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神様お願い  作者: 雪兎
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 梅雨時期なのに強い日差しが射していた。

 うだるような暑さのマウンドの上で、八村昌吾(やむらしょうご)は左手の甲で額の汗を拭った。気温と疲労で呼吸が乱れているのに気が付いた。

 9回裏ツーアウト。あと1人打ち取れば私立中学硬式リーグの全国大会のきっぷを手に入れられる。

 昌吾は渇いた喉に唾を送った。しかし、効果は全く無かった。

 暑いし、9回を独りで投げ抜いてきて正直疲れている。そして、仲間と応援者達から寄せられる期待のプレッシャーから早く解放されたかった。

 深呼吸をし、昌吾は息を整えた。そして渾身の力を込めて投げようと、白球をグッと握り締めた。

 十数メートル先のキャッチャーミットを睨みつけたが、直後顔をハッとさせた。

 そして、昌吾はゆっくり目を瞑った。

「昌吾、あと1人。落ち着いていこう」

「打たせてこうぜ。後ろは俺等に任せろ」

「ファイト~」

 仲間の声が聞こえてきた。

「藤中野球部、ファイト~」

「八村く~ん、頼んだわよ~」

「あと1人で全国だぞ~」

 観客席から親達の声援が飛んできていた。休日の試合なので、男親も多く交じっていた。声を聞いているだけで昌吾は心に焦りが湧いてきた。

 もちろん相手チームのベンチや観客席からも声援が飛んでいた。負けているので必死で、声には昌吾達のチームに『負けろ』という気持ちが潜んでいるのが感じられた。

「昌吾、今まで練習してきた事を出し切れ」

「ガンバレ~」

「俺達を全国に連れていってくれ~」

「先輩達、頑張ってください~」

「昌吾、負けんな~」

 監督や先輩、後輩、マネージャーの応援が昌吾の耳に届いた。この瞬間、昌吾はこめかみの辺りが脈動するのを感じた。

 9回裏ツーアウト、バッターは4番でランナーはセカンドとサードに居る。昌吾のチームは1点勝っているだけなので、長打が出たら一発逆転という場面だった。

 このような、14歳では乗り越えられないような、プレッシャーの中にも関わらず、昌吾は不敵にほほ笑んだ。

 なぜなら、昌吾はこれ以上のプレッシャーを感じる場面に立ち会った事があったからだ。そして、そこでの失敗、それからの臥薪嘗胆の日々も。



 昌吾が中学1年生の時だった。

 私立中学硬式リーグの県大会の決勝で当時エースの3年生の山崎が打球を左足の足首に受けた。山崎はショートの宇都宮に肩を借りながらベンチに戻ってきた。

「山崎、大丈夫か? いけるか?」

 監督は心配そうな声でそう言った。しかし、チームを預かる者として、エースの山崎にもう少し頑張って欲しいと思っているのが滲み出ていた。

「いや、監督、ダメです。少しでも踏ん張るとヤバイくらい痛いです。交代させてください」

 監督は言葉を失った。全国大会に監督として行きたいというのと、指導者として青少年の未来を奪いたくないという2つの感情の板挟みになっていたのだろう。

 30秒程考え込み、監督は後者を選択した。

「そうだな。山崎には先があるからな。ここは休んでおけ。それじゃ誰が出るかだが……」

 監督がベンチの中を見回した。3年生が1人、2年生が1人と控えのピッチャーが居たが、2人共顔を俯かせた。

 初めての全国大会出場の権利がかかった試合で、1点差で勝っている状態。バッターは6番だがランナーは満塁。ここで大差をつけられたら、精神的に追い込まれるだろう。

 このような状況で勇気を出せるような中学生は少ないだろうから、この2人の行動は無理からぬ事であった。

「監督、俺、準備出来てます」

 昌吾は立ち上がって言った。

 渡りに舟のような言葉である筈だったが、監督の顔は不審に曇った。それも当然、昌吾は入学入部してまだ3か月の1年生だったからだ。

「八村……、か……」

「任せてください」

 昌吾の実力はそれ程2人に劣っている訳ではなかった。ただ、ちょっと前まで小学生だった者にチームの命運を賭けるのに逡巡したのだろう。

 しかし、監督の想いとは裏腹に昌吾には勝算があった。

 昌吾は相手チームの事を徹底的に調べていた。ピッチャーの得意な球種、バッターの得意なコースや苦手なコースなど。それを1回戦から当たるチームの全てを調べていた。

 この決勝においても、昌吾はバッターを睨みながら独りでブツブツと呟き続けていた。

「大丈夫なのか?」

「大丈夫です」

「自信あるのか?」

「自信あります」

 昌吾は大声でそう言った。上級生が自信なさ気にしているよりは良いかと思ったのか、監督は山崎の代わりに昌吾をマウンドに送りだした。

 軽く5球練習をした昌吾はニヤッと笑った。やっと自分を試せる日が訪れ、嬉しかったのだ。

 しかし、さあ投げようと思ったところに、3年生のキャッチャーが主審にタイムを告げて昌吾の方へ向かってきた。

 折角気持ちを作っていたのに出鼻から挫かれ、昌吾は不満で唇を尖らせた。

「昌吾、初めての公式戦だけど、緊張しなくていいからな」

「はい」

 別に緊張などしていなかった。むしろ一刻も早く投げたいと思っていた。

「軽く様子見していこうか。1球目は外していこう。空振りしてくれりゃ、ラッキーだしな」

 昌吾は首を左右に振った。

「いえ、相手は1年生が出てきたと思って油断していると思います。だから、1球目から勝負したいです。6番は外角高目が苦手なので、そこに思いっきり投げます」

