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はじめの貴大くん


 寂沢小中学校は四角いゾウの顔をしている。

 あたしがつぶやくと貴大くんは、まあゾウだね、と返した。ダジャレのつもりらしかった。

 左右対称に並んだ三階建校舎の窓列が、広げたゾウの四角い耳に見える。中央に張り出した正面玄関は、角張ったゾウの鼻。そして左右に一個ずつある小窓が、四角いゾウの目に見えた。


「なんでゾウに見えちゃうの。こんなに四角いのに」

 言い出しておいて不思議がるあたしに、貴大くんは答えを提案してくれた。いつものようにさり気なく、しかも的確に。

「バランスのせいじゃないかな。目と鼻と耳の位置のバランスがゾウと同じだから、ゾウに見えるんだよ」

「へえ。そっか」

 貴大くんはもの知りだ。この世界の秘密を全部、知っていそうな子。それなのにやさしい。そのことにあたしは驚く。会うたび驚かされる。


 四角いゾウの鼻の下、雪の壁に隠された掃き出し窓の細い隙間から、貴大くんはするりと校舎の中へ滑り込んだ。後に続いてあたしもするりと行きたかったがやっぱりそうはならず、床板の凸凹に躓いてガラス戸の縁にゴツンした。それでも貴大くんは笑わなかった。ただ、ほんの少しだけ微笑んだだけ。


 ゾウの鼻の内側はその先に大広間でもありそうな幅広い階段だった。いつの時代か遠い昔にはこの幅広い木造の階段を、大勢の生徒たちが昇り降りしていたのだろう、ずいぶんと長い年月にわたって。一見頑丈そうだがよく見れば、ステップのところどころにひび割れや、大きかったり小さかったりパクンと口を開いた亀裂があった。


 気をつけて、ついて来なよ。

 貴大くんはそう言うと幅広い階段のひび割れステップを避け、右端に寄ったり左へずれたり二段跳びしたり、すいすいと昇って行った。ステップに残った足跡が、以前に何度も往復したことを物語っていた。その足跡を慎重になぞり、あたしも階段を昇った。ときおり大きな亀裂の入ったステップが、あたしの重さに耐えきれないというようにギシギシと不気味に鳴った。


 ゾウの鼻より上、額の辺りの内側に本の部屋があった。こんなあたしだって街に行けば図書館というものがあることは、なんとなく知っている。ここよりずっと大きな部屋いっぱいに、大きな本がたくさん並んでいる建物のことだ。でもここは、それとは違う気がする。


 この部屋は小さな空間だけど片隅ではなく、校舎のど真ん中にあたる正面玄関のてっぺんに位置した。だからして、明るい。大きな窓から遮るものなく射し込む光が溢れている。その光が三方の壁にびっしりと積まれた本の背表紙に跳ね返されてまぶしい。背表紙に記されてあるはずのタイトルが、見えないくらいにまぶしいのだ。


 張り出した正面玄関と中央階段の上に、ちょっぴり余ったスペースを納戸のような小部屋にした、そんな感じだった。暖房はないけど溢れる日射しがこもってポカポカと充分に温かい、気持ちのいい場所だった。


 部屋の真ん中に生徒用の小さな机と椅子がふたつずつ、窓を向いて並んでいた。片方の机の上には掌サイズの小さな本が左側に二冊、右側に三冊、真ん中に一冊。貴大くんの読みかけらしいその一冊には、キラキラした小さな紙切れのようなものが挟まっている。よくよく見るとチロルチョコの包み紙だった。


 食べよ。そう言って貴大くんははにかんだ。一個だけど。あたしの掌に黄色い包み紙のチロルチョコが一個、落とされた。どこでどうやったら、こんな稀少なものが手に入るのだろう。訊きたかったけど、訊いてはいけない気もした。あたしは喋る口をつぐみ、包み紙を丁寧に剥いたチロルチョコを舌にのせた。甘いチョコのお菓子。涙が滲んでくるほどおいしい。噛んでしまうのがもったいないくらいだ。


 あたしたちは申し合わせたようにゆっくりとチロルチョコを味わい、幸せな気持ちになった。それから机の上に置いてあった本を手にした。

 真ん中の一冊がいま読んでる最中、右の三冊は読み終わり、左の二冊がこれから読む本だと貴大くんは言った。とりあえず、選び出した六冊。


「本を読むためにわざわざここまで昇って来るの?借りていったらいいんじゃない?」

 あたしが思ったままを言うと、貴大くんは少し考えた。

「ここへ来て読むのがいいんだ。それと、無断で本を持ち出すのはなんとなく気が引けるし」

「そっか。誰に断ったらいいのかわかんないもんね」

「それとさ、ここにあるときはちゃんとした本だけど、この部屋から出してしまったら、ただの古ぼけた紙の束になってしまう気がするんだ」


 ただの古ぼけた紙の束。

 ホント言うとついさっきまで、あたしにとってはそのほうが実感に近かった。この部屋にはあまりにも難しそうな本がたくさんあり過ぎたから、気押されて引いてしまった。なんといっても漢字が苦手なあたしは、どれか一冊でも読み通せる気はしなかったのだ。


 貴大くんがもの知りなのは、ここにある本を片っ端から読んでいるせいだ。本に書かれてある知識は悉く、貴大くんの丸いメガネとやさしい瞳を通り抜け、その奥にある容量無限大の脳ミソに収められてゆく。でもそんなこと、とてもじゃないけどあたしにはマネできない。


