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神様お願い  作者: 雪兎
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 昌吾はポンコツを自分の行き付けの店に案内した。いくつかある中でも、特に高級な和食の店へ。

 店の前に着くと、ポンコツは驚きで目を丸くしていた。昌吾はほくそ笑んだ。体の事では負けたが、やはり財力は自分の方が圧倒的に勝っていると感じた。

「す、凄いね、八村さんはいつもこんなお店で飲んでるの……?」

「ええ、まあ。俺、大久保商事なんで、取引先の人と来たりします。外国のお客さんにも評判良いんですよ。あっ、ここは俺が出しますから遠慮なく」

「ええっ、それは悪いよ」

「本当に大丈夫です。俺、もう少しで課長になるから、これくらい経費で落とせますし、もし駄目でも小遣いから出せばいいですから」

 自分の今の地位、収入に関する自慢を混ぜ込んだ。案の定、ポンコツは言葉を失って驚いていた。

「ごめん。正直助かるよ。まだ子供が小さくておカネがかかるからさ」

 ポンコツは恥ずかしそうに言った。昌吾は笑顔であったが、心の中ではポンコツを嘲笑していた。

 ビールが出る前にお互いの事を交換した。ポンコツには2歳の娘が居て、家族3人の写真をスマホの待ち受け画面にしていた。それを見つめるポンコツの顔は落ちぶれた父親の顔に見えた。

「乾杯! 宇都宮さん、ここの先付めちゃくちゃ美味いんですよ。どうぞ」

「へ~、楽しみだなぁ」

 昌吾が勧めるとポンコツは早速料理に箸を伸ばした。その瞬間昌吾は眉をしかめた。

「あれ? 宇都宮さん、左利きでした?」

「ああ、うん。箸とペンは今でもね。八村さんもそうだったよね」

「うん……」

 昌吾はまだ薄く残る左肘の傷痕に服の上から触れた。どうやら失言に気付いたらしく、ポンコツも顔を歪ませた。

「ごめん、八村さん。そういうつもりで言ったんじゃないから」

「いや、大丈夫。もう20年も前の話だから、もう俺も気にしてないから」

「本当にごめん。俺も同じ怪我したから、八村さんの気持ちはちょっと分かるんだ」

 昌吾は驚いた。そして言葉を失い、ポンコツを丸い目で見つめて話の続きを促した。

「俺もさ、実はピッチャーだったんだ。あっ、でも俺は八村さんみたいに才能は無かったけどね」

 ポンコツは恥ずかしそうに言った。

「中学入って、サウスポーだったから期待されて、一応すぐにベンチに入れて貰えたんだ。俺もまだ血気盛んだったからめちゃくちゃ練習してさ、肘を傷めちゃったんだよ」

「でも、右手で送球してたじゃないですか?」

「うん、俺、野球しかなかったからさ、右手で投げられるように頑張ったんだ。結局利き手じゃなかったから送球が安定しなくて、内野で使って貰ったんだ」

 確かに昌吾も当時思っていた。何でこんなに下手な奴が内野を守っているのかと。使うなら打球の来ない外野にすればいいと、ポンコツがエラーする度に思ったのだった。

「そ、そうだった、んですか……」

 ポンコツの努力を知っていたから、監督はポンコツを試合で使い、先輩達はポンコツをキャプテンに推したのだろうと思った。

「それで、宇都宮さんは何時まで野球してたんですか?」

「ああ、実はさ、今でもやってるんだよ」

 あまりにも驚き、昌吾は箸を床に落としてしまった。

「えっ、そうなんですか?」

「うん、社会人野球なんだけどね。セカンドを守ってて、4番打たせて貰ってる。そんな実力は無いんだけどさ、チームメイトがそうしてくれたんだ」

 ポンコツは後頭部を掻き、恥ずかしそうに言った。

 昌吾の目の前は真暗になった。自分はあの時怪我をし、野手とバッターの道を歩むという選択から目を背けた。しかしポンコツは自分のしなかった事をした。もしあの時周りのアドバイスを受け入れていたら、野球を続けている未来もあったのかもしれない。

