ブタに追われた日
二〇三八年一月某日
きょうは一日どこで何をしていたの?なんてお母さまから訊かれても、あたしにはお答えする元気がもうない。ふり絞っても出ない。でも、わかってる。書かなくちゃならないの、お母さまの言いつけだから。きょうの出来事、出会った人々、そしてあたしがどんなふうに思ったのか。なるべくやさしく出来るだけ可愛らしく、女の子の言葉を使って記録しておくの、それが大事なこと。
きょうはジャガイモ畑へ行ったわ。
なだらかな山の天辺を削って造られたジャガイモ畑は広いけれど平らなところがどこにもないの。あっちこっちデコボコと傾いたりうねったりしているので歩きまわっていたら目も回って来たわ。それでもあたしはうつむいて収穫の終わった畑の地面とにらめっこ、取りこぼされたジャガイモをひたすら探す。探さなくちゃならないの。
大きすぎてぶかぶかする長靴のかかとで地面を探っては、ドタっと次の一歩を踏み出すの。繰り返しているとゴツゴツした黒土の塊の中に一個か二個、紛れ込んでいるジャガイモを見つけたわ。でも大抵は小さすぎたり傷ついたり変色したり、あたしたちのゴハンにならないクズのジャガイモなの。
そういうジャガイモはブタのゴハンになるのよ。でも、ブタのためにクズジャガを集めたり運んだりする手間はいらないわ。ブタたちもあたしたちと同じように、掘り返されてデコボコのジャガイモ畑を歩きまわっているから。そしてどうやってか知らないけど、あたしがジャガイモを見つけるたびにいち早く察知して集まって来るの。
実際ブタたちは集まるどころじゃなく、どかどかと突進して来たわ。だからあたしはクズジャガを見つけたら、出来るだけ遠く九十度の方向へ力いっぱい放り投げたの。突進してくるブタたちをかわして確実に避けるため、そうしないとあたしが食われてしまいそうな勢いだったから。
「大袈裟なのね、ナオミちゃん。わたくしたちの家畜ブタは決してあなたを食べたりしないわ、そうでしょ?」
不意に、お母さまから直接のお言葉があった。きょうのお声はひときわ瑞々しく弾んでいる。たとえば初音ミクのように。どうやらお母さまのご機嫌はうるわしい。それがわかるとあたしもうれしい。ついさっきにはもうないと思った元気がふつふつと湧いてくる。
「大袈裟じゃないのよ、お母さま。本当に食べられてしまいそうだったの。ナオミ、すっごく怖かった」
あたしとお母さまの間で堅苦しい敬語を使うことはタブーなの。だからって、行き過ぎた馴れ馴れしいタメグチもいけないわ。そんなのはお母さまのお好みじゃないから。ほどほどの親しさと礼儀、そして品の良さ。それも大事なこと。
あたしは出来るかぎり愛らしく、でも初音ミクの声色と似ないように気をつけてお答えしたわ。いつだってあたしはお母さまの選んだ姿かたちや声色、メイクやファッションとかぶらないように気をつけているの。
だってお母さまは唯一無二の美しさを誇るお方だから。大人の女性の美しさにはまだほど遠いあたしなんかが似かよったりしてはいけないの。たまさかにもそんな非礼は許されないわ。甚だシラケるどころか、お母さまはこの上なく不機嫌になってしまうことでしょう。そんなお母さまと直面するなんて想像するだに恐ろしいことだわ。
だから、恐る恐る。
あたしはそっと目を上げて、きょうのお母さまの装いをたしかめたの。
玉座に据え置かれた等身大のタブレットミラー(画面と呼んじゃいけないの、あくまで鏡なのよ、お母さまにとっては)いっぱいに、スラリとしたモデル体型の女性の全身像が映し出されている。年の頃はたぶん三十代から四十代、あたしがお母さまと呼んで丁度いい大人の女性だ。
シンプルで清楚な白いトップスに洗いざらしのタイトなブルージーンズ、なんてステキ。この装いならいつかあたしにもコピーが出来そう。もちろんお母さまはヴェルサーチでも、あたしはノーブランドだけどね。
いつかというのは、ふさわしい年齢に達して恥ずかしくない着こなしが出来るようになったとき、お母さまからお許しを頂いたときのことよ。
ナチュラルに揺れる長い黒髪もステキ。いまのあたしはひたすら実用的なショートボブだけど、いつかは長く伸ばしてみたいと思っているの。そんなあたしにもきっと似合いそうなロングヘア、もちろん、お母さまほどじゃないけど。
でもね。
目もとのくっきり濃いめのメイクと鮮やかすぎる赤いルージュはいただけないわ。お母さまのお口があり得ないほど大きく見えてしまっている。こんなメイクをしたお母さまはぜんぜん綺麗じゃなくて、なんだか怖い感じ。あたしが思わずギョッとして目を背けたら、もちろん、目敏いお母さまは見逃してくれなかった。
「きょうのわたくし、どこか変なのかしら、ナオミちゃん?」
「いいえ。ちっとも変じゃないのよ、お母さま。とってもよくお似合いだし、いつものようにお綺麗だわ、ホントよ」
あたしは両手の甲にうっすらと冷や汗が滲んできたのを感じながら、にこやかに微笑んでお答えしたの。初めてのときもそうしたように。
ここは北方圏内で最高級と謳われたリゾートホテルの最上階にあるスィートルーム、ここでお母さまと一緒に住むのだと知らされたとき、あたしはにっこり微笑んでお答えが出来た。はいわかりましたナオミはこのお部屋でお母さまと住みます。泣きもせず淀みなく、すらすらと言えたのだ。
あたしはお母さまの言いつけを守っただけなの。どうか泣かないでねナオミちゃん。お母さまはおっしゃったの。いつも可愛らしくにこやかに笑っていて頂戴、わたくしのために。
そうなのよ。だからあたしは泣いたりしないわ、どんなことがあっても。にっこりと可愛らしく微笑んでいられるのよ、お母さまのために。
お母さまはあたしの呼吸数や心拍や体温の上昇を鋭く感知した上で、思い違いや言い間違いを拾いあげて指摘してくださるの。お母さまは決して『嘘』とおっしゃらない。全知全能のお母さまに対してまだ幼いナオミが『嘘』をつくなんて、そんな大それた行いをするはずはないから。
あたしは気づいたの。お母さまはあたしの掌の内側についてはよくご存じで、掌紋や血流や汗から読み取れる様々な情報をしっかりと把握なさっている。それはもうお見事なまでに抜かりなく。でも、手の甲に関しては案外そうでもないみたい。
気づいてからのあたしは冷や汗も放熱の汗も憤怒の汗も、両手の甲にだけかくよう念じ続けた。そこだけ緊張を解き放った。すると、やっぱりそこはお母さまの鋭い感知システムの盲点だったの、少なくともいまのところは。
だからあたしは両手の甲にだけ冷や汗をかいて心のバランスをとる。ほんの少しでも苦痛を和らげて勇気を得る。すると、この世界のことわりをなにもかも、あまねくご存じのお母さまに、ささやかながらも密やかな『嘘』をつけるの。