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6 エインセルの過去

恋愛パートです。一応。

『ああ、これは夢ね』

 父と母に囲まれ、幼いイグリットが目の前にいて泣いているのを、大人のイグリットである自分が、それを見ていた。自分は半透明で、その場にいるのを誰も見咎めない。

 折檻されたか叱責されたか、どちらにしても見ていて気分のいいものではない。


 場面が変わった。

 次は十二、三歳くらいのイグリットで、豪華だが誰も歩み寄る人間のいない、孤独で冷たい部屋に一人、閉じ込められるように生きていた頃だ。


 エインセルは、病み上がりで意識を取り戻した後、イグリットの主観で構成される記憶が流れ込んで来たが、客観的に整理してみて、原作ゲームで抱いてきたイグリットのイメージと少し違うことに気付く。


 ゲームでのイグリットは、気に入らないと周囲に攻撃的な態度を取ったが、それは周りから向けられる害意に近い感情があったからだった。


 イグリットは、二歳の時に母を亡くし、父が後妻を受け入れて、その後に出来た弟が公爵家を継ぐ後継者となった。この国では、女性が爵位を継ぐことができないからだ。


 継母はイグリットにとって、記憶に残っていない実母ではなく、継母が母だと思っていたが、何故かずっと弟との扱いに差があり、その訳を理解できなかった。何につけ弟が優先され、イグリットがどれほど優秀さを見せても褒められることはなく、むしろ弟との差をひけらかしているとまで言われ、冷たい扱いを受けてきた。

 父も、あまり折り合いの良くなかった亡妻に瓜二つであるイグリットよりも、実際の後継者であり自分と似ている弟を可愛がり、自然とイグリットは家の中で孤立していった。


 物の分別が付く年齢になると、やっと自分が公爵家で浮いていることに気付いた。血の繋がりのない継母の態度の理由が分かり、同時に言い知れない怒りが湧いてきたのだ。

 愛情を得られない子供は、暗く鬱々とするか問題児となることが往々にしてあるが、生来の気の強さから、イグリットは大問題児となった。

 だが、地頭がよく、ラスボススペックのイグリットは、自分から積極的に非を作らず、憂さ晴らしのような処罰を合法的に行えるよう、相手を陥れていくような人間になった。そうして自分が優位に立ち、周囲との壁を作ることで、孤独に耐えていたのだ。


 また場面が変わり、今度はイグリットが十五になり、社交場に顔を出すようになってからの姿だ。この頃には、既にイグリットは大輪の華のような美しい少女になっていた。


 社交界でのイグリットの悪役令嬢っぷりは、半分が真実で半分が独り歩きした噂のせいだったが、侮られるよりはマシと、イグリット本人が否定しなかったことも原因だった。

 社交も縁談も学業も、何もかもがどうでも良かった。ただ、受けた理不尽には理不尽で返すという、せめてもプライドで世の中に抗ってきた。


 だが、そんなイグリットの心は、傷つき疲れ切っていた。


 そしてまた場面が変わり、イグリットが十七になってすぐの春のこと。


 熱病から生還したイグリットだったが、そこに今はエインセルとなった魂が重なったのだ。

 イグリットが消滅した訳ではなく、疲れた魂がイグリットであることをやめ、エインセルの自我の方が強くなった。


 エインセルはイグリットと違い、静寂が大切だった。

 だから、メイドが冷たい目で見ようとも、従僕が渋面で迎えようとも、エインセルはただ静かに過ごし、家族とも他人として接するように徹底的に距離を置いた。そうすれば、無駄な衝突はなくなり、イグリットは敵対せずに穏やかに放っておかれるようになった。


 率先してイグリットを嫌っていた弟ですら、自分から突っかかるような真似をしても相手をしなければ、急につまらなそうな顔をして嫌がらせをやめるのだった。

 公爵家は、誰か一人悪役を作ることによって仲睦まじいように過ごしていたが、その要となるイグリットが火が消えたようになったため、他に苛立ちをぶつける先がなくなって、家全体がぎくしゃくするような歪んだ家族関係だった。


 そして、すっかり苛烈な性格が鳴りを潜めたことが周囲に行きわたると、以前から話が出ていた次期北部公爵であるトリスタンとの婚約の話が本格的になってきた。

 それを、病を機に体が弱ってしまったと偽り、トリスタンとの婚約をなんとか回避しようと試みた。


 場面が変わり、以前より少し痩せたイグリットが、長身で隙のない身のこなしの青年と向き合っていた。相手はトリスタンだ。


 イグリットとしてトリスタンとは、二度ほど顔合わせをしたことがある。

 スチルをそのまま現実にしたかのように、トリスタンは凍えるような冷たさながら、背が高くしっかりと鍛えられた体型をしていて、それでいて優美さを失わない、誰もが振り返るような美丈夫だった。


