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【第11話】動き出した帝国

「さて、魔王がなぜ急激に侵略を開始したか、じゃったかな」


 湯気の立つ紅茶に手を伸ばしながら、リュミエルはゆっくりと切り出した。落ち着いた口調だが、その奥には重たい疑念が潜んでいる。


「これは仮説はいくつかある。一つ、急な方針転換。これは可能性が低いとわしは思う」


 ゆったりとした所作で椅子にもたれ、リュミエルは続ける。


「二つ、部下の謀反。無くはないが、慎重派だった魔王だが部下との実力は隔絶していた。これも可能性は低いと思う」


 エルヴィーナは無言で頷き、紅茶に口をつけた。動きは優雅だが、指先にはわずかな緊張が宿る。


「三つ、これが問題じゃ――“中身が入れ替わっている”」


「中身が……入れ替わっている、というのはどのような……」


 エルヴィーナの声が震えた。慎重に、しかし確かな疑念を含んで問い返す。


「お主にも身近な事が最近あっただろう。異世界の勇者を“召喚”する、ということがな」


 リュミエルの言葉に、エルヴィーナは紅茶のカップを静かに置いた。その表情に一瞬、影が差す。逡巡。そして、それを飲み下した覚悟。


「まさか……魔王が異世界の勇者を“召喚しようとした”?」


「この仮説の中では一番可能性が高いじゃろうて。どういう理屈かははっきりとせんが、勇者召喚に用いる素材や聖材があるじゃろう。これをやつは自らを用いたんではないかと踏んでおる」


 リュミエルの声は淡々としていたが、そこに込められた重みは、空気を一層ひりつかせた。


「しかしそうなると、慎重な魔王がなぜそんな危ない橋を渡ったのかが疑問じゃ」


 そこまで一息に語ると、リュミエルはようやく手にした紅茶を口に含んだ。


「おぉ、これは美味いのぉ。天界に帰れたら、ぜひ捧げてくれるとうれしいのぅ」


 少しほころぶ老いた顔。だがその背には、疲れと焦燥がわずかに滲んでいた。


「お口に合いましたのなら、ぜひ捧げさせていただきますわ」


 エルヴィーナもまた微笑みを返す。だがその笑顔には、やはり緊張の影が残っている。眉間のわずかな皺が、彼女の心中を物語っていた。


「ここまでしかおおよその事が分からんくての……すまぬのぅ……」


 リュミエルの声に、エルヴィーナは小さく首を横に振った。


「いいえ、リュミエル様。御身自らお教え頂いたことは、決して不足などございません。ありがとうございます」


 そう言って、彼女は椅子から少し腰を浮かせ、しゃなりと気品を保ったまま頭を垂れた。


「ではこのままお茶会とでもいたしましょうか。私のお気に入りの菓子があるのです」


 エルヴィーナが話題を切り替えるように、柔らかな声で提案する。


「ほっほ、ではお言葉に甘えるとしようかの、菓子だけに」


 リュミエルの冗談に、エルヴィーナはほんの少しだけ、唇の端を上げて笑った。乾いた笑いではあったが、束の間の安らぎが、そこには確かに存在していた。


 やがて菓子皿が運ばれ、香ばしい焼き菓子とともに、ふたりの静かな対話は甘い菓子のような余韻に包まれていった。


───────────────────


 あてもなく王都の城下を彷徨っていた。人波の中に紛れながら、誰からも注目されることのないこの感覚は、どこか心地よくもあった。


 自然と、過去のことを思い出していた。


 ……生きていた頃、碌なことをしてこなかった。


 恐喝、暴行、殺人。数えればキリがねぇ。まともに働いたことなんて一度もなかった。人を騙し、殴り、奪って生きてきた。そうするしかなかった……なんて言い訳をするつもりもない。ただ、それが“普通”だったんだ、俺にとっては。


 死んだあとに現れた、胡散臭い“神”だかなんだかが聞いてきた。


 ――「反省してるか?」


 するわけねぇだろ。あれが俺のやり方だった。生き延びるために必要だった。ただそれだけだ。


 そんな俺だから、異世界に来たって特別扱いされるわけがない。能力も才能も、あるわけがなかった。力もねぇ、身分もねぇ。仕事を探しても、貴族にも商人にも見向きもされなかった。ゴミを見るような目で、ただ追い払われるだけ。


 ……ああ、昔のようにまた悪事に手を染めれば、なんて考えてたこともあったっけな。


 だが、そんな時に拾ったのが“冒険者”って肩書きだった。


 日雇いみてぇなもんだ。モンスターを狩れだの、誰かの落とし物を探せだの、つまらないお使いの繰り返し。だけど、初めてだった。俺が何かをして、誰かから「ありがとう」なんて言われたのは。くだらないって思う反面、胸の奥で小さく何かが鳴った。


 ……変わりたいなんて思ってたのか? 俺が?