 何故なら、目の前の宇都宮がそれを体現しているからだ。

 その時、美味い酒がとても苦く、料理は砂のように感じた。そして控えめに夢を語る宇都宮の姿を見ているのが辛くなった。

 自分で誘ったが、昌吾は1時間半程度で飲み会を終わらせた。約束通り昌吾が奢り、宇都宮は恐縮していたが、昌吾の自尊心を回復する役には立たなかった。

 帰り際、宇都宮と連絡先を交換した。その時『今度は俺がご馳走するよ、こんな高級店は無理だけど』と言ったが、昌吾には宇都宮が格下には見えなかった。

≪宇都宮:今夜はごちそうさまでした。お互いに気を付けて帰りましょう。おやすみなさい≫

 帰りの電車で宇都宮からラインを受け取った。アイコンは待ち受けと同じ、家族3人の写真だった。

「おかえり。私の実家行くって言ってたじゃない。あれって、ゴールデンウィークでいいのかな?」

 リビングに入るなり頼子が言ってきた。昌吾は打ちひしがれており、この問いに答えるのも面倒だった。

「うん、それでいいよ」

「OK、それじゃお母さんに伝えておくね。お風呂沸いてるけど、すぐ入る? もうご飯食べたんでしょ?」

「うん、中学の時の先輩に偶然出会ったんだ。飲みがメインだったから、後でお茶漬け貰える? その前にちょっと仕事が残ってるから、それが片付いたらお願い」

「うん、分かった。仕事忙しいと思うけど、あまり無理しないでね」

「ああ、ありがとう」

 ネクタイを緩めながら言葉を交わし、昌吾は自室に向かった。そしてレターセットを取り出した。

【宇都宮の存在を変えて欲しい。中学の時、野球部の先輩だった、あの宇都宮だ】

 宇都宮の下の名前を忘れていたので、力が間違って発動しないように注意して書いた。そして翌日の会社帰りに柱谷の家へ向かった。

 見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。

 起きてすぐ昌吾はスマホを手にした。そして宇都宮のアイコンを拡大表示させた。奥さんと娘は同じだったが、宇都宮の顔は別人になっていた。昌吾は安堵の溜息を吐いた。

 この年のゴールデンウィークは8連休だった。昌吾達は新幹線のグリーン車に乗り、頼子の実家がある京都へ向かった。

 京都は昼過ぎに着いたがすぐに実家へは行かなかった。昌吾達一家は鴨川を眺められるホテルに泊まった。

 翌日朝、頼子の実家へ行きたくない、昌吾の気は重かった。朝食はビュッフェスタイルだったが、トースト、サラダ、コーヒー程度しか皿に乗っていなかった。

「ねーちゃん、どうぞ」

 和貴が自分の嫌いなトマトを祥子の皿に乗せた。その瞬間、祥子が皿を手で払った。

 皿と食べ物が空中を飛んだ。床には絨毯が敷いてあって食器は割れなかったが、食べ物やジュースが盛大に床に散らばった。

「いやっー。かってにしないでー!」

 続いて祥子が感情を爆発させた。

「祥子、ママが新しいの持ってくるから」

「いやっー。祥子がもってきたのじゃないといやー!」

「いやっー! もとにもどしてぇ」

 祥子は顔を真赤にし、目から大粒の涙を零しながら床の皿を指差していた。

「あれは落ちちゃったから」

「いやっー! あれじゃないとダメ」

 昌吾達のテーブルの周りが騒がしくなり、部屋全体に拡がっていった。迷惑、拒否、非難の視線が集まってきた。しかし祥子のかんしゃくは全く治まらなかった。

「昌吾さん、ごめん、和貴の事お願い」

 そう言うや頼子は祥子を抱きかかえて走り去った。周囲の者達はまだ憤懣が治まりきっていないようで、小声で昌吾達への文句を言っていた。

 昌吾は和貴に朝食を食べさせて部屋に戻った。泣き疲れたらしい祥子がベッドで寝ていた。

「祥子、どうしたの?」

「和貴に勝手にトマト乗せられたのが嫌だったみたい」

「えっ? そんな事で?」

「うん。……たまにあるんだ。何か気に入らない事があると、手が付けられなくなって」

「そうなんだ。我が強いのかな?」

 結局食事が出来なかった頼子と祥子の為にルームサービスを取った。そして11時くらいにホテルを出て頼子の実家へ向かった。

 頼子の両親は大人には豪華な鮨、子供たちにはハンバーグなどをデリバリーしていた。

「あっ、すいません。お義父さん、気が付きませんで」

「いや、気にしないでいい。今回はお客さんだからな」

「すみません。それじゃ、お言葉に甘えて」

 昌吾のグラスにビールを注ぎながら義父が言葉を続けた。

「昌吾君、頼子から聞いたんだが、今度昇進するそうじゃないか」

 やっとこの話になったかと昌吾はニヤリと笑った。

「はい、そうなんですよ。課長になります」

「ほ~、大久保で課長! 相当早いんじゃないのか?」

「ええ、まあ、一応。最年少だって言われてます」

 昌吾は恥ずかしそうに後頭部に手を当てた。内心では得意になり、義父を見下していた。

「それは、凄いな……」

 義父は自分のビールに口をつけた。

「そこまで実績を作ったならどうかな。我々の会社に来てみないか? もう私のコネなんて言う者も居ないだろう」

「お誘い頂きありがとうございます。でも、今はお断りさせてください」

 飄々とした雰囲気で昌吾は言った。義父の顔色が変わったが、昌吾は気付かない振りをした。

「今、大久保での仕事が楽しいんですよ。海外と取り引きして、世界を相手にするのってとても興奮します。それに満足して、日本の中でゆっくり仕事したくなったその時は、改めてこちらからお願いするかもしれません」

 企業としての規模の違い、鴨司家の同族企業を下に見ている事を隠して昌吾は言った。義父の頬に力が入り、奥歯を噛み締めているのが分かった。

 頼子に初めて実家に誘われてから11年、やっと両親の鼻をあかせられたと胸がすくような想いだった。

 そして、和貴が産まれた時、祥子を可愛がらない両親に怒りを覚えた。あの時存在を変えていたら、見知らぬ者に先程の言葉をぶつけても自分が満足出来ないと思った。

 昌吾はここまで待った甲斐があったと思った。ビールも鮨も甘露の味がした。

 頼子の実家には泊まらずに同じホテルでもう2泊し、京都観光を終えて東京へ戻った。頼子の両親が最後に京都駅に見送りにきた。2人の顔を見るのはこれが最期と思ったが、全く感慨深くなかった。

 東京に帰り、翌日義父の存在を変え、更に翌日義母の存在を変えた。3日目に目を覚ました時、昌吾の心は晴れ晴れしていた。

 7月になり、祥子がもう少しで夏休みに入ろうとした頃、仕事から帰ってきた昌吾を暗い顔の頼子が迎えた。何だろうと思ったが頼子が何も言わないので、スーツを脱いで食卓についた。

「子供達は?」

「もう寝た。10時だし」

「そうか、平日はいつも寝顔しか見れないな」

「うん。でも、昌吾さんは仕事頑張ってくれてるから、仕方ないわ……」

 頼子は大きくて、重い溜息を吐いた。

「頼子、どうした? 何か悩みがあるのか?」

 すると頼子の両の目から大粒の涙が零れ落ちた。頼子はイスに座り、手で顔を覆った。

 昌吾は驚き、食事も半ばにして頼子の隣に座った。そして背中を優しくさすり、努めて優しい声で話し掛けた。

「どうした、何でも言ってみな。俺で出来る事なら協力するから」

「うん……。今日ね、学校で担任の先生と懇談があったの。その時にね、祥子に障害があるんじゃないかって、言われたの……」

「だって……、祥子は勉強もちゃんと出来るじゃないか。幼稚園でだって、祥子は良く出来るって言われてたんだろ?」

 昌吾は足下が崩れていくような感覚に襲われた。

「うん。知能は全く問題無いらしいんだけど、発達障害なんだって。先生から専門の病院を紹介されたわ……」

「それで、祥子をそこに連れていくのか?」

「仕方ないじゃない。もしそうだったら祥子が辛いだけだから」

 目の前が真暗になり、色々と想いが頭の中を巡った。良く考えたら、祥子は子供の頃からそのような節が見られた。妙なこだわりがあり、それから外れるとかんしゃくを起こす。そして、そのかんしゃくはなかなか治まらなかった。ただ、大人の言う事はしっかり理解しているような知能があるように見えた。障害を持つ知り合いの話、興味本位で読んだ本の内容が祥子の症状と合致していた。

 昌吾は胸が苦しくなってうなだれた。

「そうか、そうだよな。学校が言ったのが本当とうかどうか確かめた方がいいかもな」

 頼子は無言で頷いた。

 夏休みに入ってから頼子は祥子を病院に連れていった。そして数回の診察後、祥子には発達障害という診断が下された。

 その日まで悩んでいた頼子であったが、祥子の性格の原因が分かってむしろすっきりしたようだった。病院から受けたアドバイスを基に祥子への対応を変えたり、本を読んで自分なりに対応していた。