 魔族を何度も退けている功績から、既にこの国で最も強い人間と認識されていて、社交界では評価が二分されていた。

 冷酷な戦闘狂で味方でも簡単に切り捨てる冷血小公爵。それと、北部の広大な領地と良質な鉱石類を抱く鉱山をいくつも有する、この国きっての資産を受け継ぐ美青年。


 後者の評価は、令嬢たちの婚活意欲を大いに刺激し、求婚は後を絶たなかったようだ。


 そんな乙女ゲームのヒーローに対し、顔合わせで二人きりにさせられた時、イグリットが開口一番に言った言葉が、婚約を拒絶するものだった。


『魔力の相性が合うとはいっても、それ以外に互いに利益がない結婚など無意味です。それに、わたくしは大病後に体が弱くなりました。魔力の大きな子の出産は望めません』


 トリスタンは、わざわざ評判が最悪なイグリットを妻に迎えなくても、遠い血族の誰かを娶れば済むことだ。それに両家は、敵対とまではいかずとも、第二王子派と中立派という、微妙な関係にいたので、この婚約は王命に近いとはいえ、非公式な要請に近いものであり、本人たち双方の拒絶の意思があれば退けることは可能だった。


 それに、イグリットの母は、高い魔力量のイグリットを出産したため、産後の肥立ちが悪く、ずっと病床に居て亡くなった。トリスタンとの子供は恐らく、かなりの魔力量が予想されたから、理にかなった説得になったはずだった。


 魔力の高い者同士だと子供ができる確率は低く、実際ゲームのイグリットとトリスタンの間には子はなかったので、いずれにせよ二人の間に子は望めないと思われた。それは自分だけが知っている事実で、イグリットは言うつもりはなかったが、子ができにくいことも、できたとしても母体に掛かる負担が大きいことに、トリスタンも思い当たったようだ。


 トリスタンはジッとイグリットの言い分を聞いていた。挨拶以外無表情でほぼ言葉を発しないトリスタンは、不機嫌を通り越して威圧すら感じたが、これがデフォルトなのだと何となくイグリットは感じ取り、こちらも何かが返ってくるまで黙っていた。

 元々口数の多い方ではないイグリットと、無口というよりも岩かと思うほど表情も口も動かないトリスタンとの対面は、そよぐ風の音が鮮明に聞こえるほど静かだった。


 やがて、二杯目の茶を飲み干そうかという頃合いで、低い声をトリスタンが発した。


『貴女は、それでいいのか』

 驚いてトリスタンを見ると、赤い瞳を幾分和らがせてイグリットを見ていたので、どうやらトリスタンは、イグリットを心配しているようだった。

 この縁談を断れば、婚期を逃す可能性が高い。令嬢の価値は、いかに家門を栄えさせる相手に嫁ぐかにあるのだから、普通なら年寄りの後妻か、問題のある家門へ嫁がされる。トリスタンの言いたいことも分かる。


 イグリットは、少しだけ笑って言った。

『わたくしには、希代の悪女という二つ名が既にありますので、行き遅れや未婚の中傷が増えたところで、何も不便はありませんわ。わたくしを御心配くださるなら、そうね、十年経っても貰い手が無くて、貴方も独り身でしたら、どうぞ貰ってください。でもその前に、気に入らない家門に売り飛ばされそうになったら、冒険者か傭兵にでもなって、世界を股にかけて大成功しているかもしれませんわ、わたくし。その時はごめんなさい』


 さすがに十年経てば、原作ゲームのルートが再発することはないだろうし、それにイグリットには、戦いを生業にしてもやっていけるだけのスペックがある。自分で言って冒険者も存外悪くないと思っていると、鉄壁と思われたトリスタンの目が少し大きくなった。そして、何やら笑みらしきものが口に浮かんでいる、ような気がした。


『壮大な貴女の夢が叶うよう祈っている』

 多分、揶揄い半分だと思うが、そう言ってトリスタンは去っていった。


 そして、半月後、もう一度両家が揃って話し合いをして、円満な白紙となった。

 最後の挨拶の時、何故かトリスタンから友人のように握手を求められ、小さく囁かれた。

『十年後、巡り合わせがあれば、また会おう』


 何というか、原作と違って、トリスタンはそれなりに話の分かる人間のようで、「北部公爵ルート」のヒーローでなければ嫁いでも無難にやっていけそうだと思ったが、多分もう二度と二人の道は交わらないだろうと、笑って別れた。


