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神様お願い  作者: 雪兎
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 玄関扉を少し大きく開いた。一呼吸溜め、昌吾は首を闇の中に突っ込んだ。

 直後昌吾は首を出した。その顔は強張っており、青ざめていた。

 荒い息を整えるのに2分かかった。そして再び昌吾は闇の中へ首を入れた。

 家の中は真白で無機質な雰囲気だった。まるで病院か研究所のようだった。

 頭のキャパシティーがいっぱいになり、昌吾はまた動けなくなった。息を整え、渇いた喉に唾を送り込んだ。しかし全く役に立たなかった。

 昌吾は勇気を奮い立たせ、全身を玄関の中に入れた。

『ヨウコソ、イラッシャイマセ。アタラシイカタ』

 まるで機械で作られたような、感情が全く無い、言葉が響いた。昌吾は飛び上がるくらい驚いた。

「誰?」

『ワタシハ、エラバレタモノタチヲノアンナイヤクデス。アナタノオテツダイヲシマス。マズハ、ジブンヲトウロクシテクダサイ』

 昌吾は驚いた。光で出来たキーボードやウインドが空中に現れた。

 一瞬呆然とした昌吾であったが、オンラインゲームに似ているなとすぐ立ち直った。そして、名前、生年月日、パスワードを打ち込んだ。

『トウロクシマシタ。ツギニ、アナタノスガタヲトウロクシテクダサイ』

 今度は人の形が現出した。昌吾はゲームのアバターを作るように、自分の姿に似せたものに変化させた。

『ヨロシイデスカ?』

 昌吾は『OK』と言おうとして言葉を飲んだ。そして、一瞬考え込んだ。

「これって、今の自分と同じじゃなくてもいいんですか?」

『モチロンカマイマセン。ゴジユウニシテクダサイ』

「よしっ、それじゃ全部クリアーにして」

 折角作ったアバターが素のものに戻った。

 そして昌吾は自分のアバターを女性に変更。ピンク色の長髪、凸凹の美しいプロポーション、切れ長の碧眼と濡れたようなポッテリした唇にした。

『ヨロシイデスカ?』

「OKだ」

『トウロクシマシタ。ツギハコエヲキメテクダサイ』

 ベースの声があり、作り上げた女性に似合うように調節した。何度もテストし、耳に心地良くしたので昌吾は大いに満足した。

『コエハ、ヨロシイデスカ?』

「OKだ。でもさ、これって何の意味があるの?」

『ソレヲイマカラゴセツメイシマス。コノイエハ、アナタノヨウニチカラヲテニイレタヒトガアツマルバショデス。ソノトビラノムコウニ、アナタノナカマガイマス』


 なるほど声が言う通り、目の前の白い壁に鈍い銀色のドアノブがあった。それがあるから昌吾はドアがある事に気が付けた。

 昌吾はドアノブを掴んで回し、思い切って引いてみた。何の抵抗もなくドアが開いた。昌吾は躊躇わず敷居を跨ぎ越えた。

 その瞬間、昌吾は固まってしまった。

 天井から煌々と射す光。クリーム色の壁。16畳程のフローリングの部屋。中央には大きな円卓。壁には1つも窓は無かった。

「こんにちは」

「おっ、新しいビラーだね」

 部屋の中には4人が居た。声を掛けてきた2人は昌吾に歓迎の笑顔を向けてきた。

「まあ、こっちに来て座りなよ」

 着物を着て、ちょんまげを結っている男性が言った。腰には大小2本差していた。

「はい……」

 状況が全く分からない昌吾であったが、先程の声には親しみが含まれていたので、恐る恐るではあったが円卓に近付いていった。そして勧められるままに椅子に座った。

「ようこそ。初めてだよね。俺、オメガっていうんだ。君もやっぱりあのおっさんからレターセット貰ったの?」

 驚いた事に、オメガと名乗った男の見た目は完全にロボットヒーローだった。しかし声は機械音ではなく、男性の肉声にしか聞こえなかった。

「おい、オメガ、それはダメだろ。君だってその姿は現実のものとは違うんだ、新入りさんの素性を探るような事はするな」

 ちょんまげはオメガをたしなめ、昌吾の方に笑顔を向けてきた。

「俺は、ムサシ。ここは現実とは違う自分で居られる場所なんだ。まあ、SNSみたいなものと考えてくれたらいい。でも、名前は教えてくれるかな。何て呼べばいいか分からないから」

「は、はい……、し、シェリルです」

 危うく本名を言いそうになってしまった。しかし直前で自分の姿が女性だった事を思い出し、漫画かゲームで見た女性の名前を名乗った。

「シェリルか、OK。さっきのオメガの質問なんだけどさ、レターセット買ったでしょ? あれって現実の世界で男性なら女性が、女性なら男性が接客してくるんだって。だから、オメガはシェリルが本当は男性か女性かを探ろうとしたんだ」

 昌吾はオメガを見た。オメガは鋼鉄の顔を気まずそうにさせた。

「へ~、そういう事なんですね。まあどっちでもいいんで答えます。ワタシの前に現れたのは、男性でした」

 顔色一つ変えず昌吾は嘘を言った。

 すると少し離れていた所に立っていた猫耳ショートカットの女性が近付いてきた。尻から生えている白い尻尾がリズムを刻むように揺れていた。

「嬉しい! ウチ以外に女の子が居ないから、友達が欲しかったんだ。ヨロシクね。ウチ、百合」

 百合が手を伸ばしてきた。昌吾は青い爪の百合の手を握った。

「よろしくお願いします。えっと……」

 昌吾はもう1人、金髪碧眼、スーツで身を固めた男性に目を向けた。

「俺はジェイド。よろしく。君のの来訪を、歓迎する」

 ジェイドは感情の動きを感じさせない口調で言った。

「ジェイドさん、新人さんには優しくしましょうね。シェリルちゃん、一緒にコレ食べよ」

 百合が皿を持ってきて椅子に座った。皿の上には紙に包まれた何かが乗っていた。

「お~、今日はカルランか。これ、美味しいんだよな」

 ムサシはスッと手を伸ばしてカルランと呼ばれたものを取り、包み紙を開けた。まんじゅうに似た、黄色い柔らかいものだった。ムサシはそれに齧り付くと、瞬時に目じりを下げた。