 対して昌吾は愕然としていた。自分から障害のある子供が産まれるなど、とても信じられなかったのだ。

 昌吾は祥子の姿を見ると辛くなるので、出来るだけ朝早く家を出て、子供達が寝るくらいに帰ってきた。

 昼間の暑さが残る道を昌吾は歩いていた。心は重く沈んでおり、俯き、足を引きずるようにしていた。

 昌吾の横を高級車が走り抜けた時、昌吾の頭に名案が閃いた。表情が明るくなり、昌吾は家まで駆けた。

 食事をする前に昌吾は自室へ飛び込んだ。そしてレターセットに文字を書きつけた。書き終えるや手紙を手にして家を出た。頼子から何処へ行くのか尋ねられたので、『どうしてもコンビニで買わないといけないものがあって』と答えた。

 昌吾は柱谷の家へ向かった。そしてポストに手紙を入れた。その動きには一瞬の躊躇いも無かった。

【祥子を障害の無い子に変えて欲しい】

 過去を変える事は出来ないので、祥子の障害を治すという願いは叶わない事は分かっていた。それならば、祥子の存在自体を変更するしかないのだ。

 見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。

 願いが叶った現象が起きたと思った。それでも不安で心臓を強く拍動させながらリビングへ向かった。

「おはよう、昌吾さん。今日は遅いけど、大丈夫なの?」

「ああ、昨日で一段落ついたから今日はゆっくりでいいんだ。無理して体を壊しても大変だし」

「そうね、入社してからずっと走りっぱなしなんだから、休みをとって温泉とか行きましょうよ」

「そうだね」

 話しながら昌吾は食卓の方を見た。そこには前日とは全く違う少女が座っていて、笑顔で朝食を食べていた。昌吾はそれが新しい祥子なのだと納得した。

「ねーちゃん、リンゴちょうだい」

 突如和貴が手を伸ばし、祥子の皿からリンゴを取って口に入れた。昌吾は血の気が引いた。そして祥子の感情の爆発に対し、精神的防御をとった。

「もー、カズくん。おか~さ~ん、リンゴある?」

「あるよ~。すぐ切るからね」

 あまりにも平和な家庭の姿に、昌吾の心に幸せが拡がっていった。

 心に余裕が出ると仕事も上手く回り、課長となった昌吾は順風満帆のスタートを切った。心も大らかになり、部下からの信頼も集まってきたのだった。

 更に、ある日、昌吾が独り暮らししていた部屋の賃貸管理をしている、不動産屋から電話が掛かってきた。その部屋の借り手が替わるという内容だった。

 ここで昌吾はある事を思い付いた。副業で不動産業をしようと。資金はたっぷりあるのだから。

 懇意の不動産屋に相談し、人気が出そうな物件、還元率の高い物件などをいくつか購入した。人に借りられ家賃収入が入ってきた。昌吾の資産からすると微々たるものであったが、小さくとも社長という気持ちが昌吾の自尊心を大いに高めてくれた。

【良い物件が俺に集まるように】

 知り合いが物件や土地を手放そうとしている、駅から近い物件が安く売りに出ている、競売で良い物件を競り落とすなどして昌吾の下には優良物件が集まってきた。

【不動産業が上手く回るようにして欲しい。購入したものは出来るだけ高値で売れ、賃貸物件は常に入居者があるようにして欲しい】

【不動産業の方に優秀で、信頼出来るブレーンを雇いたい】

 この願い通り、ナンバー2の杉田のお陰で副業は昌吾がほとんど手を出さなくとも順調に利益を上げていった。

 大久保商事では部長以上の者達に頭を下げなくてはならずストレスが溜まった。しかし、小さいながらも自分で設立した会社では社員達からかしずかれたので、昌吾の精神はとても安定したものになった。

 社員と社長の二刀流で忙しくしていた昌吾は、なかなか家庭に携わる事が出来なかった。そういう訳で、頼子から和貴を私立小学校に入れたいと言われた時は面食らった。

「ねえ、和貴を啓和の小学校に入れたいんだけど。私達の母校だし、安心でしょ?」

「えっ……いいけど、……。でもさ祥子は公立に行ってるんだし、和貴もお姉ちゃんが居てくれた方が安心するんじゃないの。それに、祥子の時はそんな事言わなかったじゃん」

「うん、祥子にはのびのび育って欲しいと思うんだ。私も公立だったし。それに何より和貴は男の子でしょ。啓和で将来の人脈を作ったり、学歴って大事だと思うから」

 今の頼子の両親は子供達を平等愛してくれていた。しかし前の両親から教育を受けた頼子は、未だ男児信仰が強かったのだ。昌吾は心の中でうんざりした。

「そうか、まあ、それもいいかもね。それで、和貴が合格する可能性は?」

 心の動きを一切見せず、尋常と変わらぬ声で昌吾は話した。すると頼子の顔が曇った。

「うーん、塾の先生によると、五分五分みたい。やっぱりレベルが高いしさ、和貴も勉強よりゲームが好きみたいだから」

 頼子は重い溜息を吐いた。そして、恨めしそうな目で和貴用のスマホを見つめた。

「五分五分なら大丈夫じゃないか。入試は何時なの?」

 頼子の答えを昌吾は記憶に刻み付けた。

 和貴の入試の日、頼子と和貴は仕事に出掛ける昌吾を見送りにきた。昌吾は笑顔で和貴の頭に手を置いた。

「和貴、頑張れよ。パパも祈ってるから」

「ウン。がんばる」

 和貴は、まだ不安なようだが、笑顔で昌吾の言葉に頷いた。

 昌吾は和貴とハイタッチをし玄関を出た。鞄の中には事前に準備しておいた手紙を忍ばせて。

 午後、頼子からラインがあった。

≪頼子:和貴の試験終わったよ。頑張ったみたい。≫

≪SHOU:『お疲れ様。パパは合格を信じてる』って伝えておいて≫

≪頼子:OK。今夜はステーキ焼くね。≫

 残念だと昌吾は思った。こんな日に焼くなら間違いなくA5ランクの牛肉だろう。それを食べられないのが、とても悔しかった。

 仕事帰り、昌吾は柱谷の家へ向かった。そしてポストに手紙を入れた。

【八村和貴を啓和大学付属小学校の入試に合格させて欲しい】

 見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。

 便利なのもで、試験の結果は翌日には分かる。しかもインターネットで確認出来るのだ。その日仕事が休みだった昌吾は、発表時間をソワソワしながら待った。絶対大丈夫だと分かっているのに。