 そんなわけ、ねぇよな。


 でも、どこかで誰かの言葉に縋ってたのかもしれない。信じてみようとしたのかもしれない。この異世界でなら、何かが変わるかもしれないって――


 ……バカみてぇだ。


 空を見上げた。高く、青く、どこまでも遠い。


 俺みてぇなクズが、この世界で何をして生きていくっていうんだよ。


……そんな俺でも、仲間ができた。

 一緒に旅もした。笑って、喧嘩して、命を張って戦って……。


 今でも思い出せる。あの妙な連中の顔。


 褐色の肌で身の丈二メートルはある大男。にもかかわらず、名前はやたら女っぽい剣士。

 外見だけなら完全に魔法少女。だが中身は百年以上生きてるという、頭のネジが外れたババァ。

 そして──胸だけ無駄にでかい、羊の女。天然でやたら距離感が近くて……うるせぇ奴だった。


 ……全員、もういない。


 旅の途中、誰かが死んで、誰かが抜けて、それでも進んで……最後には、俺ひとりが残った。

 いや、残ったというより、ただ生き残ってしまっただけだ。


 結局、世界がどこに変わっても同じだ。

 奪わなきゃ奪われる。それだけのことだった。


 正しさなんてクソの役にも立たねぇ。力がなきゃ守れない。


 それでも、あの時の笑い声を、今でもふと夢に見る。


 まったく……救いようのねぇバカだな、俺は。


───────────────────


 日差しが窓辺を照らし、小鳥のさえずりが、まるで音楽のように室内に染み渡っていた。

 テーブルの上には、薄く焼かれたラング・ド・シャ、バターのヴィジタンディーヌ、小さな果実のタルト……。


 エルヴィーナが軽やかに皿を回すと、リュミエルは一つの焼き菓子をつまみ上げた。


「このヴィジタンディーヌ……見た目は小さいが、力強い味じゃのう。表面の焼き色もよき香ばしさじゃ」


「お気に召して頂けたなら何よりですわ。それに城の菓子職人は、かつて南方で“焼菓子(ガトー)紡ぎ手(クレアトゥール)”と呼ばれたとか」


「ふむ、それはまた随分と洒落た通り名じゃな。はむ……すばらしい。これほど完璧な秩序と調和を生み出すとは。人間は理を、また異なる形で体現したかのようだ」


 リュミエルの眼差しは窓の外へと向けられていた。遠くの空に、小さく飛ぶ鳥影。何かを思うように、静かに瞬きをひとつ。


「……この菓子がそう感じさせるのなら、それはきっと、作り手の心が表れているのでしょうね」


 エルヴィーナの言葉に、リュミエルはふと目を細めた。


「なるほど、そうかもしれぬ。甘味というものは、心を誤魔化すにはちょうどよい。じゃが同時に……それを食する者の真実を、塗り替えることはできぬ」


「心を誤魔化す……ですか」


「うむ。この戦も、真の意図が隠されておる気がしてな。魔王の“変化”は、単なる入れ替わりではない。“何か”が背後におる……。それを考えねばなるまい」


 ふいに、部屋の空気がまた少し引き締まる。紅茶の香りの中に、冷えた知性が漂った。


「例えば、“召喚”された存在が、ただ異世界から来た者だとは限らぬ。……この世界そのものが、誰かの“選定”の舞台にされているとしたら?」


 エルヴィーナは驚きの色を隠しきれなかった。


「選定……誰が、何のために?」


「わからぬ。だが、“変化”があまりに急じゃ」


 リュミエルの瞳は、老いてなお鋭い。


「もしかすると、やつら“異界の者”すらも、自らの意思ではなく……“導かれて”この地に落ちたのかもしれぬぞ」


 その言葉に、エルヴィーナの心に一瞬、誰かの顔が浮かんだ。


 粗野で無頼で、礼儀も秩序も知らない男──


「……リュミエル様。その“異界の者”が、もし迷いながらも進もうとしているのなら……我らが“正しさ”を与えるべきなのでしょうか? それとも、ただ見守るべきなのでしょうか」