「昌吾、誰がそんな事……」

「俺が調べました……」

 キャッチャーの先輩を説得するように、昌吾は相手チームのバッターの得意コースと苦手コースを言葉にした。するとキャッチャーの先輩が口をあんぐりと開けた。

「よしっ、昌吾、お前に任せた」

 キャッチャーの先輩はミットで昌吾の肩を叩くと、不安が完全に払拭された顔で帰っていった。

 昌吾はキャッチャーの先輩が構える、外角高目のミットに向かって渾身のストレートを投げ込んだ。

 バッターは昌吾の投げた球の球威に驚いた顔をしたが、つられるようにバットを振った。

 鈍い音がして、打球がショート方向へ飛んでいった。

 当てられて驚いた昌吾だったが、打球に勢いが無い事に安心して右後方を振り向いた。そこにはライナーに手を伸ばす宇都宮の姿があった。

 勢いの無い打球に準備の出来ている守備。打たれたとはいえ、昌吾は安心していた。

 パチンという音がして、白球が土の上に落ちた。それと同時に昌吾の全身から冷汗が噴き出した。

 宇都宮は顔を歪ませたが、急いでボールを拾った。そしてすぐにセカンドに送球した。

 セカンドの塁審が手を上げ、『アウト』と高らかに宣言した。

 ギリギリのところで昌吾とチームは窮地を脱する事が出来たのだった。

 昌吾はホッとしてベンチに走った。他の者達も同様だったようで、先輩達も駆け寄ってきて、後ろから昌吾をグローブや手で叩きつつ声を掛けてきた。

「いや~、危なかったなぁ」

 この声と言葉を聞き、昌吾は全身の血が沸騰するかのような怒りに襲われた。たった今エラーをしかけた宇都宮だったからだ。

「ええ……」

「あれ? もしかして、怒ってる?」

「いえ、別に……」

「ゴメンて。結局アウトだったじゃん。結果オーライだろ」

 お前がそれを言うかと思い、昌吾は怒りで絶句してしまった。

「バカ、お前が言うなよ」

「ヒヤヒヤさせられたぞ」

「あんな凡ライナーなんか落とすなよ」

「ヘヘッ、サーセン」

 先輩達の責めも緩いが、宇都宮の返しもとても軽かった。昌吾は正直もっと強く言って欲しいと不満だった。

 そしてこの時から、昌吾の中で宇都宮を“ポンコツ”と呼ぶようになった。

 宇都宮を擁護すると、そこまでポンコツではなかった。エラーは他の人よりも少し多いくらいだった。打率も高くはなかったが、大事な場面で長打やホームランを出す勝負強さはあった。

 そして何より昌吾が不満だったのは、宇都宮が3年生や2年生、監督にまで慕われている事だった。

 その後、昌吾の活躍のお陰でチームは勝利し、全国大会へ駒を進めたのだった。

 たまたま地方予選決勝を見にきていた雑誌記者が昌吾の事を気に入ってくれた。そしてページを割き『超新星現る』という特集を組んでくれた。

 ただ全国にはもう1人注目すべき選手が居たらしく、特集ページの先頭をその男に奪われた事が昌吾は気に食わなかった。

 チームの窮地を救ったという事で、昌吾はエースとしての風格を身に付け、信頼を得たのだった。結果、昌吾は全国大会でのピッチャーを任される事になった。

 そして、件の雑誌記者の力を借り、全国の強豪校の選手データを集めたのだった。昌吾は学校の勉強を片手間にし、それらの暗記に努めた。

 全国大会の2回戦、山形県の学校と当たった。

 140キロを超える速球を持ったピッチャーと、予選で5本のホームランを打ったバッターを擁する優勝候補だった。

 ただこの日の昌吾の調子はとても良かった。爆発的な打撃力を持つチームを9回まで完封したのだった。いつも通り点を取れない相手チームは、明らかに調子を崩していた。

 しかし、昌吾のチームの打線も総崩れだった。相手チームのピッチャーに、こちらも完全に抑えられていた。

 スコアボードには17個の“0”が並んでいた。

 9回裏、4番からの打順だった。この男は例のホームランバッターだったが、今日の試合は完全に抑え込んでいた。

 このバッターをねじ伏せ延長戦に弾みをつけようと、昌吾は不敵に笑いながら大きく振り被った。

 そして、全国大会の為に身に付けたカーブを投げ込んだ。

 その瞬間、昌吾は顔をハッとさせた。球がバッターの得意コースの近くを通る軌道だと分かったのだ。

 『キィン!』という高い音が響いた。 

 昌吾は振り返り、祈った。しかし、その祈りも空しくレフトスタンドに吸い込まれていった。

 この4番バッターは件の雑誌で取り上げられたもう1人の超新星だった。悠々とダイヤモンドを回る男、久里(くり)秀平を昌吾は睨んだ。そしてそれと同時に、調子が良かったからと慢心していた自分を恨んだ。

 勝利の一打を決めた久里をベンチから飛び出して迎える相手チーム。対して自分のチームはまるでお通夜だった。

 昌吾は次に当たった時は立場を入れ替えてやると強く思ったのだった。

 結果、久里のチームは全国で3位になった。



 あの屈辱の一戦以来昌吾は気持ちを引き締め直した。例えどんな小さな練習試合だろうと研究と対策は決して怠らなかった。

 実戦で行われた実験は正鵠を射て、昌吾に自信を与えた。面白いように勝ち星を上げられるようになり、自分のやり方に絶対の信頼を持つようになった。

 昌吾が投げる試合の勝率は9割を超え、名実ともにエースの座に就いた。

 ただ、この方法は昌吾独りで確立したものではないと言っておかなくてはならないだろう。昌吾の同級生の信濃遙(しなのはるか)が情報収集や暗記、投球練習に付き合ってくれたからだ。

