⑥
「ああ、よろしく頼むよ」
出世を望んだ会社にも、自分で立ち上げた会社にも、昌吾は意欲を見出せなくなっていた。もう全てを手放し、資産は膨大にあるのだから、南の島か田舎にでも隠居してしまおうかと思った。しかし、祥子と和貴の為にまだ都内を離れられないと溜息を吐いた。
家に帰ろうと思った。しかし家には疲れを癒す家族も居ないので、とても足が重かった。心に闇が拡がっていたが、エリスの存在を思い出した。自分に全幅の愛情を傾けてくるエリスに会いたいと思った瞬間、昌吾は足が軽くなるのを感じた。
それから数ヶ月後、仕事中の昌吾のスマホが鳴った。頼子からだった。仕事中は基本電話を掛けてこないので、昌吾は瞬時に嫌な予感がした。
『昌さん、ごめんなさい。仕事中に……』
「それはいい、どうした?」
『今、祥子と和貴がエリスの散歩に行ったんだけど、散歩していたチワワを噛んで……』
「怪我させたのか?」
『ううん……、こ、殺しちゃったの……』
チワワを大型犬のサモエドが噛んだら、場合によっては容易に命を奪ってしまうだろう。何故あの優しいエリスがと驚いた。
「相手との事もあるだろうから、早退する」
『うん……、ありがとう。そうしてくれると助かる』
電話を切るや昌吾は荷物をまとめ始めた。そして直属の課長の木村を呼んだ。
「木村、ちょっと俺、早退するから、後はよろしくな」
「はい、分かりました。体調不良ですか?」
「いや、ウチで飼ってる犬が散歩中にチワワを噛んだみたいで、相手の家と話さないといけないから」
昌吾は木村を信用していて、家庭の事も色々話していた。この時も何も隠さず伝えた。
「あー、八村さんのお宅の犬ってサモエドですよね。あんまり頭の良くない犬種って聞きますからね……」
慰めているつもりなのだろうか。あまりに無礼な木村の発言に腹が立ち、頬を殴りつけたくなった。
「とにかく頼んだぞ」
「分かりました。今度鮨食わせてください」
木村の軽口はもう無視して立ち去った。心の中では『お前には回る鮨でももったいない』と思った。
「どういう事なんだ!」
玄関に入るなり昌吾は言った。
「さっき電話で言った通りだけど、エリスはどうしよう。やっぱり……保健所とか?」
昌吾の頭に『殺処分』という言葉が浮かんだ。人に危害を加えた犬がそうされるという噂は聞いた事があった。犬と犬ではどうなのだろうか。
ハッとして昌吾は頭を振った。エリスを殺処分する前提で考える自分に気付いたからだ。
「いや、それは最終手段だろう。俺が相手の家に行って話をしてこよう。住所は?」
散歩している間という事だったので、相手の住所も近所だった。昌吾は『ちょっと準備が』と言って自室に行き、件のレターセットを持って家を出た。
昌吾は相手の家には行かず、喫茶店へ向かった。コーヒーを頼み、腕を組んで考えた。
このような事は以前にもあった。和貴が同級生を殴った時だった。あの時は力を使って和貴の冤罪を晴らし、その後和貴を変えた。
血も繋がっていない犬に力を使う必要などあるだろうか。エリスを殺処分し、相手にそれを伝えるだけで解決するだろう。
昌吾は目をカッと開いた。そして頭の中の考えを追い出した。もう昌吾にとって家族と思えるのはエリスしか居なかった。それを自らの手で死地に追いやるなど不可能だった。
【エリスの無罪を証明して欲しい】
このように便箋に書き、封筒に入れて柱谷の家へ向かった。ポストの前に立ち、昌吾は悩んだ。あの文言ならエリスが無罪なら願いが受理されるか、有罪なら手紙が戻ってくるかもしれない。そもそも無罪であれば力を使う必要もないのではないかと思った。
しかし、昌吾はポストの中に手を入れた。無罪である筈のエリスを、何時までも疑惑の中心にさせておく事に我慢がならなかった。
見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。
リビングに行くと、祥子と和貴が立って頼子と話していた。
「ママ、エリスは悪くないの?」
「そうなんだよ。あのチワワにリードが付いてなくて、姉ちゃんに噛みついたんだよ」
和貴がそういうと祥子は右足の靴下を下ろした。そこには小さな犬の歯形があった。
それを見て昌吾はホッとした。やはりエリスは無罪だったのだと。力を使ったお陰で2人が勇気を出したのだと。
「よく言った2人共、後で相手の家に行こう。それでエリスの冤罪を晴らすんだ」
昌吾は2人の後ろから肩に手を回して言った。一瞬驚いた2人だったが、昌吾に認められて嬉しかったようで、顔を輝かせた。
結局頼子も含めた4人で相手の家へ行った。最初怒りをぶちまけていた女性だったが、祥子の傷を見せると青くなり、平謝りしてきた。
エリスの冤罪は晴れたが、問題は残っていた。それはエリス自身の事だった。祥子を守る為だったとはいえ凶暴性を示した事は間違いない。その牙が何時人に向けられないとも限らないからだ。
手段は2つあった。1つはもちろん殺処分。エリスを処分し、新しい犬を飼う方法だ。もう1つは力を使ってエリスの存在を変える方法だった。
どちらを選択しても、もう元のエリスは戻ってこない。自分に愛情を持っているエリスは永遠に失われ、昌吾にとっては虚偽のエリスが現れるだけだと思った。そして、どちらにしても新しいエリスには愛情を傾けられないだろうと確信していた。
昌吾は、家族にエリス殺処分せず今まで以上の愛情で接し、エリスの気持ちを落ち着かせようと提案した。
どうやら3人の頭にも『殺処分』という単語があったらしく、それが無くなって憑き物が落ちたように明るくなった。
笑顔でエリスを囲む3人。3人の手や顔を舐め、尻尾をブンブン振り回すエリス。そこには家族の姿があった。少し離れて立っていた昌吾の胸が熱くなった。
どちらも選ばなくて良かった。些細な問題なんて良く考え、一緒に乗り越える者が居れば協力していけばいいのだと思った。
