【第12話】魔刃と剣聖
鉛色の空が、山脈の麓に位置するディアガル帝国北方城塞都市グリムヴォルフを押し潰さんばかりに垂れ込めていた。警鐘の音が山々に反響し、城壁の上で兵士たちが慌ただしく動き回る。
遠雷のような地鳴りが大地を揺るがし、やがて地平線の向こうから、黒い津波のように魔人の軍勢が押し寄せてくるのが見えた。
「来たか……」
城壁の中央に立つ《剣聖》アルド・ヴァルクハルトは、感情の読めない硬質な表情で呟いた。その声は、押し寄せる魔の軍勢の咆哮にも掻き消されず、兵士たちに静かな規律をもたらす。
白銀の鎧はかすかな月明かりを反射し、腰に下げた宝剣が不気味に輝いていた。
アルドのすぐ傍らで、《魔導士》佐藤美閖は、柄の先端に巨大な魔石がはめ込まれた杖を固く握りしめていた。戦場の喧騒、魔物たちの悍ましい姿、そしてその中心に感じる悪意の塊に、彼女の顔からは血の気が失せ、瞳は恐怖に大きく見開かれている。必死に息を整えるが、心臓は警鐘と同じ速さで脈打っていた。
その時、魔人の軍勢の先頭から、一人の異形の存在が悠然と姿を現した。漆黒の甲冑に身を包み、背には血のように赤い刃を背負っている。
「また会ったな、人間。俺が切った傷は癒えたか?」
その声が、戦場の轟音を突き破り、アルドの耳に直接届いた。「鋭盟の魔刃」ザイン。魔王の片腕と呼ばれた剣士の魔人だ。
アルドは不敵に口元を歪めた。
「あんなもの、かすり傷だ。それより指はまだあるか?三本になってないといいが」
一瞬、ザインの仮面のような顔が、微かに揺らいだように見えた。かつての一騎打ちで、アルドが唯一、彼に与えられた決定的な傷が、ザインの左手の指を三本にするほどのものだったことを思い出させる痛烈な一言。二人の間に、目に見えぬ殺気が迸る。
その殺気の渦に飲み込まれそうになりながら、佐藤美閖はかろうじて声を絞り出した。
「あ、アルドさん……!」
アルドは振り返らず、ただ静かに命令を下した。
「我がディアガル帝国の武威を示す時だ。決して一歩も引くな。…佐藤殿、援護を頼む」
「……っ、はい!」
佐藤美閖は、震える体に鞭打ち、杖を正面に構え直した。故郷を思い、争いを避けたいと願う心とは裏腹に、彼女の杖から放たれる魔法が、魔人の軍勢へと放たれた。勝利の目的はただ一つ、この城塞都市を、帝国を、そしてその先にいる人々を守り抜くことだ。
彼女の魔法が宙を裂いた瞬間――帝国軍と魔王軍が、ついに火蓋を切った。
「迎え撃てぇぇぇぇ!!」
《剣聖》アルド・ヴァルクハルトの咆哮が戦場に響き渡る。そのまま兵を率いて城壁から雪崩のように打って出ると、彼の前方では、城壁上の魔法使いたちが次々と呪文を詠唱していた。
美閖の放った雷撃を皮切りに、炎が舞い、氷が咆哮し、刃のような風が魔物を切り裂く。城壁の上から放たれるそれらの魔法は、あたかもアルドの進路を清める聖なる裁きのごとく、敵陣を焼き払っていく。
「今日こそはその首、もらい受けるぞ、ザイン!」
「たかが人間風情に……二度も後れを取るものか!!」
漆黒の鎧を軋ませながら、《鋭盟の魔刃》ザインがアルドの剣を正面から受け止める。鋼と鋼が火花を散らし、鍔迫り合いの末、刹那――
「……ッ!」
ザインが一歩、後退させられる。アルドのスキル《祝福》による底上げを真正面から受けきれなかったのだ。
「チッ! スキルとは……やはり鬱陶しいものだな!」
舌打ちしながらも、ザインは後退の動作を利用してカウンターに転じる。ステップで死角へ回り込み、鋭い連撃を叩き込む。しかし――
「貴様ら魔族には“その武器”があるではないか。こちらからすれば、互い様というものよ!」