 信濃は、1年生時はもちろんレギュラーではなかった。しかし昌吾が信濃と組んだ勝率は高かったので、信濃もほぼレギュラーキャッチャーになれたのだった。

 そして、この大事な試合でも昌吾の目線の先で信濃がミットを構えていた。バッターの苦手コースの内角低目に。

 自分と、この方法を良く分かってくれている信濃に対し、昌吾は満足気に微笑んだ。

 ゆっくりと息を吐き、胸を膨らませながら大きく息を吸った。そして鋭く細く吐きながら、全身の力を白球に乗せたのだった。

 腕を振り抜こうとした瞬間、昌吾は顔を歪めた。

 渾身のカーブが外角低目に刺さるかと思ったが、何故かボールは真中を通る軌道を辿ったのだった。

 あまりの絶好球に信濃もバッターも驚いたようだった。ただバッターは躊躇せず、バットを大きく振り回した。

 打球は早いゴロで昌吾の右を駆け抜けていこうとしていた。自分のミスから未だ立ち直っていなかった昌吾は、その打球に反応出来なかった。

 この先にはポンコツこと宇都宮が居る。昌吾は視界が狭くなる程の焦りを感じた。

「宇都宮先輩!」

 祈るような気持ちで昌吾は叫んだ。さすがに『ポンコツ』とは言えなかった。

「おう、任せろ!」

 頼もしい言葉ではあったが、全く安心出来ない昌吾だった。ボールが転がっていくのを、揺れる瞳で見つめていた。

 ボールがスッと宇都宮のグローブに収まった。直後、別人ではないかと思うような鋭い送球でファーストに投げた。

 バッターがベースを踏むとほぼ時を同じくして、ファーストのグローブにボールが飛び込んだ。

 乾いた音がスタジアムに響いた。

「アウト! ゲームセット!」

 主審が高らかに宣言した。

 安堵が全身に広がった。昌吾はダラリと腕を下ろし、梅雨時期には珍しい青空を仰いだ。

 直後、ナインがマウンドに集まってきた。

「昌吾、やったな」

「凄えな、お前」

「よっしゃぁ~、全国だぜ~」

 誰もが割れるような笑顔だった。そして掌やグローブで昌吾の体のあちこちを叩いてきて、今日一番の活躍をした昌吾を称えた。

「ありがとう。イタ、イテテ……」

 誰かが左腕を強く叩いたようだった。昌吾は大事な左腕の肘辺りを庇いながらベンチへ向かっていった。

「昌吾、良くやった。さすがエースだ!」

 監督は目を潤ませていた。

「先輩、さすがです」

「昌吾、良くやったな」

「今年こそ全国制覇だな」

 1年生、2年生、3年生のベンチのチームメイトが嬉しそうに言った。今年で最後の3年生の中には目を真赤にして泣いている者すら居た。

「おめでとう、昌吾。やるじゃん」

 同級生の女子マネージャー、水沢涼花(りょうか)が腕を組みながら言った。

「おう、サンキュー」

「さすが私の一番弟子じゃ」

「誰がだよ!」

 昌吾と水沢は視線を合わせると大爆笑した。

「でも、まっ、水沢の応援も優勝の助けになったよ」

「でしょ?」

「ああ、5パーくらいな」

「5パーかよ! せめて消費税は超えて欲しかったなぁ」

 昌吾は満足気に微笑み、右手を上げた。自分の活躍を労って貰おうと。ハイタッチを望んだのだった。

 しかし水沢は突然顔を曇らせ、胸の前で右手を抱え込んだ。

 昌吾は無理矢理笑顔を作った。そして上げた右手をガッツポーズにし、親指を立てながら水沢の横を通り過ぎた。

 この一年ちょっと、水沢とは手も触れた事が無かったなと昌吾は思った。そればかりか、用事があって後ろから肩を叩いた時、悲鳴を上げられた事もあった。

 表彰式で優勝旗をキャプテンの宇都宮が受け取った。MVPの自分に受け取る権利があるとまでは思わなかったが、ポンコツの宇都宮がその栄誉を受けるのには納得がいかなかった。

 この日の総括ではさすがに監督も苦言は口にしなかった。ただ『美味いもん食って、ゆっくり休めよ』と言うに留まった。

 昌吾は誰よりも早く身支度を終え、誰よりも早くスタジアムを後にした。

 傾きつつある光の中を小走りで進んでいると、後ろから声が掛かって昌吾は振り向いた。

「昌吾~!」

 信濃と水沢は息せきかけてきた。

「遙、……水沢、どうした?」

 顰めそうになった顔を無理矢理笑顔にしながら昌吾は言った。

「後援会がさ、祝勝会してくれんだってさ。一緒に行こうぜ」

「へ~、どこ行くんだって?」

「多分、ファミレスじゃないかな。私、会長さんが言ってるの聞いたよ」

「ん~、そっか。じゃあ、俺は帰るわ」

「だよな、それじゃ、ええっ? 昌吾、お前今何つった?」

「ああ、だから“帰る”って。さすがに疲れたからさ。早く寝たい」

「そうか……。まあ、それもアリだな。俺から監督とか先輩に言っとくから、ゆっくり休めよ」

「残念……。でも、一番大変だったんだからね」

 折角呼びにきたのに断られ、信濃と水沢もバツが悪かったのだろう。顔を暗くして言葉を失ってしまった。

 昌吾は一刻も早くこの場を立ち去りたくて気付いてはいなかったが、信濃と水沢は話題を探して目を左右に動かしていた。

「そう言えばさ、最近ホラーっていうか、都市伝説みたいの聞いたんだよ。知りたいか?」

「へー、どんなだ」

 全く興味が湧かなかった。昌吾の口調にはそれが表れてしまったが、信濃はそれに気付いていないようだった。

「俺の兄貴の友達が、別の友達に聞いた話なんだけどさ……」

「何それ~、めちゃくちゃアヤシくない?」

「そう言うな、涼花。最後まで聞いてから判断しろ」

 茶々を入れてくる水沢をたしなめ、信濃は話の続きを口にした。

「“何でも願いが叶うポスト”があるんだって。それを探して自分の願いを入れると、どんなものでも実現するんだってよ」

 それを聞き、昌吾は正直馬鹿馬鹿しいと思った。夢や希望は自分の才能と努力を使って叶えるものだと考えていた。それを何か分からないものに託すなど、弱者の極みがやるようなものだと思ったからだ。

