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栞のメッセージ

 寂沢の湿地帯に夏は来ない。

 いま初めて気づいたわけじゃないけど、十三歳になったこの夏、わたしはつくづくと思い知った。だっていまは六月?じゃなくてもう七月に入ったはずなのに、寂沢湿地を吹き渡る風は冷え冷えとして温もる気配もない。陽射しの熱量は薄っぺらであまりにも頼りない。あれよという間に跡形もなく、冷たい沢風に噴き払われて霧散する。


 寒いからって困ることなんかべつにないよ。貴大くんは言った。コンピューターやAIママンだって暑さに弱いから、訊いてみれば絶対寒い方がいいって言うだろうな。

 なんでこんなに寒いのかと、ボヤいたわたしに貴大くんはさらりと言ってのけた。オレもわりと平気だよ、寒いくらいのほうが動きやすいし、なんか考えるにも集中できる。それと。貴大くんはわたしをチラ見してニヤついた。だれかとくっついていられるのが楽しいし。


 言っておくけど、そのだれかってわたしのことじゃない。なぜならわたしは、貴大くんと“くっついて”いたことなんて、一度もないのだ。帰りの途々よくよく考えてみたけど、やっぱり思い当たることはない。

 貴大くんが廃車を生き返らせた赤いマウンテンバイクの後付け荷台に乗せてもらったとき、落ちないようにしっかり背中につかまったことはあったけど。でも、あんなのは“くっついて”いたうちに入らない、そうだよね?


 冷たい沢風に晒されて冷え切ったわたしの頭に浮かんだのは、A組の最前列でだれより一番目立っていた、前髪をサクラピンクにカラーリングした女子だ。A組の最前列にいるのだから、サクラピンクの前髪はもちろん背が高い。その横に立っていた貴大くんと同じくらい、ちょうどいいバランスの高さだ。


 そうなんだ。

 この二年足らずの間に貴大くんの身長はぐんぐん伸びた。とっくの昔にC組のチビッ子カテゴリーから抜け出し、瞬く間に中くらいのB組を跳び越え、ノッポのA組に仲間入りをしてのけた。


 わかってる。

 わたしも貴大くんもほかのみんなも、成長期の真っ只中にいる子どもなのだ。ぐんぐん伸びた子があちこちにいる。そんなの大して珍しいことじゃない。身長が高い順に並ぶ整列では、頻繁に立ち位置が入れ替わる、それだって、わりとふつうのことだ。


 ふつうじゃないのは、わたしの身長がちっとも伸びないことだった。わたしはいまもC組にいる。それも、34か33か32番目あたりを行ったり来たりしている。それより前の席順を得たことは、まだ一度もない。


 サクラピンクの前髪の女子が、わたしの目の前に聳え立っていた。四角いゾウの鼻の入り口を通せんぼするみたいに。実際、寂沢小中学校の正面玄関はぴったりと堅く閉ざされてあった。


 わたしは途方に暮れた。

 実は過去二回、本の部屋へ来たけど貴大くんには会えずじまいだった。最初に読んでもらった『夏への扉』をパラパラとめくったりして、長い時間をつぶした。十ページくらい、声を出して読みあげたりもした。それでもやっぱり、貴大くんは来なかった。


 その日が異変の三回目だった。

 貴大くんの代わりにサクラピンクの前髪女子がいた。本の部屋にはもう入れないとわかった。どちらもとくに意外ではなく、さほど驚きはしなかった。

 わたしはただ、途方に暮れていた。


「あんたNОМでしょ?ТKHがC組にいたときともだちだったよね?」


 ドボンと沈み込んだわたしの気分を引っ張り上げてくれたのは、奇妙奇天烈なこの発言だった。わたしの耳は、ネコみたいにピンと立った。

 サクラピンクの前髪女子はこんな具合に、人の名前をテキトーすぎるアルファベット三文字にまとめて呼ぶという、ヘンテコな癖の持ち主だった。そうするのがごく当然だというように、初対面のわたしをいきなりアルファベット三文字で呼んだ。


 それはとくべつ悪いとか迷惑とか責めるほどじゃないけど、たしかに奇妙奇天烈な癖だった。NОМと呼ばれたわたしは面食らい、思わず自分の後ろと左右を見まわした。もちろん、ほかにはだれもいなかった。


「そっちこそ、だれ?」

 わたしは精いっぱい背伸びして、頭ひとつ分長身の相手に訊き返した。

「あたしの名前はLLRっていうの。ТKHがA組に来たときからずっと、ともだちしてるんだけどさ、聞いてなかった?」


 聞いてるもんか。わたしは密かに思った。

 頭ひとつ上の高さから降りかかるLLRの声は、その図体と不釣り合いに甘ったるく、鼻濁音とベタつく語尾が耳に障った。ノッポすぎる身体をふにゃりとひねってシナをつくるみっともなさも、甚だ目障りだ。