その刹那、昌吾は胸が苦しくなった。視界が揺れ、範囲狭まってきた。足が震え出して力が抜けていくのが分かり、昌吾は後ずさってソファに腰を下ろした。
服の上から胸を掴んで目を瞑った。そして頭を振り、勝手に湧いてきそうになる考えを頭から追い出した。
折角救った存在なだけに、昌吾はエリスを今まで以上に可愛がった。そしてエリスを階にして、3人とも良く話し、且つ接するようになった。
配役されたように一緒に過ごしていた家族であったが、時間をかける事で情が湧いてきた。昌吾は家に居て、自分が少し癒されている事が分かった。
時間がある時は一緒に夕食をとり、休日は杉田に仕事を出来るだけ任せて家族と出掛けた。家族の買い物に付き合い、テーマパークを訪れ、海や山へ行った。
そして、家族との関係を再構築してから半年経ち、昌吾は家族を連れて、もちろんエリスも、北海道を旅行した。
資金は潤沢にあるので高級ホテルに泊まれるが、エリスと一緒に寝たかったので、ペット可のペンションを選んだ。もちろんその中でもより快適に過ごせるレベルの所を。
旅行は沖縄や九州、四国、東北、長野など色々な所へ行った。どれもとても楽しく、行く度に家族の絆の深まりを感じた。
充実した日々を過ごしていた昌吾は家で飲む酒も美味く感じられるようになった。以前は夜になると自室に居る事が多かったが、今はリビングで酒を楽しむようになっていた。
「昌さん、私も付き合っていいかしら?」
頼子がグラスを持って向かいのソファに座った。
「あっ、ああ、もちろん」
一瞬面食らった昌吾だったが、笑顔で頼子のグラスにウイスキーを注いだ。すると頼子はグラスに口をつけた。家族の時間を持って分かったが、この頼子はかなり酒が強かった。
「うん、美味しい。それでね、昌さん。ちょっと話があるの」
頼子が背筋を伸ばした。それを見て、昌吾も身を整えて頼子に正対した。
「あっ、ごめん。そんな深刻な話じゃないんだ。祥子の事なんだけどさ、もう高3でしょ。そろそろ彼氏とかに興味があるみたい」
「あ~、大きくなったんだな。俺が頼子と会ったのも、頼子が大学1年の時だったよな。祥子も良い人と出会えたらいいな」
すると頼子がニヤリと笑った。
「あ~、今、昌さん自分の事“良い人”って言ったでしょ」
「言ったか? でも、実際そうじゃない?」
「ん~、まあ、そうかもね」
その後も2人は色々と話し合った。そして深夜1時を過ぎた頃酒宴は終わり、昌吾と頼子はそれぞれの部屋へ入っていった。
昌吾はレターセットを取り出した。
【八村祥子が、本人が幸せと考える結婚が出来るようにして欲しい】
自分の考えを押し付けていないか考えた。色々な角度で考えても祥子に不本意な結果が訪れないだろう。自分がスクールカースト上位に入った時のように、運命が巡って素敵な相手と出会えるだろうと思った。
封筒に入れ、鞄にしまった。翌日の帰りに柱谷の家へ行こうと思った。家族団欒の時間を一晩失ってしまうが、祥子の幸せの為なら仕方がないと思った。
ベッドに入り目を瞑った昌吾だったが、突如飛び起きて再び机に向かった。
【八村和貴が、自分の人生を楽しめるような結婚相手と出会えますように】
祥子だけでなく、和貴も幸せな結婚が出来るように力を使う事にした。それが親の務めであるだろうから。
ニヤリと昌吾は笑い、昌吾はもう1枚便箋を取り出した。
【八村和貴が今後浮気する事があっても、それが露見しないようにして欲しい】
自分のDNAを引き継いでいるのだから、同じ道を辿るかもしれない。そんな事を考えもしない品行方正な人物に変えてもいいのだろうが、それはもうやりたくなかった。
それにどちらにしても力を1回消費する事には変わりがなかったからだ。
この3つの願いを、柱谷の家に3日通って投函した。子供達が幸せになるだろと、昌吾は満足した。
祥子と和貴は自分と同じ力を持っていない。もちろん力を手に入れられるように、人生に絶望させたくない。それなら代わりに莫大な資産があればいいだろうと思った。
【資産を今の2倍にしてくれ】
この願いが叶った1ヶ月後、昌吾は不安になった。相続税で減らされ、孫の代には無くなってしまうのではないかと。
【資産を今の4倍にしてくれ】
これだけあれば、曾孫も幸せに暮らせるだろうとホッとした。しかし、すぐまた不安になった。孫や曾孫が枝分かれするように多くなった場合、遺産も分割されて一般人のようになり下がるのではないかと。
子々孫々、自分のDNAが続く限り幸せに生きて欲しいと思った。ならば、祥子と和貴を祖として繁栄していく同族企業を創ればいいと考えた。
【祥子を祖とする企業を創る。時流に乗って姿を変え、人類が続く限り発展していくように。そして、一族に富を供給するようになって欲しい】
【和貴を祖とする企業を創る。時流に乗って姿を変え、人類が続く限り発展していくように。そして、一族に富を供給するようになって欲しい】
2日続けて昌吾は柱谷の家へ出向いた。そして待った。2ヶ月の内に画期的なビジネスプランを持つ者が2人現れた。昌吾は2人に出資した。代表取締役社長は祥子と和貴にするという条件で。
2人は自分の好きな事、ある程度贅沢が出来ればそれで良かったようだ。昌吾の出した条件をのみ、一生懸命働いた。そのお陰で2人の事業は波に乗った。
そして、日々祥子と和貴の銀行口座の数字が増えていった。それによって昌吾の不安は減少していった。
【祥子の企業に優秀で信頼出来るブレーンが現れる。企業が続く限り連綿と】
【和貴の企業に優秀で信頼出来るブレーンが現れる。企業が続く限り連綿と】
昌吾の不動産業における杉田のように、経営手腕に優れた人物が2人現れた。昌吾の願い通り人格も良い者達だった。
口を出さない社長、経営を安定させるブレーンの下、起業家の2人は伸び伸び新事業を立ち上げ、発展させていった。
