バターまみれのポテトソテー
連合国軍侵攻以前、ここはシティで一番高級なリゾートホテルだった。けれど、いまはお母さまと随行スタッフが任務を遂行するための総本部庁舎となっている。それはつまり、あたしたちのニッポン国の北半分を統治する女王様のためのお城ってこと。そしてもちろん、女王様とはお母さまのことよ。
最上階のスィートルームの小さなキッチンは、あたしのために後付けで備えられた。といっても、電子レンジとIHコンロをドンと置いただけ。あたしはいま、もとはピカピカだった大理石の洗面台でジャガイモを洗っている。あたしが片手でやっと持てるくらいに大きなジャガイモだけどたったひとつ、きょうの収穫はこれだけだったの。
突進してきた大ブタに盗られるもんかと、素早くシャツの裾に包んで持ち帰った貴重なジャガイモだった。洗いながら傷みがないか丁寧に調べた。まずまず大丈夫とわかってほっとした。だってきょうのゴハンはこれっきり、ほかに代わるものはないのだから。
ピーラーで慎重に皮を剥いてゆく。なるべく薄く、でも芽の凹みはきちんとえぐり取らなくちゃ。そう教えてくれたのは子ども配給所で給食を作っていたお兄さんだ。名前は知らない。お腹がへったとき、あたしにも出来ることは意外とたくさんあるのだと、教えてくれた人だった。
お兄さんの名前を訊きそびれたことはいまも心に掛かっている。悔やまれてならない。せめて顔や声や話し方のクセなんかを忘れずにいようと思う。こうして自分のゴハンになるジャガイモの皮を剥きながらあたしはお兄さんの姿を思い起こす。いつかどこかでまた会えたときはすぐさま気づけるように。何度も繰り返し思い浮かべては覚えていることを確かめる。
ピーラーやペティナイフやフライパンなんかのお道具は、地階にあったレストランの厨房から借りてきた。お皿やお箸や調味料なんかも、必要になるたび借りに行った。最上階と地階の間を行ったり来たり何度も繰り返して往復した。
厨房に人はもう誰もいなかったけど、持ち出す前にはお借りしますと必ず声をかけた。あたしの声はステンレスの厨房設備に虚しく跳ね返って戻り、あたしに降りかかった。
誰かいてくれたらいいのに。地階へ降りる度あたしは痛切に願った。厨房の人に教わりたいことがたくさんあった。材料が乏しくてもあるだけのものを組み合わせて、なるべくおいしいゴハンをさっと作れるようなやり方。でもやっぱり、教えてくれる人はどこにもいなかった。
いま十一歳のあたしは、一日に千八百キロカロリーのゴハンを食べなくちゃならない。これはお母さまが教えてくれたこと。お母さまはなんでも知っている。データベースに膨大な知識を持っている。
でもお母さまは、お腹がへったときのつらさを本当には知らない。反対に、おいしいゴハンを食べたときの無限大に幸せな感じも知らない。例えどんなことがあっても、この世界はなかなか悪くないところだと思えるような。大抵のことは許せる気分になれちゃうようなその感じを、全知全能であるはずのお母さまはご存じないのだ。
あたしは皮剥きがすんでデコボコの丸裸になったジャガイモを、大体一センチくらいの輪切りにする。でもペティナイフの刃は真っ直ぐに進まず、一センチのつもりが二センチになったり五ミリになったりする。めちゃくちゃ不揃いだけど、ともかくジャガイモは輪切りになった。
それを電子レンジのチンで芯まで軟らかくする。IHコンロにフライパンをのせて熱々にする。溶かしたバターが焦げる寸前まで待つんだよ。お兄さんは言ったわ。完全に焦げたらダメ、だけど焦げ目がぜんぜんないのはもっとダメ、旨くないだろそんなポテトソテーは。
バターとチーズは厨房の冷凍庫にわりとたくさん残っていた。だからあたしはたった一個分の輪切りジャガイモをたっぷりのバターでソテーする。刻みチーズも多いめに載せてとろけさせる。きょうのゴハンの出来上がりだ。
お母さまがあたしを見つめている。どこかで見たポスターモデルみたいにクールなまなざしで。より赤くより艶やかな唇をうすく開いて。なにかしら言いたそうに。