 午前9時、頼子がスマホを操作した。液晶画面を見つめる目は、不安で揺れていた。

「ああっ、和貴、良かったわね。合格よ!」

 頼子が叫んだ。その瞬間頼子の目から膨大な量の涙が溢れ出した。和貴も頼子の言葉を耳にした瞬間顔を綻ばせ笑顔になった。祥子も弟の合格を祝って飛び跳ねていた。

 さすがに昌吾も安堵の溜息を吐いた。

 合格が決まった日の夕食もステーキだった。和貴と祥子は二日連続で喜び、昌吾はやっとありつけて嬉しかった。

【テナント事業も成功させたい】

 土地物件の売買、部屋や建物の賃貸業に成功した昌吾は、テナント業務も始めたくなった。商業ビルを買ったり、テナント用の物件を購入して人々に貸す事にしたのだ。

 事務所、ブティック、飲食業、小売業を営む人に貸した。昌吾はチャレンジ精神を持った若者には賃料を優遇してやった。社員からは税金対策かと聞かれたが、人生の成功が決まっている昌吾は純粋に人を応援してやりたいと思ったのだ。

【俺のテナントで仕事を始めた人の事業が上手くいって欲しい】

 これは仏心からの願いではない。若者を応援してやりたいとはいえ、貴重な願いの機会を他人の為に使う程心は広くなかった。

 昌吾には計画があった。自分の所有するテナントを借りた者が成功すれば、噂を聞いて昌吾の会社が管理するテナントの評判が上がる、借り手が殺到し、物件を増やせば増やすだけ自分の収入が上がる。つまり自分の為になると思ったからだ。