自分が死んだ後妻や子供達へ残す遺産も充分あるし、子孫の生活も保障されるようにした。昌吾は親としての生活に満足していた。
もう人生の望みのほとんどを達成した昌吾は、今自分は何をしたいのか考えた。ずっと忙しく仕事をしてきて趣味も無く、答えが出る事はなかった。
そんなある日、たまたま昌吾は旅行会社の前を通りかかった。そして海外旅行のパンフレットが目に入った。
見慣れない海外の景色にしばし目を奪われ、突如ハッとして覚醒した。そして目に留まったパンフレットをかき集めた。
昌吾は目を輝かせ、胸を躍らせて深夜までパソコンに向かって調べ物をした。それは何日も続き昌吾の睡眠時間は削られたが、寝不足の様子は一切見せなかった。
ある日曜日の朝食の席に、昌吾は満面の笑顔で現れた。手にはプレゼン資料のような紙束を持っていた。
「おはよう、はい、コレ」
昌吾は3人に1部ずつ渡していった。3人は怪訝そうな目で表紙を見つめた。
「八村家……、海外旅行……計画書?」
祥子が言った。最後の方は驚きで妙に上ずっていた。
「そう。2ヶ月くらいかけて皆で海外旅行しようと思って」
「ええっ、2ヶ月も? 学校は?」
今度は和貴が言った。ちょっと心配そうな声だった。
「休めばいいじゃないか」
「ええっ、姉ちゃんは休みが長いからいいかもしんないけど、俺はまだ高校生だからさ」
「和貴は大学までエスカレーターなんだから。受験が楽になるよう幼稚園の時に頑張ったんだ。これぐらい楽しんでもいいだろ。学校にだって沢山寄付してるんだし、何か問題があったら父さんが話してくるよ」
「う~ん、まあ、父さんがそう言うなら……」
言葉とは裏腹に、親公認で学校を休めると嬉しそうだった。頬と口が緩んでいた。
短い期間の旅行を何度もすればいいと考えた事もあった。ただ家族との繋がりに不安を持つ昌吾は、精神的な繋がりを強固にしたいと考えたのだった。
そこで思い切って2ヶ月濃厚に一緒に過ごす事で、祥子と和貴に強烈な想い出を残したかった。自分が定年退職してからでもと思ったが、体力のあるうちに旅行を楽しみたいし、それまで健康でいられるか保障がないからだ。
「そうだろ。それでとりあえず父さんが候補を上げておいたんだ」
「えー、私、他に行きたい所あるんだけど」
書類に一通り目を通した祥子が言った。
「うん、もちろん皆の意見は聞きたい。最後の方にそれぞれの行きたい所を書くページを付けておいたから」
「プッ、まるで会社みたいね」
「ほら、お父さんはずっと会社で頑張ってきたから、こういう作り方になっちゃうのよ」
「ハハ、そういう訳だよ。それぞれ意見を出し合って行き先を決めようじゃないか」
それから4人は旅行の話に花を咲かせた。旅行は計画から始まっていると言うが、4人はこの時点からとても楽しそうだった。そしてドンドン旅行の計画が決まっていた。
ただ、昌吾と頼子の希望が多く通る事になった。出資者という事もあるが、祥子と和貴は自分達が家族を築いてから行けばいいと考えた事もあった。その為の財力は与えてあるのだから。
【2ヶ月の休みが欲しい】
昌吾は力を使った。さすがに何もしないで2ヶ月も休暇が貰えると思わなかったからだ。すると有給休暇を全然使ってこなかった昌吾に、問題化する前に2ヶ月休むように命令が下った。
海外の建物や美術品はそこに行けば見られるが、問題は自然現象だった。天候や条件などで見られなければ長く滞在しないといけないか、再び出直すしかないといけなくなる。
【旅行中、オーロラが絶対見たい】
【旅行中、ダイヤモンドダストが見たい】
【旅行中、インドネシアのイジュニ火山のブルーファイアを見たい】
【旅行中、カナダのスポティドレイクの水玉模様をはっきり見たい】
【旅行中、アメリカのグランドキャニオンの雲海が見たい】
【旅行でペルーのマチュピチュへ行きたい】
【旅行中、ペルーウユニ塩湖を良い状態の時に行きたい】
これで自然現象に対する心配は無くなった。
計画書を持って旅行会社に向かった。あまりの豪華プランに驚かれ、VIP店舗を紹介された。そして移動手段はファーストクラス、宿泊するホテルはスイートルーム相当にする事にした。そして現地に居る邦人スタッフに案内して貰う事にした。
【旅行が事故や事件に巻き込まれず楽しめるように】
この旅行の為に相当力を使ったと昌吾は思った。便箋と封筒も残りわずかだった。しかし一片の後悔もなかった。
昌吾は人生における問題のほとんどは金銭で解決出来ると思っていた。資産は一代では使い切れない程ある。問題を解決する為に力を使う可能性はほとんど無いと考えた。
更に、2ヶ月休んだ後の出世に関する願いも使わない事にした。資産は有り余っているので汲々とする必要もないし、家族との時間を持つ方が大事だと考えたのだ。
そして、この後は自分の力で出世していこうと思った。部長で終わっても満足だし、役員になって社長になってもいいと思った。
旅行出発前日、さすがにエリスは連れていけないので、いつも利用している動物病院併設のペットホテルに預けた。
エリスはとても不安そうな目をしていた。4人はエリスを抱き締め『ちょっと待っててね』と言い、旅行へ出掛けたのだった。
家の前にタクシーがやってきた。家族全員はスマホをテーブルの上に置いた。祥子と和貴は寂しそうに見つめた。
昌吾は子供の居る同僚から聞いた話があった。子供と一緒に旅行に出掛けた時、子供達は景色も見ないでスマホを見つめ、wifiの接続が悪いと騒いで旅行を台無しにしたと。
家族としての想い出を作りたいのにそうなってしまっては意味が無いと、昌吾は家族4人共スマホを置いていく事を提案した。
もちろん反対された。昌吾は根気良く話をし、祥子と和貴に納得させた。その代り旅行の記録を残すために一眼レフカメラをねだられたが、スマホを置いていくのであれば安い出費だった。
