序 ようこそ恒河沙へ
その店に入る為には、入り口を開けてすぐに設けられた、六畳ほどの小部屋を通る必要がある。
それはまるで、雨粒や汚れ、埃なんかを、そこにあるカーペットで落とす為に設えてある様に感じた。
或いは所謂『風除室』だろうか。だがしかし、その実際の機能は兎も角として、風除室という言葉を充てがうのは、どうも、しっくりとこない。
そんな事を思いながら、二枚目の扉を開ける。それらは西欧か米国の、伝統的な様式か何かなのだろう。その名前はわからないけれど。
「言ってみれば、風除室ならぬ光除室ね」
「え?」
突如浴びせられた声に驚く。それは噂に違わぬ、美声であった。
声の主を探すが、店内は薄暗く、その姿を認められない。
まだ目が慣れていないせいもあるだろう。
光源は橙のランプの灯のみであるらしかった。
時折何かがその光を遮って陰が踊る。
それが不思議と不気味では無く、寧ろ何か、お祭りに参加している様な、そんな心持ちにさえ、なるのだ。
「風除室と言うと、どうしてもガラス張りのイメージがあるでしょう? でもあそこはガラス張りではないわ。本当はきちんと名前があると思うのだけれど、生憎建築関係には最近まで興味がなかったのよ」
こちらの暗順応を待たずして、言葉はまたも投げかけられた。
その時、カチッっと音がして、俄かに室内の明るさが増す。
それは相変わらず暖色系の照明なのだが、先ほどよりも遥かに店の中がよく見える様になった事には違いない。
そして気づく。
溢れる数々の物、物、物。
そのどれもが曰くありげであったり、『まさにアンティーク』といった佇まいをしていたり、得体の知れない異国情緒溢れるアイテムであったり……。
『統一感がないという統一がなされている』と言えそうな程に、見事にバラバラに物が集積している。
筈なのに、それが店内のオレンジ色の光や、薄黄色い壁紙、紅い色をした梁や柱によってなのか、全体では調和している様に見受けられた。
「暗くてごめんなさいね。日光を厭うものもあるから仕方ないの。直射日光はもちろん、僅かな陽の光も、極力避けたいのよ。白色照明もね」
遂に声の主を目視する。『記録的な低身長と童顔』という見た目も噂通り。服装もフリルが目立つ少女趣味なものである。だがしかし、成人女性であることは確かだろうと、その所作や雰囲気、そして独特な古式騒然とした口調からなのか、何故か確信をもって感じられる。
「そういう意味では光除室と言うよりか、陽除室とか日除室なんて呼び方もいいかもしれないわね」
声の主は、こちらの思考などお構い無しに続ける。それは当然かもしれないが、仮にもお店なのだから、こちらの様子を見て声を掛けるものではないか?
「まぁ、そんな話はどうでもいいわね」
いつのまにか、傍に若い男性が立っていた。声の主の少女趣味の服装を、『ロリータ』と呼称するような分類法であれば、彼の服装は所謂『ゴス』の系統に当たるだろうか。ファッションにはそれほど詳しくないので判然としないけれど。
「それでは改めまして……」
少女、いや、少女然とした声の主が、私を見つめる。
「ようこそ『恒河沙』へ。あなたの執着を、伺います」
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探偵事務所兼アンティークショップ兼霊能事務所である『恒河沙』に、今日も客は入らない。
『別にお金に困ってる訳じゃないからいいのよ』
とは、店の主人たる阿僧祇那由多の弁である。
曰く、『寧ろ暇で嬉しいでしょう? 最近の人は』、とかなんとか。
まるで自分は最近の人じゃないみたいな物言いだが、阿僧祇那由多ことナユちゃんは僕とそう歳は変わらない。お互いにまだ四半世紀も生きていない。人生の素人であり、ペーペーであり、新参者である。……一部意味が重複していた気がするが、例えば『四苦八苦』だってその中身は意味が重複していたりする様だから、別にいいのだろう。
……何故『四苦八苦』を例に出したのか。ピンと来ないけれど、それはそれとして……。
以前、歳下の子と付き合っていた際に、同様に『最近の子は〜』などという言い方をしているのを見かけた事があった。だからナユちゃんがそうしていても別段驚かないし、それこそ『最近の子はこうなんだなぁ』ぐらいにしか思ってないけれど。でもそれだと、僕も彼女達と同じ穴の狢という事になってしまうのではあるまいか。それはなんだか心外である。改めよう。
「ねぇ」
急に声を掛けてくるものだから、驚いてしまった。彼女との日々の経験から推察するに、これは多分態とやっていて、嫌がらせというか、悪戯というか。主に巫山戯たい時と、不機嫌な時に採用される手口であるからして、『そのどっちかなんだろうなぁ』『今日はどっちなんだろうナァ』ぐらいの気概で挑む。━━━そういう意味では予兆みたいで便利だ。警鐘と言うか、アクションゲームの敵の予備動作みたいなものだね。でもまぁ、驚くのは好ましからざるところであるので、やめてほしい事に変わりは無いが━━━
しかし何用だろうか。
アレ俺またなんかやっちゃいました?