「パパ、相談があるんだけど」

「何?」

「実はね、私の友達がカフェやりたいみたいなんだけど、良い物件が見つからないみたいなんだ。パパ、良い場所知らない?」

「ん~、条件は?」

 頼子はかなり真剣な相談を受けていたのだろう、最寄り駅の候補、駅からの時間、路面店である事、広さなどをつらつら上げていった。

 昌吾はそれを紙に書きつけるとスマホを操作し始めた。

「もしもし、杉田? あのさ、聞きたい事があるんだけど……」

 昌吾は頼子に聞いた物件の条件を口にした。

「うん、うん、そう。賃料は? うん、うん、分かった。ありがとう。ごめんな、業務時間外なのに。今度酒奢るよ。それじゃ」

 電話で話す昌吾を頼子は不安な目で見ていた。

「頼子、3つあるって」

「本当に? それで、家賃って……?」

「ああ、頼子の友達だから特別安くしとく」

 頼子の顔がパッと明るく輝いた。

「ありがとう、パパ。ほら、パパの会社のテナント借りると成功するってネットで噂になってるから、友達にどうにかってお願いされてたんだ」

「うん、頼子の顔が立つならなによりだよ。友達も成功すればいいな。友達に事務所に行くように言っといてよ。俺は杉田に伝えておくから」

「分かった。伝えてくる」

 昌吾は缶ビールの口を頼子の方に向けたが、頼子はスマホを持って寝室の方へ行ってしまった。行き所を失くしたビールを、半ば残っている自分のコップに注いだ。

 昌吾の野望は天井知らずだった。遂に仕事の範囲を海外に延ばしたのだった。

【仕事を海外に展開するので、成功しますように】

 これは海外事業部で活躍していた事も影響していた。昌吾は海外出張の時に杉田と川岸を同行させた。

 杉田には国内同様に海外の不動産を見て回らせ、川岸にはセレクトショップ用に商品を探させたり地元の企業と話し合いをさせた。

 もちろんこの事業も大成功だった。昌吾の会社はアメリカ、インドネシア、オーストラリアで不動産業を展開し、世界中から珍しいものを集めるようになった。

 自分の人生と世界の歯車がしっかり噛み合っていると感じた。そんなある日の昼休み、頼子から電話が入った。

『パパ、大変なの。和貴が……』

「どうした?」

 事故、誘拐、事件。青白い顔をして動かない和貴の顔が頭をよぎった。そして目の前が真暗になった。“死”は例の力でもどうにもならないのだから。

『和貴がね、友達を殴ったって、学校から連絡があって』

「何だ……、そんな事か……」

『何よっ、“そんな事”って……。大変なのよ……」

「ああ、そうだよな。ええっと、早退して帰るから」

『うん、そうして……』

 電話の向こうで頼子が泣いていた。

 昌吾はタクシーを飛ばさせて家に帰った。家の雰囲気は外から見ても、とても暗かった。

「ただいま」

「おかえり……」

「和貴は?」

「部屋に入ったっきり……」

「そうか、何があったんだ?」

「何か、ケンカしたみたいで先生の話だと、休み時間にいきなり殴りかかったんだって。相手の子は頬を大きく腫らしているんだって」

 頼子が自分の頬を指差しながら言った。

「ちょっと、俺が和貴と話してくる」

「うん、お願い……」

 昌吾は2階の和貴の部屋に行き、ドアをノックした。

「和貴、パパだ。話、聞かせてくれないか?」

 中から反応は無かった。昌吾は根気強く何度も和貴に話し掛けた。しかしなしのつぶてだった。昌吾は諦め、頼子の所へ戻った。

「どうだった?」

 不安に震える頼子の言葉に、昌吾は俯いて首を左右に振った。

「どうしよう……」

「そうだな、今は落ち着くまで待つしかないんじゃないかな」

「そう……、でも、ちょっと急がないといけないかも」

「どうして?」

「相手の子のお父さんがね、東京五ツ星銀行の重役なんだって。それだと、都合が悪いじゃない?」

 大久保商事のメインバンクだし、昌吾の会社も付き合いがあった。そことの関係の悪化は確かに都合が悪かった。

 いつしか世間話で頼子と銀行の話をしたかもしれない。それを覚えていてアドバイスをしてくれるとは、頼子は案外聡い女なのかもしれないと思った。

「鴨司の取り引き銀行でもあるのよ。もし調べられて実家との関係が悪くなったら、もう京都へ戻れなくなるのよ」

 昌吾は心の中で前言撤回した。やはり頼子のアイデンティティは依然鴨司なのだと。そして、がっかりした。

「とりあえずさ、菓子折り持って謝りにいこうか」

 昌吾と頼子は道中で菓子折りを買って相手の家に向かった。最初はけんもほろろの対応であったが誠意を尽くして謝り、何とかドアを開けて貰えた。

 玄関には角が生えたような母親と、左頬に大きなばんそうこうを貼った和貴の同級生が居た。昌吾と頼子は必死に頭を下げた。しかし母親は一切許そうとしなかった。

 母親の提案は和貴の直接の謝罪か、和貴の転校だった。昌吾と頼子は悄然として帰宅する事になった。

 家に戻り、昌吾は再び和貴の部屋の前に行った。そしてドアをノックしてから優しく話し掛けた。

「和貴、いいか?」

 返事は無かった。

「今、ママと一緒に相手の家に行ってきた」

「……それで?」

 以外にもドアのすぐ近くから声がし、昌吾は驚いて体を起こした。そして少しホッとし、話を続けたのだった。

「友達は顔を腫らしてた。向こうのお母さんも凄い怒ってた。それで和貴が謝れば何も無かった事にするって言ってたから、今日か明日パパと一緒に行かないか?」

「……ボクが悪いっていうの?」

「何があったかはパパも分からないけど、やっぱり暴力は良くなかったんじゃないか」

 ドアが内側から鳴った。どうやら和貴がドアを殴ったようだった。昌吾がやめるように言っても治まらず、中から奇声が聞こえてきた。

 昌吾は溜息を吐いて自室に戻った。

【八村和貴が起こした問題を解決してくれ】

 いつもより重たく感じるペンで書き、封筒に入れて家を出た。頼子には『こんな時間に何処行くの?』と言われたので、『和貴が落ち着くかもしれないからチョコ買ってくる』と言って柱谷の家へ向かった。

 翌日になると事態が変わった。学校から電話があり、和貴が殴ったのは友達をイジメから救う為だったと聞かされた。

 銀行員の父を持つ増田は、勉強が出来る一般社員の息子の幡中に嫉妬した。そして仲間を集めてイジメを開始した。

 最初は軽く小突いたり物を隠すといった軽微なものだった。それが段々エスカレートし、トイレに閉じ込める、水をかける、弁当に虫を入れるなどを行うようになった。

 和貴は少し性格に荒々しいところがあるが、その分親分肌でもあったので、クラス内で起きたイジメを許せなかったようだ。和貴は教師にそれを訴えたが『勘違いじゃないか』と一蹴されたという。

 一週間経ち、増田達のイジメは治まる様子を見せなかった。それどころか、増田が幡中の頭をバンバンと叩いたのだった。

 それを見て和貴は激昂した。『いいかげんにしろー!』と増田の頬を殴ったのだった。

 この経緯を朝になって増田が泣きながら親に語った。大騒ぎをした事を恥じた増田の両親が、学校を通して昌吾達に謝罪を申し入れてきたのだ。

 電話で事情を聞いた昌吾は、さすがに早退はしなかったが、定時で家に帰った。そしてまだ閉ざされている和貴の部屋の前に行った。

「和貴、パパだ。ママから学校での事聞いたよ。お前、イジメを止めようとしたんだってな。偉いじゃないか」

「でも、パパ、ぼうりょくはよくないって言ったじゃん」

「う、うん、ゴメンな……」

 昌吾は何も言えなくなってしまった。ちょっと耐え難い沈黙が続いた後、和貴の部屋のドアが開いた。昌吾が驚いていると、中から暗い顔の和貴が出てきた。

 やっと和貴が出てきてくれてホッとした。しかし和貴に冷たい目で睨まれ、昌吾は肝を冷やす事になった。

 それ以来、和貴は粗暴になった。家庭でも学校でも、気に食わない事があれば暴力で訴えるようになったのだ。

 ある夜、昌吾は取引先と食事をして帰宅した。玄関の敷居を跨いだ時、昌吾は異変を感じた。しかし酔いが回っており、それを無視して家の奥へ歩いていった。

 リビングの中は、まるで室内で炭火焼でもしたかのように、黒い霧が漂っていた。昌吾はゴクリと喉を鳴らした。

「頼子……、どうした?」

 ソファでうなだれている頼子を見つけてそう言った。調度が豪華なだけに、頼子の存在は違和感そのものだった。

 声を掛けても反応しない頼子に異変を感じ、昌吾は恐る恐る近付いていった。そして頼子の姿を目にして驚愕した。

「頼子……、どうしたんだ、コレ?」

 昌吾は頼子の左手を取った。そこにはまだ傷口も生々しい歯形が付いていた。それにそっと触れると、痛かったのか、頼子が体をビクッと動かした。そして、頼子の目に生気が戻った。

「頼子……」

「ああ、パパ、お帰りなさい。ご飯……は食べてきたのよね。お茶でも淹れるわね」

 立ち上がろうとする頼子を、昌吾はソファに座らせた。

「そんな事いいよ。頼子、それよりこの傷はどうしたんだ?」

「ううっ……」

 頼子の目に涙が溜まり、刹那決壊した。頼子は昌吾の胸に飛び込んできた。

「和貴が今日友達を叩いたって学校から連絡があって、夕食の時にそれを聞いたの。そしたら急に怒り出して、ご飯やお皿を投げてきて。お茶碗が祥子に当たったから止めようと思ったら、噛みつかれて……」

 頼子の手をそっと置き、昌吾はキッチンへ向かった。シンクには割れた皿が入っていた。

「私、もうどうしたらいいか……」

「頼子、大丈夫。俺が何とかする」

 昌吾はリビングを出た。そして和貴の部屋ではなく、自室へ向かった。

【和貴を、暴力をふるわない、冷静で礼儀正しい存在に変えてくれ】

 自分が子供の頃とは全く違う和貴を嫌悪し、便箋に書かれた字は乱れていた。そして家を飛び出した。足音を忍ばせもせず、玄関の扉が開閉する音も隠そうとしなかった。頼子に和貴の事を放っておいたと誤解されても、願いが叶えばどうせ解決してしまうのだから。

