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神様お願い  作者: 雪兎
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 自分が『何でも願いを叶える』力を得た事を実感したのだ。

 県大会以来心にベットリとこびり付いていた澱が落ちた気がした。昌吾は、この数ヶ月砂を噛むようだった食事を楽しみ、面白さを取り戻した漫画に興じた。

 2学期の始業式、昌吾は意気揚々と学校へ向かった。通学路の先に、今まで避けていた野球部の友人が歩いているのが見えた。

「おはよう、久しぶり!」

 昌吾は臆する事無く声を掛けた。野球部の友人達は驚いた顔をした。

「おう、昌吾、イトコは満足してくれたか?」

 ラインで相談を受けた信濃だけは例外だった。

「おう、遙のおかげで大喜びしてたよ」

「そりゃ良かった」

 昌吾と信濃は笑い合った。しかし直後昌吾は表情を改め、友人達の方を向いて頭を下げた。

「皆、色々ごめん。俺、野球が出来なくなって腐ってた。イヤな思いもさせただろうし、エースの俺が辞めて全国大会も大変だっただろうし」

「バカヤロウ、心配したんだぞ」

「良かったな、元気になって」

「お前のせいで全国の一回戦で負けちまったじゃねえか」

「相変わらずうぬぼれが強えな」

 昌吾は友人達にもみくちゃにされた。輪の外から眺めている信濃も、中心の昌吾も屈託のない笑顔だった。

「お~い、こんなとこでバカやってたら学校に遅れるよ」

 女性の声が掛かると、昌吾達は動きを止めた。そして昌吾は人の群れから抜け出た。

「しょ、昌吾……」

「水沢、久しぶり。お前にも迷惑かけたな」

「バカ、めちゃくちゃ心配したんだからね。あんた、あの時今にも死にそうな顔してたから。生きてて、本当に良かった」

 昌吾は恥ずかしそうに笑った。自殺しかけたなど口が裂けても言ってはいけないと思った。

「本当に悪かったって」

「それで、昌吾、これからどうするの?」

「うーん、まだ自分探し中」

「ゲッ、厨二発言」

「まあ、中二だからな」

 昌吾は旧交を温めながら学校へ向かった。しかし、学校では恐ろしいものが待っていた。

 それは宿題の提出だった。始業式の日は担任の担当の国語だけだったが、翌日からは怒涛の如く各教科の教師から提出を迫られる。

 昌吾は青ざめた。もちろん宿題にはほとんど手をつけていなかったからだ。とりあえず国語の教科書は『家に忘れた』と言い訳して逃れた。

 しかし、いつまでもごまかせないと昌吾も分かっていた。よって学活の時間は気もそぞろだった。頭の中にはほぼ白紙の宿題の群れが浮かんでいた。

 この日何とか国語を終わらせたとしても、まだ数学、歴史、理科、英語は残ってしまう。教師達に叱られ、毎日苦しみながら宿題をする日々が容易に想像出来た。

 人の目も憚らず頭を抱えた昌吾だったが、顔をハッとさせた。自分はボールを7つ集めて呼び出す龍のような力を手に入れたのを思い出した。

 昌吾はニンマリと笑い、隣の女子に声を掛けた。

「ねえ、飯嶋さん、レターセットとかって持ってない?」

「えっ、突然言われても……。ちょっと待ってね」

 そう言うと飯嶋はカバンの中をまさぐった。

「あっ、あったよ」

「マジで? 飯嶋さんさ、1枚ずつもらえない?」

「うん、いいよ」

「ありがとう。今度、ジュースとか買ってくるよ」

「別にいいよ」

 そう言うと飯嶋は封筒と便箋を1枚ずつくれた。昌吾は重ねて礼を言い、便箋に『宿題を終わらせてほしい』と書いて封をした。

 学校が終わり昌吾は急いで学校を後にした。そして件のお化け屋敷に向かったのだった。

 前回のような躊躇いも不審も抱かず、昌吾は手紙をポストに入れた。ポストの中で『カタン』と音がした。

 昌吾は笑顔でポストに手を合わせ、『お願いします』と言った。そして意気揚々と家に帰った。

 机の上に投げ出されたままの宿題があった。昌吾は期待に胸を膨らませ、宿題を開いたのだった。

 昌吾の予想に反し、宿題はどれもほぼ白紙だった。愕然とし、目を見開いて宿題を凝視した。

 いったい何が悪かったのだろうか、昌吾は立ち尽くしたまま考えた。ただ『宿題』とだけ書いたからであろうか。いや、夏休み明けの今なら、宿題といえば夏休みの宿題に決まっているだろうと思った。

 直後、昌吾の胸が冷えた。もしかしたら呪いがかかるような失敗をしたのではないかと。いや、飯嶋からレターセットを貰いちゃんと糊付けもしたから、手紙の形式は守っている筈だった。

 昌吾は顔を上げた。前回との違いに気が付いたのだった。

 引き出しを開け、昌吾はつぶれかけの文房具屋で買った、古ぼけたレターセットを取り出した。

【夏休みの宿題を終わらせてほしい】

 誰でも読めるように出切るだけ丁寧に書き、封をした。そして昌吾は家を飛び出し、件のお化け屋敷まで走った。

 久しぶりに全力で走ったので昌吾は息を切らした。膝に手を置いたまま呼吸を整えると、昌吾はポストに近付いた。ポストを開けてみた。中には、先程昌吾が投函した手紙が入っていた。