「へ-、サンタクロースみたいだな。そんなの何処にあるんだ?」

「それが……、誰も知らないんだ」

「オカルトか……。そんな噂話って昔から沢山あるだろ。見つけてから言えよ。なあ、水沢、水沢?」

 水沢は目を丸くして信濃の話を聞いていた。それを見て昌吾の方が驚いてしまった。

「あっ、あっ、えっと……、よ、妖怪ポストかよって感じだね。そんなウソ臭い話を遙は信じてるの? ダサー」

「どうした、水沢、声が震えてるぞ」

「えっ……、そう?」

「ああ。もしかして、涼花、こういう話ダメか?」

「あっ、うん。ちょっとね……。だから、もうこの話はやめにしない」

 昌吾と信濃は顔を見合わせ、笑った。普段男子部員の中でハキハキ動く水沢がこんな話くらいで取り乱す様子を見せるなど思ってもいなかったからだ。

「ごめんごめん。もうしないよ」

「ホントね! それと、探すのとかもやめてね」

「ああ、それも約束するよ。それにそもそもそんなポストなんて無いだろうからさ。ボロボロの家の前の木のポストなんて、絶対探さないようにするよ」

「遙! やめてって言ったじゃん!」

 水沢が頬を膨らませ、両手を拳にして信濃を叩いた。信濃は水沢の両手首を軽く握って制し、『マジでゴメン』などと言ってじゃれあっていた。

 2人を見ながら眉間に皺を寄せ、昌吾は2人にはっきり聞こえるように咳払いをした。すると2人の視線が集まった。

「それじゃ、また学校でな」

 信濃と水沢に手を振りながら、笑顔で昌吾は駆け出した。

 ただ、昌吾の爪先は家に向いていなかった。いつも自主練する公園へだった。

 最後の一球の違和感に昌吾は焦っていた。あの感覚が自分の癖になってしまう前に、良いイメージで上書きしたかったのだ。

 メジャーリーグで活躍する大谷翔平を昌吾は尊敬していた。そして、チームメイトに飲みに誘われても、自分の練習を優先するというストイックさにも共感していた。

 昌吾は革靴で地面を擦って壁を見つめた。何百何千と当ててきた壁には痕が付いていた。

 目を瞑り、今日の最後の打席を思い出した。あの時の感覚が蘇ってきて、心臓が強く拍動した。

 目をカッと見開き、幻影のバッターの外角低目に向かって力いっぱいカーブを投げ込んだ。

 ボールは壁には到達せず、アスファルトの地面に転がった。

 昌吾は自分の左肘を押さえ、地面に膝をついた。相当な激痛だったようで、目を瞑って歯を食い縛っていた。

 5分程その場にうずくまっていた昌吾は、部活バッグとバットのケースをたすき掛けにしてその場を後にした。

 急いで家に帰りたいと昌吾は思った。しかし肘からくる激痛が視界を揺らし、体から力を奪っていた。いつもなら15分で帰れる道のりだったが、30分かかってしまった。

 汗に濡れる手で玄関のドアノブを回した。

「ただ……いま……。母さん……」

 リビングに居たらしい母親が、明るい声を出しながら玄関へ向かってきた。

「昌吾、折角打ち上げしてくれるっていうんだから行ったらいいのに。信濃君と水沢さんからあんたが来ないって聞いて、私だけ行く訳にもいかないから帰ってきたわよ。……昌吾、あんたどうしたの?」

 玄関で肘を押さえて脂汗を流す昌吾を見て、母親は動転して声を荒げた。

「肘が、ヤバイ……。痛くて、動かない……。びょ、病院に……」

 母親がエプロンポケットからスマホを取り出し、休日診療の病院を探し出した。その瞬間、昌吾の頭に血が上った。

「肘だぞ! 救急車に決まってんだろ!」

 その刹那、母親は体をビクッとさせて電話を掛け始めた。あまりにも生意気なもの言いであったが、その剣幕に押されて母親は顔に不満も表さなかった。

「あっ、はい。もしもし、救急車お願いします。はい、大丈夫です。落ち着いてます。はい、意識はあります。出血もありません。肘が全く動かないみたいで、それに激痛がしてるって。はい、とにかくお願いします。住所は……」

 そう言うと母親は電話を切った。自分の状態を伝えるのに多少脚色を加えてくれた事に、昌吾は満足していた。切迫した症状でなければ、救急車は断られていたかもしれないからだ。

「昌吾、すぐに救急車来るからね」

 激痛と恐怖で昌吾は無言で頷くしかなかった。母親は台所から氷を取ってきて、昌吾の肘を冷やしてくれた。

 そうこうしている内に救急車のサイレンが聞こえてきて家の前で停まった。救急隊員が家の中に入ってきて昌吾に声を掛けてきた。

「大丈夫ですか?」

 昌吾はかすれた声で『肘が……』と言いながら首を左右に振った。

「歩けますか?」

 先程より大きく首を左右にした。すると脂汗をダラダラと流す昌吾をストレッチャーに乗せ、救急車に運んでいった。

 昌吾の家の前には近所の住民が集まっていた。尋常の時なら恥ずかしくて嫌がるかもしれないが、今はそんな事言っている場合ではないし余裕もなかった。

 しかしながら、このような状況ででも、昌吾は以前怪我をした時に世話になった医師の居る病院を指定した。

 応急措置をされ、一晩泊まって検査をした。そして医師からは結果が出る3日後に再来院するように言われた。

 気が重い3日間を過ごし、昌吾は母親と一緒に病院を訪れた。

 カルテを見つめる医師の顔は暗かった。昌吾の心がザワザワとさざ波を立てた。

「八村君、今肘の痛みは?」

「今は、それ程でも……。先生、俺の肘はどうなんですか? 野球は何時から出来ますか?」

 昌吾は上体を乗り出して詰問した。

「肘を手術すれば痛みも無くなるし、普通に動くようになります。野球も出来るようになるでしょう……」

 気付かない内に息を詰めていたのであろう、昌吾は大きく息を吐きだした。

「良かった……」

「ただ、もうピッチャーは無理だと思います」

「ええっ! どういう事ですか? 今、野球を続けられるって言いましたよね」

 昌吾の顔は真青になった。

「ええ、言いました。でも、バッターや野手として、です。今までみたいな投球は出来なくなります」

「そんな、絶対嫌です。俺はピッチャーを続けたいんです」

「八村君、じん帯が断裂したんですよ。普通の生活が出来るようになるのでさえ奇跡みたいなものなんですよ」

「リハビリとか頑張れば……」

 医師は無言で首を振った。

 昌吾の目の前が真暗になった。しかし母親はホッとしたようだった。優しい声で昌吾に手術を勧めてきた。

 何も考えられなくなった昌吾は母親に言われるがままに手術を受けた。

 昌吾は手術を受けた翌日、野球部に退部届を出した。その時の昌吾の目は死んだ魚のように濁っていた。

 監督はもちろん信濃を初めとするチームメイト、水沢にも止められた。しかし昌吾の意志は固く、決して首を縦に動かさなかった。

 昌吾にとって野球はピッチャーと同義であった。自分にはピッチャーとしての才能があると思っていたが、バッターとしては並だと看破していた。

 久里には遠く及ばす、信濃よりも数段劣るだろう。野手に転向したらプロに進むのは絶望的で、チーム内でも存在が霞むと思われた。

 子供の頃からまっしぐらに目指してきた夢が途絶えてみじめになるなら、未練がましく野球部に所属し続けるなど不可能だった。

 夢を失った昌吾は生ける屍のようになった。口数は少なく、笑顔もなくなり、家と学校を往復するだけの存在になった。もちろん学校の成績は急降下した。

 友人達を避け続けたまま夏休みに入った。

 昌吾は宿題に手を伸ばす気も起らず、左肘のリハビリに励んだ。ただ、それは一日でも早く野球部に戻りたいという積極的なものではなく、せめて日常生活はまともに送りたいという消極的なものだった。