 その後、父親に変な家門に売られる前に、イグリットは少し手を伸ばして事業を始め、父に頼らなくても生きていけるだけの準備を始めようとした矢先だった。

 冗談半分に言った冒険者のなり方を、少しだけ本気で調べてみたが、イグリットの人生設計を狂わす事件が起きた。


 イグリットが一命をとりとめた流行り病が、王太子と第二王子の婚約者を奪って、イグリットが後に王太子となる第二王子と婚約することになったのだ。この病は、魔力が高い人間の方が罹患率も重症化率も高く、優秀な血筋である二人は漏れなく高魔力保持者であったため、あっけなくこの世を去ってしまった。


 その後、王家の血筋を守るため、同じ高魔力で血筋が王家に次ぐほど高貴なイグリットが、王太子シリルに嫁ぐことになった。父であるギルモア公爵は大喜びで、生まれて初めてイグリットは褒められたのだった。ほとんどが厄介払いできるという喜びだったが。


 もはや攻略対象と離れて暮らすのは諦めよということかと、ゆくゆくは王妃となるこの先の責務と重圧で面倒な人生を思いため息を吐いた。

 おそらく、今のイグリットのラスボススペックであれば難なくこなせそうだが。


 場面が変わる。目の前には、目映い金の髪と、目の覚めるような金の瞳をした美しい青年――シリル・キャメロン・アルビオスが、険しい顔でイグリットを睨んでいた。


 シリルは、第二王子派だったイグリットの生家であるギルモア家とも関りが深く、幼少からイグリットとの交流も多かったことから、以前の悪女イグリットを毛嫌いしていた。

 婚約式の直前に、『この先、そなたを愛することはない』と言われたが、イグリットは十分その気持ちも分かったので、『亡くなられた方をお忘れになる必要はありません。わたくしには義務だけで結構です』と伝えた。

 それに一瞬意外そうな顔をしたが、シリルはそれからも淡泊というよりも嫌厭する態度をしばらく取り続けた。


 婚約から三か月が経ち、週に一度の面会日も十を超える頃、シリルがポツリと言った。

『そなた、本当に変わったのだな』

 茶会も芸術鑑賞も微妙な距離を取り続けたシリルだったが、何も問題を起こさないどころか、真面目に王太子妃教育に取り組むイグリットを訝しく思いながらも、少しずつ会話が増えていった。

 それはシリルが、王太子としての教育と仕事が増え、疲れを隠せなくなってきた時に、誰の目もない時間がシリルにとってこの時だけだったので、『わたくしには何も気遣う必要はありませんので、どうぞ殿下は休憩と思って少し眠ってください』と伝えた時、眠気に勝てずにガラスの温室で仮眠を取った冬の日の後からだった。


 初めてシリルが、イグリットと正面から向き合った日でもあった。


 最初はテーブルに一番距離のある少し斜め向かいで座っていたのが、徐々に正面となり、一緒のソファに座るようになった。観劇は、人一人分以上空けていたのが、小声で会話ができる距離になり、やがて腕が触れるほど近くなった。


 シリルは天才ではなかったが、秀才で努力の人だった。だから、自分の寝食を削っても全てをこなした。

 同じく王太子妃教育を受けるイグリットは、天才肌だけあって何事もシリルよりは余裕があり、たまにシリルが王太子の重圧に弱音を吐き、それにイグリットが「一人でできなければ二人でやればいい」と静かに寄り添うようになった。


 二人きりの時間を過ごした最後の頃の方は、シリルは庭園の長椅子で、イグリットの肩に身体を預けて眠るようになっていた。


 新緑から季節が変わる直前の春のある日、突然吹いた風に乗った花びらがイグリットの髪に止まった。それを見たシリルが、イグリットの髪に付いた花びらを取る。だが、左の頬近くにあった花びらを払っても、シリルの指はイグリットの髪から離れなかった。


 そのままシリルの指が髪を梳いて、掌がイグリットの頬に添えられ、僅かにシリルの体が屈められた。微かな熱が籠るシリルの金の瞳が近付いて、太陽がシリルの陰で翳って吐息が交わりかけた時、遠くからシリルの侍従が呼ぶ声が聞こえ、二人の距離は元の位置に戻った。


 イグリットはシリルが何を求めていたのか分かったが、敢えて何も聞かなかったし、シリルも何も言わなかった。

 その後、それ以上の触れ合いはなかったが、シリルは頻繁に時間を作ってイグリットに会いに来るようになった。


 恐らくシリルは、イグリットに恋情を抱き始めていたと思われた。

 イグリットはまだ恋とは言えなかったが好意は積み上げられ、このまま原作とは違う流れでこの人と添い遂げるのだろうか、とイグリットが漠然と思い始めていた時だった。


 イグリットが十八、シリルが十九になった夏に、その日はやってきた。

 聖女がこの世界に降臨したのだ。


 それから、イグリットの穏やかな世界は、全て終わりを告げた。

シリル行け! と思った方、残念でした。


できたら、また明日投稿します。

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