 すると百合が『はい、シェリルちゃん』と言ってカルランを手渡してきた。

 昌吾は周りを見た。百合はもちろん、機械顔のオメガも表情の硬いジェイドもそれを口にした。昌吾もそれに倣って包み紙を取り、恐る恐る口にした。

 その刹那、昌吾の目が大きく開かれた。今まで食べた経験の無い、とても幸せな味だった。甘露としか表現出来ない、不思議な甘みだった。

「何、これ、ヤバイ、うっ……美味しい」

 危うく地が出そうになった。寸前のところで昌吾は自分を抑え、出来るだけ丁寧なもの言いをした。

 あまりの美味しさに昌吾は2つ、3つと一気にカルランを食べ終えた。別に空腹だった訳でもないのに止める事が出来なかった。

 4個目に手を伸ばした時点で昌吾は手を止め、顔を赤くして周りを見た。3人は温かい目をして微笑んでいた。

「あっ……、すみません……」

「いいよ、いいよ。好きなだけ食べて」

 ムサシにそう言われたが、昌吾は恥ずかしくてこれ以上食べられなかった。しかし、この菓子の味は忘れ難かった。昌吾はもう1つのカルランを取り、自分の前に置いた。

「1つ、貰って帰りますね」

「それは無理だ」

 冷たい声でジェイドが言った。

「ですよね。ごめんなさい」

「ジェイド、言葉が足りないよ。それじゃシェリルちゃんも訳が分からないじゃない」

 ムサシは慌てた様子で言った。かなり気を遣うタイプの人なのだろう。

「ごめんね、シェリルちゃん。ここからお菓子を持って出ちゃいけないんじゃなくて、出来ないんだよ」

「それって、どういう事ですか?」

「うん、それはね、この家のものはゴミ1つ外に持ち出せないんだ。禁止という意味じゃなくて、不可能という意味。分かる?」

 昌吾は合点がいった。そして頭を縦に動かした。

「えっと……、ムサシさんは色々と詳しいんですね。ここの管理人さんか何かですか?」

 するとムサシは大げさに手を振った。

「いやいや、そんなんじゃないよ。そもそもそんな存在は居ないみたいだし。この力を手に入れて長いから、ある程度知ってるだけ」

「皆さん、もう長いんですか?」

「俺は、fdご@jwwだ」

「えっ?」

 オメガが言った言葉が聞き取れなかった。

「これもルールの1つなんだ。自分の事は言えないってね。今、俺はシェリルさんの質問に答えたんだけど、ノイズが入ったでしょ」

「へー、そうなんですか……」

 その時、昌吾の頭部に電球が光った。

「皆さん、この力の事ワタシに教えて貰えませんか?」

「いいよ、いいよ。俺等もそうして貰ってきたからさ。なぁ」

「私はここでかなり古参だから、誰かに教えを乞うた事は無かったがな」

 ジェイドはそう言ったが、オメガと百合はジェイドの言葉に頷いた。

「ジェイド~、相変わらずつれないな~。ここに居る誰かには教わってないかもしれいけど、ドクターの本は読んだでしょ。で、シェリルちゃん、何が知りたいの?」

 昌吾が口を開こうとした瞬間百合が口を挟んできた。

「ごめ~ん、ウチそろそろ帰らないと。これから用事があるんだ」

 そう言うと百合は昌吾が入ってきたドアに走っていった。そして、ドアを開けたところで振り返ってきた。

「シェリルちゃん、今度ゆっくりお喋りしよ。それじゃね~」

 手を振り、百合はドアの向こうへ消えた。昌吾も手を振ったが、残念な気持ちが沸き上がった。

「話を戻そうか。で、聞きたい事って?」

「はい。あの、その前に、百合さんが時間の事言ってたんですけど、ここに居ても時間は進むんですか? その現実のという意味で」

 漫画では現実と隔てられた部屋では時間が停止したり、極端に進むのが遅かったりする。こんな異次元のような場所なのだから、それが適用されるのではないかと考えた。

「もちろん進むさ。映画じゃないんだからさ」

 オメガが鉄の皮膚を動かして笑った。

「1時間ここに居たら、きっかり1時間経過する。自分の都合の良いように考えるな。バカだと思われるぞ」

 とても冷たい声でジェイドが言った。昌吾は腹を立てると同時に恥ずかしさを覚えた。

「ジェイド、辛辣だなぁ。新人にはもっと優しくいこうぜ」

「えっと、それなら今は何時なんでしょうか?」

 昌吾は部屋のあちこちに目を向けた。部屋の中の何処にも時計は無かった。

 まだ高校生の昌吾はあまり遅い時間に外を歩くと補導される可能性がある。また母親はもう小言は言わないだろうが、父親には叱られる可能性もある。そのような事を考えて昌吾は少し焦った。

「それぞれの生活をしている場所が違うから何とも言えないんだけど、調べる事は出来るよ。シェリルちゃん、右の方に三角形ない?」

 昌吾はチラリと自分の右側に目を向けた。ムサシが言ったように、微かに白く光る三角形がクルクル回っていた。

「あります」

「それ、タップしてみて」

 恐る恐るそれに触れると、突然眼前に四角形のウインドが開かれた。

「わっ、何か出ました」

「メニューだよ。その中から“時計”をタップしてみて」

 昌吾はスマホみたいだなと思った。すると気持ちが軽くなり、ムサシが言った“時計”をタップした。

 すると今度は大きく時間が表示された。西暦と年月日、『22:07』と。それを見て、昌吾は急がなければと思った。

「ありがとうございます」

「うん。その時計を指で縮めて好きな所に置いておけば、何時でも時間が確認出来るようになるからね」

 スマホの画面を拡大縮小するように、昌吾は時計を小さくして光の三角形の下辺りに配置させた。

「出来ました。ワタシもそろそろ帰らないといけないみたいなので、1つだけ質問させてください。あの力で、天気とか変えられますか」

「うーん、出来ると思うけど、俺はやった事ないな……。君達は?」

「俺もない」

「私は、ある。百合もやった事あるって言ってたな。まあ、私が教えてやったのだがな」

「ジェイドさん、それで成功しましたか?」

 昌吾は食いつくように言った。

「百合にアドバイスしてやったくらいなんだ、成功したに決まってるだろ。ちょっとは自分で考えろ」

「ちょっと、ジェイド、もう少しソフトにしてあげてよ」

「フン、気に入らないのなら俺に質問なんてしなければいいんだ。でも、まあ、ちょっと強く言い過ぎたかもしれない。すまなかったな」

「あっ、いえ……、勉強になりました。ワタシも次から気を付けます」

 昌吾は軽く頭を下げた。

「天気を変えられるのは分かりました。ただこの力って使うと日が替わりますよね。翌日じゃなくてちょっと先の天気を変えようとした場合、日は一日進むだけなのか、希望する当日まで跳んじゃうのか、どちらなのでしょうか?」