 努力の甲斐もあり、お盆過ぎにはものを持つには不足ない程回復したのだった。

 あと5日で学校が始まるという日の昼、昌吾はエアコンの効いたリビングで昼食をとっていた。

 昌吾は米を噛みながらテレビを観ていた。犬がどうとか、どこかの動物園で赤ちゃんが産まれたとかいうニュースが流れていた。昌吾の心を和ます役には立たず、興味を失って窓外に目を向けた。

 夏の強い日射しが街路樹の葉を()いていた。この日は晴天、夜半に台風が通り過ぎたからだった。

「昌吾、左手でお茶碗持って食べなさい」

 箸を中空に浮かせたまま、昌吾は固まってしまった。左手は食卓の下に垂らされていた。

「どういう事? 今まで、そんな事1回も言った事ないじゃん」

「そうだったかもしれないけど、前から気になってたのよ。お行儀が悪いじゃない」

 昌吾は愕然としてしまった。

 野球で夢を掴もうと決めた時から昌吾はとにかく左腕を大事にした。かの大投手江川卓が腕を傷めないように巨大なベッドに寝ていたという逸話の如く。

 左腕はボールを投げる専門とし、鉛筆や箸を持つ腕は右に矯正した。食事の時も、過剰かもしれないが、左手で茶碗などは決して持たないようにした。それ以外にも枚挙に暇が無い程事例はあった。

「もう、肘は痛くないんでしょ?」

「うん……」

「それじゃ誰かと食事する時あなたが恥ずかしくないようにしておいた方が。もう……、いえ、何でもないわ」

 母親はもう自分が野球を出来ないと思っているのだと昌吾は思った。確かに自分もそう思っていた。思っていたからこそ野球部を辞めたのだから。しかし、それを他人から言われるのは別だった。

 野球を辞めざるを得なかった昌吾にとって、今欲しいものは新しい人生や夢ではなかった。自分で立ち直るまで待ってくれる事、慰めの言葉だった。

 自分でも心の何処かで矛盾していると分かってはいた。しかし、沸騰する感情を抑え込む事は出来なかった。

 昌吾はまだ中学2年生なのだから。

 昌吾は箸を食卓に叩きつけた。そしておもむろに立ち上がり、リビングを飛び出した。

「昌吾――」

 母親の悲鳴とも叱責ともつかない声が追ってきたが、昌吾の後ろ髪を引く役にすらならなかった。

 頭の一隅に冷静さを保っていた昌吾は、部屋に戻ってバッグに物を詰め込んでから家を出ていった。

 近くの公園まで走り、ベンチに座った。その刹那昌吾はガックリ頭を落とした。何故なら長い間の癖で、部活バッグを持ってきてしまったからだ。このバッグが、母親の言葉で傷付いた心をえぐったのだった。

 財布の中には900円くらいしか入っておらず、スマホのバッテリー残量は40%程度だった。昌吾はこれでは長い間時間を潰す事は出来ないと思った。

 しかし、啖呵は切らなかったが、勢い良く飛び出してきてしまった手前、簡単に帰るのは恥ずかしかった。仕方なく、昌吾は重い足を引きずりながら街を逍遥した。

 オモチャ屋に行っても、本屋に行っても、ゲームセンターに行っても昌吾は長い間留まる事は出来なかった。野球に打ち込んできた昌吾は、自分には趣味といえるようなものが無いのだと実感した。

 習慣で、昌吾の足は学校に向かってしまった。昨夜の台風でグラウンドはぬかるんでいて練習は出来ないようで、野球部はアスファルトの部分で筋トレやストレッチ、スイング練習などをしていた。