 そしてなにより、これからその口が発するに違いない不快な言葉を予感させられ、わたしの気分は大いに逆撫でされた。


「ТKHはね、大陸へ行くことにしたのよ、あたしたちみんなと一緒に。だからもう、ここには来ないのよね、あんたがいくら待っていても」


 言うなりLLRのひょろ長い腕が目の前に突き出され、三冊の文庫本をわたしの手に押しつけた。半分ちょっと読んだところで中断している『殺意の夏』、これから読むはずの『予告された殺人の記録』と『神は銃弾』。たったこれだけ。他に何十冊もの本があったのに、わたしの手に残るのはこの三冊だけなのか。

 思った途端、わたしは泣きベソ顔になったのかもしれない。LLRに可哀そうだと思われるくらいの泣きベソ顔。きっとそうなんだろう。LLRは心なし柔らかな口調になって、わたしを慰めるように付け加えた。


「十五になったから行くんだよ、あたしもТKHも、ほかのみんなもね。あんたさ、あしたのフェスに来れば、もしかしてТKHを見れるかもよ」


 よりいっそう奇妙奇天烈なことを言い捨てて、LLRは足早に去った。呼び止めるのも追いかけるのも業腹だったし、所詮ムダな気がした。だからどちらもしなかった。

 わたしはただ、途方に暮れていたのだ。


 だからさ。

 あのとき貴大くんは言ったのだ。ちょっと呆れたみたいに軽く溜め息をついて。この前にした暖かい北極と冷たいシベリアの話、覚えてるだろ?うん、覚えてるよ。言ってみな。ええと、地球が暖かくなって北極の氷が融けたら、その氷温の水が流れて行った先のシベリアは冷たくなっちゃうんだよね?暖まるんじゃなくて。


 夏なのに。

 寂沢湿地はなんでこんなに寒いのかとわたしがボヤいたときだった。貴大くんはいつもよりたくさん喋ってくれた。それが新しい知識のレクチャーなのか、ただのお喋りなのか、それともいくぶんスケール大のおふざけなのか、わたしに区別はつかない。けど、そんなの実はどうでもよかった。貴大くんが熱を込めてわたしにたくさん喋ってくれること、ただそのことがうれしくて楽しかったのだ。


 それでさ。

 貴大くんはこうも言った。その北極で融けた氷温水がいまや盛大にじゃぶじゃぶ溢れまくってシベリアだけじゃなくこっちのほうにも流れてくるからさ、とびきり冷たい氷温水が寂沢湿地帯に浸み込んでじんわり冷やしてる、だからここはシベリア並みに寒くて夏が来ないんだ。


 耳に残る貴大くんの語り声は、わたしを包み込んで勇気とポジティブ気分をもたらしてくれる。頭の中でその声を何度も繰り返し聴きながら、わたしはわたしなりの考えに耽る。

 LLRにあってわたしに足りないものって何?十五歳になるまであと二年もかかるのは、どうしようもない事実だ。でも、低い身長の方は頭ひとつ分でなくても、あと少しだけ伸びればいいんじゃないの?いまよりオトナっぽく見えるくらいに、あと少しだけ。そうなるまでに、きっと二年もかからないはず。


 お母さまはお出ましにならない。

 なぜだか、きょうに限って。わたしがこんなにも心乱れ、知りたいことが山のようにある日に限って。お母さまはそ知らぬふり決めこみ、黙してひと言も語ろうとしない。


 その代わり、みたいにテーブルに並んでいるものたち。まるで、お母さまのお留守を埋め合わせるように、賑々しいあれこれ。


 まず、このスィートルームへ来てから毎日飲んでいるカッツゲン100ミリリットルが二本。古くからこの地に根づいた健康促進のための乳酸菌飲料だ。もちろん、わたしの元に届けられるカッツゲンとシティの人々に配られるそれとが、まったく同じものだとは思えない。


 だって、スペシャルカッツゲン。お母さまはそう呼んだのだ、冗談めかした調子で。ナオミのためのスペシャルカッツゲン、だからLLR的に言えばSPG?あ、これって案外いいかも。ナオミが美しく賢く健やかに、より好ましい“奈緒美”に育つよう、お母さまの願いと愛がたっぷり込められ、各種ビタミンとミネラルとその他諸々の有効成分ではち切れそうなこの飲料は、カッツゲンよりSPGと呼ばれるほうがふさわしい。