「なるほど、その疑問は最もだ。結果から言うと、一日しか進まない」

「どんな天気も変えられますか? 例えば大きな台風の真っ最中晴れにしたいとか」

「私もそのケースは試した事が無い。あれだけの事が出来るのだから可能だとは思うが、時間が無駄に消費されるリスクが無いのだから早目にしておく方が安全かもしれんな。私もサッカーの試合や野外フェスの1週間前には手紙を投函していた」

 1つの疑問が解決し、昌吾はとても心が軽くなった。そして顔を笑顔にして椅子から立ち上がり、百合が消えたドアに向かった。

「ここから出たら百合さんと同じ場所に出てしまいますか?」

「いや、それは大丈夫だ。どうやら出入口は1つだだが、それぞれの世界に繋がっているらしい。続けてドアから出たとしても、その先で一緒になる事はない」

「そうですか、安心しました」

 百合という女性とは気が合いそうだったし、もっと話していたいという気持ちが起きていたので、本当は残念だった。

 敷居に一歩踏み出し、再び昌吾は足を止めて振り向いた。

「あと1つ、聞いておきたいのですが……」

「まだあるのか。時間が無いと聞いたと思ったんだが」

 ジェイドが溜息混じりで言った。

「すみません。でも、本当にこれで最後です。あの、皆さんはいつもここに居るんですか?」

「いや、いつも居る訳じゃないよ。俺達も現実の生活があるからさ、もちろん4人集まっているのがいつもじゃなくて、誰も居ない時もあるからさ。もし誰も居なかったら、休憩でもしていったらいいよ。そこの棚にお菓子が用意されてるからさ」

 チラリと先程カルランというお菓子をもってきてくれた棚を見た。そして『さようなら』と言って今度こそ部屋を出ていった。

 ドアが後ろで閉まる音が聞こえた。昌吾は手を広げ、自分の姿を見た。女性の姿から、見慣れた自分の姿に戻っていた。

 昌吾は半ば呆然とした状態で玄関を出た。ゆっくり振り返って家を見た。何の変哲もない家で、昌吾には今の体験が信じられなかった。

 トボトボと家路に向かった瞬間、昌吾はハッとして足を止めた。自分がここに来た理由を思い出したのだ。

 昌吾はいつものポストに手紙を落とした。

 見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。

 時計を一瞬見てすぐにリビングに向かった。案の定毎朝観ているテレビ番組で天気予報がやっていた。昌吾の願い通り、7月19日だけ晴れの予報に変わっていた。

 7月19日、昌吾は起きる予定時間よりも大分早く目を覚ました。もう一度寝る事も出来ず、昌吾はベッドから飛び出してリビングへ向かった。

「母さん、おはよう」

「おはよう、早いのね。今日、ディズニー行くんでしょ? どっちの?」

「うん、えっと、確かランド」

 母親と話しているだけなのに、今日の事を考えると心が躍った。しかしそれを見せるのが恥ずかしくて、敢えて素気なく興味があまりなさそうな声を出した。

「昌吾が忙しくなってから行かなくなったけど、楽しかったわね……。えっ、どうしたの、そんなオバケ見たような目をして」

「母さん……、知っ、覚えてるの?」

 昌吾の顔は強張っていた。

「親なんだから当たり前じゃない。最後に行ったのは、そう小学2年生の時だったわ。昌吾はスプラッシュマウンテンがお気に入りで何度も一緒に乗ったわ」

 その思い出はもちろん昌吾にもあった。しかし実際一緒に行ったのは最初の母親とだった。今の、目の前の母親が当時の事を知っているのに、昌吾は混乱してしまった。

「そ、そうだった。今日も、ス、スプラッシュマウンテンに乗れたらいいな。ハハ……」

 昌吾は無理矢理混乱を頭から追い出し、必死で朝食に齧り付いた。

 仕度を終え、昌吾は部屋で漫画を読んでいた。しかし全く頭に入らなかった。昌吾は1分毎に時計に目をやっていた。

 もうこれ以上自分を抑えられなくなり、昌吾は予定よりも10分早く家を出た。気持ちが足に羽を生やさせ、昌吾は半ば走りながら駅へ向かった。

 6時30分に駅に集合であったが、昌吾は6時16分に着いてしまった。改札の中には信濃と水沢が既に居た。

「おはよう!」

 水沢の姿を見て昌吾の胸は高鳴った。とても明るい声で2人に挨拶をした。

「おはよう」

「おはよう……」

 信濃の声は明るかった。対して水沢の声は、早朝だからか、心なしか元気が無かった。

「お前達早いな。他の奴等も早く来たらいいな。そうすりゃ早く出発出来るのに」

「えっ?」

 信濃の目が丸くなった。

「昌吾、何言ってんだ。今日行くのは俺達3人だぞ」

「えっ、そうなのか?」

 昌吾は素早く水沢の顔に視線を動かした。

「うん、そう……」

 何故なのだろう、水沢はムッとした顔と声で昌吾の言葉を肯定した。

「だから、これで全員集合! じゃあもう行こうぜ。早く行って並べば、それだけ沢山乗れるしな」

 そう言うや信濃はホームの方へ走り出し、水沢が後に続いた。

 昌吾はすぐに追えなかった。2人の後ろ姿に違和感を覚え、束の間呆然と立ち尽くした。しかし信濃に『早く来いよ』と声を掛けられ、鞭打たれたように駆け出した。

 ディズニーランドは昌吾の些細な想いを吹き飛ばすくらい楽しかった。日曜日でそこそこ混雑していたが、中学からの友人同士のお喋り、アトラクションへの期待で並んでいる時間でさえ楽しかった。

