C組34番の子は
フィギュアスケートかスピードスケートかどちらかのブーツを、C組の子どもたちは1番から順に選び取っていった。32番目までは大体半々くらいの比率だった。順番を待つ間のあたしはどっちでもいいと思っていた。けれどジャンプしたりくるくる回ったり、有名なフィギュア選手の演技を思い浮かべたら、そんなのは遥かに遠い世界の出来事に思えた。ほんの少しでも近づける気はしなかった。
だから33番目のあたしは、スピードスケートのブーツを手に取った。べつにそれが気に入ったわけじゃないし、スピードスケートのことなんかなんにも知らなかった。でもサイズ22センチ、ちょうどいいのが目の前にあったのでそれを取った。
そうしたら。
ついさっきスピードスケートを手にした32番目の子が、サッと振り向いてあたしの手もとをガン見した。ゲッと小さく吐き捨てるなり自分のスピードスケートをカートンに戻し、代わりにフィギュアスケートのブーツを取ってサイズを確かめ、逃げるように列の前のほうへ割り込んで行った。それだけの動作を、あたしが瞬き二回する間にやってのけた。
呆気に取られて固まっているあたしの目前で、もっとずっと信じられない連鎖反応が起きた。前にスピードスケートを選んだ子たちが10人以上も、雪崩を打ったような勢いでわれ先にとカートン周囲に戻った。そして皆が皆、揃いも揃ってスピードスケートをカートンに放り込み、代わりのフィギュアスケートを手にすると、何事もなかったように列に戻って並んだ。
C組の1番から32番までの全員が、フィギュアスケートを持って整列していた。まるで、始めからそうだったみたいに。そして誰一人私語する者もなく押し黙り、あたしから目を逸らした。まるきりわけがわからなかった。
あたしはポカンと宙に浮かんだような気分だった。べつにスピードスケートをしたいわけじゃないもんね。そうつぶやいて自分もフィギュアスケートに取り換えようかどうしようか、決めかねていたら背後からスッと手が伸びた。そしてごく当たり前のように、山盛りのスピードスケートの中の一足を選び取った。34番目の子だった。
そのとき初めてC組34番の子の顔を、まじまじと見たのだった。丸顔に丸いメガネ、長めの前髪。男の子にしては小さいと感じた。でも、それを言えばC組の子は皆小さい。あたしも小さい。A組やB組の子たちと比べたらSサイズなのだ。
C組の中で一番身長の高い子が1番だった。だから33番と34番の関係性は紛うかたなきチビッ子同士、ビリッケツかビリから二番目かのどちらかだ。
スケートリンクへたどり着く前に、ビリッケツが入れ替わった。C組34番の子は小さくてもすばしっこく、やけに速足だった。すぐに追い越された33番のあたしは二歩分くらいの間をおき、後からついて行く羽目になった。それにしてもキツイ。二歩分だった間隔が三歩分から四歩分へと見る見る広がった。待って。言いたかったが、声を出すのは憚られて言えなかった。
あたしの声が聴こえたはずはないのに、34番の子はつと立ち止まって振り向いた。そのまま身じろぎもせずにひっそりと佇んでいる。そしてあたしが二歩分くらいまで追いつくと、はにかむように微笑んでまた歩き始めた。今度は速足じゃなくて、ゆっくりめだった。
〈寂沢小中学校〉と記された門柱と廃校舎の間の広いスペースに、大きくて少し歪な長方形の氷が張っていた。くたびれていたあたしには、ものすごく大きく見えた。それが校庭に造られたスケートリンクだと、34番の子が指さして教えてくれた。
スケートリンクの中心より向こう側に、フィギュアスケートを履いた32番より前の子たちが集まっていた。歓声は聴こえるけれど充分に遠い。なんだかホッとした。
C組34番の子は右足をスピードスケート靴に差し入れた。見よう見まねであたしも同じことをしようと試みた。トントンと蹴ってかかとを合わせた。これが意外とむずかしい。スピードスケートのブレードは靴より長く、前後に突き出しているからだ。
左足をスケート靴に入れるのは、もっとずっとむずかしかった。靴底がブレード一枚となった右足で立ち、バランスを取りながら踏ん張らなくちゃならない。何度もぐらついてそのたびにコケた。真っ直ぐに立つってどんな感じだったか、あたしはもう忘れてしまいそうだ。