 昌吾は手紙を取ってポケットに入れ、改めて書いた手紙をポストに落とした。

 昌吾が目を開けると、見慣れた天井が見えた。

 ベッドから飛び起き、昌吾は早速宿題を開いた。全問解かれているばかりか、丸つけもしてあった。

 昌吾は顔を曇らせた。全問正解ではなかったのだ。ご丁寧にも昌吾が分からなそうな難しい問題が誤答になっていた。

 それでも宿題が終わっている事に満足し、朝食をとるべくリビングへ向かった。

 リビングでは父親が朝食をとっていた。あの日から、父親も新しい母親を受け入れていた。いや、そもそも母親が変わってしまった事も気付いていないかのような様子だった。

 相変わらず平和なニュースが流れるテレビを観ながら食事をしていると、父親から声を掛けられた。

「昌吾、じいちゃん居るだろ?」

「ああ、うん」

「今、ちょっと調子崩して入院してるんだ。昌吾は初孫で一番可愛いらしいから、週末に見舞いに行かないか?」

「うーん、じいちゃん、ヤバイの?」

「いや、熱中症らしい。暑い中長い時間散歩してたんだってさ」

「そう……、俺も忙しいからな」

「もう、昌吾ったら……」

「母さん、まあいいじゃないか。昌吾も色々あるんだろうし。とりあえず病院へは2人で行って、退院したら3人で行こう」

「あなたがそう言うなら」

 正直言って昌吾は父親の話をほとんど聞いていなかった。新しく手にした力に酔い、それをどのように使ったらいいか考えていたからだった。

 気もそぞろで学校へ行き、帰ってくると昌吾は対策を立てる事にした。

 最初にした事はレターセットの枚数を数える事だった。現在98枚だった。母親の件と宿題で使ったから、元々100枚あったのだろう。

 昌吾は顔をしかめた。これでは足りないと思った。昌吾は持っているカネを全て財布に入れ、家を飛び出して自転車に跨った。

 お化け屋敷の前を通り、うろ覚えであったが件の文房具のある方向へ向かった。記憶が曖昧であったとはいえ、あらゆる路地を走り回ったが見つからなかった。

 もしかしたら、あり得ない事ではあるが、夜だけ開く店なのかもしれないと思った。先日辿り着いた時も夜だったので。

 自分の思い付きを頼りに、昌吾は暗くなってから再訪してみた。やはりと言おうか、残念と言おうか、昌吾が探している店は見つからなかった。

 昌吾は、女性店主がもう店じまいをしようとしていると言っていた事を思い出した。あれから1週間くらい経っているので、その間に閉めてしまったのだろうと思った。

 がっくり肩を落として家に帰った昌吾は、勉強机に座ってレターセットを睨んだ。世の中には楽しみが山ほどある。それらを享受するのに98回で足りるだろうか。

 いや、確かにそうかもしれないが、そもそも他の人はそのチャンスすら手にしていないのだ。文房具店も閉店したのでもう手に出来る人も増えない。この奇跡のような力を使い、自分の人生を十二分に楽しんでやろうと考えた。

 この贈り物は昌吾の心を軽くした。もう鋭い投球が出来なくなったという事は、部活がないからクラスの友人達と学校生活を楽しめるという事に気が付いた。

 それから数日して、クラスメイトの野口が得意げな顔でスマホを取り出した。

「フフフ、やっと手に入れちゃったよ」

「何をだよ? ウオッ!」

 画面を覗き込んだ金本が驚きの声を上げた。

「お前、これプレステ5じゃん」

「ああ、親父が買ってきたんだ」

「いいなぁ、俺も欲しいけどスゲエ高いじゃん。誕生日とかに買ってもらおうかな」

 この話題を聞きつけ、クラスの男達が集まり野口を口々に羨んだ。

 野球に全てを賭けてきていてあまりゲームに興味が無かった昌吾は人の輪の外に追いやられた。そして外野から冷静に分析をした。

 誰もが欲しがる高価なゲーム機を買うだけでこんなに人気者になれる。自分が野球をしていた時は血を吐くような練習をするだけでは顧みられず、結果を出さないと人気を得る事は出来なかった。こんなボロい人気取りの方法があると知り、昌吾は驚いてしまった。