 見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。

 ホッとし、昌吾はリビングへ向かった。食卓には知らない男の子が座っていた。もう何度も体験した事なので、それが新しい和貴だと瞬時に理解した。

「あっ、パパ、おはよう」

 とても穏やかな和貴の声だった。昌吾の心は暗雲が晴れるようにすっきりした。

 食卓に座り、頼子が朝食を運んでくれるのを待った。そして目の前に皿が置かれていき、昌吾は思わずギョッとしてしまった。

「あっ、コレでしょ? コレね……」

 頼子の手にはまだ歯形が残っていた。壊れたものや傷付いたものは元に戻せないから当然だろう。

「昨日和貴にちょっと噛まれちゃって。私の手が美味しそうなお肉をに見えてたのかな?」

「もう、かずくんって食いしん坊ね~」

 祥子が笑って言った。

「ママ、ごめんね。あとでぜったいしょうどくとかしてね」

 昌吾には噛みついた本人がそのように言うのは違和感があったが、それを言ったら皆が混乱するか自分が変人扱いされると思って言葉を飲み込んだ。

「うん。ママも祥子と和貴とずっと一緒に居たいからちゃんとやっとく。でも、ママってそんなに美味しそうかな~? まだまだ若いって事だよね」

 頼子がそう言うと、3人は見つめ合って笑った。それと同時に昌吾は泣きそうになった。自分が望んでいた温かい家庭が目の前に広がっていたからだ。力を使って本当に良かったと思った。

 昌吾は人が物のように詰められている電車に乗って会社に向かった。いつもはうんざりするのだが、この日に限っては全く気にならなかった。それどころか優越感に満たされていた。

 この車両に乗る者達は何かしら問題を抱えているだろう。しかし、自分は生涯経済的な心配は無いし、人間的に素晴らしい子供を持っている。死という自然の摂理からは逃れられないが、人生の幸せを享受する側に居るという確信があった。

 それもこれも、例の力のお陰であった。あれを手に入れる前、自分は死を考えるくらい絶望していた。そんな不幸な自分の為に、神とも言うべき存在が、幸せを与えてくれたのだろうと思い感謝した。

 幸福感に満たされていた昌吾は、その夜久しぶりに頼子の寝室を訪ねた。そして布団にくるまる頼子の体にそっと手を置き、優しく揺すった。

「ん? あっ……、パパァ、どうしたの?」

「なあ、頼子、久しぶりに、どうかな?」

「えっ、あっ、うーん。もう新しい子供が欲しいとかじゃないでしょ。気持ちが繋がってればいいじゃない。それに、私も朝が早いし、パパもお仕事で疲れてるでしょ?」

「あっ、うん、そうだね、おやすみ」

「うん……、おやす……」

 昌吾は虚無感に襲われて自分の寝室へ行った。そして真暗な部屋のベッドに座り述懐したのだった。何時から頼子と肌を合わせていなかったか、何時から『パパ』と呼ばれるようになったのか。しかし、昌吾はそれを思い出せなかった。

 妻に“男”として扱われなくなったと知った昌吾だったが、それによってある意味視野が拡がった。その為、自分に女性としての視線を向けてくる女性に気が付いた。

 頼子からは与えられない愛を、解消出来ない性欲を、不動産業の方で知り合った女性に求めた。毎晩のようにその女性と食事や逢瀬を重ねた。ただ以前から帰りが遅かったので、頼子に疑われる事はなかった。

【神津妃菜と付き合いたい】

【モデルのEMINAと付き合いたい】

【歌手の美唄レイナと付き合いたい】

【女優の嘉駕見雅(かがみみやび)と付き合いたい】

 一般人と付き合いたいと願ったのは最初の女性だけだった。それ以外は芸能界の女性を願った。自分の男としての魅力と財力があれば、一般女性を落とすのは容易だと悟ったからだ。よしんば振り向かない女性が居たとしても、自分はよりどりみどりなので執着する必要が無いと思った。

 一夜の楽しみも含め、昌吾は20代前半の女性だけを選んだ。その影響があったのか、昌吾の肌には艶が戻り、言動も若くなっていった。

 ある夜、都内の高級ホテルを出た時不審な気配を感じた。昌吾は辺りに視線を巡らせた。植栽の後ろに人影が隠れた気がした。昌吾は女性を置いてそこへ走った。

 皺の寄った安物のスーツを着た中年男性が後ろに何かを隠した。昌吾は男に近付いて詰問した。

「お前、何をしてる?」

「いや、別に……」

「何を隠した!」

 昌吾は男の腕を取った。男の手には暗闇でもしっかり写りそうなカメラがあった。

「お前……誰に頼まれた?」

「えー、まあ、あなたの奥さんですね。あなた、疑われて。ますよ。ヘヘッ」

 男はいやらしく笑った。

「報告しない、という選択は?」

「まあ、俺も依頼料貰ってますから。ヘヘッ」

「守銭奴め! いくら払えばいい?」

「話が早くていい。奥さんからは50万貰ってます」

「そうか……。百万渡そう。何処へ行けばいい?」

 すると男は名刺を差し出してきた。

「分かった。連絡する。絶対に妻には言うなよ」

「ええ、俺は約束は守りますから。ヘヘッ」

 男の言葉は全く信用出来なかった。最も懸念するのは、度々カネをゆすりにやって来る事だった。金額は問題ではないが、そのストレスは想像するだけで面倒だった。

 昌吾は家に帰った。そこにはいつもと変わらぬ様子の頼子が居た。

「ただいま」

「お帰りなさい。今日もお食事は外でよね。何か飲み物でもいれる?」

 昌吾は頼子の顔をジッと見つめた。あの探偵崩れが言う事が本当であれば、頼子が依頼した筈であった。しかし、目の前の頼子からは昌吾を疑っているようなぞぶりは見られなかった。

「うん。じゃあ、コーヒーを」

 昌吾が頼むとすぐにコーヒー出てきた。湯気の立つそれを見て、昌吾はゴクリと固唾を飲んだ。湯気が殺意のように見えたのだ。

「ありがとう。仕事が残ってるから部屋で飲むよ」

 そう言うと昌吾はコーヒーを手にして自室へ向かった。そして窓を開け、捨てた。中に何が入っているか分からなかったから。

【妻の頼子を、夫の事を疑わない、従順な存在に変えて欲しい】

【探偵筒見恭一郎を、こっれきりで八村昌吾を関わらせないで欲しい】

 2通の手紙を用意した。そしてどちらを先に投函するか考えた。今回気にしないといけないのは“過去は変えられない”というルールだと思った。

 頼子を変えるのは何時でも出来る。自分と女性との関係が明るみになり、仲が険悪になっても取り換えたらいいだけの事だ。しかし筒見が動いて報告書を頼子に渡してしまったら、その事実は永遠に残ってしまう。