 学校をぐるりと囲む柵を掴み、昌吾は野球部の練習を凝視した。木の洞のような目で最後まで見つめ、部員達が去るとその場でうずくまって涙を落とした。

 そうしている間に日が落ちてきて、昌吾はたそがれの世界をトボトボと歩いていった。目的地など無かった。

「昌吾!」

 自分の名前を呼ばれ、生気の抜けた顔をそちらに向けた。

 部の買い物をしてきたようで、コールドスプレーやテーピングが入った袋を持った水沢が居た。昌吾の顔を見るや、水沢の顔に恐怖の影が射した。

「昌吾……」

「ああ、水沢か……」

「ここで、何してんの?」

「散歩、かな。もう帰るけど」

「散歩? ならいいけど……」

 水沢の目が泳いだ。

「昌吾、あんた、大丈夫?」

「俺が? もちろん大丈夫だよ。おかしな事いうなぁ」

「昌吾、何か悩んでいるんじゃないの?」

 一瞬昌吾は言葉を出せなくなった。しかし動揺したのを隠そうと、弱々しかった声を改めて喋った。

「悩み? 俺に? ある訳ないだろ。俺、もう帰るわ。じゃあな。また2学期に」

「う……ん、じゃあね」

 踵を返し、必死に右手を上げてその場を去ろうと歩みを進めた。

「昌吾――!」

「何だよ、まだ何かあるのか?」

 軽く振り返り、水沢に横顔を見せながら言った。

「昌吾、悩みがあったら何でも言ってね。相談に乗るから。どんなに夜中でもいいからね。だから、絶対に死んだりしたらダメだよ」

「お前、何言ってんだよ。俺が、死ぬ訳ないだろ。もう本当に行くわ。じゃあな」

 そう言うと、今度こそ昌吾はその場を離れた。幸か不幸か、もう水沢の声が追ってくる事はなかった。

 心を殺して何も考えないようにし、昌吾はあてもなく街を彷徨った。いつしか、辺りには夜の帳が下りていた。

 喉の渇きを感じた。思えば昼飯を途中で止めてから飲み食いしていなかった。昌吾はコンビニでコーラを買って喉を潤した。

 昌吾は川の所までやってきた。橋桁中央から水面を見つめた。昨夜の台風の影響が抜けておらず、川はゴウゴウと轟きながら流れていた。

 ゴクリと唾を飲み込んだ。しかしいつの間にか喉が乾燥しているのに気付いただけだった。

 そして、肩に掛けていたバッグを放り投げた。バッグは川に落ち、濁流にのまれていった。

 続いて昌吾は横に2本平行に延びている高欄の下段に片足をかけた。昌吾の足は慄えていた。

 足の動きがピタリと止まった。昌吾は足に力を入れ、体を持ち上げた。後は、眼下の濁流に飛び込むだけで苦しみから解放されると思った。

 その瞬間、昌吾の足が滑った。昌吾の体は前のめりに倒れた。そして、高欄に胸をぶつけてしまった。

「うおおお」

 頭がググッと下がった。何万匹もの龍がのたうつような川に近付き、昌吾は思わず悲鳴を上げてしまった。そして両手で高欄をしっかりと握った。

 昌吾は笑ってしまった

 ついさっきまで死のうとしていたのに、いざ命の危機に直面すると生に縋りつこうとする自分が愚かしかったのだ。高欄を掴んだまま俯き、涙を流しながら笑い続けた。

 5分程そのままの姿勢でいて、遂に昌吾は立ち上がった。その顔は憑き物が落ちたようだった。

「よし、帰るか」

 誰に言うでもなく昌吾は言うと、確かな足取りで家路に着いた。

 昌吾は突然足を止めた。何かが潜んでいそうな路地の奥を見つめ、その後辺りを見回した。ここに来るまで呆然としていたからか、辺りの景色に見覚えが無かった。

 暗がりから目が離せない昌吾の耳に微かな音が届いた。昌吾は胸騒ぎを覚えつつも、その路地へ入っていった。

 路地を2、3度曲がった先に商店があった。古めかしい造りの建物で、照明は暗く、闇の中にぼんやりと佇んでいた。

 昌吾は訝しいと感じながらも商店に近付いていった。軒先から店内を覗き込んだ。埃を被った商品が所狭しと並んでいた。

 怪しさしか感じない店から昌吾は後ずさろうとした。その瞬間店内から声が聞こえてきた。昌吾は、セイレーンに誘われる船乗りのように、店内に入っていった。

「いらっしゃい」

 店舗から自宅に繋がっているらしい部屋の畳の上に、女性が座っていた。その女性から漂ってくる色香に、昌吾はゴクリと唾を飲んだ。

「何を探してるの?」

「あっ、いえ、別に……」

「ふふ、可愛いわね。これ、どうかしら? きっと、役立つわよ」

 それは古びた便箋と封筒のセットだった。昌吾は手に取った瞬間欲しくなった。しかし、バッグを川に投げ捨てた事を思い出した。

 財布もその中に入っていたのを思い出し、顔が青くなった。それでも諦め切れず昌吾は体のあちこちをまさぐった。

 ズボンの右後ろのポケットに小銭が入っていた。コンビニでコーラを買った時のおつりをそこに入れていたのだ。

 しかし、300円くらいしかなかった。これではさすがに買えないだろう。

「それで全部?」

 女性は真赤な唇を舐めた。

「はい……」

「いいわ、それで」

「いいんですか?」

「ええ。はい、どうぞ」

 それを手にすると昌吾の全身に喜びが拡がっていった。

「あっ、でも、足りないのは後で払いにきます。本当はいくらですか?」

「本当にいいのよ。子供は、大人の親切を素直に受け取るものよ」

 昌吾は顔をムッとさせた。プライドを大いに傷付けられた事、目の前の女性に子供扱いされたからだった。

「ふふっ、冗談よ。今日でお店は終わりにしようと思ってるの。だから、最後のお客さんのあなたにサービスしたいの。ねっ、だから100円でいいわ」

「ありがとうございます」

 昌吾はやっと純粋に喜べたのだった。

「あっ、そうだ、俺の家風見台3丁目なんですけど、どうやって行ったら早いか分かりますか? 何かこの辺初めて来たみたいなんで」

「それなら、お店を出て右に行って、3本目の十字路をまた右、次を左。真直ぐ行くと木が沢山生えてる家があるから、玄関を背にした道を真直ぐ行けば帰れるわ」

「ありがとうございます」

「どういたしまして。それじゃ気を付けて帰るのよ。さようなら。その便箋と封筒は大切に使ってね」

「分かりました。さようなら~」

 昌吾は女性に言われた通り道を辿り、お化け屋敷のように荒れた家の前にやってきた。

 こんな家あったかなと思って調べてみたかったが、こんな夜に不気味な場所に近付きたくなかった。昌吾は一度体を慄わせ、家と反対の道へ爪先を向けた。

 二日後、昌吾はリビングで朝食を口にしていた。朝昼晩の食事を出してくれるし、洗濯もしてくれるが、昌吾と母親の関係はまだギクシャクしていた。

 その時母親のスマホが鳴った。母親は眉を寄せた。液晶に表示された電話番号に見覚えがなかったらしい。

「はい、もしもし? はい、八村です。ええっ! いえ、息子は家に居ます。はい、聞いてみますのでちょっと待ってください」

 母親が青い顔をし、スマホの下部を手で押さえて昌吾の方に顔を向けてきた。

「警察からなんだけど、あなたの荷物が川の下流で見つかったんだって。それで、あなたが事故に巻き込まれたんじゃないかって……」

 昌吾はトーストに齧り付いたまま動きを止めた。

「俺、生きてるけど」

「そうよね。あの、息子は無事で、今家に居ますけど……。はい、ちょっと聞いてみます。何で荷物が川に落ちたか分かる?」

 昌吾は顔をハッとさせた。川に飛び込もうとする前、荷物を投げ捨てた事を思い出したのだ。

「ああ、それね。橋のところで休んでたら落っこちちゃってさ。ハハハ……」

 野球一本できたので野球部を辞めて連絡を取り合う友達が居なかった。その為、昌吾はスマホが無くても気が付かなったのだ。

「はい、何か、不注意で川に落としてしまったみたいです。すみません、後で受け取りに伺います。はい、よろしくお願い致します。お騒がせしました」

 母親は頭を下げながら通話を終えた。

「昌吾、もう、心配させないでよね」

 その日の内に母親と一緒に連絡をくれた警察署に向かった。そして帰り道にスマホを新しいものにして貰った。

 昌吾にとっては手放しで喜べなかった。スマホを再び手にしても連絡を取り合う友達が居なかったからだ。しかし敢えて母親に心配を掛ける必要もないだろうと、それに関しては口にしなかった。