 昼ご飯を終え、次はどのアトラクションに向かうか3人で話していた。その目の端で何かが動いた。3人はそちらに目を向けた。パレードが通過していくところだった。

「あっ、パレードだ……」

 水沢が呟いた。

「まだ間に合う。涼花、行こう!」

 小さな声を信濃の耳は捕らえたのだろう、瞬時に信濃が反応した。信濃は水沢の手をしっかり掴み、引っ張ってパレードの方へ走っていった。

 驚いた水沢の顔が、間も無く喜悦に輝いた。それを見て昌吾の頭にある仮説が浮かんだ。それと同時に締め付けられるように胸が苦しくなった。

 この後の時間は昌吾にとって消化試合のようなものだった。自信がマウンドに立たず、大差で負けている試合を見ている時に似ていた。

 一刻も早く帰りたい昌吾だったが、和を乱したくないのと一縷の望みに賭け、閉園まで頑張った。花火が上がって夜空を彩ったが、昌吾にはただの火の粉としか感じられなかった。

 3人の家がある路線に乗り、相変わらず信濃と水沢は今日の想い出を楽しそうに話していた。最初に降りるのは昌吾なので、それまでに確かめなければいけない事があった。

 残された時間はあと10分。昌吾は渇いた喉に唾を送り、恐る恐る口を開いた。

「あのさ……、もしかしてだけど……、2人って、付き合ってる?」

 水沢は絶句し、顔色が変わった。昌吾は半ば確信した。

「ああ、付き合ってるよ」

 あっけらかんと認めた信濃の言葉で奈落の底へ落とされた。

「やっ、やっぱりな。そ、そうじゃないかって思ってたんだ。お前等、めちゃくちゃ仲良さそうだったからさ」

 昌吾は努めて笑い、極めて明るい声で言った。しかし顔は強張り、声も震えていた。

「何で、今日は俺を呼んだんだよ。ふ、2人だけの方が楽しかったんじゃねえのか?」

「ん~、2人でならもう行った事あったからさ。あん時昌吾を見つけて、一緒に行ったら楽しいかなって思って。でもさ、やっぱり楽しかったよな」

 これが演技だったら信濃は相当嫌味が効いた奴だと、昌吾は胸中に恨みの炎を灯した。

「あ、ああ、誘って貰えて嬉しかった。で、お前等何時から付き合ってんだよ」

「あ~、高1のお正月から? 涼花に初詣に誘われて、涼花から。女に言わせるなんて、男として失格だよな~」

「遙……」

 水沢の顔は真赤になっていた。そして右手を拳にし、信濃の脇腹を小突いた。信濃はとても嬉しそうで、それが更に昌吾の胸を締め付けた。

 この10分間は昌吾にとっては地獄だった。笑顔を崩さずにいたものの、何を話していたのか全く覚えていなかった。

 昌吾が降りる駅に着き、昌吾は『じゃあな、また学校で』と言って電車を降りた。そしてそのまま改札へ向かった。2人を乗せた電車が去っていくのを、手を振って見送るなどという余裕は微塵もなかった。

 翌日、重い体に鞭打って学校へ行った。そしてその足でサッカー部の顧問の所へ向かった。

「先生……」

「おっ八村、どうした今日は朝練? 体調でも悪いのか? 悪い風邪が流行ってるから気を付けろよ」

「はい。いえ、そうじゃなくて、俺、部を辞めます」

「そうか……、今、何て言った?」

「サッカー部を退部します」

「何で? 理由は?」

 サッカーは水沢に良いところを見せたいが為にやっていた。水沢が信濃と付き合った今となっては、もうサッカーなど続けている意味が無かった。

 しかし、素直にそれを言わないだけの分別は昌吾にもあった。

「先週末くらいから膝に違和感があって。俺、左肘壊してるじゃないですか……」

 昌吾はそっと左肘を押さえ、目を伏せた。すると顧問もそれを察したらしく、昌吾を憐れむような目を向けてきた。

 瞬時に昌吾の心に怒りが爆発した。しかしむしろ好都合だろうと自分を説得し、無理矢理怒りを抑え込んだ。

 顧問からは部活の時間に挨拶に来るよう勧められたが、『気まずいので』という事を理由に断った。そして顧問の口から伝えてくれるよう頼んだのだった。

 翌日の休み時間、昌吾と同様に補欠にもなれずくすぶっていた仲間が3人やってきた。

「昌吾、昨日藪塚から部活辞めたって聞いたんだけど……」

「ああ、何だか膝が痛くてさ。肘のケガの事思い出したら怖くなっちゃったんだ。軽い体育くらいなら問題無いみたいなんだけど、真剣にやるとなると危ないらしくて」

 もっともらしい理由を口にしてみた。するとまがりなりにもサッカーを真剣にやっている3人も理解したようだった。

「そっかー、残念だなぁ。昌吾、センスあったのになぁ」

「引退まで一緒にやりたかったけど、ケガはヤベエからな。それがいいのかもな」

「お前が一番レギュラーに近かったのにな」

 3人は口々に昌吾の退部を惜しむ言葉を口にした。しかし昌吾の心中は穏やかではなかった。心にもないような事を口にしていると感じたからだった。

 スポーツにも力を入れているこの学校には、将来プロになったり世界大会に出場しそうな者が何人か居た。サッカー部にももちろん存在しており、昌吾はその差に打ちのめされていた。その者達に言われるならまだしも、どんぐりの背比べをしていたような有象無象のやつらに惜しまれても全く嬉しくなかった。そして目の前のこいつ等よりも自分の方が頭抜けてレギュラーに近いのは自明の事だと、心中で嘲った。

「ありがとうな。俺は途中で辞めちまったけど、お前等がレギュラーになれるように応援してるよ」

 頑張って笑顔を作り、心にも無い事を口にした。

 間も無く夏休みに入り、エアコンの効いた部屋のベッドの上で時間をもてあましていた。机の上には宿題が乗っていて、それが心の澱となっていた。

 宿題をやらずにおいて成績が下がっても問題は無かった。大学への進学は例の力を使えば容易に乗り越える事が出来るだろう。ただ宿題をやらない事で教師達に文句を言われるのはウザイと思った。去年はサッカー部のうだつの上がらない連中と写し合って乗り切ったのを思い出した。

 そんな鬱屈したものを抱えたまま40日過ごすのは辛いと思った。昌吾はガバッと起き上がり、レターセットを取り出した。

【高校2年生の夏休みの宿題を終わらせて】

 封筒に入れて、昌吾は家を出た。そして自転車を使わず走り出した。部活を辞めたといってもつい最近までサッカーを真剣にしていたので、数日体を動かさないだけで体がうずいていたのだ。