恐る恐る、恐らく僕の右手後方、僕を見下ろして立っているであろう━━━とは言っても身長が低いので、大して見下ろせないだろう━━━ナユちゃんの方へ、振り返る。
……………………。
そこに、ナユちゃんは、居た。
そりゃそうだ! そりゃいるだろうさ!
だがその表情やら所作は決して悪戯心満載の巫山戯たいモードの彼女のそれでは無かったのだった! 残念無念ッ! ここまでかっ!
「今さっき、また何か失礼な事を考えていたでしょう」
彼女は半ば呆れているような調子で、そしていつもの『古めかしい女性口調』でそう言った。
ギクゥ。と、心の中で音がする。もちろん表層には噯にも出さないに努める。確かに僕はさっき、『なんか昔の彼女の話をするのは悪いなぁ。なんか嫌(な予感するん)だなぁ、(もしナユちゃんににバレたら)怖いなぁ。心の中とは言え』などと内心の内心レヴェルで思っていたのですが、それでしょうか?
「なんのこと?」
繰り返す様だが、努めて冷静に対処する。ポーカーフェイスが大事なんだ。
「惚けてるでしょう」
執拗な責めの手が引っ込む気配はない。ここはひとつ、何か手を打たねばなるまいて。
……そうだな、いっちょ『風変わりな事』をして、彼女の気を逸らすべか。そしてそれは常識では考えられない様なレベルの、『不可思議』なことであるのが望ましい。
そう判断した。
「エエ!? トボケテルゥ!? ナニソレ!? ミライチャンワカンナイ!」
『モノマネを仕込まれたインコのモノマネをする男』、現る。
しめしめ、これで百年の恋も冷めよう。
ナユちゃんが僕に恋をしているなんて、ありえないのだけれどね。
だからこれは冗談さ。
「…………。」
じっ
と僕を見つめるナユちゃん先生。軽く握った左手を口元に添えて覆い隠している。その右手は腕組みの要領で左肘の方へ曲げられている。ナユちゃんが何か、深刻な事を考えている時の動作だ。
これはまずい。
しかし何故だい?
僕はちょっと、『モノマネを仕込まれたインコのモノマネをする男』になっただけさ。その前は『ちょっと昔の彼女のことを思い出していた』だけさね。僕の何が悪かったというのだろう。そう思うと、何だかこれは、理不尽な圧政に思える。なんだか許せない気持ちになってきた!
「……いいわ。ミライチャン。どうしてインコのモノマネをしたのかだけ教えてくれる?」
おや? 雲行きが変わってきたぞ? これはイケる。
「それはただ僕が、楽しかったから」
どこかで聞いた言葉でお茶を濁す。『何それ』とでも言っていつもみたいにクスクス笑ってくれ。そうすれば全てが丸く収まるんだ。別に丸く収めなくてもいいけど。
尖っていこう。
どこぞのビールのCMみたいだ。
「…………そう。相変わらず、変な人ね」
そう吐き捨てて、彼女は自分の席に戻っていく。
ふうぅぅぅぅぅぅぅぅ、一命を取り留めたぜぇ。
僕は心の中で冷汗を拭う。
「今日はお客さんが来るからね。ちゃんとしてよね」
ひえぇ。もう大丈夫だと思って弛緩しきったところに、また彼女の声が浴びせられて、こっちに戻ってきて隙有り御命頂戴の再追求がはじまるのかと思ったぜぇ!