 スィートルームの室温はお母さまにとって快適な18℃に保たれている。でもわたしにはちょっぴり涼しすぎるので、ホカホカのパンケーキを焼く間に熱々の葛湯もつくる。もちろんどちらにもスペシャルカッツゲン、じゃなくてSPGをたっぷりと加える。砂糖いらずの甘酸っぱさが、シロップ代わりにちょうどいいのだ。


 SPG葛湯をからめたパンケーキの大きなひと切れを頬ばり、噛みしだいてもう一本のSPGを飲み干した。いつもより甘味が濃いように感じるのは、気のせいだろうか。気のせいじゃなく本当に濃縮されていたとしても、わたしはべつにかまわないけど。


 ワンシーズンでも早く身長が伸びて大人に近づけるなら、なんだっていいとさえ思えた。“過剰摂取”だの“副反応”だの、聞きかじった漢字コトバが頭をよぎるけど、そんなの知らないフリでスルーしておく。でも、なぜだかドキドキして胸が痛くなってくる。


 乱れた動悸を鎮めたくて、わたしはテーブルに並んだ三冊の文庫本を眺める。貴大くんが辛抱づよく読み聞かせてくれたので、あれからずいぶんたくさんの漢字を覚えた。『殺意の夏』、『予告された殺人の記録』、『神は銃弾』。貴大くんがいなくても、たぶんひとりで読めそうな気がする。どんな基準か知らないけど、貴大くんがわたしのために選び、本の部屋から持ち出してLLRに託してくれた、この三冊。


 わたしに本を読んでくれる約束を、貴大くんが忘れずにいてくれたことはうれしい。でも、わたしには見当もつかない不測の事態によって、とても大切な何かが根こそぎ変わってしまったことを、LLRから知らされたのは悲しかった。そうなんだ、わたしは悲しくて堪らないのだ。


 十五歳になったら。

 この地に留まるかそれとも大陸へ渡るか。ネイティブニッポンの子どもたちは皆、選んで決めなくちゃならない。そのことはなんとなく知っていた。なのに、わたしは油断した。十五歳になってもわたしはここに、お母さまのそばにいるのだと思ったから。それはすでに決まっていることで、わたしには変えようがない。だからなんとなく、貴大くんも同じようにここにいるのだろうと、思い込んだのだ。


 これじゃまるで。

 わたしは“可愛いエリアーヌ”よりもおバカな女の子だ。始めはただひたすら、エリアーヌのことを可哀想な女の子だと思った。そう言うと貴大くんは『殺意の夏』に栞を挿みながら、可愛くて哀れなおバカさんのエリアーヌ、と即興で歌い出した。透き通る高音を本の部屋いっぱいに響かせ、のびやかに歌い続けた。それでもエリアーヌを追いかけるピーポーってやつはもっとずっとおバカだよな、気持ちはわかるけど。


 あの栞。

 わたしは大わらわでページをめくった。震える指先にうまく力が伝わらなくてもどかしい。テーブルに小さな紙片がはらりと落ちた。貴大くんが挿んだ栞。もともと文庫本の中にあった昔の栞をそのまま使っていた。少し色褪せた水色の小さな厚紙。その片面に薄い黒インクで書かれた文字、それはたしかに貴大くんの字だった。


『オレたちは殺される側にいる』


 わけがわからなくて首を傾げたとき、二冊の文庫本の合間にきらりと光るものを見た。『予告された殺人の記録』の厚みに身をひそめるように、シルバーのペンが一本隠れていた。わたしはこんなペンを持っていない。そしてこのスィートルームに、ペンを使うような人は他にだれもいない。


 そのペンは一見何の変哲もないプラスチック製のようだった。けれど、手にすると意外な重さと硬い感触があった。頭頂部のボタンをノックしてみる。ボールペンと蛍光マーカーのほかに、タッチペンらしきものがついた3wayだ。こんな多機能ペンがあったなんて知らなかった。広告でも文房具の注文サイトでも見たことがない。わたしが気づかなかっただけかも、知れないけど。


 それとも。

 ふっと思いつき、タッチペンでタブレットに触れてみた。お母さま専用のはずのタブレットミラーが即座に起きた。映像はシティの街並みを高台から眺めた風景だ。見覚えのある、懐かしい景色。寂沢小中学校の本の部屋の大窓から、シティを眺め下ろしたこの風景は貴大くんと一緒に見たものだった。

 やだ、お母さまにバレバレだったなんて。



   引用文献


        「殺意の夏」   セバスチャン・ジャプリゾ 創元推理文庫

        「予告された殺人の記録」G・ガルシア=マルケス 新潮文庫

        「神は銃弾」         ボストン・テラン 文春文庫





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