 机の上の本は、どれも小さくて持ちやすいのがよかった。そして読みやすい?でもなかった。だって、あたしには漢字モンダイがあるから。

 貴大くんの語り口は、だんだんと熱を帯びてきた。

「この小さい本は文庫本ていうんだよ、聞いたことない?」

 ない、とあたしは思う。

「この大きさは文庫サイズといって、けっこう定着していたみたいだけど」

 文庫サイズ。その呼び方はなんか好き。思いながらあたしは、これから読まれるために待機中の左側の二冊を手に取り、カバーの表を見た。そして、内の一冊の表紙の絵柄に目を奪われた。


 ネコの後頭部、じゃなくて後ろ姿というべきか。顔は見えない。けど、キジトラ模様のネコが耳をピンと立てている。それだけで何かを注視しているとわかる。微かに警戒するような気配も漂う。


 ネコの視線の先には、白い光の中に紛れたヒトの右目があった。大人の男性の目だと思う。でも、飼い主じゃない。ただならぬ険しさが感じられるから。それじゃ後ろ姿のネコにとって、この右目だけのヒトは一体誰なのだろう。知りたくなってくる。


「ねえ。このネコ、何見てるのかな?」

 貴大くんの顔つきがパッと明るくなった。

「あー、それ。オレも思った。だから読む気になったんだ」

「けど、まだ読んでない?」

「一番の楽しみは最後に取っとくタイプって、いるだろ?」

「いると思う。会ったのはいま初めてだけど」


 貴大くんはニヤリとしてからまた考え込み、少し迷った後で言った。

「奈緒美ちゃんが読みたいんなら、先に読んでもいいよ」

「読んでみたいけど」

「だから、読みな」

 貴大くんは表紙に後ろ姿のネコがいる本をあたしに差し出した。でも、あたしは受け取らない。ていうか、そうしたくない。

「漢字がいっぱいあるでしょ?」

 貴大くんは、後ろネコが表紙の本のページをパラパラとめくった。

「昭和五十四年五月三十一日発行だってさ。そりゃあ、容赦なく漢字だらけで、文字サイズも小さいわけだ」

「貴大くんは読めるんだよね?」

「なんとかイケる」

「あたしは読めない」

「へ?」

「読みたいけど。読めないと思うの」

 

 四角いゾウの鼻のてっぺんに、ひっそりとかくれんぼしている小さな本の部屋で、貴大くんは後ろネコが表紙の本を読み始める。あたしのために。自分が読むだけじゃなく、声を出して読み上げることで、あたしにも読ませてくれる。


 まず、タイトルから。

 あたしは訊き返す。

「なつへのとびら?とびらってドアのこと?そんなドアがあるの?」

 コホンとひとつ咳ばらいをした貴大くんは、本の中の一節を読んだ。

「『彼は、その人間用のドアの、少なくともどれかひとつが、夏に通じているという固い信念を持っていたのである』、だってさ」


「カレって誰?」

「だから、ネコだよ。ピートっていう名前のオスネコ、こいつのこと」

 貴大くんは、本の表紙の後ろネコをトントンと、指先で示す。

「オスなの?」

「らしいね。いーじゃんか、オスかメスかなんて。結局どっちかだろ」

「べつに、わるくないけど。じゃあこの子、オジサン顔してるのかな」

「あー。だから見せないでおくとか?あり得るかも」


 ひとしきり笑い合ってから、貴大くんはいよいよ本文を読み始めた。

「『六週間戦争のはじまるすこしまえのひと冬、ぼくとぼくの牡猫、護民官ペトロニウスとは…』って、なんなんだこれは?」

 さっそく意味不明な記述に出くわし、またパラパラとページをめくって、行ったり来たりを繰り返す。なるほど。あたしはつくづくと思う。貴大くんはわからないことを、放ったらかしておけない人なんだ。


「ねえ。どんどん読んでいって。わかんなくてもいいから」

「いいの?わかんなかったらつまんないだろ」

「なんとなくでいいの。きちんとわからなくても大丈夫」

「へえ」

「だから。つづきを読んで。知りたいことがあったら、そのときに訊くから」


 こうして貴大くんは『夏への扉』を本当に読み始めた。

 その声は決して張り上げていないのに、むしろ抑えたささやきなのに、机ふたつ分の空間を軽やかに跳び越えてあたしの耳に届いた。難しい熟語や複雑なプロットはまるきり理解不能だけど、ちっとも退屈を感じない。貴大くんの声そのものに備わっている美しい音色が、心の隙間を満たしてくれるから。


 四角いゾウの鼻のてっぺんに、かくれんぼしていたはずの本の部屋は、にわかに、その声の音色で弾き語る貴大くんのステージに変容した。


 窓辺に大勢のハトたちが集まってきた。互いにクルックルッと鳴きかわすその様は、まるで貴大くんと一緒に歌いたがっているようだ。

 あたしはハトたちに向かってシッと、唇に人差し指を立てて見せた。すると、ハトたちがさざめいた。なにやら不満そうだ。まるで、自分たちはこの歌声といつも一緒に歌っているんだから放っておいてくれと言いたげに。


 貴大くんが顔を上げると、長めの前髪が丸いメガネの縁で揺れた。

「あのさ。もし冷凍睡眠があったら、やってみたいと思う?」

「どうかな。あたしは夏があるところへ行きたいな、ピートみたいに。夏だったら、冷凍されて眠らなくても行けるもんね?」

「あ、夏ね。いいな。オレもそっちへ行こうっと」


 貴大くんのクルックルの巻き毛が、溢れる日射しを受けて金茶色に輝いた。



  引用文献 「夏への扉」 

        ロバート・A・ハインライン著 ハヤカワ文庫


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