4人が日本を離れた後、4台のスマホは暗い部屋で明滅していた。いつしかバッテリーが切れ、スマホは出荷されて以来の安寧を楽しんだのだった。
カネに糸目をつけない旅行は、スリルは乏しかったが、とても楽しく充実していた。4人は何だかんだストレスが溜まっていたようで、日を追う毎に表情が緩んでいった。
羽田空港に2ヶ月振りに降り立った。各地で買った物で荷物は増え、4人共顔のラインが少しふくよかになっていた。
自宅のドアが開けられると、祥子と和貴はリビングに走った。そしてスマホに充電コードを挿し込み、立ち上がるのが待てないかのようにその場で足踏みしていた。
それを見た昌吾は溜息を吐いた。ただ顔はあくまで朗らかであった。子供達が2ヶ月スマホを我慢してくれたお陰で、家族旅行を存分に楽しめたのだから。
ただ多少余裕があるだけで、昌吾も充分スマホに依存していた。2人に少し遅れるだけでスマホを手にしたのだった。
スマホに2ヶ月振りに命が吹き込まれた。事前に言っていたので会社からは連絡は無かった。しかし、不在着信が100件以上入っていて驚かされた。電話アプリをタップした。不在着信のほとんどが動物病院からだった。
何だろうと思いつつ、昌吾は動物病院に電話を掛けた。
『はい、二宮動物病院です』
「もしもし、私、そちらのホテルで犬を預かって頂いております八村と申します」
『えっ、八村さん! ちょっと先生に代わりますのでお待ちください』
とても慌てている声だった。その雰囲気に昌吾は胸騒ぎを覚えた。保留の軽快な音楽が流れていたが、昌吾の心を軽くする役には立たなかった。
『もしもし、お電話代わりました。八村さん、大変申し上げ難いのですが、お預かりしていたエリスちゃんですが……、実は亡くなってしまって……』
目の前が真暗になり、昌吾はスマホを床に落とした。『ゴン』という鈍い音がした。
「昌さん、どうしたの……?」
「エ、エリスが死んだって……」
3人の表情が強張った。
「どういう事?」
祥子が震える声で言った。
「分からない……」
「父さん、とりあえず病院行こうよ」
和貴に促され、昌吾は顔をハッとさせた。そして車の鍵を掴んで外に飛び出した。自分でも動揺しているのが分かっていたので、出来るだけゆっくり運転した。
動物病院に着き、4人は併設のペットホテルに駆け込んだ。店員は昌吾達を見て顔をハッとさせ、凄い勢いで頭を下げた。
「八村様、申し訳ありません」
「エリスが……、し、死んだって聞いたんですけど」
「はい、ええ、そうなんですが……、えっと少々お待ちください」
女性は震える手で受話器を持ち上げた。
「あっ、先生。今、八村様がいらっしゃいました。はい、そうお伝えします。八村様、すぐに院長が参りますので。院長が事情をお伝えします」
本当にエリスは死んでしまったのだと、昌吾の心は重くなった。すると間も無く院長が現れ、4人をカンファレンスルームに誘った。
「どういう事なんですか?」
ついつい食って掛かるような勢いで院長を問い詰めてしまった。
「はい、順を追って説明します。先ずエリスちゃんが亡くなったのはお預かりしてから3週間くらいしてでした。ご家族と離れて寂しかったのか、ずっと悲しそうに鳴いていました。それからどんどん元気が無くなっていって、食事もとらなくなり……。衰弱していったので点滴もしたのですが、何と言いましょうか、生きる気力というものが無くなってしまっていて、消え入るように……」
院長は顔を俯かせ、唇を強く噛んでいた。この様子から院長はエリスを大事にしてくれており、精一杯尽くしてくれた事が分かった。
「エリスちゃんの調子が悪くなってから何度も電話したのですが、繋がらず……。2ヶ月、ご旅行をなさっていたのでしたね。それでご遺体の状態もありますので、こちらで荼毘にふさせて頂きました」
言い終えると院長はそっと骨壺を差し出してきた。あの愛くるしいエリスがこんな姿になってしまい、4人は目から涙を溢れさせた。
そして、意気消沈したまま家路に着いた。
帰ってきた家の中は重苦しい空気が漂った。2ヶ月間贅を尽くした楽しい旅行をしてきた後だとは思えなかった。
昌吾は便箋に『エリスを生き返らせて欲しい』と書いた。そして無駄だとは思いつつも柱谷の家のポストに投函した。案の定願いが受理される事はなかった。
何度も何度も試してみた。10回を超えた頃、昌吾は遂に諦めた。俯いた先の地面が濡れていた。
昌吾は帰宅し、丁寧に封筒を開いた。そして願いを消し、新しい願いを書いた。
【頼子、祥子と和貴とその子孫が、寿命を全う出来るように】
その日の内に昌吾はもう一度家を出た。
例の力では怪我は治せないかった。恐らく病気も治せないだろう。過去を変えられないから当然だろう。しかし、未来であればどうであろうか。
試験を受けた後の合格、懸賞の結果、為替などは変えられた。ならば一族の未来を保障する事は出来るのではないかと。
ゴクリと喉を鳴らし、昌吾は手紙を柱谷の家のポストに投函した。果たして昌吾の願いは受け入れられた。
その日から昌吾はペットロスに悩まされた。常時心の中にエリスが居て、何をしていても鬱々としていた。そして街中で犬を見たり、人に犬の話を聞いて涙を溢れさせた。
当然会社の者達からは心配された。渋々事情を話すと、昌吾と同様にペットロスを経験した者が居た。
ペットロスを克服した彼等に聞くと、だいたいはやはり新しいペットを飼えばいいと言われた。しかし昌吾は素直に受け入れられなかった。
昌吾にとってエリスは絶対の存在で、代わりになるような犬は居ないと思っていたからだ。犬好きの人に話を聞き、もっと賢く、もっと甘え上手な犬が居る事も知っていた。しかし、昌吾は少し抜けたところのあるエリスを愛していたのだった。