 『自分の息子が死んだかもしれない』という魔法は一日しか効果がなかった。母親はうんざりするような行儀の話と、新しい夢がないのかと昌吾を追い詰めてきた。

 ほんの少しの間だけでも放っておいて欲しかった昌吾には、多くの大人が失敗したら出来るだけ早く舵をきった方がいいと考える事が理解出来なかった。

 梅雨時期の雨のように降りかかる嫌味な言葉に昌吾は辟易していた。

「昌吾、あなた運動神経はいいんだから、サッカーとかどう? サッカーなら手は使わないんだから……」

「うるっせぇんだよ、このババア! 俺は野球以外やりたくねえんだから放っとけよ!」

 テレビを観ていた昌吾は立ち上がって叫んだ。

 母親の顔が驚愕、恐怖、悲痛へと変化した。昌吾は言い過ぎたかとは思ったが、プライドが頭をもたげて自分を折る事が出来なかった。

 それでも目に涙を溜める母親をこれ以上見ていられなくなり、リビングを後にして自分の部屋に駆け込んだ。

 自分は悪くないと思っていた。あんな酷い事を言ってしまったのは母親が自分を責めてきたからだった。仕方がなかった。自分は悪くないのだ。母親が余計な事を言わなければ、母親と喧嘩をする事はなかっただろう。

 何故なら、母親の事は好きなのだから。

 親は自分の為を思って意見を口にしている。それは分かっている。しかし、今はそれを受け入れる余裕が無い。そうかと言って親と衝突しない為に家を出るという選択肢は無かった。自分にはまだ経済力が備わっていないのだから。

 お互いに関係し合わねばならず、しかしそうするとお互いを傷付けあってしまう。昌吾はどうにも出来ないジレンマに苦しんだ。

 母親が余計な事を言わなくなれば、不本意な喧嘩をしなくて済むのにと思った。

 布団を被って呻いた昌吾だったが、突然体を起こした。そして何も映していない目で中空を睨んだ。

 昌吾はスマホを手にしてラインを起動させ、信濃とのトークページを開いた。今までの気後れなど、今の昌吾は微塵も感じていなかった。

≪SHOU:久しぶり。聞きたいことあるんだけど≫

≪ハルカ:おおっ、昌吾、久しぶり。元気してたか?≫

 この時間部活はしていなかったのか、2分も待たずに信濃から連絡があった。

≪SHOU:ああ、元気してたよ。リハビリして左手は普通に動かせるようになったよ≫

≪ハルカ:やったじゃん。部にはいつから復帰出来る?≫

 昌吾は唇を噛んだ。退部の挨拶をした時、怪我が理由で辞めると言った。しかし自分でも認めたくなく、もう投球が出来なくなったとは伝えていなかったのを思い出した。

≪SHOU:それなんだけど、医者に『もう前みたいにボール投げられない』って言われたんだ。だから、もう部には戻らない≫

≪ハルカ:ごめん。俺、ヒドイこと言ったな≫

≪SHOU:いや、まあ、遙が気にすることじゃないから≫

≪ハルカ:そう言ってもらえると……。ところで、俺に聞きたいことって何?≫

 昌吾はゴクリと喉を鳴らした。信濃が先に言ったとはいえ、それを信じて荒唐無稽な質問をするのだから。昌吾は震える指でスマホの液晶をタップした。

≪SHOU:前に、何でも願いが叶うポストの話してたじゃん≫

≪ハルカ:えっ? そんなこと俺言ったっけ?≫

 昌吾は恥ずかしさで胸を掻き毟りたくなった。しかしそれに耐えて再び指を動かした。

≪SHOU:県予選の決勝の後だったかな?≫

 その後すぐ肘を壊した事を思い出した。あの日練習をしなければ、まだ野球を続けられていたのであろうか。

≪SHOU:俺と遙と水沢の3人で話したじゃん≫

≪ハルカ:あ~、思い出した。あの話か。それが何か?≫

≪SHOU:そのポストってどこにあるって聞いた?≫

≪ハルカ:いや、場所とかは知らないんだ≫

≪SHOU:そうか。じゃあさ、そのポストってどんな特徴があるとか聞いたか?≫

≪ハルカ:やけにツッコムな。どうした?≫

 必死になっている自分を見せられた。自分の行為が馬鹿馬鹿しく思えたが、昌吾は神頼みに似ている一縷の望みに縋りたかった。

≪SHOU:ああ、俺のイトコでさ都市伝説が好きなガキがいるんだよ。遙に聞いた話をちょっとしたらさ、『どこにあるんだ』『どんな形だ』とかしつこく聞かれてさ。遙に聞いておくって約束しちゃったんだよ。知らないなら知らないって言ってくれ。そうすりゃあいつも諦めると思うから≫

