剣な面持ちで頷いた。その上で、アルドは美閖へと向き直る。
「それに伴い美閖殿」
名前を呼ばれ、美閖はビクリと肩を震わせた。再び、あの苦痛が襲い来る予感に、体が拒絶反応を示す。
「君には首都までの転移をどうしてもして頂きたい。多くは言わない……だが、どうしてもお願いしたい……」
アルドは、深々と頭を下げた。
アルドさんが、ただの女子大生であった自分に頭を下げて頼み込む姿に、私の胸の奥が握りつぶされるような感覚に襲われた。いまこの場において、転移魔法を使用できるのは私しかいない…。
しばらくの沈黙が、重く三人を包み込む。美閖の心は、激しく揺れ動いていた。
(また、あの苦しい思いをしなければいけないのか……?)
転移魔法を使うたびに、あのグリムヴォルフの惨状が、脳裏に焼き付いた映像となって襲い掛かってくる。あの吐き気、あの恐怖。普通の生活を送っていた自分にとって、それはあまりにも非日常で、残酷な体験だった。逃げ出したい。もう二度と、あんな思いはしたくない。
だが、同時に、彼女の心には、別の思いもこみ上げていた。
(でも……私だけが、ここで苦しんでるわけじゃない)
隣には、あのザインと互角に渡り合ったアルドさんがいる。そして、いつも頼りになるブロンさん。彼らだって、あの地獄を経験したのだ。そして、自分と同じか、それ以上に、多くの命を守れなかったことへの重荷を背負っている。
(それに……もし、私がここで『嫌だ』って言ったら……)
このまま歩いて一ヶ月。その間に、魔王軍が動き出したら?グリムヴォルフと同じことが、また別の場所で起こるかもしれない。いや、もしかしたら、もっと大きな都市が、帝都が、同じ目に遭うかもしれない。
(あの、たくさんの人たちが……)
あの、笑顔を向けてくれた村人たち。通りで遊んでいた子供たち。あの人たちが、また、自分たちの目の前で、ザインの「おもちゃ」にされる光景など、もう二度と見たくない。
「私……やります」
美閖は、震える声で、しかしはっきりと告げた。瞳には、まだ恐怖の色が残っていたが、それを押し殺すかのように、強い決意が宿っていた。この痛みを乗り越えなければ、誰も救えない。自分にできることは、これしかないのだから。
数時間後─帝国 謁見の間
アルドは、硬質な床に跪いた。その視線は、未だグリムヴォルフの惨状を映し出し、心に深く刻まれた屈辱が血の様に脈打つ。その背後には、ブロンと疲弊した美閖が共々跪いている、美閖は未だえずきながら、しかし何とか耐え抜こうと口元を押さえていた。
玉座の間は、静寂に包まれていた。ヴァルガス皇帝は、その身にまとう黒の軍服が放つ威圧感そのままに、玉座に深く腰を下ろしている。その瞳は、深遠の淵のように感情を読み取れない。
「報告せよ、アルド」
皇帝の言葉は、氷のように冷たかった。アルドは、深々と頭を垂れ、絞り出すような声でグリムヴォルフの壊滅と、ザインが見せた新たな力、そして自らの撤退の判断を報告した。その間、皇帝は微動だにせず、ただアルドの一言一句に耳を傾けている。玉座の間に満ちる重圧が、アルドの心を圧迫した。
報告が終わり、再び沈黙が訪れた。長く、耐え難い沈黙だった。アルドは、皇帝の言葉を待つ。叱責か、それとも――。
「剣聖たる貴様が、何故この惨状を招いた?」
皇帝の声は、先ほどよりも一段と冷徹に響いた。それは、アルドの誇りを直接抉る刃のようだった。
「貴様の誇りは、グリムヴォルフの瓦礫の下に埋もれたか?」
アルドは、奥歯を噛み締めた。その問いに、言葉は出なかった。敗北は事実。そして、その責任は、自分にある。
しかし、次の瞬間、皇帝の声色は微かに変わった。氷の奥に、燃え盛る炎のような決意と、深い信頼が宿っているかのようだった。
「この敗北は痛い。帝国の臣民を失った痛恨は、貴様が一番よく理解しているはずだ」
皇帝は、ゆっくりと玉座から立ち上がった。
「だが、アルドよ。貴様が失意に沈むことを私は許さん」
玉座の間に響く、力強い響き。
「貴様はディアガル帝国の剣聖だ。この屈辱を糧とし、必ずや、その剣で奴らを打ち砕け。貴様の剣こそが、帝国の武威そのものなのだからな」
アルドは、顔を上げた。皇帝の瞳には、一切の疑念も、感情的な非難もなかった。あるのは、再起への強い期待と、絶対的な信頼だった。陛下は、己の敗北を受け止め、再び立ち上がることを求めている。それが、アルドが今、為すべきことだった。
ヴァルガス皇帝の視線が、次に美閖へと向けられた。美閖は、アルドの傍らで固く身を竦めている。