 驚愕から立ち直った昌吾は片方の口角を上げた。

 昌吾は帰宅し、鍵付きの引き出しからレターセットを取り出した。そして腕を組み、目を瞑って考え込んだ。何と書き込むのが一番効果的なのかと。

 紙に『プレステ』と書いた時点で手を止めた。そして修正テープを貼り付けた。

【現金50万円がほしい】

 文字を睨み、昌吾はとても難しい顔をした。50万円は無理じゃないかと思った。

 大人であれば当たり前の金額も、自分で稼ぐ事の出来ない昌吾にとっては信じられない位の大金に感じた。

 もう20時を過ぎていたが、昌吾はいてもたってもおられず家を飛び出した。暗い街並みの中に、名称に相応しくお化け屋敷はおどろおどしく建っていた。

 昌吾は期待に胸を膨らませ、ポストに手紙を落とした。

 昌吾は目を覚ました。見慣れた天井が目に入り、布団の中でニンマリ笑った。

「昌吾ー、早く起きなさーい」

 母親の声が聞こえた。焦りの響きが含まれていたので、昌吾は眉を寄せて訝しんだ。

「おはよ~」

 昌吾はリビングに入り、まだ眠そうな声で言った。しかし両親が既に身支度を終えているのを見て一瞬で覚醒し、胸を騒がせた。

「昌吾、すぐ出掛けるから着替えろ」

 言葉を失っている昌吾に父親が声を掛けてきた。何か辛い事でもあったのだろうか、父親の声は弱々しかった。

「何かあったの?」

「うん……、お義父(とう)さんが、いえ、おじいいちゃんが、早朝急変したって、荘司(そうじ)さんから連絡があって」「

「えっ、おじいちゃんが? 分かった……」

 昌吾は自室へ取って返し、すぐに着替えを終わらせた。そして父親の運転する車に乗り、1時間程かけて祖父が入院する病院へ到着した。

 病室には叔父とその奥さん、小学5年生と2年生の従姉弟が居た。叔父はベッドの横で立ち尽くし、呆然とした目で祖父を見守っていた。

「荘司、親父は?」

「兄さん……、もう長くないかもしれないって……」

「嘘だろ? たかが熱中症じゃないいか。親父、親父、元気出せよ」

 父親は祖父の枕元に殺到し、眠り続ける祖父に向かって叫んだ。母親はそっとハンカチで目を拭っていた。

「おじいちゃん、昌吾だよ。し……、目を覚ましてよ……」

 昌吾は祖父の手を取った。温かく、水みずしかった。寝顔も穏やかで、本当にただ寝ているだけのようだった。

 不意に、医療の心得の無い者には予兆を見て取れなかっただけであろうが、祖父と繋がっている機械から『ビー』という無機質な音が響いてきた。

 その瞬間叔父の奥さんが病室から顔を出して医師達を呼んだ。時を置かず医師と看護師がやってきた。注射や心臓マッサージなどをしても、その音に変化は生じなかった。

 2人は脈や瞳孔反射などを調べた。すると医師は事務的な声で看護師に声を掛けた。

「時間は?」

「はい、午前10時7分です」

 看護師は時計に目を落としながら言った。

「手を尽くしたのですが……。午前10時7分に死亡を確認しました」

 医師と看護師は軽く頭を下げた。

 昌吾を初め、誰の目からも涙が零れ落ちた。

 悲しみに長く浸っている暇もなく、祖父の葬儀の準備が進んでいった。通夜は3日後、告別式は4日後になった。

 何も手伝う事が出来ない昌吾は家に帰った。何もやる気が起こらず、ベッドに俯せに寝転んだ。祖父との想い出が浮かんできて、枕がしっとり濡れていった。

 突如、昌吾は身を起こした。そして引き出しから例のレターセットを取り出した。昌吾は大急ぎで『おじいちゃんを生き返らせてほしい』と書き、封をするなり家を飛び出した。

 早くしないと祖父の体が焼かれてしまうと思い、必死で自転車のペダルをこいだ。もの凄い速度でお化け屋敷に到達し、ポストに手紙を落とした。

 ポストの中から『コトン』という音がした。昌吾は焦った。この展開は願いが叶わないパターンだったからだ。

 昌吾はポストから手紙を取り出し、再びポストに落とした。また『コトン』という音がした。諦め切れず、昌吾はこの行為を何度も繰り返した。

 手紙が消えたり、自分の部屋で目を覚ますというような事はなかった。昌吾は地面に膝をつき、涙を腿に落とした。

 昌吾はついに悟ったのだった。“何でも願いが叶うポスト”とはいえ、死んでしまった人を生き返らせる事は出来ないと。

 四十九日の法要で、昌吾達家族は叔父の家を訪れた。墓地で納骨を済ませ、7人で中華料理店へ向かった。故人の事を偲ぶ為、叔父が個室を用意していた。

 湿っぽい食事が進んでいった時、叔父が口を開いた。

「兄貴、家の整理はこれからになると思うんだけど、親父の書いた手紙を見つけたんだ」

「何んて書いてあった?」

「いや、俺達にじゃなくて、子供達になんだ。うちの2人にはもう渡したんだけど、昌吾君のは今日持ってきたんだ」

 そう言うと叔父は昌吾の方へ顔を向け、鞄の中から白い封筒を取り出して昌吾へ渡してきた。

 昌吾は震える手でそれを受け取り、中から手紙を取り出した。真面目だった祖父らしく、丁寧で読み易い字が羅列していた。

≪昌吾へ

 昌吾が野球を頑張っている姿を楽しく見ていました。中学に入って忙しくなってなかなか会えなくなったけれど、それは昌吾が野球に打ち込んでいる結果であろうと納得しています。

 今、お爺ちゃんは元気だが、何時何があるか分かりません。そこで、昌吾の野球を応援出来るように、少ないけれどお小遣いを用意しておきました。

 どうしても欲しい野球道具があれば、これを使って欲しい。≫

 手紙を読み終え、昌吾は顔を上げた。すると叔父が分厚い封筒を差し出してきた。

 昌吾はそれを受け取るのを躊躇った。しかし叔父が強く頷いたので、恐る恐るそれを手にした。とても重く、昌吾は驚いた。

「昌吾、開けてみろ」

 父親に促され、昌吾は封筒を開いた。中を覗き込んで昌吾は驚いた。中に紙幣がぎっしりと詰まっていた。

「おカネが入ってる……」

「親父が昌吾の為に残してくれたんだな。いくら入ってるんだ?」

「隆さん……」

「いや、恵莉さん、うちの子達にも親父は残してくれたから」

 両親と叔父の言葉を聞き、昌吾はカネを摘み出した。そして1枚ずつ数えていった。

「…………50」

 50万円入っていた。両親は驚いたようだが、叔父は納得したような顔をしていた。叔父の子達にも同額を残されたのだろう。

 その刹那、昌吾はテーブルに突っ伏して号泣した。

 先日自分は『現金50万円ほしい』と書いた。それが叶った筈なのに、昌吾は全く嬉しくなかった。それは、こんな形で願いを叶えて欲しくなかったからだ。

 それともう1つ気付いてしまった。祖父の遺産として入ってきたので、昌吾が願わなければ祖父は亡くならなかったのでないかと。

 間接的にだが、大好きな祖父を死に追いやったのは自分だと思ったのだ。

 昌吾はしゃくり上げ、嗚咽は止まらなかった。母親が背中を優しくさすってくれていた。

「昌吾君、親父の事をそんなに好きでいてくれたんだな。ありがとう……」

 叔父も目を真赤にしながら言った。

 しかしそれは昌吾の心を代弁してはいなかった。自分の我儘で人の命を奪った事を、ここに居る6人に心の中で謝った。そして、何より祖父に謝罪した。

 昌吾は胸の奥に黒くて重いしこりを抱えながら家路に着いた。それはすぐに罪悪感に変化し、何をしても気が晴れなくなった。

 ある日、昌吾はレターセットと新品のノートを勉強机に乗せ、イスに座って対峙した。

 何でも願いが叶う力を得て浮かれていたと認めざるを得なかった。上手くいっている時に打たれて勝利を逃した時と似ていると、昌吾は自分を叱責した。そして、この先もう間違いを犯さないよう、この力に対策を立てなければいけないと考えた。

 昌吾はノートの表紙に『Dream Note 対策Book』と書いた。これに気を付けなければいけない事を書き、もうこのような辛い目に遭わないようにしたかった。

 ノートを開き、最初に『死んだ人間は生き返らない』と書いた。そして次に『特別なレターセットを使わないといけない』、『願いが叶う回数は100回』と追記した。

 昌吾はノートの白紙の部分を睨んだ。強大な力を持つこのレターセット、まさかこの3つしか制限や条件が無いとは思えなかった。それを1つ1つ解き明かそうと考えた。

 幸い、昌吾はこのような作業や実証実験は得意だった。記者から情報を得られなかった者や新入生などは、練習試合でコツコツ検証を重ねてきた経験があったからだ。

 そうとは言え、不用意に試す事は出来ない。レターセットは残り97組しかなく、乱発したら取り返しがつかなくなるからだ。もし同時に検証出来るならそうして、レターセットの損失を出来るだけ少なくしようと考えた。

 昌吾は検証の終了を10枚で終わらせると目標を立てた。

 何が自分は分かっていないか見当もついていない昌吾は、腕を組んで考え込んだ。しかし検証したい事はすぐに思いつかなかった。

 ゆっくり時間をかければいいかと思い溜息を吐いた昌吾の顔に、突然ある考えが閃いた。そもそも50万円を望んだのはプレイステーション5が欲しかったという事に。

 もちろん例の50万円を使えば容易に手に入るだろう。しかし祖父の手紙に野球の為に使えと書いており、もう野球を辞めたとはいえ、こんな事に使うのは祖父を裏切るようで気が引けたのだった。