 この瞬間昌吾は優先順位を決定した。翌日、昌吾は何が入っているか分からない朝食を断り、早い時間に筒見に会った。そして百万円を、重い気持ちで、手渡した。

 昌吾の資産は30億円以上あった。百万円などはした金に過ぎない。このみすぼらしい男にカネを払うという事が、屈服したようで気分が悪かったのだ。

 その足で昌吾は柱谷の家へ行き、筒見との関係を断つ手紙を投函した。

 翌日朝、起きるとすぐに柱谷の家へ向かった。そして頼子の存在を変える願いを書いた手紙を投函した。都合2日間を無駄にしたが、ストレスが軽減されるならそれで良かった。

 見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。

 昌吾は踊るような足取りでリビングへ向かった。そこには新しい頼子が居た。

「おはよう、昌さん」

 満面の笑顔で頼子が言った。こうして見ると、前の頼子は腹に何かを抱えていたのだなと思った。この愛情のみの笑顔を見て、昌吾は家族とはこういうものだと思った。

 その日の夜、昌吾は頼子を誘ってみた。前の頼子とは違い、素直に自分を受け入れてくれた。今度の頼子はとても積極的で、昌吾は身も心も満足した。

 昨晩は疲れて頼子のベッドで寝てしまったようだった。目を覚ました時頼子は既におらず、昌吾はシャワーを浴びてからリビングへ向かった。

「おはよう」

「すぐご飯用意するね」

 頼子はキッチンへ向かい、目玉焼きを作り始めた。温かい家庭の空気を吸い、無意識に昌吾は笑顔になった。

 その時、点けられていたテレビからニュースが聞こえてきた。近隣の国が離島を武力を行使して制圧したというものだった。

 昌吾はテレビの画面を見て眉をしかめた。

「あっ、ごめん。テレビ消すね」

「いや、いいんだ。何か物騒な事になってるなって」

「うん、本当に……。この子達が無事に生きていければいいけど」

「大丈夫だよ。この国だってそこまでバカじゃないだろ」

 それに万が一の場合は例の力を使えばいいと思っていたからだ。

 折角気持ちが晴れ晴れする朝だったのに、墨が一滴落とされたような気持になった。

 ただ、こんなニュース如きで今の昌吾を鬱々とさせる事は出来なかった。自分の理想通りの妻、品行方正で優秀な子供を手に入れ、宇宙へ飛んでいきそうなくらい心が軽くなっていたからだ。

 温かい家庭を手に入れたとはいえ、昌吾の女遊びは治まらなかった。一般女性を男の魅力とカネの力を使って誘惑した。

 昌吾は家族に対して後ろめたさなど微塵も感じていなかった。自分は史上まれにみる力を手に入れた偉大な人物で、“英雄色を好む”という言葉もあると自分を説得していた。

 そうかと言って前のような面倒はもうこりごりだった。昌吾は事前に手を打っておく事にした。

【八村昌吾と女の関係が、絶対露見しないようにして欲しい】

 もうこれで安心だった。昌吾は誰の目も気にする事なく女遊びを楽しんだ。

 ある日、会社を定時で出て副業の不動産事務所へ向かった。

「あっ、社長、お久しぶりです」

 ずっと自分の代わりに不動産業を回してくれている杉田が迎えてくれた。杉田は毎月莫大なカネを産みだしてくれており、どんなに給料を払っても惜しくないと思っていた。

「杉田、いつも悪いな。これで美味いものでも食ってくれ」

 そう言って昌吾は10万円を財布から抜き出した。すると杉田は『ありがとうございます』と言い、遠慮する事なく受け取った。恐らく自分も有能な仕事をしていると思っているのだろう。

「最近どうだ?」

「ええ、事業は順調です。物件の賃貸は常にいっぱいです。売買も損切は一件もありません。テナントはいつも退去待ちや、新規が出るのを待つ者が居る状態ですね」

「うん、さすがだな。最近気になる客は居るか?」

「そうですね……。海外でも有名な洋服屋が国内展開する為に事務所を借りにきた事でしょうか」

「へ~、ウチも有名になったな。外人も客になるなんて」

「いえ、違うんです。海外で修業した日本人なんです」

「ふ~ん、なる程ね。まあ順調ならなによりだよ。これからもよろしくな」

 昌吾はそう言うと、杉田の肩をポンと叩いて事務所を後にした。とても気分が良かった。昌吾はホテルの上階で街の灯を見下ろしながら酒を飲み、家族の待つ家へ帰った。

 駅から歩いて15分だが、最近の昌吾はタクシーを使っていた。しかしこの日はとても気分が良かったし、酔いも醒ましたかったので久しぶりに歩いたのだった。

 家には誰もが羨むような家族が居て、仕事は出世の階段を順調に駆け上がっていた。副業は大きくなり、本業よりも収益を上げていた。資産は33億円を超え、孫までは贅沢な生活を送る事が出来るだろう。しかも人外の力を持ち、どんな危機も回避出来る。

 昌吾は、自分は誰よりも恵まれていると思った。自分の大きな家が見えてきた時、喜びで叫びたくなった。

 その瞬間、昌吾は突然孤独感に襲われた。鞄を地面に落とし、胸の辺りを掴んで震え出した。

 これはいったい何なのだろうと思った。昌吾は自分の心を精査した。しかし、原因は全く分からなかった。

 家に帰れば、家族に会えば治まるだろうと思い、足早に家に飛び込んだ。頼子が笑顔で出迎えてくれ、今寝ようとしていた子供達に抱きつかれた。しかし、昌吾の不安は一向に消えなかった。

 頼子には心配を与えないように出来るだけいつも通り振る舞った。そして日が改まった頃、自分の寝室へ入った。

 ベッドに入ったが、心臓は速く拍動していた。額からは汗が滲み、昌吾は耐えるように強く目を瞑った。瞼の裏に光が明滅した。赤い光が弾けた時、昌吾は暗闇でカッと目を見開いた。

 自分を産みだした両親はとうの昔に変えている。自分が愛した妻も変え、その両親も変えた。子供も産まれたままではなくなっている。もしDNAを調べてみたら血縁関係は証明されるだろう。しかし、世界で自分だけはそれが縁で結ばれた家族ではないと分かっていた。

 自分はある意味天涯孤独なのだ。それを無意識に感じ、孤独感と不安感に苛まれているのだと分かったのだ。

 そして、何より昌吾を絶望に追いやったのが、もう元には戻せないという事実だった。

 翌日リビングへ入り、前日と同じ家族に迎えられた。しかし、昌吾には彼等は家族という役を演じているようにしか見えなかった。

 自分はいったい何の為に働いているのだろうと思った。自分を慕ってくれている家族は居るが、どうしても愛情を感じられなかった。自分は、ただ生命を全うしようとする存在にしか感じられなかった。