「魔導士殿」
皇帝の声は、驚くほど穏やかだった。
「そなたの魔法がなければ、無事では済まなかっただろう。よくぞ、持ち堪えた」
その労いの言葉に、美閖の肩の力がわずかに抜けた。しかし、彼女の心に巣食う罪悪感は、依然として消えることはない。皇帝の言葉は優しかったが、グリムヴォルフの光景が、彼女の脳裏から離れることはなかった。
最後に、皇帝の視線はブロンに注がれた。
「ブロンよ」
その声には、一切の叱責の色はなかった。
「貴様の盾は多くの兵を守った。しかし、この屈辱を忘れるな」
ブロンは、皇帝の言葉に深く頷いた。その巨躯を震わせながら、彼は心の中で誓った。守れなかった命、そして自分の失言。その全てを胸に刻み、次こそは全てを護り抜くと。
「次こそは、その巨斧で奴らの首を叩き落として見せろ」
皇帝の言葉が、ブロンの魂に火を灯した。その瞳に、再び闘志の光が宿る。
ヴァルガス皇帝は、その場にいる三人の表情をじっと見つめていた。その瞳の奥には、立ち向かうことへの怖気、敗北を乗り越える決意、より強大な力となることへの確信が宿っていた。
それは、帝国がこの新たな脅威に立ち向かうための、唯一の道でもあり。
一度落ちたのなら、次はさらに高く飛べる、と信じている様子であった。
皇帝は一つ頷くと、再び玉座に深く身を沈めた。その表情は厳しく、沈思する眼差しは遠い虚空を見つめているかのようだ。
(しかし──三人の勇者を投入したが、かの魔人─ザインにかすり傷程度しか与えられなかったか……)
アルドの報告が、皇帝の脳裏で反芻される。かつてアルドがザインの指を切り落とすほどの傷を負わせたのは、ザインがアルドを明確な格下と侮っていたからに過ぎない。その真の力が、今、明らかになったのだ。
(そうなれば─例え五人の勇者を投入したところで、皆、無事では済むまい……)
帝国の誇る最強戦力すら通用しない。その冷徹な現実を前に、ヴァルガス皇帝は為政者としての決断を下す。自国が生き残るため、そしてこの危機を乗り越えるため。心の内で一通り考えをまとめた皇帝は、その口を開いた。
「我が帝国は……王国との共同戦線の提案を行う」
ヴァルガス皇帝の決定は、玉座の間をざわめかせた。アルドの報告が終わり、彼がアンポンス王国との共同戦線という、かつては考えられなかった提案を口にした瞬間、周囲の幹部たちから異論と困惑の声が上がった。
「陛下、まさか王国に助けを求めるなど……!帝国の武威が地に堕ちます!」
「陛下の御英断は分かりますが、アンポンス王国は我らと長年対立してきた相手。信用なりませぬ!」
「しかし……現状、独力では……」
異論が飛び交い、仕方なく賛同する声が交錯する。誰もが、屈辱的ながらも現実的な選択であることは理解していた。だが、誇り高きディアガル帝国が、長年の領土拡張の障害物であるアンポンス王国に頭を下げるという事実を、感情的に受け入れがたかったのだ。
ヴァルガス皇帝は、しかし、それらの声を一切意に介さなかった。彼の視線は玉座の間にいる全ての幹部を射抜き、その威圧感で不満の声を黙らせる。
「黙れ」
その一言が、玉座の間の喧騒を完全に鎮めた。皇帝の声は、絶対的な権威と、揺るぎない意志を宿していた。
「この件は、既に決定した」
彼は、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で告げた。
「これは、"帝国主導"の共同戦線だ。決して王国に屈するものではない。魔王軍の脅威、そしてザインという魔人は、一国のみで対処できるものではないと判断した」
幹部たちの間に、再びざわめきが起こるが、今度は反論ではなく、戸惑いと困惑の声だった。
「アンポンス王国には、グリムヴォルフでの詳細な被害状況と、ザインが新たに見せた能力、奴らは、この情報に喉から手が出るほど飢えているはずだ。帝国が落とされれば次は王国だ、断ることなどないだろう。我らは、王国との間で共通の敵に対処するための協定を結ぶ。この戦線において、帝国が最大の貢献を果たし、必ずや奴らを打ち砕き、帝国の武威を天下に示す」
その言葉には、一切の迷いがなかった。ヴァルガス皇帝は、この屈辱的な決断が、結果として帝国の栄光へと繋がる唯一の道だと確信していた。幹部たちは、その決然とした皇帝の眼差しに、反論の言葉を飲み込んだ。それは、帝国が生き残るための、そして更なる飛躍を遂げるための、冷徹な、しかし絶対的な決断だった。