 昌吾が、いやこのような力を持った者なら誰でも、最も気になる実験をしようと思った。それは“時間移動”だった。

 もし自由に未来や過去を行き来出来るようになれば、未来に行ってナンバーズなどの当選番号を調べる。過去に戻ってその番号でエントリーする。そのようにカネを生み出せば、祖父の時のような不幸に見舞われる事はないと思った。

 昌吾はレターセットを取り出しボールペンを握り、先ずどの時間へ跳ぼうか考えた。昌吾はハッとして紙にペン先を落とそうとした。

 そこで昌吾は動きを止めた。最も行きたいのは県大会決勝の日だった。あの日試合負けてもいいから投げなければ、試合の後違和感があると病院へ行けば、野球を辞めなくて済むかもしれない。この力を失うかもしれないが、元々無いものと思えばいい。しかし短慮から取り返しがつかなくなるのを恐れ、昌吾は他の検証を先にしようと思った。

 昌吾は一日前に戻ってみようと考えた。成功したら一日後、つまり今日に戻ってこようと思った。誰にも誤解されないように、西暦年月日をしっかり書き込んだ。

 昌吾は急いでお化け屋敷向かった。そして手紙をポストの口に近付けた。しかし動きを止めた。今回は大丈夫だと思いつつ、前回の事が頭をよぎったのだ。

 それでも心に力を注ぎ、昌吾は手紙をポストに落とした。目を瞑ってしまった昌吾の耳に『コトン』という音を耳にした。

 昌吾はポストを開けた。中にはたった今入れたばかりの手紙があった。

「だよな。これが出来たら反則だよな」

 そうは言ったが、昌吾は悔しくて悲しかった。手紙を取り出し、来た時とは違ってトボトボと家路に着いた。

 家に帰り、昌吾はノートに『時間移動は出来ない』と書き込んだ。そして、次は何を検証しようかと考え込んだ。

 2、3日考えた。その間にクラスメイトがプレイステーション5の話をするのを耳にした。そして、カネが欲しかったのはそれを買う為だったと思い出した。

 そうかと言って祖父の遺産には手を付けたくなかったし、そもそも親に預けてしまったので使う事は出来なかった。

 昌吾は雑誌のプレゼントコーナーの1等がプレイステーション5なのを発見した。昨日で締め切りは過ぎていたが、発送はまだであろうから何とかなるかもしれないと思った。

 これと同時にもう1つの事柄も検証を進めようと思った。それはもう1つの時間の問題だった。願いが叶った時、いつも朝ベッドで目を覚ます。これが朝に固定なのか一定時間経過なのか、日が替わるのは翌日なのかバラつくのか。

 昌吾は紙に懸賞名と1等を当てたいと書き、いつもより早い時間に家を出た。そして学校に行く前にお化け屋敷に立ち寄った。

 手紙をポストに入れた。手紙が落ちる音がした。昌吾は呆然とした。願いの叶う条件が分からなくなってきたのだ。

 その日の授業中昌吾は気もそぞろだった。そして、今回願いが叶わない理由をずっと考え続けたのだった。

 4時間目の数学の時、昌吾は顔をハッとさせた。過去に戻れないという事は、過去は変えられないという事である。そうであるなら、懸賞に応募していない自分が、それを得られる筈はないと思った。

 それならば未来はどうであろうか。例えば懸賞に応募し、それが当たるように願ったら叶うのではないかと。

 昌吾はスマホでプレイステーション5の懸賞が何処かにないか探した。そしてラジオ番組で3日後締切の懸賞が受け付けられているのを発見した。

 家に帰って早速懸賞に応募した。そして封筒を丁寧に開き、昨日書いたものに横線を引き、新しく願いを書いた。

【ラジオ番組『フレッシュアフタヌーン』の懸賞のプレイステーション5を当ててほしい】

 昌吾は時間的検証も再び行う為、翌朝も早く家を出た。そして再びポストに手紙を入れた。

 見慣れた天井を見上げて目を覚ました。

 これは願いが叶う時のルーティンだと確信し、昌吾はニヤリと笑った。そして昌吾の思った通り、1週間後にラジオ局からプレイステーション5が届いた。

 それが届いた日、昌吾はダンボール箱を開ける前にノートに『書き間違った紙を再利用しても願いはかなう』と書き込んだ。

 この結果から、この力は未来を変えられるのだと思った。それならば未来へ行く事は可能かもしれないと思った。しかし、それは無駄だと思ったので、検証不要と思った。

 ある日、昌吾は食事中誤って皿を割ってしまった。

「あ――――――」

 母親の、心底絶望した声がリビングに響いた。

「母さん、ゴメン」

「もう、何でなの。昌吾、何したの?」

「ゴメン。手で押さえてなくて」

 相変わらず片手で食事をしていた昌吾は、皿をスプーンで寄せた時に、力加減を間違えて皿を落としてしまったのだ。

 粉々になった皿の前に跪き、母親は顔を俯かせていた。それは4枚1組の限定品で、1ヶ月程前に母親が買ってきたお気に入りだった。

「このお皿、大人気でもう手に入らないのよ……」

「ゴメン……」

「私がどんなに大事にしてたか知ってたでしょ。お皿をちゃんと押さえてれば、こんな事にならなかったんじゃないの? もう、片手で食べるのやめてよ……」

 昌吾の頭にカッと血が上った。礼儀の事を言わない母親を望んだのに、こんなくだらない事でそれを言われたからだ。

 昌吾は黙ったまま部屋に戻った。そしてレターセットを出した。紙に『皿を直してほしい』とは書かなかった。それは過去を変える事であり、絶対叶わないと思ったからだ。

 どうせ同じく礼儀の事を言われるなら14年間親しんだ母親の方がいいと思った。昌吾は紙に『元の母親にしてほしい』と書いた。

 そして丁度昼を過ぎた頃だったのですぐに家を出た。朝と夜手紙を投函したら翌日朝7時に目を覚ました。この時点でだいたい分かっていたが、最後に昼間の検証もしておかないといけないと思ったのだ。

 ポストに手紙を入れた。世界は変わらず、昌吾は失敗した事を悟った。

「何で……、前は成功したのに……」

 今回の事は昌吾には意味が分からなかった。家に帰って原因を考えるのももどかしいので、昌吾はその場で内容を書き換える事にした。

【俺に文句を言わない、俺にとって理想的な母親がほしい】

 見慣れた天井を見上げて目を覚ました。

 急いで昌吾は時計を見た。朝7時で、手紙を出した日の翌日だった。

 昨日の1回目の失敗の原因は分からないから保留にしたが、『手紙を入れた翌日、朝7時に目が覚める』とノートに記載した。

 検証の結果から、どの時間帯に投函しても朝に移動する事が分かった。ならば一日を楽しみたい時は日付が替わるギリギリに、嫌な事が待っている日は出来るだけ早朝に投函しようと思った。