 長いメッセージはダサイと思いつつも昌吾は、送信した。それ程、昌吾は必死だった。

≪ハルカ:そういうことか。そのポストは木で出来てて、オバケ屋敷みたないボロボロの家にあるらしい≫

≪SHOU:OK。ありがとう≫

≪ハルカ:あと1つあった≫

 アプリを閉じていたが、信濃からの受信が通知された。昌吾は面倒だと思いつつもアプリを再び開いた。

≪SHOU:何?≫

≪ハルカ:ポストには手紙以外入れちゃいけないんだって。ゴミとか入れたら呪い殺されるらしいぜww≫

≪SHOU:OK。ここまで詳しく教えてもらえたらイトコも喜ぶと思う≫

 昌吾はスマホをベッドに放り投げ、勉強机に向かった。机の上には数学のノートがあった。昌吾はノートの最後のページを開き、破り取ろうと引っ張った。

 紙が破れる音がした。しかし『ビリビリ』と鳴った時点で手を止めた。思案移りに、昌吾の目はガラス玉のように何も映していなかった。

 昌吾はスマホを手にし、信濃とのトーク履歴を読んだ。『手紙以外入れちゃいけない』とあった。ノートの切れ端は手紙と言えるのだろうか。

 自分が手紙と主張したところで、相手にそれが認められなければ仕方がない。失敗して呪い殺されるのも嫌だと思った。

 突然昌吾はプッと吹き出した。都市伝説という曖昧なものを信じて縋ろうとし、あるかも分からない呪いを恐れる自分を客観的に見てまるで厨二病だなと思ったのだ。

 しかし、自分はまさにその中二であった事を思い出した。そして失敗しても損はないし、誰に見られる訳でもないから恥ずかしくもなかった。

 ただ問題があった。ノートの切れ端がダメなら昌吾には手紙を書く手段が無かったのだ。喧嘩したばかりの母親に貰いにいく訳にもいかなかった。

 眉を曲げて考え込んでいた昌吾だったが、突然ハッと眉を開いた。そして神速で机の引き出しを開けた。

 そこにはあの夜、女性が営む文房具店で買ったレターセットが入っていた。

【礼ぎとか、俺の将来とかによけいなことを言わない母親になってほしい】

 ボールペンで書き、封筒に入れて糊付けした。宛名を書こうとしたが、信濃は何も言っていなかったのでペンを置いた。

 昌吾は家を飛び出した。そしてあの夜通った道を逆に辿っていった。

 すると例のお化け屋敷に着いた。道に人影は無く、辺りがぼんやり暗いように感じた。

 昌吾は首を傾けた。ここまでどの道を通ってきたのか、どの辻を曲がるよう選択したのか、はっきりとしなかったからだ。

 それでも到着出来たという僥倖に不審は頭の中から消えた。昌吾は確かな足取りでお化け屋敷に近付き、ポストの前に立った。

 昌吾は手紙をポストの口に近付けた。名前は書かれていなかったが、住所には『亀井市寿町』とだけ書かれていた。

 昌吾は動きを止め固唾を飲んだ。手は震えていた。そして自嘲的な笑いを口の端に浮かべた。

 ここまできて呪いというものを恐れている自分に気が付いたからだった。

 もう昌吾は迷わなかった。手紙とポストの口を睨み、手をポストの中に突っ込んだのだった。

 手紙がしっかりポストの中に入ったのを確認し、手を放した。

 昌吾は目を開いた。視線の先には見慣れた自室の天井があった。

 ガバッと身を起こした。布団がめくれ上がった。昌吾は辺りを見回した。窓からは射す朝日、いつも着ているパジャマ、午前7時を指す時計。どれもが昌吾が自室で起床した事実を示していた。

「夢……?」

 妙にリアルな夢だったなと思った。昌吾は、ここしばらくはルーティンにしていなかった、朝のスマホチェックをした。

 ラインの信濃とのトーク履歴には、都市伝説に関するやり取りが残されていた。だとしたら、いったいどこからが夢だったのであろうか。

 昌吾はベッドから出て、頭を掻きながらトイレへ向かった。

「昌吾~、あなたねぇ~、いくらまだ夏休みだからっていつまでも寝てたらダメよ。もう学校が始まるんだから、早起きの習慣に戻しておかないと」

「分かってるよ」

 幼稚園児じゃないのだから、早起きの練習なんてしなくても始業式の当日は嫌でも起きられると思った。そして、トイレのドアノブに手をかけた瞬間動きを止めた。

 昌吾はリビングの方へ目を向けた。胸の内にある違和感の正体を一刻も早く確かめたかった。しかし尿意に負けてトイレに飛び込んだ。

 トイレを済ませ、昌吾はリビングのドアノブを掴んだ。そして、ままよとドアを開いた。

「お、おはよ……」

「おはよ~、昌吾、元気無いわよっ」

 昨日喧嘩して仲直りはまだの筈なのに、明るい声だった。昌吾は声が響いてきた方向へ恐る恐る目を向けた。

 女性の姿を見て、昌吾は驚いて動きを止めた。昌吾の記憶にある母親の姿が、そこには無かったのだ。

「お、おはよう、ございます……」

「何、それ? よそよそしいわね。ギャグ? それとも学校で流行ってるの?」

「いや、まあ、別に……。えっと、あの、母は何処に居ますか?」

 女性の顔がムッとなった。

「昌吾、いい加減にしないと怒るわよ。私を母親とは認めないって言いたいの?」

「あっ、ごめん。ちょっと寝ぼけてたみたい」

「もう、そろそろ学校が始まるんだからしっかりしてよね。朝ご飯用意するから座って」

 茫然自失したまま食卓に座っていると、目の前にトーストと目玉焼き、サラダ、牛乳が置かれた。いつものメニューだし、目玉焼きも昌吾が好きな完熟だった。

 いったい何が起きているか分かなかった。昌吾は混乱している頭で朝食を食みながら、色々と考えを巡らせた。

 昌吾の動きが止まった。

 思い当たる節があった。もちろん昨日の事だ。昌吾は手紙に『礼ぎとか、俺の将来とかによけいなことを言わない母親になってほしい』と書いた。それが叶ったのではないだろうか。

 試しに昌吾は食卓に肘をつき、拳で顎を支えた。そしてパンクズをボロボロと落としながら食べてみた。“母親”は微笑むだけで何も小言を口にしなかった。

「母さん、俺さ、野球辞めて何をしたらいいか分からなくなったんだ。だから、しばらくの間自分探しをしてみようと思って」

 母親が黙った。さすがにこれには何か言われるかと昌吾は身構えた。

「まあ、いいんじゃない。あなたはまだ若いんだし。将来の事はゆっくり考えたらいいと思うわよ」

 昌吾はホッとした。

「ありがとう。ところで……、父さんは?」

「何言ってるの。もう仕事に行ったわよ」

 呆れたように鼻から息を吐きながら母親は言った。

「そうだよね。ごちそうさま」

 昌吾は皿を食卓に残し自分の部屋に戻った。ドアが閉まった瞬間、拳を握ってガッツポーズをとった。


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