それでも家族は違うようだった。昌吾の想いとは裏腹に、1ヶ月後には新しい犬を迎えた。今度は薄い黄色のゴールデンレトリバーの子犬だった。
雌のその犬は“サリー”と名付けられた。家族はサリーを可愛がった。最初は拒否していた昌吾だったが、足元にまとわりついてくるサリーを何時しか抱き上げるようになっていた。
昌吾はサリーに対してエリスに抱いていたような愛情は持てなかった。ただ家族には怪しまれないよう、出来るだけサリーと接するようにしていた。
そして、サリーは昌吾の気持ちに気付いているようだった。3人には尻尾が千切れる程振って駆けていくが、昌吾にはお付き合い程度に触れ合うだけだった。
同じ犬でも存在が違うだけでこんなに気持ちが変わってしまうのだと昌吾は背中が寒くなった。そして家族に対しても同じ事が起きたらと考えると、体の芯から震えが湧きだしてきた。
長い間一緒に過ごしてきて、2ヶ月間の楽しい思い出を築いてきた家族を絶対失いたくないと思った。
常識的に考えたらそんな事が起こる訳がない。しかし、昌吾は超常的な力がこの世に存在する事を知っていた。
他のビラーが、昌吾や今の頼子や祥子や和貴の存在を消したいと思うかもしれない。ビラーである自分には影響が無いだろうが、3人は存在を変えられてしまう可能性がある。
そして、最も恐ろしいのは、3人が変わっても自分はそれに気付かないだろうとい事だった。そう考えた時昌吾は体を慄わせた。もしかしたら、自分の知らない内に存在が変わってしまった事があるのではないかと。
エリスを失った事で、昌吾は何かを失う事がとても恐ろしくなった。そして、今の家族を失わないようにするにはどうしたらいいか、頭を捻って考えた。
【死に関する別れが訪れるまで、今の存在の家族とずっと一緒に居たい】
この願いも叶うのかどうか昌吾は不安だった。しかし投函した直後自分の寝室で目を覚ましたので、ベッドの上で安堵の溜息を吐き出した。
この時、何かが昌吾の頭に去来した。
昌吾は額を押さえてその正体を探ろうとした。とても大事な何かであるように思った。
その考えが過去を遡り、それを捕まえたと思った。昌吾はカッと目を開いた。
「昌さ~ん、そろそろ起きないと仕事に送れるわよ」
幸せを実感させる頼子の呼声が聞こえた。その瞬間、掴みかけていた考えが、指の間からすり抜けて零れ落ちでしまった。
すぐにもう一度考えようとしたが、もうその尻尾にすら触れる事は出来なかった。
恐らく取るに足らない考えなのだろうと思い、昌吾は幸せが満ちるリビングへ向かった。光が溢れる食卓で祥子と和貴がトーストに齧り付いていた。
すぐに昌吾の朝食が用意された。トーストに向けて口を開けた時、和貴がスマホに触っているのが目に入った。
「和貴、食事中にスマホはやめなさい」
「うん、分かってる。でもさ、ヤバイニュースが入ってきてるんだよ」
「何だ? 大きな事故か事件か?」
「ううん、戦争が始まるんだって。えーと隣国が宣戦布告してきて、本土近くまで軍艦が来てるって」
「えっ、そうなのか。うーん、でもまあ、この国にも軍隊紛いのものがあるから大丈夫だろ。同盟国の軍もあるし」
「だよね。でもさ、そこも他の国と既に戦争状態じゃん。大丈夫かな?」
「うーん、大丈夫だろ。この国の軍隊はめちゃくちゃ強いって噂だからな。それに軍艦が来てるのはここから遠いだろ。こっちに来るまでには解決する。国連もあるし」
今の人類は100年前と違い理知的になっている筈。途中で自分達の行いを反省するだろうと考えた。そして誰かが誠心誠意話し合えば、矛を収めて帰っていくだろうと思った。
「まあ、考えても仕方がないだろ。学校に遅れるぞ。さあ、早くご飯食べよう」
しかし、昌吾の思惑とは裏腹に不穏なニュースは毎日流れてきた。本土での小競り合いが始まったようで、戦火から避難する恐怖に歪んだ顔がテレビ画面に映し出された。
会社にいる間、不動産業の方の杉田から『今日、事務所に寄ってください』という連絡が入った。昌吾は仕事を定時に終わらせ、18時に事務所へ向かった。
「あっ、社長、今日はすみません」
事務所に入るなり杉田が立ち上がってそう言った。すぐに2人で応接用のソファに向かった。若い男性事務員がコーヒーを運んできた。
「何か物騒な話題が多いな……。戦争とか病気とかな」
「ですね。でも、今までも何とかなってきたんですから、今回も大丈夫じゃないですか」
「ああ、俺もそう思うよ」
「そんな事より、凄い案件が入っているんです。銀座の路面店あるじゃないですか」
「家賃2百万のだよな。手に入れたはいいが借り手が付かないって、杉田、困ってたよな」
杉田が勇み足で手に入れた物件で、珍しく契約以来1ヶ月金食い虫だった。
「ええ、そこです。遂に貸して欲しいという人が現れたんです」
「マジか! どんな企業なんだ?」
「前にウチから店舗を沢山借りているアパレルの話したの覚えてますか?」
昌吾は顎を指で挟み、中空を見つめて考え込んだ。そしてすぐにハッとし、首を何度も縦に動かした。
「それで、どうでしょう……、向こうの代表が契約に来る時、社長もご一緒しませんか」
昌吾は顔を歪めた。
「あー、そう言えば前にも同じような話を聞いた事があったな……。もしかして、そこと同じか?」
「ええ、そうなんです。先方から言われて。どうですか?」
「うーん、何でだ。貸すだけなら宅検持ってる奴が居ればいいだろ」
「私もそう思って聞いてみたんですよ。そしたらデザイナー兼オーナが社長と同年代で。それで兼業で、且つ多方面に展開している社長を尊敬しているらしいです。多分そんな社長とお近付きになりたいんじゃないですか?」
口辺が動きそうになるのを、唇に力を入れて止めた。こんな事を言われ、嬉しくならない者などいないだろう。