ところが34番の子は、どっちもやすやすとやってのけた。もたつくあたしを眺めて困ったように、小さな溜め息をもらした。でもこれ見よがしじゃなくて、丸いメガネの奥のまなざしはやさしい。あたしはそのやさしさに力を得て、恥かきついでに『寂沢』の読み方を訊いた。
「さびさわ小中学校、だよ」
「さびさわ?」
「そ。寂しい沢だもん、まんまだろ」
「なんで寂しい沢なの?」
「そこまでは知らん。あのさ…」
「なに?」
「ほんとに知らんかった?寂沢の読みとか校庭のリンクとかスケート靴の履き方とか」
「知らなかった」
そういえばお母さまは、ニッポンの子どもの生態や漢字の読み方などに関心が薄く、ほとんど話題になさらないのだ。
「そんならトーゼン、滑り方も知らなかったりする?」
「する。そっちはうまいんでしょ?」
「うまいってほどじゃないけど。だってオレ、スケートすんのきょうで三回目だからさ」
たったの三回目。
そう言ったくせに34番の子は、やっぱりスピードスケートを履いてもビュンビュンと速く走った。シャカシャカシャカっと漕ぐなりグイグイ加速して、ビュンビュン。そのブレードはいろんな音を鳴らした。
そうして長方形のスケートリンクの長い一辺を、軽快に行ったり来たりした。弾むような身のこなしで、見るからに楽しそうだ。やっと立っているあたしのそばをすり抜けるとき、ぶつかったふりをして派手に転んで見せた。それは、あんまり痛くない転び方のお手本だった。
「出来過ぎ。三回目なんて噓でしょ」
あたしがむくれてみせると、34番の子はまた困ったように微笑んだ。
「嘘じゃない。二回見れば三回目には大体出来る。なんでか知らんけど」
「わかんないのに出来ちゃうって、なんでよ?」
「それがわからんって、言ってるだろ。そっちだってさ…」
「なに?」
「知らんことが多過ぎるんじゃね?あそこから来たわりに」
34番の子は東の空にそびえ立つリゾートホテルの最上階をさした。
「それ、どういう意味?」
「そっちのアタマの中、脳みその半分以上が人工知能に替えられたとかなんとか、あいつらが言ってる。もっぱらの噂」
あいつらとは、C組の1番から32番までの集団のことだ。なるほど。だからあんなにあからさまに、あたしを毛嫌いしたのかと合点する。
「バカみたい」
「だよな」
「アタマが半分以上もAIだったら、こんなポンコツじゃないでしょ」
「だよなー。あ、ごめん」
「いいよ。ホントだから」
「じゃ、AIオバサンの子どもになったっていうのも、ホントかい?」
「それは違う。同じ部屋にいるだけ。いなさいって言われたから」
「なんで?」
「知らないけど。あたしを見ていたいのかな。ねえ、なんかペット飼ったことある?」
「あー。昔ウサギ飼ってた。一日中でも見ていられたよ、可愛くてさ」
「そんな感じだと思う、たぶんだけど」
数え切れないほど転んだあたしのミトンは氷の削り屑にまみれ、その氷は体温で溶けてびしょ濡れになった。その水気がまた凍り始めたから、もはや掌を入れてはいられない。とにかく冷たい。指先が痺れて痛い。
34番の子は自分のミトンの右手をあたしに貸してくれた。右手ミトンの中はほんのりと温かく、一度はめたらもう脱ぎたくなかった。吹きさらしの左手はやむなくポケットに突っ込んだ。
34番の子は逆に右手をポケットに入れ、少しためらってから意を決したように言った。
「そっちの名前、なんていうの?」
あたしはスケートリンクの縁の雪の上に、ブレードカバーの先っちょを使って覚えたばかりの漢字の名前を書いた。
「『奈緒美』っていうんだ?へえ、奈緒美ちゃんか」
そして34番はポケットから出した右手を寒風にさらしながら、自分のブレードカバーで雪面に『貴大』と書いた。
あたしはその名前の読み方をはっきりとは知らなかった。けれどもちろん、予想はついていた。高鳴る胸騒ぎを鎮めたくて、自分から言った。
「タカヒロくんって、読むんでしょ?」
「そう、ナオミよりありふれた名前だよ。だってさ、2038年現在で0歳から60歳までの男子の29パーセントが、タカヒロなんだから」
あたしはいま聞いた数字の意味するところを考えようとした。0歳から60歳までの男子、その29パーセントがタカヒロ。どれだけ多いのか見当もつかなかった。けれど、とにかく多いことは確かだ。多すぎる。あたしはブーイングを鳴らしたい気分だった。