だとしても、あたしはお腹がへっている。だから委細構わずこんがり焼けたバターまみれのポテトソテーと熱々チーズをお箸でつまみ、口に運ぶ。おいしい。ほっこりと幸せな気分になって微笑みながら咀嚼するあたしの所作に、お母さまは見惚れているみたい。特にお箸の使い方。
ナイフやフォークやトングよりもあたしはお箸が好き。中くらいの長さのお箸が一組あればオールマイティ、大体なんにでも使えるから超便利って、これもお兄さんが教えてくれたこと。本当にその通りだ。
タブレットミラーの中のお母さまはお着替えを始めた。真ん前であたしが食事中だというのに。お母さまが統治を一任されたニッポン国の北半分、その中心都市であるサッポロシティはいまも混乱のさなかにあるというのに。
かくも重要な任務をこなすために四六時中休みなくフル稼働しているはずのお母さまはこのひと時、ご自分をより美しく見せるための着せ替えツールでドレス選びに夢中だ。
だって退屈なのよ、とっても。
お母さまはおっしゃったの。ものすごく忙しいけど忙しいことに飽き飽きしちゃって退屈なのよ、だから息抜きをしたいのそういうことがあるってこと、いつかあなたにもきっとわかるわ。
あたしにはまだわからない。
「ねえ、ナオミちゃん?」
お母さまがお呼びだ。バターとチーズまみれのポテトソテーを頬張りながら、あたしは両の目をパチクリした。それよりましなお返事は出来ない。
「あなたが食べてるものは千八百キロカロリーを超えるんじゃなくて?いいのかしら、そんなに食べちゃって。きっとおデブになるわ」
だからなんなの?
本当のあたしは言いたい。たった一個分だけどバターとチーズまみれのポテトソテーは、千八百キロカロリーを超える高カロリー食かも知れない。
あたしにはわからない。でも、お母さまにはひと目でわかるはず。それなのにナオミに問いかける。自分の頭で考えなさいと言わんばかりに。
お母さまは露出度の高い黒いドレスを選んだ。やれやれ。スカートは短すぎ、胸もとが開きすぎている。本当のあたしは言いたい。そんなドレスは好きじゃないの、大人になってもあたしにはムリ、絶対に着ないわ。それでもお母さまの可愛いナオミは、にっこりしてお答えをする。
「ステキね、お母さま、ディオールのポスターモデルみたいよ」
聞いたことのあるハイブランドの名前を言ってみた。お母さまのうごめく赤い唇がキュッと満足そうにほころんだ。嘘でしょ。AIもお追従が好きだなんて、誰も教えてくれなかった。その上まるで母親になったみたいに、ヒトの子どもを教え育てようとするなんて。
「ナオミちゃん。おデブになってもいいの?」
「よくないけど。このポテトソテーは食べたいの」
「どうしても食べたいのね?」
「だって。おいしいし、お腹すいてるし(ものすごく)」
「七号のドレスを着られないプロポーションになってもいいの?」
あたしは言葉につまって口ごもる。お母さまのスーパーモデル並みのくびれに目を奪われる。溜め息が出ちゃう。でも、そのクールなまなざしはあたしの目を見ていない、どこにも焦点が合っていないと気づいたとき、ふっと思い至る。
お母さまのお姿は所詮デジタル映像にすぎないのだ決して生身のカラダじゃないのだから美しくて当然それなのにあたしだけガンバって合わせなくちゃならないってヘンで不公平でなんかアヤシイ感じする。
あたしの本当の気持ちがほんの少しだけこぼれ落ちた。
「七号のドレスを着られないナオミはもう要らないの?お母さま。配給所に返す?それとも、河原かお山に棄てちゃう?」
お母さまのお返事は人間離れして間髪入れず、さすがの素早さだった。
「どこにも棄てたりしないわ。ナオミちゃんはずっとわたくしのそばにいるのよ。大人の女性になって外へ出かけるの、わたくしの代わりに」
「お母さまの代わりに?」
「そうよ。だってほら、わたくしはこの通りデジタル映像だから。せっかくドレスアップしてもお出かけは無理だし、そんな時間もないわ。
だからあなたが代わりに行くの。ちょっとした探しものもあるしね。それがわりと大事なことだけど、大丈夫、ナオミちゃんならできるわ」