「そ、そうか、うん、なら、会ってみてもいいかもな。俺の商売のコツとか聞かれたらどうしようかな」
「あ、いいじゃないですか。思い付きましたよ。社長の経営法セミナーをするとかどうですか? めちゃくちゃに客が集まりますよ」
昌吾はドキッとした。自分の副業の成功は力に依るところが大きい。よって経営に対する思想など持っていないからだ。
思わず苦笑いが出た。それが照れだと杉田が誤解してくれたらいいと思った。
「しかしあれだぞ、俺は昼間会社に行かないといけないから、会うのは必然的に夜になるけどいいのかな?」
「ああ、それは大丈夫みたいですよ。先方はこちらに合わせると言っていました」
「それなら3日後の夜7時に」
「分かりました。伝えておきます。ダメ出しがあったら連絡します」
それから3日間昌吾はビジネス書を読み漁った。せめて少しでも理論武装をしておこうと思ったのだ。自分でも付け焼刃だと分かっていたので、深く突っ込まれたら『これ以上は経営上の秘密です』とでも言ってごまかそうと思っていた。
当日、昌吾は事務所に18時40分頃に着いた。そして杉田と宅地建物取引主任者と書類の確認する事にした。
「社長、アクアのスーツですね」
「ああ、礼儀かと思ってな」
「へ~、わざわざ買ってきたんですか?」
「いや、さすがにな。前から2、3着持ってたんだよ。やっぱりデザイナーと歳が近いからかな、結構好きなんだよ」
「なら一石二鳥ですね。それじゃ社長、契約書の確認を一緒にお願いします。
少しして女性事務員が伝えてきた。
「株式会社アクア様がご到着です」
相手は2人でやってきた。昌吾達は立ち上がり、握手を交わした。
デザイナー兼オーナーと昌吾が握手をした時、その者が眼鏡の奥の目を綻ばせた。昌吾も何かが胸に去来した。しかし、それが何かすぐには分からなかった。
物件の重要事項の説明がおわり、契約書にお互いの印鑑を捺した。滞りなく手続きが終わり、場にあった緊張感が消えた。
これから雑談が始まると思い、昌吾はこっそり固唾を飲んだ。すると先方のオーナーが突如微笑んできた。
「八村さん、私の事覚えていますか?」
そう言うとオーナーは眼鏡を外した。昌吾には見当がつかなかった。
「おお、申し訳ない。意地悪な質問でしたね。私は……」
「いや、面影がありますね。もしかして……、木津? 中高で一緒の学校だった?」
するとオーナーは人差し指の先を昌吾に向けてきた。
「その通り。久し振りだな、八村」
「驚いたな……」
「社長……お知り合いで?」
「ああ、同級生なんだ。木津、本当にデザイナーになったんだな」
「ああ、高校卒業したらすぐフランスに留学して、向こうのデザイン学校を卒業して、小さなアパレルに入社して修行したんだ。そしたらさ偶然パトロンが付いて、こうなった。まあ、本当にラッキーだったよ。八村もウチのスーツ着てくれてるんだな」
昌吾は自分の体に視線を動かした。
「ああ、かなり気に入ってるよ。これ見た時に懐かしさを感じたのは、こういう事だったんだな」
「社長、こう言っては何ですが、木津様とお2人で旧交を温められては?」
杉田が進言してきた。これは渡りに舟だった。社員達の前でボロを出すより、もうこの先会うかどうか分からない木津と2人で話す方が心安いと思った。
「そうだな。木津、これから一緒にどうだ?」
「いいな。あの頃は酒が飲めなかったからな。中高の同級生と酒を飲むって、何だか不思議な感じだ」
木津は快く応じた。昌吾は個人的に良く使うホテルの上階のラウンジに木津を案内した。
たいていはホテルの豪華さ、ラウンジの雰囲気、メニューの値段に驚かれる。しかし、木津は一部の者達と同様に動揺などの様子を見せなかった。
2人は値段も気にせずドンドン注文していった。会っていなかった間の話に花を咲かせ、酒杯を重ねていった。
「でもさ、何で木津は不動産業の社長と話したいと思ったんだ? ずっとそうしてきたのか?」
「まさか、そんな面倒な事するかよ。最初の頃悪い不動産屋に騙された事があってさ、訪ねる前にめちゃくちゃ調べる事にしてたんだよ。そしたら八村の名前があるじゃん。もしかしたら同一人物かなって思って、会ってみようと思ったんだ。そしたらやっぱり八村だったからさ、俺は会えて嬉しかったぜ」
「俺も嬉しかったよ。それであれか、ウチを選んだのって、やっぱり噂を聞いて?」
木津は怪訝な顔をした。
「噂って?」
「えっ? ホラ、ウチのテナント使うと商売が繁盛するっていう……」
「あ~、部下の誰かが言ってたな。でも、俺は全然気にしてなかった」
「じゃあ何でウチを?」
すると突然木津が笑いだした。
「おい、八村は不動産屋の社長だろ、何言ってんだ。物件が良かったからに決まってんじゃん。広さとか、立地とか絶妙だったから。よくこんなに集めたなと思ったんだよ。で、部下に八村んとこを専門にしろって指示した訳」
今まで多くの者達が自分の力の恩恵を得ようと思っていただけに、あまりにも当たり前の理由に一瞬呆けてしまった。
「あっ、そうか。ありがとうな、そう言ってくれて。でもあれだな、デザイナーになりたいって言ってて、世界でも有名になって凄いな」
「うん、ああ、まあ、本当に運が良かったってのもあったからな」
木津はスクリュードライバーを一気に呷った。
「でも、八村は本当に凄いと思うよ。会社勤めながら自分の会社立ち上げて、どっちもこんなに成功させてんだからさ。俺じゃ死ぬまで八村に追いつけないよ」
「そうか? 俺も運が良かっただけだよ」
昌吾は自分の顔が歪みそうになるのを必死で耐えた。
「木津、そろそろお開きにしようか」
「そうだな。八村は家庭があるからな。八村の話を聞いて、俺も遊んでいないで結婚しようかなって思ったよ。お互い都内に居るんだから、たまにはこうして飲もうぜ」
「ああ、そうだな」
そう言い、久し振りに再会した2人は笑顔で別れた。