 すぐにお化け屋敷、いや柱谷家に着いた。

 昌吾は家の中へ恐る恐る入っていった。件の部屋には誰も居なかった。昌吾は棚から前回とは違う菓子を取り出した。これもとても美味しかった。そして部屋を後にした。

 昌吾は封筒をヒラヒラさせながらポストに近付いていった。今回願いを叶えるのに逡巡は無かった。まだレターセットは80枚以上ある。まだ昼過ぎだったけれど、やりたい事も無かったので一日を終わらせてもいいと思っていた。

 見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。

 ニヤリと狡猾に笑い、昌吾は宿題に手を伸ばした。案の定宿題には答えが書き込まれていた。自由研究も終わっていて、昌吾はガッツポーズを作った。

 残りの日々、昌吾は遊び回った。自分に対しては、運動を止めて何か興味のあるものを探す期間だと説得した。

 父親が出世していたお陰で小遣いは潤沢にあった。午前の内に家を出て、帰ってくるのは夕方という日々を過ごした。

 運動をしていた時は休みの時に家に居るなど考えられなかった。家族にはまだサッカー部を辞めたと言っていなかったので、それを隠す意味もあった。

 8月後半、昌吾はクラスの友人とカラオケをしていた。受付付近にドリンクバーがあるので、昌吾は歌って渇いた喉を癒す為に飲み物を取りにいった。

 途中、部屋の外まで歌や合いの手が響いてくる部屋があった。昌吾は興味そそられ、部屋の前を通る時にチラリと視線を向けた。

 ステージのある部屋で、薄暗い部屋にライトが明滅し、数人の男女が踊るように騒いでいた。

 日が傾くくらいまで歌い、昌吾達4人は部屋を後にした。受付にマイクを返していると、廊下の方から騒擾が迫ってきた。

 6人の男女だった。その中の男1人は女の肩に手腕を回し、頬に唇が触れるくらいの位置で話しながら歩いてきた。女の方は男に熱い視線を送り、とても嬉しそうだった。

 6人はロビーでもノリノリで騒ぎ、呆然とする昌吾に気付きもしないで去っていった。

 昌吾はその6人が出ていった先をずっと見つめていた。

「昌吾、昌吾」

「あっ、ごめん。驚いちゃって」

「だよな。あいつ等、ウチの高校の2年だぜ」

「マジで?」

 男女共にセンスの良い私服、数人は軽く髪を染めていた。昌吾はてっきりあのグループは大学生だとばかり思っていた。

「うん、女とベタベタしてたのが5組の村崎だよ。チャラチャラしてんな」

 正直昌吾にはその言葉は負け惜しみにしか聞こえなかった。男4人だけと、男女6人グループ。安売りの量販店の服と、何処で買ったのかは分からないが格好いい服。どちらが人生を謳歌しているのか、昌吾は自分が日陰を歩いていると、考えて唇を噛んだ。

 野球をやっていた頃はエースで、昌吾は日が照る場所に居た。しかし怪我をしたことで雲行きが怪しくなり、サッカー部に入って日が陰った。そしてサッカー部も辞めてしまった今となっては完全に日陰に追いやられたと感じた。

 このまま誰にも顧みられない人生を送るのではないかと昌吾は焦った。

 昌吾はある決意をして、2学期の始業式の前日を待った。

【スクールカースト上位のグループに入り、上手くやっていきたい】

 便箋に書き込み、封筒に入れた。そして夜を待って柱谷の家へ向かった。この日も家の中を覗いた。ジェイドだけが居て、昌吾は一緒に居ても気詰まりなので早々に立ち去った。

 そして家を出るなりポストに手紙を入れた。

 見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。

 昌吾は顔を洗い、鏡で顔を凝視した。首を傾げ、視線を落として体を見回した。何か変化が起きているようには見えなかった。

 リビングに行き、両親と一緒に食事をとった。会話をしたり、テレビや部屋のあちこちを見た。目にしたもの、耳にしたものから受けるものはいつもと変わりなかった。どうやら考え方にも変化は起きていないようだった。

 そして昌吾は家を出た。昨日までと全く変わっていない自分が、スクールカースト上位の者達と仲良くなるなど思えなかった。

 あと少しで学校という所まで来た時、道に落ちている定期券を見つけた。拾い上げたそれには『ムラサキナオキ』と印刷されていた。

 運が良かった。数十メートル先を、先日カラオケで見た村崎が歩いていた。昌吾は村崎に追いついて声を掛けた。彼が独りで歩いていたので、昌吾も気後れせずに済んだ。

「あの、村崎君……」

「あっ? 誰?」

 声は友好的ではなかった。そして目を細め、昌吾に軽い敵意を向けてきていた。

「あの、これ、落とさなかった?」

「あん? 定期?」

 不機嫌そうに言うと、村崎は全身をまさぐり、学校指定ではないカバンの中を覗き込んだ。

「あー、それ、俺のみたいだわ。サ、サンキュー」

 そう言うと村崎は気まずそうな顔で定期を手にした。

「いや、良かったよ。それじゃ」

 昌吾は肺に詰めていた空気を吐き出した。やはりこのような人種とは相容れないのかなと思った。

「なあ、お前、何て名前なの?」

「お、俺? 八村昌吾。じゃ」

 一瞬ドキッとしたが、大した事ではなかったのでホットした。そしてさっさと学校に行こうと、足を速めて校門へ向かった。

 話をした限り、村崎も先日と性格が変わったようには見えなかった。これは彼等のグループに入るのは絶望的に思えた。

 そうかと言って自分を中心に新しいグループが出来る訳ではなかった。日が替わったので願いは叶ったのだろうが、いったいどのようにしてそれが実現するのか見当もつかなかった。