 静かに問いかけるエルヴィーナ。紅茶の波紋が、カップの中でわずかに揺れた。


 リュミエルは一度目を閉じ、言葉を選ぶように吐き出す。


「導くか、見守るか。――それは“余が何を信じるか”ではなく、“そなたが何を願うか”で決まるのじゃよ」


 その言葉に、エルヴィーナは静かに頷いた。

 ただのお茶会ではない。これは、未来を左右する“対話”だったのだ。


「では……私の答えは、菓子をもうひとつ召し上がっていただいてから、お伝えすることにいたしますわ」


「ふぉっふぉっ、良き返しじゃ。実に良き返しじゃ。……では、次はこのラズベリーのタルトとやらを」


 二人の笑みが交差する。

 優雅に、穏やかに、しかしその裏で歴史が静かに動き出していた。


───────────────────


ディアガル帝国──王城


漆黒の枢密院には、重く淀んだ空気が満ちていた。玉座の間を模した会議室には、帝国の最高幹部たちが居並び、しかしその誰もが皇帝ヴァルガスの苛立ちに萎縮していた。


玉座に深く腰掛けたヴァルガスは、筋骨隆々とした体躯を黒い軍服に包み、まるで彫刻のように微動だにしなかった。しかし、その鋼鉄の瞳が、中央に立つ斥候の男を射抜いている。


「……つまり、貴様は、我らが手塩にかけて育て上げた五人の『勇者』が、王都を蹂躙する魔王軍の大将ラグナを打ち破る予定が、一匹の野良犬に横取りされたと報告するのか?」


ヴァルガスの声は、凍てつく刃のように鋭く、会議室の空気を切り裂いた。斥候兵は青ざめた顔で額に汗を浮かべながら、必死に言葉を絞り出す。


「は、はい!陛下……我々が展開していたのは、アンポンス王国を救うための『聖戦』。魔王軍の総大将ラグナを討伐し、疲弊した王国を保護するという、崇高なる目的でありました!」


斥候兵の言葉に、宰相が咳払いをし、軍務大臣が渋い顔で頷く。彼らは、あくまで「保護」という名目で、弱体化したアンポンス王国を帝国の傘下に収める計画を進めていたのだ。魔王軍の脅威を利用し、その過程でラグナを討伐する功績を独占することで、帝国の権威と武威を内外に示す筋書きだった。


「そのために、この帝国が誇る五人の『勇者』を投入を予定したのだ。彼らはラグナを打ち破るべく、この1年、突出していた力を並々ならぬ訓練を積み、さらに磨いてきたのだ」


ヴァルガスの声には、憤怒の炎が燃え盛っていた。彼にとって、アンポンス王国など眼中にない。重要なのは、帝国の勇者たちが魔王軍を打ち破り、その名を世界に轟かせること。それこそが、彼の信じる「力こそが正義」の体現だった


斥候兵は震える声で続けた。

「それが……あの王国の勇者の、出現によって……。彼は、我々の計画の、全てを……ラグナの首級(しゅきゅう)を奪い、我ら勇者の功績を、完全に……」


「その先は聞くに及ばぬ。結果が全てだ。ラグナは倒された。だが、それを成したのは我らが帝国ではない。異世界から来た、素性の知れぬ野良犬だ。我が異世界の勇者たちは、その栄光を奪われたという屈辱を味わったのみ。それは洗い流せぬ事実だ!」


ヴァルガスの拳が、玉座の肘掛けを鈍い音を立てて叩いた。


「我らが帝国の栄光に泥を塗ったばかりか、我が勇者たちの誉れをも奪い去った。その野良犬、一体何者だ。そして、奴は何を企んでいる?」


会議室に、再び重い沈黙が落ちた。誰もが、皇帝の怒りの矛先が次に向かう場所を恐れていた。


一人の騎士─《剣聖》アルド・ヴァルクハルト─が陛下の前に進み出て進言する。

《剣聖》アルド・ヴァルクハルト――帝国が誇る、歴戦の武人にして、ただ一人、皇帝ヴァルガスに臆することなく進言できる男である。


 その足音は静かでありながら、玉座の間の空気を震わせていた。


「陛下」


 真っ直ぐに皇帝を見据え、短く言葉を継ぐ。


「帝国が武威によって立つ国であること、臣は微塵も疑いませぬ。そして陛下こそが、その頂点に立つお方。されど今、帝国の名のもとにあらずして、王国の者が戦場を制しました。手柄を立て、民を救い、敵将を討ち取りました」


 玉座の間に、静かな緊張が走る。


「……このままでは、帝国の威信は霞みましょう。民の目は力に向く。名の知られぬ王国の勇者が、英雄として讃えられる前に――」


 アルドは一歩、玉座へと踏み出す。だが、その声音に怒気はない。ただ重々しく、静かな闘志が宿るのみ。


「手柄を横取りされたならば、帝国はその者を討ち滅ぼすか……あるいは、味方として抱え込むか。

 それが、威信を保つ道にございます」


 口を閉ざすと、静寂が落ちた。皇帝は目を細め、重く息を吐く。

 だが、《剣聖》はただ一言、締めくくる。


「……陛下のご裁断、楽しみにしておりますぞ」

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