ホテルからタクシーに乗った。タクシーが走り出した途端頭を抱えた。絶望感と虚無感が頭の中で暴走するのを防ぐ為。
“成功者”として一緒に飲んだ。しかし、本当の意味で成功者は木津だけだった。彼は才能をペンで表現し、世界で認められた。一方自分は力を使って資産を増やし、力を使って商売を成功させた。
成功に辿り着いた道が正反対なのだ。
今まで会社の同僚達より先に出世し、人が一生で稼ぐ何十倍も稼いでいる。美しく性格の良い妻と、品行方正な子供達に恵まれた。初めて会う人のほぼ全てに優越感を持ってきた。
しかし木津には劣等感しか覚えなかった。
何も持っていない頃に知り合った木津の成功は、それ程昌吾の心に衝撃を与えたのだった。
木津は自分の不動産業のお得意様だ。この先何度も顔を合わせる機会があるだろう。その度にこのような劣等感に苦しめられたくないと思った。
昌吾は次に木津から誘いが来るまでに行動しないといけないと思った。自分の精神衛生を保つ為に。
【木津真尋の存在を変えて欲しい】
見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。
昌吾は大急ぎでSNSで木津真尋の事を調べた。いつも通り、木津の顔は別人になっていた。
昌吾は心の底からホッとした。
とても軽い気持ちでリビングへ行った。するとそこには暗い顔をした頼子、祥子、和貴が居た。自分の気持ちが上向いているから対称的に見えるのだろうと思った。
昌吾は3人を『朝から暗い顔をしてると運が下がるぞ』と励ました。そしていつもより美味しく感じる朝食をたいらげ、意気揚々と出勤した。
心なしか、いつもより電車が空いているような気がした。昌吾は革製のバンドの高級腕時計を見た。
そこで合点がいった。起きた時間はいつも通りだったが、朝食を食べ終えたのが早く、駅へ向かう道も空いてたので、早い電車に乗れたのだと。
いつもの降車駅に着き、人の流れに乗って会社に向かった。青空に伸びるコンクリート造りの建物に、餌を持ってきた蟻のような人達と一緒に入っていった。
早く会社に着いたので、昌吾は今日やるべき仕事の整理をした。いつもより早く出勤してきている上司を見て、何人もの部下が顔をハッとさせた。
始業時間になり、昌吾はコーヒーカップを机の隅に置いて仕事を進めた。窓の外からは頻繁に飛行機の音が聞こえてきたが、昌吾の集中力を削ぐ事はなかった。
一気に昼まで仕事をし、空腹を感じた昌吾は顔を上げた。室内を見て、違和感を覚えた昌吾は眉をひそめた。
それはデスクにつく社員がまばらだったからだ。昌吾は少し考えた後、ひそめた眉を開いた。数年前に世界を席捲した病気の為、大久保商事でもリモートワークが取り入れられた。昌吾もそれを積極的に推し進めた側だった。今日はリモートワークを選択した社員が多いのだと思った。
社員食堂でトンカツ定食を食べて自分の部署へ戻った。やはり人が少なく、昌吾は一抹の寂しさを感じた。
「田代さん、ちょといいかな?」
丁度通りかかった女子社員を呼び止めた。セクハラなどを疑われないように、掛ける言葉、立ち位置なども適切になるように気を付けなければいけなかった。
「はい……」
田代の声は暗かった。もしかしたら調子が悪いのかもしれない。昌吾はコンプライアンスに引っかからないよう、話はさっさと切り上げようと思った。
「何かさ、今日人が少ないと思ってさ」
「そうですよね。えっと……でも、仕方がないんじゃないですか……」
「うん、そうだよね。リモート選ぶのは社員の自由だからな」
田代は驚いたように目を丸くした。
「えっと……。部長、私も午後は早退してもいいですか?」
突然そんな事を言われて昌吾の方が驚いてしまった。そしてやはり体調が悪かったのだろうと思った。
「ああ、もちろんいいよ。ゆっくり休んで、良くなったら出社すればいいから。まあ、リモートもあるしな」
昌吾は田代を安心させるように笑って言った。田代は急いでデスクへ駆けていき、スマホだけ手にして部屋を出ていった。
午後の仕事を始めて少しして、集中力が切れた昌吾は机の隅のコーヒーに手を伸ばした。高機能の保温カップなので、午前中に淹れたコーヒーもまだ温かいだろうと思った。
手が届こうとした瞬間、世界が揺れた。窓の外から轟音が聞こえた。
コーヒーカップは床に落ち、中身を盛大に撒き散らした。
地震かと思い、昌吾は自分のスマホに視線を動かした。液晶画面が明るくなり、けたたましい警報音が鳴りだした。
やはり地震だと思った。こんなに揺れたのだから震源地は近く、震度はかなり大きかったのだろう。避難の必要性を確認する為、昌吾はスマホを手に入れた。
昌吾は目を瞠った。地震の速報ではなく、都心に爆撃が加えられたというものだった。先程の揺れと轟音はこれだったのだと思った。
室内でバタバタという激しい足音がした。昌吾は我に返って頭を上げた。誰もが昌吾と同じ情報を得たらしく、我先にと出口へ走っていった。
昌吾も一拍遅れたが部屋を飛び出した。エレベーターは止まっていて、先行する者達に続いて非常階段で1階を目指した。
青空の下に出て空を仰いだ。巨大な鳥が飛んでおり、いくつも糞を落とした。黒く見えるそれは建物や地面に当たると爆発した。
爆撃を目の当たりにしているのだと思い、昌吾は疾走を開始した。
頭上では爆弾を落とす爆撃機、ドッグファイトを繰り広げる戦闘機が飛んでいた。昌吾は自分の身に災いが降りかからない事を祈りつつ駅へ向かった。
もちろん駅には人が溢れていた。どうやら電車が動いていないのだろう。昌吾は道端の自転車に跨って家の方へ向かった。
自転車で帰るには遠く、昌吾も自分の体力に不安があった。途中で若い女性を原付から引きずり下ろし、それで家に向かった。
昌吾は急いで玄関のドアを引いた。鍵はかかっておらず易々と開いた。家の中へ飛び込み、土足のまま自室へ向かった。