 翌日からもう午後の授業が始まり、昌吾はクラスの友達と中庭で昼ご飯を食べる事にした。

「あれ? 八村君じゃん」

 擦れ違いざま声を掛けられた。昌吾が声のした方を向くと、そこには村崎が居た。

「ナオ、行こうぜ」

「何やってんのぉ?」

 村崎以外の5人の中から男女が声を上げた。

「ほら、昨日話したじゃん。俺の定期拾ってくれた恩人だよ」

 すると村崎が顔を突然笑顔にした。魅力的でなかなか可愛かった。スクールカースト上位にいるのも当然だと思った。

「八村君、俺等と一緒にメシ食おうよ。昨日のお礼に奢るからさ」

「いいよ、大した事してないし。それに、俺、弁当だし、友達と一緒に食べる約束してるから」

「ええー、いいじゃん。ねぇ、君達もそう思うでしょ?」

 村崎の言葉が少し低くなった。昌吾の周りの友達の顔が歪んだ。

「しょ、昌吾、村崎君達と一緒に食べてきなよ。俺達とはいつでも食べれるんだし」

 生贄を差し出すように昌吾を押し出すと、クラスメイト達はそそくさと去っていった。

「八村君、食堂行こうよ。大丈夫、あそこで弁当食っても別にいいんだし」

 村崎に引っ張られるようにして食堂へ向かった。村崎達は3年生の目立つ先輩達に挨拶し、角の大きなテーブルに陣取った。

「その唐揚げうまそうだね」

 カツ丼を食べていた村崎が、昌吾の弁当箱を見つめながら言った。

「1コ食べる?」

「マジで、いいの? サンキュー」

 そう言うや村崎は箸を伸ばして唐揚げを摘み、口の中へ放り込んだ。

「うまっ! 八村君、これどこの冷食?」

「いや、冷食じゃないんだ。母さんが朝揚げたやつ」

「マジで? 八村君のお母さん料理の天才じゃん」

 3人目の母親は、最初の母親に較べたら劣るが、料理は上手だった。それでも昌吾は嬉しくなった。

「えー、ナオだけズルイ。アタシも食べたいんだけどぉ」

 村崎の彼女の篠宮鞠が言った。

「ダメに決まってんだろ、八村君のお弁当だぞ」

「いいよ、篠宮さんも良かったらどうぞ」

「ヤムちゃんステキ。アタシのサンドイッチ1つあげるね」

「あっ、そっか、俺もカツ1切れ渡すよ。マリ、気が利くな。でもよ、何だよその“ヤムちゃん”って」

「八村君だから、ヤムちゃん。カワイイでしょ?」

「何か弱そうな名前だけど、いいな。俺もヤムちゃんって呼ぶわ。いい?」

「うん、まあ、俺は何でも」

「じゃあさ、俺もヤムちゃんの卵焼き貰っていいかな? ギョウザあげるからさ」

 熊田からは餃子、楠本からはサラダを少し、木島からはチャーハン、砂原からはリンゴを貰った。昌吾の弁当はかなり賑やかになった。

 1回の出来事かと思ったが、村崎や篠宮が毎日4時間目の終わりに迎えにきた。最初は昼食だけであったが、昌吾は部活も辞めていたのですぐに村崎達と帰るようになった。

 そして、10月に入る頃、昌吾は周囲からスクールカースト上位のグループの一員とみなされるようになっていた。

「ヤムちゃん、今度の金曜日の夜遊びにいこうぜ」

「何処行くの?」

「俺等の知り合いがパーティーするからさ、それに行こうよ」

 そんな話、今まで聞いた事もなかった。新しい世界を垣間見て昌吾の胸は高鳴った。

「うん、いいよ」

「スゲエ楽しいからさ、ヤムちゃんも期待しててよ」

 パーティー当日がやってきた。驚いた事に、イベント会場を借りて行われるとても大きなパーティーだった。

 中では音楽が鳴り響き、テーブルの上には美味しそうな食事が乗っていた。人々は踊ったり、話したりとこの時間を楽しんでいた。

「ヤムちゃん、はい、コレ」

「サンキュー、ナオ」

 村崎が手渡してくれたグラスに口をつけた。飲み込んでしまってから、昌吾は異変に気が付いた。

「ナオ、これ……」

「あー、ナオ、ダメじゃん。ヤムちゃんにお酒飲ませたら」

「ナオ~、気を付けろよ」

 篠宮や木島が村崎をたしなめた。しかし木島は分かっていたらしく、言葉とは裏腹にニヤニヤしていた。

「お~い、そこの高校生。お酒なんて飲んじゃダメだぞ。おとなしくジュース飲んでなさい」

 既に酒を一口飲んでしまった昌吾は全身から汗を噴き出させた。そして、恐る恐る声のした方に振り返った。

 昌吾は呆然とした。腰まで届くしなやかな黒髪、官能的な肉体、学校では見られない完璧にメイクアップされた美しい顔の女性がそこに居た。

「佳織さぁん、アタシ飲んでませんよ。飲むなって、注意した方ですよぉ」

「そうっすよ。俺等が飲んでもうパーティー出来なくなったらヒンシュクっすから」

「バカね。そんな事どうでもいいのよ。あなた達の成長が心配なの。お酒はハタチまで飲んだらダメよ」

 佳織と呼ばれた女性は、昌吾の口の端に垂れていた液体を指で取り、自分の口でねぶった。そして昌吾と視線を合わせてきて、ニンマリ笑った。

 酒を口にしてしまった後ろめたさと、悪事が暴かれた恐怖、佳織に呼び起された興奮で心臓がバクバクし始めた。

「いい? 高校生クン?」

「おっ、俺、八村っていいます」

「新しいコよね。ナオ達に影響されちゃダメよ。それじゃ、楽しんでね」

 そう言い残すと、佳織は髪と尻を振りながら人ごみの中へ向かっていった。相当人気があるらしく、歩く先々で声を掛けられていた。

「うおー、ビビったぁ。まさか佳織さんに見つかるとは思わなかった」

「もうナオやめてよね。アタシ、佳織さんに嫌われて出禁になったら、アンタと別れるからね」

「分かったよ。ジュースしか飲まないし、タバコも薬もやらないよ」

「当たり前でしょ!」

 女子達はそれぞれ男子達の顔を睨んだ。

「あのさ……」

「あっ、ヤムちゃんも気を付けてね。コイツ等悪ノリするとロクな事しないから」

 砂原が言った。

「うん、でもさ、さっきのヒト、誰?」

「おっ、ヤムちゃん、佳織さんにホレちゃった?」

 熊田が陽気な声で揶揄してきた。彼の手には昌吾も口にしたグラスがあった。

「いや、スゲエきれいな人だなって思って」

「だろ」

「あんたが自慢してど~すんの!」

「俺等も詳しくは知らないけど、洋服とか作ってる人みたい。彼氏も何人もいるみたいでさ、俺もイテッテ……」

 調子に乗って喋っていた熊田の胸を楠本がつねっていた。

「あ、あのさ、その佳織さんってフルネームは何ていうの?」

「月山、月山佳織さんだよ。もしかして、ヤムちゃん本当に佳織さん狙ってる?」

「いやいや、そんなんじゃないよ。俺の友達にデザイナー目指してるのが居るからさ、教えてやろうと思って」

 砂原の言葉に対し慌てて言い訳をした。

 その後昌吾は佳織の姿を目で追った。男女問わず話し、魅力的な笑顔を振りまいていた。しかし昌吾には佳織と再び話す機会には恵まれなかった。

 昌吾は家に帰るなりレターセットを取り出した。そして欲望のまま書き綴った。

【月山佳織の彼氏になりたい】

 すぐにでも家を飛び出したかったが、今から出ると柱谷の家に着くのは翌日午前になってしまう。父親に文句を言われるのも面倒、途中で警察に補導されてもやっかいと考えてやめた。