 昌吾は心臓の鼓動を強くし、リビングへ恐る恐る向かった。予想通り、昨日までの母親はそこに居なかった。3人の中では最も優しそうな顔をしていた。朝食は昌吾が満足出来る程度に美味しかった。

 制限はあるものの願いを叶える力、美しい母親を得て昌吾は充実した生活を送っていた。学校に行っては友達と遊んだり、家に帰ってからは夜遅くまでゲームに興じた。

 10月に入り、突如教師から恐ろしい情報が告げられた。それは2週間後に中間試験が行われるというものだった。

 勉強はしなければいけないと思っていた。しかし数日前に野口からソフトを借りており、それが気になって仕方がなかった。その結果、明日から始めようと思いながら、何もしない内に試験前日になっていた。

 翌日は英語と理科の試験だった。全く分からない訳ではないが、試験の結果は散々なものになると想像するのは容易だった。

「昌吾、お前テスト勉強どう?」

「マジで全然やってない。今回はボロボロだと思うわ」

「いやいや、そりゃないだろ。野球部辞めて時間余ってんだから、隠れて勉強してたんじゃないのか?」

 クラスメイトの野口を金本と帰っている時にそう言われた。まだ野球が出来なくなった傷が完全に癒えていなかったので、金本の心無い発言に内心ムッとした。

「今日はさすがにゲームやめとくわ」

「そりゃそうだろ。ボロクソな点とってゲーム禁止とかになったらヤベエじゃん」

「そうだな。それじゃ、また明日」

 今の母親ならそんなこと言われないだろうが、もしかしたら父親からはこっぴどく叱られるかもしれないと思った。しかし、そうなったら父親も変えてしまえばいいかと思った。

 ふと昌吾は考えた。試験も例の力を使って乗り切れないかと。未来の事でもあるし、誰かの生死にも関わりが無い。昌吾の立てている仮説に合致する条件だった。

【明日から始まる中間試験で、学年7番になる点数を取りたい】

 順位を1番と書かなかったのは、まだ疑いがあったのと、突然そんな点が取れてしまって注目を浴びるのを恐れたからだった。

 その日はほとんど勉強せず、学校に行く前にお化け屋敷に立ち寄った。そして昨日書いておいた手紙を投函した。

 見慣れた天井を見上げて目を覚ました。

 昌吾の予想通りで、寝転んだままニンマリ笑った。そして時計を確認した。やはり7時だった。

 しかし、いつもと違う点があって昌吾は時計を二度見した。日付が、投函した日から3日経っていたのだ。初めてのケースで、昌吾の頭は混乱した。

 朝食をとりながら考えた昌吾はある結論に達した。願いはテストに関するものであったから、その期間が跳んだのだろうと。

 通学路の先に野口と金本が歩いていた。

「お、おはよう」

 この3日間の事が気になり、昌吾は恐る恐る声を掛けた。

「おう、昌吾!」

「テスト大変だったな」

「なっ、テスト返しが怖えよ」

 野口の対応は通常と変わりがなかった。

「俺、テストの間変じゃなかった?」

「えっ、別に普通だったぜ。何かあったか?」

「いや、3日間ほぼ徹夜だったからさ、何か変な事言ってなかったかなって……」

「いや、全然普通だったぞ」

 昌吾はホットした。どうやら時間が跳んでいる間、何者かが自分の代わりをしているのだと分かった。

 そして、中間試験の学年順位は案の定『7番』であった。

 やはり昌吾の予想した通りだった。未来の事であれば、予約といった形で、その願いも叶えられるのであった。ただ、このように期間があるものはそれが終わるまでの時間が跳んでしまうので、気を付けなければいけないと考えた。

 昌吾は今後の人生の節目で行われる試験から不安が払拭されたと感じた。しかし名誉を得る為に折々の試験で使おうとは思っていなかった。

 中学2年生の2学期の期末試験から大学卒業まで約30回はあると考えられる。残り93回しか使えないのに、どうでもいいものに3分の1も使う訳にはいかないから。

 昌吾はこの時点で大学受験の時、就職活動の時だけ使おうと決意した。

 中学生で欲しいものが多い昌吾だったが、乱発し過ぎても人生はまだ長いので、願いを叶える事なく学年末の試験を終えた。

 春休みの足音が聞こえてきて、部活をしていない昌吾は何もない約2週間にゾッとした。そこで時間潰しをする為に父親に相談を持ち掛けた。

「父さん、春休みに旅行行こうよ」

「えっ? そんな暇ないぞ。お前だってやる事あるだろ?」

「別に無いよ。部活も、やってないし……」

 言葉を濁した昌吾を見て、さすがに父親もしまったと思ったのか、顔を歪ませた。

「う、うーん、そうか、そうだったな……。それなら勉強はどうだ? 学年末試験で真中くらいだったろ。高校は一貫だから大丈夫だけど、大学は受験しないといけないだろ」

「それも大丈夫だよ。俺、まだ中2だよ。ねえ、母さんも旅行行きたいでしょ?」

 仲間を増やそうと母親に同意を求めた。

「ん~、そうね。私は隆さんに任せるわ。それに、春休みに出掛けるのって、結構高いのよ」

「そうだ、母さんの言う通りだ。夏休みに計画立てておくから、それまで待ってろ」

 昌吾はムッとしながら『分かった』と言って部屋に入った。春休みに何もしない事、自分が野球を辞めた事、出来なくなってしまった事をまざまざと実感してしまうからだ。

 もうこれは例の力を使うしかないと考えた。他人から見たらくだらない願いかもしれないが、このままでは鬱々としてしまう自分を想像出来る昌吾にとっては重要だった。

 昌吾は『旅行に行きたい』と書こうとした。しかしそれでは拡大解釈が出来過ぎると思って手を止めた。

 そもそも、父親の物分かりの悪さが問題だった。そこが変わらなければ、今後同じような問題が襲いくるだろう。昌吾は禍根を消すべく、『父親が理解ある性格になってほしい』と書いた。