家の中は静謐そのもので、誰も居ない事が察せられた。スマホにはその旨を伝える連絡が入っていなかった。通信が混雑しているのか、そもそも連絡を忘れているかは分からないが、昌吾にとってはどっちでも良かった。
昌吾はレターセットを取り出し、ペンを握った。遠雷のような爆撃音が聞こえた。他人の命もそうだが、自分の命が失われたらお終いになる。焦燥感にかられた昌吾はレターセットとペンを手にして家を出た。
原付に乗って柱谷の家へ向かった。ここには逃げ惑う人の姿は見られなかった。しかし、まだ爆撃の音は遠く聞こえていた。
昌吾は例の部屋に飛び込んだ。誰も居なかった。そして、外で戦争が起きているなど思えないくらい静かだった。
昌吾はテーブルに便箋を置き、ペン先を紙の上に置いた。2ミリ程線が引かれたが、昌吾の動きは止まった。
家族全員を救う為にはどのように文章を書けばいいのか。
昌吾はすぐに頭を振った。
本当の両親、頼子、頼子の両親、祥子、和貴、信濃、水沢、久里、宇都宮、木津など自分と深く関わった存在は変えてしまった。もう元の顔など全く思い出せなかった。
昌吾は家族を変えてから新しい家族を愛そうとした。会話も増やしてみたり、家族旅行を沢山してみた。
その結果、昌吾は新しい家族に親しみを覚えた。と思っていた。しかし、自分の命がかかっているこの状況に晒されると、親しみや思い出などは風に散らされる雲だった。
昌吾にとって今の家族は、世界にはびこる顔も名前も知らない奴等と同じだった。自分の命以外大事なものなど考えられなかった。
そんなどうでもいい奴等の命を助けようとして、自分の願いがボケてしまって命を危うくしたら本末転倒だと思った。
昌吾はペンを動かし、一気に願いを書き上げた。
【戦争なんて無い世界に行きたい】
時間は無いと分かっていたが、万が一の事があるので内容を見直した。そしてもうこれ以上はないだろうと自分に言い聞かせた。
昌吾は便箋を切り取った。台紙を投げ捨て、封筒に入れた。
玄関を出てポストの所へ行った。爆撃の音が近付いてきているような気がした。
全く躊躇いを見せず手紙をポストに投函した。
昌吾は目を覚ました。視線の先には見慣れた天井は無く、灰色に汚れた雲の広がる空があった。
立ち上がって周囲を見た。自分は廃墟の中で寝ていたのだと理解した。狼狽しつつも昌吾はかつて自分の家だったらしき1階へ降りていった。
リビングはめちゃくちゃになっていた。家族の写真が置いてあった辺りに行くと、床に写真立てが落ちていた。しかしそこに写っている3人の顔には見覚えがなかった。
昌吾は素足のまま外に出た。そして愕然とした。世界が崩壊しているのを目にしたからだ。
何処に行けばいいのか分からずしばし呆然としてしまった。徐々に頭の痺れが引いてきて、昌吾はとりあえず柱谷の家へ行こうと思った。足の裏が傷付いたが、昌吾は気にしていなかった。
街が壊れていて風景が変わっており、少し迷って何とか柱谷の家へ辿り着いた。
柱谷の家も崩れていた。いつも手紙を入れていたポストはバラバラになっており、番地は『100』になっていた。
柱谷の家の敷地に入って瓦礫を持ち上げた。昌吾は誰かが忘れたかもしれないレターセットを探してみたが見つからなかった。よしんばあったとしても。ポストが壊れているから使えないだろう。
どうしようもないと思い、昌吾は絶望した。顔が一気に10も歳をとったようになった。
瓦礫の中に黄色く変色した紙片が風になびいていた。昌吾は力の抜けた手でそれを取り上げた。
件の便箋ではなかったが、文字が書いてあった。昌吾はそれを読んだ。読み進めるうちに目が大きく開かれ、読み終えた頃には木の洞のようになっていた。
昌吾は幽鬼のようになってその場を後にした。誰も居なくなった街を、目的も望みも無く彷徨った。
どこかの家の庭を通り抜けた時、家の中からラジオの放送が聞こえてきた。その音の波が昌吾の耳に届いた。
『……ラジオをお聞きの皆さん。首都爆撃をきっかけに第三次世界大戦が始まってしまいました。沖縄、福岡、大阪、名古屋、長野に核兵器が使用されました。主要都市を狙っていると思われます。東京、仙台、札幌周辺の人は逃げてください。人類は滅亡しません。希望を捨ててはいけません。この災厄を乗り切りましょう。もう一度、いえ何度も繰り返します。AM北海道から生放送しております。ラジオをお聞きの皆さん、……』
突然ラジオから雑音が流れ出した。その一瞬前、女性の悲鳴と爆発音が聞こえたような気がした。
幽鬼のような昌吾だが、ラジオの音は聞こえていたのだろう。紙を持っていた手の力が抜け、紙は禍々しい臭いを含む風に吹き飛ばされていった。
≪これはギフトではなかった。
命を粗末にしようとした私達への罰なのだ。
塔上者という名は間違っていた。我々は堕ちていっていたのだ。そして数が増える毎に世界は混乱していくらしい。アレックスをだまして100の世界に行かせてみた。しかし彼は帰ってこなかった。悪い事をしたと思っている。
私は現在46だ。世界の遠い場所で戦争が起きているらしい。前は平和そのものだったのに。
俺は混乱に満ちた世界で生きるのは嫌だ。レターセットの誘惑は強烈だ。ふとした時に抗う事は出来ないだろう。最後の願いをしたら道具は焼き捨て、あとは自分の力で未来を切り開いていこうと思う。
これを読んだ者もある程度願いを叶えて満足したら、世界平和を願ってもうやめる事をお勧めする。≫
ドクターが書いた手紙は鳥も居ない空を飛び、瓦礫の中に落ちた。そしてもう一度空を飛びたいのか、体を震わせ続けていた。
西の空から空気を切り裂く音が聞こえた。
白い筒のようなものが飛んできて、上空で小さな太陽に姿を変えた。
強烈な光、猛烈な風、暴虐な熱、裁きの炎が昌吾を包んだ。
了