実際はそんなことなくて、単に『お客さんが来る』というノーティスだった訳だが……。
ん?
お客さん?
「まぁ、そうは言っても、まだ暫くは来ないと思うけれど」
「え、今日予約あったっけ?」
「いいえ。予約はないわ。でも、来るわよ」
「あっ」
このパターンか。久しぶりだったから最初の頃の様な察しの悪さを演じてしまった。
彼女曰く『そういう事がわかる時がある』のだという。
僕自身は全くそういうことは実感出来ないけれども、彼女の力については実感を以て確信している。
僕は彼女を尊敬しているし敬愛しているけれども、親愛の情から、気を許しすぎて、ついつい彼女に巫山戯た態度をとってしまう日もある。
しかし『親しき仲にも礼儀あり』という言葉がある様に、ある程度は弁えなければならない。
とはいえ余り好印象を与えるような事をし続けてバランスを欠いても良くない。この塩梅が正直ちょっと難しい。素人にはわからないでしょうね! ふぇふぇ〜ん。
ん、なんかものっそい話がズレていってる気がするぞ! 気のせいか!?
「悪いけど、いつも通りに応対の半分くらいは宜しくね」
「ん? ああ……任せて」
「ん。 ありがと」
くだらない思考に終止符を打つ様に、ナユちゃんがいつものお願いをしてくる。こんなのに毎回言わなくてもいいのに、毎回言うのは律儀だ。律儀なのは嬉しいけれど、もうちょっと信用して気を許してくれてもいいのになと思う。まぁそれは追い追い。そのうち時間が解決してくれるだろうさ!
ビバ! 単純接触効果!
…………う〜ん。
どうにも今日は、他人になった様な心持ちがするなぁ。
ま、そんな訳ないけどサ。
さて、と。
僕はお気に入りの、ダークグリーンのカウチから立ち上がって、彼女に声を掛ける。
「お茶を淹れるよ。次は何にする?」
「そうね、今はチャイが飲みたいわ」
「チャイ? 珍しいね?」
「ええ。ダメかしら?」
「全然いいよ! 珍しいなって思っただけ」
「良かった、ありがとう。理由は多分、仏教の話もしたからね」
「ああ、名前の話ね」
「そう。それで多分インド繋がりよ。誰かさんの言う様に安直なの」
「あれ? もしかして根に持ってる?」
「そんなことないわよ〜」
そうだろうか。まぁ彼女がそういうならそうなんだろう。そういうことにした。
あと別に、今日はインドの話はしていない気がするが。チラっとサンスクリット語とかガンジス川が出てきたぐらいで。今日はなんだか、彼女もおかしいな。彼女の真似をして言えば、『何か人智を超えた不可思議によって、何らかの影響を受けている』のかなともチラっと思ったが、どうなんだろうか。
まあいいか。どうせ僕には、わからないことだ。
僕はチャイを淹れる為に、キッチンに向かうべく歩き出す。
「お手間よね。ごめんね。大変だったらいいからね」
背中に投げかけられる、そんな言葉。
「ハハ、ノープロブレムさ。任せて」
変に外人みたいに返しをしてしまった。
う〜ん、やはり、今日は僕も彼女もなんだかいつもの僕や彼女じゃないみたいだ。
なんなのだろう。気持ちが悪い。心が思う様にならない。
これぞまさに、以前調べた、『五蘊盛苦』ってやつだろうか。
…………?
『五蘊盛苦』なんて、いつ調べたっけ?
不快な疑問を、振り払う様に、再びキッチンへ向かった。