 実際、昌吾も仕事上の小さなミスを実感していた。名誉欲は高く、ミスが原因で自分の後塵を拝している同僚に侮られるのは我慢ならなかった。

【仕事のミスが出ないようにして欲しい】

 折角手に入れた地位をこれで失わずに済むと、目を覚ました時胸を撫で下ろした。

 ある日、昌吾は海外事業部の課長級会議に出席した。大久保商事と、部の未来を方向付ける重要な会議だった。

 朝から世界地図とデータを睨み、大胆と慎重の綱渡りをしながらという精神を削る会議だった。部長もそれが分かっているのか、昼食は有名な日本料理店の御膳を用意してくれた。

 5人の課長は会議室で円になって食事をしていた。会議の緊張感から解放され、いつも以上に皆朗らかだった。

 昌吾を除いてであったが。

 豪華な弁当を、砂を噛むようにモソモソ食べていると突然声を掛けられた。昌吾はハッとした。正直面倒で話したくなかったが、昌吾は最年少で課長になったので周りは全て年上だったので無視はさすがに出来なかった。

「……八村君」

「あっ、ハイ。すいません」

 こいつ等より出世すればこの面倒から解放されるだろうか。否、部長になったらなったで、役員になったらなったで新しいしがらみが発生するのだろう。ならば社長になればいいのか。いや、会長、他社の社長、官僚、議員達との繋がりが出来、もっと複雑なしがらみが発生するだろう。何処まで行っても終わらない輪廻の渦に巻き込まれてしまっている事を悟り、昌吾はうんざりした。

「八村君って子供いるでしょ?」

「はい」

「何歳なの?」

「えっと……、娘が中2で息子が小6だったかな」

「おい、自分の子供の年齢が曖昧とかあるのか? いや、でもあれか、最年少出世記録を更新している人間はそうなのかな」

 昌吾は半笑いをした。笑顔を隠すよう。当然昔は子供の成長を指折り数えて祝福していた。しかし、気付いたら興味を失っていたのだ。

「子供と仲良い? 話したりする?」

「ええ、まあ、普通に」

 一体何を聞かれているのか見当がつかず、昌吾は心の警戒レベルを高めた。

「それがさぁ、普通じゃないんだよなー」

 周りの課長達も同意を示して頷いた。

「ウチの娘なんて大学生でさ、普段挨拶もしないんだよ。でも、欲しいものがある時だけ猫撫で声でさ。俺の事ATMとしか思ってないんだよ」

 笑いが巻き起こった。『俺も』や『ウチもそう』などという声が上がった。

 昌吾はこっそり溜息を吐いた。何と幸せな奴等であろうかと。

 我慢や喧嘩や甘えがあるのは、結局家族としての愛情を信じているからなのだ。自分の家に居る3人は素直でそれをしてこない。とても楽ではあるが、物足りなさと虚しさを感じていた。

 もちろん昌吾自身も家庭内で感情を発露させる事が出来なかった。そこで問題が発生したら、また容易に家族を取り替えてしまう自分が居ると確信していたからだ。

 全て自分に問題と責任があると分かっていた。しかし、もうどうしようも出来ないと思うと、絶望感が胸に拡がった。

 昌吾は、自分の家族からせめてATM扱いして欲しいと思った。さすがにそれを願おうとは思わなかったが。

 このままでは自分は生きる幽鬼になってしまうと思った。そして、散々悩んだ揚句犬を飼う事にした。仕事帰りにペットショップに寄り、サモエドの子犬を購入した。

 祥子と和貴は大喜びし、先を争って子犬を抱こうとした。頼子は『どうせ私が世話するんでしょ』と言ったが、顔はまんざらでもなさそうだった。

 仕事が忙しい昌吾はサモエドのエリスと触れ合う時間は少なかった。必然的に頼子に一番なつき、祥子、和貴の後が自分だった。エリスの笑ったような顔にもそうだったが、頼子が寝た後に甘えられた時とても癒された。

 掛け値無しの愛情を向けてくる存在が居る事で自分は現実世界と繋がっているのだと実感出来た。

 中学校まで公立校に通った祥子は、高校受験で大学付属の高校に行きたいと言った。祥子にとっては挑戦校で、睡眠時間を削って毎日勉強していた。

 自分の願望を叶えようとする祥子を見て、昌吾は我が子に対して久し振りに人間味を感じた。そして、祥子の願いを絶対叶えてやりたいと思った。

【八村祥子が聖アンヌ女子学院付属高校に受かりますように】

 祥子の受験当日、昌吾は手紙を持って柱谷の家へ向かった。

 後日、当然の事だけれども、祥子は聖アンヌ女子高に合格した。祥子と頼子は涙を流し、抱き合って喜んでいた。中一の和貴も祥子とハイタッチして祝福していた。

 この姿を見る限り、祥子にとってはギリギリのレベルだったのだろう。力を使わなくても合格したのか、使わなかったら不合格だったのか、今となってはもう分からない。結果を先に知っていた昌吾は全く喜べなかった。

 昌吾は会社で“部長補佐”という役職に就いた。願いのお陰でそつなく仕事をこなしてきたので、それを認められての事だろう。また入社の時に引き立ててくれた桑田が副社長になった事も関係があると思われた。

 自分の実力が少しでも介在しているのか、全てが力のお陰なのか分からず、昌吾は昇進しても全く喜べなかった。

 不動産業やセレクトショップの業務もすこぶる順調だったが、やはりそれも昌吾の自尊心を高める役には立たなかった。

「社長、数年前にウチのテナントを借りた洋服屋覚えてますか?」

「……、ああ。最初ウチのセレクトショップが買い付けたところだよな。それがどうした?」

「いえ、今やウチで路面店を5軒借りてくれていて、これからテナントは全部ウチで担当して欲しいって言われました」

「そうか、まあ、有り難いな」

 昌吾の反応が薄く、杉田は少し不満そうだった。それを見る限り、杉田がメインで進めている企画なのだろう。だからと言って、昌吾は杉田を褒めちぎる事は出来なかった。

「そうなんですよ。それで、向こうのデザイナー兼オーナーが一度社長に挨拶したいと言ってるのですが、どうします?」

「うーん、まあ、そういうのはいいだろ」

 面倒だと思った。それにその人と会っても何がある訳でもないだろうから。

「……、まあ、そうですよね。向こうには社長は忙しいと伝えておきます」


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