 色々な方向から願いを考え、封をして昌吾は家を出た。お化け屋敷に着き、ポストに手紙を落とした。

 手紙は返ってきた。

 いったい何が問題だったのか昌吾には分らなかった。家に帰って2時間程考えてみたが、やはり答えは出せなかった。

【中学2年生の春休みに、家族で幸せな旅行に行かせてほしい】

 とりあえず書き直し、昌吾は再びお化け屋敷へ向かった。

 見慣れた天井を見上げて目を覚ました。

 2度目の挑戦で願いが叶ったようで、昌吾は体を起こしてガッツポーズを作った。そして軽い足取りでリビングへ向かった。

 既に父親は朝食を食べていた。自分から話を蒸し返すという展開もおかしいかと思い、昌吾は両親に挨拶してイスに座った。

「ウ、ウン……。昌吾、あれから母さんと話したんだけど、やっぱり春休みに旅行に行こうと思うんだ」

「マジで? やった、どこ行くの?」

 分かっていた事だが昌吾のテンションは上がった。演技ではない、喜びで顔を輝かせた。

「いや、まだ決めていないんだけど、例えば北海道でスキーとか、京都で古都巡りとか考えてる。昌吾は何かあるか?」

「ううん、旅行行けるならどこでもいいよ」

「私は北海道かな。六花亭の美味しいお菓子を買ってきたいし」

 結局旅行は北海道になった。人生初のスノーボードであったが、やはり元々運動神経が良かったようで、2日間で大分上達したのだった。そして、昌吾は春休み中の無柳を慰める事が出来て満足した。

 中高一貫校に通っていた為、昌吾は中学3年生の一年間も気軽に過ごせた。あまり成績が悪いと進学出来ないので、定期試験は適当に勉強して中間辺りをキープした。

 この一年で昌吾はいくつか願いを叶えた。

【父親が出世コースに乗って、給料が上がるようになって欲しい】

【高級料理(焼肉とか、デザートとか、他色々)を食べたい】

【マンションから一軒家に引っ越したい】

 昌吾の願い通り、父親が突如昇進した。給料も上がったようで、両親の顔に余裕が表れた。そして、昌吾が欲しいものはたいてい買って貰えるようになった。

 余談ではあるが、父親は部長の覚えめでたく大きなプロジェクトに抜擢された。そしてその際活躍してチャンスを掴み、部長の側近となったのだ。

 部長は会社ではかなりやり手で、将来は社長になるかもしれないと噂されていた。部長が失脚しなければ、父親の出世は約束されたようなものだった。

 ただ部長と行動する事が多くなり、深夜帰宅する日が増え、且つ休日も家に居ない事もあった。昌吾が手紙を投函する前と比べ、父親の顔には疲れが出ている日が多くなった。

 高校生になる前の春休み、昌吾は洗面所の鏡に姿を映した。そして愕然とした。野球をしていた頃のような、鍛え抜かれた肉体がかなり崩れていたのだ。

 昌吾はこの時決心した。高校に入ったら運動部に入ろうと。

 この時点で昌吾はサッカー部を考えていた。肘の故障が関係しないからだ。運動神経も良いと自負しているので、一年くらい頑張ればレギュラーになれるだろうと考えた。

 しかし、直後、昌吾は顔をハッとさせた。今まで避けていた事を試す日が来たのではないかと思った。

 その願いを叶える事が出来れば、あまり興味の無いサッカーなんてする必要がない。昌吾はレターセットを取り出し、慄えるペンで『野球が出来るように、八村昌吾の左肘を治して欲しい』と書いた。

 風呂上りにも関わらず、昌吾は大急ぎでお化け屋敷に向かった。春先で空気は冷たかったが、昌吾は全身にうっすら汗をかいた。

 そして、ポストに手紙を入れた。中から手紙の落ちる音がした。昌吾は絶望でその場に跪いた。

 壊れたものは元に戻らない。分かっていたけれど絶望が襲ってきた。昌吾はしばらくその場を動けなかった。

「やっぱか……。怖くて今まで出来なかったけど、だよな……。くっそぉ」

 誰に言うわけでもなく昌吾は呟いた。そして左手の拳で目を擦りながら立ち上がった。そしてトボトボと家に帰っていった。

 翌日から昌吾はジョギングを始めた。一年半でたるんだ体を少しでも引き締め、サッカー部の入部をスムーズなものにしたかったのだ。

 高校入学式の前夜、制服も変わらないので特に気持ちが浮き立つような事はなかった。それでも肩書が“高校生”になる事、1年生からやり直すという事に新鮮さを覚えていた。

 ちょっとゲームでもしてから寝ようと思った昌吾だったが、電源を入れる前に動きを止めた。そしてレターセットを取り出した。

【信濃遙とは別のクラスに、水沢涼花とは一緒のクラスにして欲しい】

 昌吾は水沢がマネージャーとして入部してきた時から惚れていた。中学の時に水沢に全中優勝を奉げたかったし、高校に入ったら甲子園に連れていき、その後告白しようと思っていた。

 しかし、それは肘の怪我で潰えてしまった。ならば新しい道で活躍し、それを水沢に見せたいと思った。そして水沢が感心した時、自分の気持ちを伝えようと計画した。

 その為、サッカーで全国を目指す自分の姿を、同じクラスで見て欲しかった。もうマネージャーとしての立場では見て貰えないから。

 見慣れた天井を見上げながら目を覚ました。

 昌吾は着慣れた制服に腕を通し、意気揚々と学校へ向かった。中学からの同級生に交じり、高校から入学してきただろう男女の姿があった。だいたいが緊張を体から滲ませていた。

 入学式前にクラスを確認しにいった昌吾は歓喜し、愕然とし、混乱した。

 信濃とは違うクラスだったが、水沢とも違うクラスだったのだ。

 日が替わったのだから願いが叶った予兆はあった。しかし自分の望みと完全には合致していなかった。

 ほぼ検証を終えたと思っていた昌吾だったが、また分からない事が増えてしまった。しかし特に致命的な不具合は起きていなさそうだったのでホッとした。

 入学式の最中もこのバグについて考え続けた。何処かに明確な解答が用意されている訳でもないので昌吾の気持ちは晴れなかった。とりあえず『2つ同時の願いは叶わない、のかもしれない』と結論づけた。

 昌吾はクラスを見回した。内部進学者が多く、そいつ等は集まって雑談に花を咲かせていた。外部受験者の中でもコミュ力の高い者は既に内部進学者の輪の中に入っていた。ただそれは一部で、ほとんどが友達を作らんと周囲を観察していた。