アルドは冷静にそれを受け、スキル《残像剣舞〈ファントムダンス〉》を発動。流れるような身のこなしで連撃をいなし、逆に懐へと踏み込んで斬りつける。
ザインは寸前で回避しながら、反撃の蹴りを放つ。その一撃を肩で受けるつもりだったが、アルドは身体を無理やり捻り、回避と同時に後方へ飛び退いた。
頬に一筋、赤い線が走る――
「ほぅ、よく覚えていたな、人間」
「当たり前だ。おかげで前回は腕を切られたからな」
ザインが喉を鳴らして嗤う。アルドは苦い表情を浮かべた。
――あの時の蹴りは、ただの苦し紛れと思っていた。まさか、斬撃を乗せてくるとは。
《不動の構え》で耐えたつもりが、危うく致命打を喰らうところだった。
「貴様と切り結ぶのも悪くはないが……あまり長引かせるのも良くないからな」
アルドは静かに呟きながら、剣を逆手に構える。そして、自らの胸元へと――突き立てる。
「──剣を、交わせ」
「させるかぁぁ!!」
咆哮とともにアルドは地を砕く勢いで踏み込み、剣を振り下ろす。だが、激突の直前――
黒く半透明な剣が甲高い音を立て、アルドの一撃を難なく受け止めた。
「……少し、遅かったな」
ギリギリと刃が擦れ合い、金属音が戦場に響く。しかし、ザインが片腕を振り抜くと――アルドの剣はあっけなく弾き返された。
「我が名は、鋭盟の魔刃──ザイン」
その声が響くと同時に、ザインの纏っていた漆黒の鎧が砕け、黒い粒子となって宙に舞う。それらは彼の手足へと絡みつき、まるで意志を持ったかのように変化していく。
柄だけの武器を象ったガントレット。脚を包むグリーヴとポレイン。
それはまさしく、“魔刃”としての真の姿。
「誇れよ、人間。二度もこの姿を見られたんだからな。──だが、三度目はない」
「ッ……!」
マズい。
そう感じた時には、すでに遅かった。
眼前に、死の斬撃が迫っていた。
アルドは即座にスキル《残影踏法》を発動。強制的に自身の身体を後方に跳ね飛ばして回避する。だが、空間を裂くような鋭さに、頬を裂く傷が一筋走り、熱い血が垂れる。
「やはり、スキルとは厄介だな。いや……弱者だからこそ、縋るしかないのか?」
ザインがニタニタと嗤いながら近づいてくる。その姿は、殺意の塊そのもの。吐息すら冷たく、心臓が凍りつくような圧を放っていた。
さらに一歩、ザインが踏み出した、その瞬間――
無数の光の矢が天より降り注いだ。
ザインは即座に後方へ跳躍し、迫る矢を斬撃で弾き落とす。命中を許したのは一本たりともなかった。
「す、すみません! 遅くなりました!」
杖を高く掲げ、肩で息をしながら、美閖が城壁の上から叫んだ。額には汗。その目には、未だ躊躇いがあるようだった。
「……遅かったな。だが、助かった」
アルドが膝をついた姿勢から一息をつき、静かに礼を述べる。深く息を吐きながら立ち上がり、再び剣を構えた。
「魔物の集団を倒すのに……時間がかかりすぎました……!」
美閖は城壁からふわりと舞い降り、アルドの背後に着地する。杖を握る手がかすかに震えていた。
ちら、と横目で彼女を見やるアルド。
分かっている――彼女はいまだに、“殺す”ことに強い抵抗を持っている。
たとえそれが魔物であれ。
そして、殺意を向けられるたびに、小鹿のように怯えて震える少女。
だが、それでも彼女はここに立っている。
それが使命感からなのか。
あるいは……皇帝に逆らう恐怖からか。
──正直、すごく怖い。
美閖の胸の奥では、理性とは別の本能が、ずっと警鐘を鳴らし続けていた。
あの魔人。黒い防具をまとった、鋭くて無機質な眼の男。
ただ立っているだけで、足がすくむ。
見ているだけで……叫びたくなる。逃げ出したくなる。
こんな場所、早く――早く逃げたい。
でも、逃げたところでどこへ行けばいい?