 手紙をカバンに忍ばせて学校へ行き、帰りに柱谷の家へ向かった。ただ村崎達とボーリングへ行ったので、19時くらいになってしまった。

 ポストに手紙を入れる前に昌吾は家の中へ入った。例の部屋にはムサシとオメガと百合が居た。

「おお、シェリルちゃん、久しぶり」

 すぐにムサシが声を掛けてきた。

「お久しぶりです。そういえばここで皆さんにしか会いませんが、ワタシ達以外にこの力を持ってる人っていないんですか?」

「いや、多分いると思うよ。多分だけどね。俺も偶然入ってみて発見したけど、他人の家に入ろうなんてなかなか思わないだろ」

 オメガが説明してくれた。

「あっ、確かにそうですね。現実の世界でも会ってみたいですね。オフ会みたいな?」

「うーん、やめておいた方がいいかもな。利害がぶつかる相手だったとして、殺し合いになったら困るしね」

 物騒な話なのに、何でもない事のようにムサシが言った。

「そうですね。現実でも女の子が呼び出されて……とかって事ありますしね」

「オイオイ、俺達がそんな事するとでも?」

 金属の皮膚を少し引き攣らせてそう言った。

「いえいえ、一般論ですよ。ワタシは皆さんの事信用してますから。えっと、それで今日は百合さんに聞きたい事がありまして」

「ウチに?」

 百合が自分の顔に指を向けて言った。猫耳がピクピク動いた。

「うん、百合さん、その……、力を恋愛に使った事ある?」

「あっ、う、うん。あるよ」

「特定の人と付き合いたいとかって出来るのかな?」

「うん、出来るよ。それでね……」

「やっぱり女の子は恋愛が重要なんだな。俺は基本的にカネと仕事にしか使わないけどな。その2つがあれば女なんてすぐついてくるだろ」

 オメガが笑いながら言った。

「うん、俺もそうだな。欲しいもの貰ったり、長期休暇が欲しい時とかに使ってる」

「もうっ、オメガさんの発言はセクハラです」

 3人は目を合わせて笑った。しかし昌吾だけはそれに続かなかった。それよりも恋愛に使えると分かった事の方が重要だった。

「ありがとうございます。ワタシ、急ぐのでこれで。百合さん、ありがとう」

 そう言うや昌吾は部屋を飛び出した。そしてポストに手紙を投函した。

 見慣れた天井を見ながら目を覚ました。

 もちろん月山の彼氏になっているというような現実にはなっていなかった。しかし村崎の時もそうだったので昌吾は慌てなかった。その機会が訪れるまでジッと待った。

 再びパーティーが開かれ、昌吾は胸を踊らせてそれに参加した。すると月山に見つけられ、個人的に会う約束をして貰ったのだ。村崎、熊田、木島は嫉妬混じりの称賛をしてきた。

 青山渋谷を歩き、高級レストランで食事をした。どれも月山が出してくれ、悪いと思った昌吾は財布からなけなしの一万円札を抜いた。しかし月山に『子供は無理しないの』と断られてしまった。

 もちろんその日の夜昌吾は月山相手に素敵な体験をした。若い昌吾は何度も月山を求め、それに対して『若いわね』と笑って応じてくれた。

 7歳上の月山は、昌吾に同年代の者達では受けられない体験を与えてくれた。昌吾は月山に首ったけになり、初恋の傷心も忘れられたのだった。

 しかし、2人の蜜月は長く続かなかった。月山は昌吾の若い感性を仕事に取り入れたかっただけだった。ただ、それを吸収し、代わりに性を搾ってくれた。昌吾から得られるものが少なくなったと思ったら、ラインで簡単に別れを切り出されてしまった。

 しかし月山は昌吾の何枚も上手だった。パーティーなどで出会うと、男女の関係が無かったかのように、ごく自然に接してきた。

 百合が言ったように、例の力は恋愛に仕えた。しかし結果は昌吾の望んだものではなかった。但し、与えられた刺激と興奮は若い昌吾の脳を痺れさせるには充分だった。昌吾は己の欲望を満たす為、例の力を乱発した。

【風見理奈と付き合いたい】

【吉原美津留と付き合いたい】

【エリス・フラインスラーと付き合いたい】

【間野美夏と付き合いたい】

 途中重なる事もあったり、昌吾が飽きて振ったり、相手に振られたりした。それでも半年の間昌吾は自分で慰める必要が無い程、性生活は充実していた。

 村崎との付き合い、多くの彼女が出来た事で昌吾の生活は荒れた。当然運動はしなくなり、帰宅も遅くなり、時には朝帰りするようになった。

「昌吾、ちょっと座れ」

 夕食後、父親が低い声で言った。昌吾は反抗心が頭をもたげるのを感じたが、子供の頃から培われた恐怖が呼び起されたのを感じた。嫌々無言でイスに腰を下ろした。

「お前、サッカーを辞めたみたいじゃないか。どうしてなんだ?」

「別に……。ただ、もう飽きちゃったんだよ」

「それなら何か別なものをやったらどうだ?」

「嫌だよ。全然興味ないんだから」

「それなら、野球だったらいいんじゃないのか?」

 瞬間で昌吾の頭に血が上った。

「父さんだって、俺が野球出来ないの知ってるだろ」

「ああ、ピッチャーはな。他のポジションなら出来るんじゃないのか。ほら、信濃君みたいに……」

 昌吾は食卓に掌をバンと打ちつけて立ち上がった。そんな事はとっくに自分も考えた。しかしそれでは活躍出来ないと思い、断腸の思いで諦めたのだ。

 古傷を無神経にえぐられ、昌吾は仇敵(かたき)に向けるような目で父親を睨んだ。そして部屋に駆け込んだ。

【父親を、俺のやる事に文句を言わないのに変えてくれ】

 かろうじで読める字で書き殴り、封筒に入れた。そしてもう20時過ぎだというのに家を飛び出した。

 玄関を出る時、背中で『昌吾、待ちなさい』という父親の声を受けた。しかしそれが昌吾の行動を抑止する役には立たなかった。

 昌吾は柱谷の家へ駆けた。そして何の躊躇いも見せず、ポストに手紙を放り込んだ。

 見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。

 いつもの自分の願いを叶えようとした時とは違い、気の重い最悪の目覚めだった。そして重い足を引きずりながらリビングへ向かった。そこには、朗らかな笑顔とふくよかな体を持つ男がコーヒーを啜っていた。