 その中で唯一人、我が道を進む者が居た。その男は辺りに目もくれず、ノートに向かって一心不乱に何かを書き込んでいた。

 昌吾はその男に興味が湧いた。

「こんにちは」

 男の机の脇に立って昌吾は声を掛けた。

 しかし男はすぐには手を止めなかった。5秒程作業を続け、やっと昌吾を見上げてきた。

 その強い視線に昌吾は一瞬狼狽えてしまった。

「お、俺、八村昌吾。内部生なんだ」

木津真尋(きづまひろ)だ」

 そう言うと木津は再び鉛筆を動かそうとした。

「いやいや、ちょっと話さない?」

「あっ、そういう事か。で、何の話をする?」

 木津は几帳面に鉛筆をしまい、優しい手つきでノートを閉じた。そして体を動かし、昌吾に体の正面を見せてきた。

「えっと……、じゃあまず、何を書いてたんだい?」

「絵だ」

 取り付く島もない言い方に、話し掛けた昌吾は戸惑ってしまった。

「そうか……、で、何の絵を描いてたんだい?」

 木津は閉じられたノートを無言で見つめた。石像になったかのように動きを止めた。

「あっ、言いたくないなら別に……」

「うん? いや、そうじゃない。ほら」

 躊躇いを見せずノートを差し出してきた。折角なのでノートを受け取り、昌吾は丁寧に開いた。

 そこには緻密な絵が描かれていた。人や動物、建物、紋様など。どれも目を引きつけられるくらい上手だった。

 昌吾は無言でページをめくっていった。

「おい、八村」

 声を掛けられて昌吾は顔をハッとさせた。

「どうだ? せっかく見せたんだから、感想聞かせてくれよ」

「ああ、ごめん。いや、めちゃくちゃうまくて、スゲエなって。何かプロみたいだって思って……」

 木津は顔を歪めた。

「どうした? 俺、何か変な事言ったか?」

「いや、俺の問題だから気にするな。八村の言う通りプロデザイナーを目指しているんだけど、これじゃまだ通用しない。八村に褒められて嬉しくなった自分がバカみたいだったから」

 まだ野球が出来ていた時、軽々しく『プロになれるよ』と言う奴等が嫌いだった。そしてそれを理由に練習をさぼる事を誘ってくる奴等も。

 昌吾は当時本当にプロを、最終目的はメジャーリーグを、目指していた。そしてそれが一摘みの人間しか叶えられないと分かっていた。

 軽蔑していた奴等と同じような事をしてしまった自分を恥じると同時に、奴等もそこまで悪気は無かったのかなと述懐した。

「ゴメン、そういうつもりじゃなかったんだ……」

「あっ、スマン。俺もそういうつまりじゃなかったから。で、八村は何をやりたいんだ?」

 昌吾は言葉に詰まった。2年前なら胸を張って『野球』と答えられたが、今は何も無かった。サッカーを始めようと思っていたがそれは水沢の気持ちを惹きたいからであって、真剣な将来の夢を持つ者の前で言うなど羞恥の極みだった。

「……、何だ、何も無いのか?」

 木津の興味が一気に引いていくのを感じた。

 他のクラスメイトにはどう見られても構わなかったが、木津に空っぽの人間と思わるのは嫌だった。

「俺は高校からサッカーをやろうと思ってる」

「サッカーか。俺は運動に興味は無いが、いいんじゃないか」

「ありがとう。まだやった事ないから、どうなるか分からないけどな」

 野球をやっていた事を言おうかと思った。しかしそれは過去の栄光を振りかざすようで、木津はそういう事も嫌いそうな気がしたので、ギリギリで口にしなかった。

 入学して間も無く、昌吾は宣言通りサッカー部に入った。昌吾の予想に反して苦労する事になった。

 今まで足でボールを扱った事がなかったのもあるが、経験者が多かったからだ。昌吾は初心者なのでもちろん基礎から叩き込まれた。

 野球をしていた頃から基礎の大切さを知っていたのでそれは構わなかったが、入ったばかりの中学1年生と一緒に扱われたのが悔しかった。

 昌吾の目算では2年生になる頃にレギュラー入りし、2年生か3年生で全国大会へ進めるというものだった。

 しかし、このままではレギュラー入りも難しいのではないかと思った。そしてそれは水沢への告白も出来ないという事を示すので、昌吾は焦った。

 1学期の期末試験が始まる直前、部活休止期間に入っていた昌吾は木津と一緒に帰っていた。

 昌吾は中学から見知った者も居たし、それなりに明るい性格だったので友達は沢山居た。しかし周囲と馴れ合わないようにする木津には、昌吾以外親しく言葉を交わす相手は居なかった。

「昌吾、サッカーの調子はどうだ?」

「おい真尋、試験前にそっち聞くか? この時期なら『テストの自信あるか?』だろ」

「あー、そうかもな。でも、お前も学校の勉強なんて“とりあえず”だろ?」

「うん、まあ、そうかな……」

 昌吾の言葉を聞き、木津の目が鋭く光った。

「違うのか?」

「あっ、いや、そうじゃなくて、サッカーって結構難しいって分かったから」

「高校から始めたから仕方ないんじゃないか」

「うん……。そうなんだけど……」

「何だ、妙な言い方だな。俺には話す必要が無いって事か?」

「違う、違う。言い訳みたくなっちゃうんだけど、俺、中2まで野球やってたんだ。そっちの方が、実は得意だったから」

「何? そうなのか。じゃあ、何で野球やらないんだ?」

 昌吾は唇を噛み、傷痕がうっすら残る左肘を木津に見せた。

「ケガしちゃって、もう速いボール投げられなくなったんだ」

「そうか、一度は道が塞がれたのに、新しい夢を持って頂点を目指すなんて、なかなかカッコイイな」

 言ってみたが恥ずかしかったらしい。木津は言い終えるや顔を横に向けた。

 始めたばかりで壁に当たり、不当な扱いに腐る自分が恥ずかしくなった。そして一目置く木津に認めて貰え、昌吾の心は少し軽くなった。

 高校1年生の3月、昌吾はかなりサッカーが上手くなっていた。まだ始めて1年しか経っていないなど信じられないくらいに。それは昌吾のたゆまぬ努力の成果としか言い様がなかった。

 しかし、昌吾はまだレギュラーに選ばれていなかった。先輩が上手いのはもちろん、同級生も昌吾よりもキャリアがあり、追いつき追い越すのはもう少しかかりそうだった。

 人生の計画が遅れているのを感じ、昌吾は焦った。そこで禁断の手を使おうかと、久しぶりにレターセットを取り出した。

 昌吾はペンを握り、紙に『サッカー部のレギュラーになりたい』と『サッカーのインターハイで全国大会優勝したい』と書こうと思って手を止めた。

 肘が治らなかったのだから、自分が突然上達する可能性は少ない。ならばレギュラーの誰かが怪我、最悪死んでしまう者が出るかもしれない。全国の強豪校の者達も同じ運命を辿るかもしれない。