この世界に来たあの日、私はただ、自宅で本を読んでいただけなのに。
ファンタジーな世界に憧れていた。
カッコいい王子様、優しい執事、魔法、舞踏会――
本の中で夢見て、妄想して、自分を重ねていた。
あの日も、読みながら、だんだんと眠くなって……
そして、目を覚ませば、目の前には怖い顔の人たちが並んでいた。
現実じゃない。夢だと思った。思いたかった。
でも、その夢の中で、「勇者よ!」なんて言われて、
あっという間に“魔法使い”に仕立て上げられて、
最初は……ちょっと嬉しかった。
「もしかしたら本当に、物語の主人公になれるかも」って。
でも、違った。
ゴブリン。マンガで見たときはちょっと間抜けで、なんだか可愛くさえ見えた。
だけど、本物は……ちがった。
鋭い目つき。獣みたいな動き。
小さい体なのに、どうしようもないほど怖かった。
人を殺した手をしてた。
人を喰った目をしてた。
逃げたかった。
泣きたかった。
でも――
お母さん……
お父さん……
たすけて。
どうか、誰か……私を、この世界から連れ出して。
足が震える。喉が渇く。呼吸が浅くなる。
美閖は胸元に手を当て、必死に自分を保とうとした。
「震えてるぞ、小娘。杖を握る手が滑りそうだ」
ザインが笑っていた。黒い瞳の奥に、ぞっとするほど冷たいものが潜んでいる。
その気になれば、一歩で間合いを詰め、首を跳ね飛ばす自信がある。そんな顔だった。
「怖いよ……そんなの、怖いに決まってるじゃない……」
心の中で呟くと、頬を伝って涙が一粒零れた。
それでも、美閖は一歩、前に出た。
──逃げたくない。
私が逃げればきっと、アルドさんは殺されてしまう…。
アルドの背中に隠れて、この場から目を背けたままじゃいけない。
この世界に来た意味なんて、まだ見つけられてないけれど。
でも、いま目の前にいる人は、私を頼ってくれている…。
「やれやれ、少女が英雄を気取るには場違いな舞台だがな」
ザインが踏み出す。
その瞬間、美閖は叫ぶように詠唱を口にした。
「《ルミナ・シェル》ッ!!」
光が炸裂した。白銀の光が空中で膨れ上がり、アルドの前方を覆うように展開された。
次の瞬間、ザインの斬撃が光の盾に衝突する。火花のような魔力が四散し、地面に亀裂が走った。
「……ほう?」
ザインの眉がわずかに動いた。わずかだが、確かに、動揺だった。
「よくやった、美閖。──次は、俺の番だ」
アルドが踏み込み、鋼の刃が唸りを上げる。
「《神速の一閃》ッ!」
弾かれて跳ね上がるザインの腕─盾の消滅するタイミングとほぼ同時に下から切り上げる一撃
もう一方の腕で受け止められるより早く光の剣戟はザインの体を切り裂いた。
ザインの胸元を、斜めに赤い線が走る。
「──ッ……!」
呻き声とも笑い声ともつかない音が、ザインの喉から漏れた。
しかし、その目はまだ死んでいない。むしろ、愉悦すら浮かんでいるようだった。
呻きながら笑い、ザインの身体が震えだした。
その周囲に、黒煙のような魔力が噴き上がる。地面に触れるだけで、草木が揺れ、大気が震える。
「まずい……!」
アルドが後退し、美閖のほうへと声を飛ばす。
「美閖、次の魔法を!」
「い、いま! 《ルミナ・バインド》!」
震える声で、美閖が魔力を解き放つ。地面から立ち上がるように幾本もの光の鎖が現れ、ザインの両腕・両足を縛りつけようと伸びていく──
だが。
「生憎だが、束縛は性に合わん!」
ザインが咆哮するや否や、黒い衝撃波が身体から炸裂する。
光の鎖は砕け散り、美閖が吹き飛ばされそうになる。寸前でアルドが腕を伸ばし、美閖を抱きかかえて庇った。
「くっ……!」
その隙に、ザインの姿が再び消える──
「上だッ!!」
アルドが叫ぶと同時、夜空を裂いて、黒い斬撃が振り下ろされた。
黒い斬撃が、夜空を裂いて降り注ぐ。
「──ッ!!」
防御も間に合わない。アルドが美閖を庇い、迎え撃つ覚悟を決めたその瞬間だった。
地面が爆ぜた。
地割れのように弾け飛んだ大地の向こうから、真紅の閃光が駆け抜ける。
「遅れてすまねえなぁ……!」
豪快な声とともに、飛び込んできたのは重盾の戦士──ブロン・アイアンハイド。
その巨体が跳躍し、天から降るザインの斬撃を、丸太のような両腕で構えた盾で真っ向から受け止める。
ガアアアアァァァァァン!!
衝撃が大地を揺らし、爆風の余波が森の枝葉を吹き飛ばす。
だが、盾は砕けない。ブロンの筋肉が、魔刃の一撃を完璧に止めていた。
「てめぇ一人で盛り上がってんじゃねぇぞ、クソ魔人。騎士様とお嬢ちゃんによくもやってくれたなァ……」
ブロンの目が血走る。背に背負った巨大な斧を引き抜くと、その刃から炎が吹き上がった。
「帝国の五勇者、最後にして最強、ブロン様の登場だァア!!」
炎を纏った一撃が、ザインの体に迫る。
「っは、図体だけはデカいのが来たな!」
ザインが迎え撃つも、衝突したのは火焔と魔刃の衝撃波。爆発にも似た音が響き、空が割れるかのような咆哮が大地に響き渡った──!
その隙に、アルドが美閖を後退させ、体勢を立て直す。
「助かった……ブロン、やはりお前は……!」
「言ったろ、どんな地獄だろうが、殴り込んでやるってな!」
仲間の登場──それは、たった一手で戦局を変える力になる。
黒い魔刃の支配する戦場に、再び光が差し込もうとしていた。