 昌吾はこれが新しい父親かと思った。

「昌吾、今日から高校3年生だな。あと1年の高校生活、後悔のないようにな」

「うん。父さんはさ、俺に残りの1年でこうして欲しいって事ある?」

 昌吾にそう言われると、父親は中空を見つめた後に口を開いた。

「いや、昌吾が楽しいと思う事をすればいい。青春は今しかないんだからな」

「ありがとう」

 今のところ父親は自分の望み通りの存在になったようだった。昌吾は満足し、母親が用意してくれた朝食を食べた。

 村崎達と一緒に行動し、後輩の間野とただれた性生活を送った。しかしそれでも父親は何も言ってこなかった。

 夜更かしし、半分眠りながら昌吾は国語の授業を受けていた。国語教師が『覆水盆に返らず』や『綸言汗の如し』などという言葉の故事を説明していた。中間試験に出るぞと言っていたが、昌吾は学校の成績に興味が無いので頬杖をついたまま眠りに落ちた。

 ある日、帰宅した昌吾は自宅前に立って家を見つめた。最初の両親はもう居ないし、ここは産まれた家でもない。少し寂寥を感じたが、手にした力と今の状況を思い、笑みを浮かべて玄関のドアを開けて入っていった。

 野球を怪我で諦め、サッカーは途中で投げ出した。しかし、人生の成功は例の力で約束されており、家族は自分の都合の良い存在になり、女は欲望のまま手に入れる事が出来る。

 目標を失い、努力せずに何でも手に入れられるようになった昌吾は、人生の困難に立ち向かう意欲を失っていた。

 惰性で生きていた昌吾であったが、日曜日の午後ベッドから飛び起きた。こうなったら自分の人生を華やかにする方法は、たった1つしかないと思い至った。

 昌吾はレターセットを取り出し、『水沢涼花と結婚したい』と書いた。そして封をする直前で手を止めた。

 5人の女と付き合った。肉体の欲望は満たされたが、心の繋がりは感じられず常に虚しさを感じていた。

 『水沢涼花と結婚したい』と望んだら、今すぐは出来なくとも、将来結婚できるだろう。しかし、今までの4人の女と同様に心は離れてしまうかもしれない。家庭内で険悪になり、死ぬまで苦しむかもしれない。

 ただ結婚するのではなく、相手の心を自分に向ける事が最も重要な事であると昌吾は悟った。昌吾は自分の書いた字を線で消し、『水沢涼花が八村昌吾を好きになるように』書き換えたと。

 昌吾は今度こそ封をし、家を駆け出た。この手紙をポストに入れ、明日水沢との間にどんな事が起きるかと考えて胸が高鳴った。

 柱谷の家に着き、期待で震える手で手紙をポストに入れた。しかし、何も起きなかった。信じられず呆然としてしまった昌吾だったが、すぐに気を取り戻して手紙を回収した。そして再びポストに入れた。今度も何も起きなかった。

 昌吾は訳が分からなかった。

 茫然自失していた昌吾だったが、ハッとして柱谷の家の玄関を見た。そして祈るような気持ちでドアを開けて中に入っていった。

 例の部屋には久しぶりにフルメンバーが揃っていた。想いが通じ、昌吾は顔を綻ばせた。

「ああ、皆さん。良かった……」

「シェリルちゃん、ようこそ。今日はミルレーンがあるよ。俺が一番好きなお菓子だ」

 そう言うとムサシは昌吾に椅子とクリームをクッキーで挟んだような菓子を勧めてきた。

 昌吾は全員に挨拶して椅子に座った。そしてミルレーンを口にした。これもとても美味しく、昌吾は駆けつけ4個食べた。

 顔をハッと真顔にした。ここに来た目的があったのを思い出したのだ。

「あの、皆さんに聞きたい事がありまして。願いが叶う時と叶わない時があって……、ワタシも自分で調べてみたんですけど、どうにもそれでも分からない事があって。先輩の皆さんならもっと色々知ってるんじゃないかと」

「ああ、色々知ってるぜ。何が知りたい?」

 オメガが腕を組み、上体をのけ反らせて言った。言う通りな程知っているなら心強いと思った。

「まるで自分が調べたみたいに言うな」

 ジェイドが責めるような口調で言った。オメガはバツが悪そうに口を歪めた。

「と言う事は、ジェイドさんが?」

「いや、俺でもない。以前ここにドクターとライブラという“塔上者(ビラー)”が居た」

 昌吾は掌を広げてジェイドの言葉を遮った。ジェイドは気を悪くした様子を見せなかった。

「今言った“ビラー”っ何ですか?」

「ああ、これもその2人が名付けたんだが、塔を上る者という意味だ。例の力を使うと、この家のポストの番地が1つずつ増えるんだ。それは別の世界に移動している訳ではなく、塔のように多重構造になっている世界を上っているらしい。そして、それぞれの世界は微妙に繋がっているらしいのだ」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 情報の洪水に粟を食った昌吾はジェイドの話を止めた。そして部屋を飛び出しポストの前へやってきた。

 ジェイドが言った通り、前には無かった番地が記されていた。今は21番地だった。

 昌吾は再び家の中へ戻った。まだ疑問は残されており、ジェイドに質問をぶつけた。

「と、言う事はですよ。ワタシのお……、知り合いが変わってしまってしまったんですけど、何処かに行けば会えるんですか?」

「そんな事、あってたまるもんか!」

 突如百合が叫んだ。顔は怒りで歪み、真赤に染めていた。その剣幕に昌吾は言葉を失った。

「あっ、ごめん……。ウチも変えた事あって、もうそいつには会いたくないから」

「あっ、そ、そうなんだ……。まあ、アタシも会いたくないからホッとしたわ」

 昌吾の言葉を聞き、百合は恥ずかしそうにして背を向けた。そしミルレーンを少しずつ齧り始めた。

「あの……、全部使ったら、どうなるんですか?」


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