 祖父が亡くなった事を思い出し、自分の軽率な行動で誰かの運命を狂わせたくないと思った。昌吾は顔をハッとさせ、2つの文章を頭から追い出した。

 高校2年生の1学期の期末試験が終わった。

 将来の見通しが明るい昌吾は学年で半ばくらいの順位で満足していた。やりたくもない勉強をしたので昌吾はストレスが溜まっており、校門を出るや大きく伸びをした。

「お~い、昌吾~」

 後方から声が掛かった。昌吾は振り向いた。視線の先に信濃と水沢が居た。

「おう、遙、水沢、今日は部活ないのか?」

 高校入学時の願いが叶っているからなのか、クラスが多いからなのか、信濃とは同じクラスにはならなかった。そして、やはり水沢とも同様だった。

「うん、今日は休養日だ。ケ……、体も休ませないと高いパフォーマンス出せなないからな。サッカー部は?」

「ウチも同じだ。でも体を動かさないと何か落ち着かないから、帰ったらリフティングくらいするかもしれない」

「相変わらず練習熱心だな」

 信濃は感心したような息を吐いた。

「まあな。俺、まだレギュラーにもなれてないから頑張らないとだからさ」

 少しだけ昌吾は嘘をついた。レギュラーどころか、まだ補欠にも選ばれていなかった。昌吾はサッカーの技術の壁にぶつかっていた。

 水沢がこの場に居るから、自分が箸にも棒にも掛からないとは恥ずかしくて口に出来なかったという事もあった。

「昌吾、来週の日曜日部活あるか?」

「19日? いや、休みだったかな」

「だよな。体育の先生の集まりがあるんだろ。ウチも休みなんだ。サッカー部は生徒だけですんのかと思って」

 そう言えば顧問がそんな事を言っていたのを思い出していた。意識の外で、水沢が信濃の袖を引き、『ちょっと……』と言っているのが見えた。

「じゃあさ、その日一緒にランド行かね?」

「遙!」

 半ば悲鳴のような声で水沢が叱責の声を出した。

「いいじゃん。メンバーが多い方が絶対楽しいじゃん」

「そ、そうかもしれいけどさ、昌吾だって用事あるかもしれないし……」

 恐らく野球部のメンバーで行くのだろう。怪我で部を辞めた自分が気まずい想いをしないように水沢は止めているのかもしれない。しかし水沢が気遣うような場所は既に越えている自負が昌吾にはあった。

「いや、何もないかな。多分一日中ゲームしてるだけ。そうだな、迷惑じゃなければ、俺も参加させてくれよ」

「おう、もちろん。集合時間と場所は後でラインするわ」

「当日雨が降ってたら延期になるからね」

 水沢が元気の無い声で補足してきた。

 その後、3人で話しながら帰った。2年前はこれが常であったが、今は貴重な時間だった。昌吾は自分が野球部に戻ったような気持ちでこの時間を楽しんだ。

 その日夕食をとりながら昌吾はテレビを観ていた。遠くの方で小国同士が衝突したというニュースの後、天気予報が始まった。

 先に楽しみな予定が入った昌吾は、週間天気予報を食い入るように観た。その瞬間昌吾の顔は曇った。

 信濃達と出掛ける日、いやその前後4日間、天気予報は雨だった。どうやら梅雨前線が出しゃばってくるらしかった。

 2人ではないとはいえ、水沢と一緒に出掛けられるチャンスだった。それがたかが天気に妨げられるなど許せなかった。

 これはもう力を使うしかなかった。早々に食事を終えると、昌吾は自室へ走り込んでレターセットを取り出した。

【7月19日の天気を晴れにして欲しい】

 昌吾は丁寧な字で書いて封をした。そしてイスを倒さんばかりの勢いで立ち上がった。

 しかし、その場で動きを止めた。7月19日まであと八日ある。この手紙を投函したら一気に八日跳んでしまうのかと考えた。

 二日くらい前にすればいい。しかし今年は雨が多いから二日前に投函して間に合わなかったら取り返しがつかない。当日まで楽しい事もないだろうから、八日くらい跳んでもいいかと昌吾は思った。

 そう決心すると行動は早かった。昌吾は手紙を手にし、両親に『ちょっとドリブルしてくる』と言って家を後にした。

 もう10回以上も訪れているし、高校2年生にもなっていたので、お化け屋敷の近くに行っても怖くなかった。昌吾は張り裂けそうな胸を抑えてポストの前に立った。

 ポストに手を近付けた昌吾は動きを止めた。そしてこの力はいったい何なのだろうか、誰が与えてくれたのか、疑問が生じた。

 一度手紙を自分の家のポストに入れてみた。当然何も起きなかった。ならばこの家がそうしているのだろうが、この家はいったい何なのだろうか。

 昌吾は手紙をズボンのポケットに入れ、お化け屋敷を観察してみる事にした。

 辺りに人気は無かった。安心した昌吾は誰に憚る事なくお化け屋敷を覗き込んだ。家の中にも人気はなかった。

 門扉の奥、木立の向こうに玄関があった。玄関の左斜め上に表札のようなものがあるのが目に入った。

 昌吾はもう一度辺りに視線を向けた。警察も人の姿も無かった。昌吾は音が出ないように門扉を開け、足音を殺して敷地内へ踏み込んでいった。

 薄汚れた表札があった。凝視したら、微かに『柱谷』と読めた。玄関扉のガラスの向こうは真暗で、物音1つ聞こえてこない。昌吾は固唾を飲み、郵便受けを指で押し開けて家の中を覗いた。

 真の闇が広がっていた。どうやら空き家のようだった。

 ありえないだろうと思いつつ、昌吾は玄関扉のドアノブを回した。予想に反し容易に回しきる事が出来た。

 まさかと思いつつ玄関扉を引いてみた。驚いた事に、少しきしんだ音を立てつつ玄関扉が外へ向かって開いてきたのだ。

 敷居を境にし、綾目もわかぬ闇が凝っていた。昌吾は恐る恐る闇のカへ手を入れてみた。

 手が消えた。いや闇の中へ入った手が見えなくなったのだ。こんな事、昌吾の常識では考えられなかった。

 ゆっくりと闇から手を出してみた。手首から先が消滅しているなどという事はなく、昌吾はホッと胸を撫で下ろした。


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