2 希代の悪女イグリット・ギルモア
本日2話目の投稿です。
エインセルことイグリットは、気付いた時には、乙女ゲームの世界「聖女だって恋がしたいの☆」の悪女イグリットになっていた。
転生か憑依かは分からない(多分憑依だ)が、元は平凡な日本人の大学生だ。
前世? の名前も思い出せないが、このゲームの記憶だけは鮮明に残っていた。
このタイトルは、コアユーザーの間でも恥ずかし過ぎると言われ、誰もフルでタイトルを言わず、略して「コイシタ」と呼ばれていたが、特定のユーザーしかいなかった乙女ゲームに様々な要素を取り入れて、空前の乙女ゲームの火付け役となった有名なゲームだ。
が、未だに「制作、何で最後に☆を付けた」と、謎で仕方がない。
そんな温いタイトルのゲームだが、剣と魔法のファンタジーの世界で、この世界の危機を救うために異世界へ招かれた主人公が、様々なシチュエーションで出会った攻略対象と愛を育む王道の乙女ゲームだ。
ただ、当時の乙女ゲームには珍しく、攻略ルートによってはRPG要素やバトルもあり、女性キャラとの友情エンドや領地経営モードまで搭載して、乙女ゲームとはいえ男性のユーザーもかなり獲得したことから、長い間乙女ゲームブームを牽引していた。
そんな原作ゲームでイグリットは、公爵家令嬢という高い身分と明晰な頭脳に強い魔力を持ち、絶世の美貌というハイスペック令嬢だが、傲慢で冷酷で、自分の思いどおりにならないことは法も彼女の枷にならない、という生粋の悪役令嬢だった。
そのため、最初は、血筋も能力も申し分なく年齢の釣りあいの取れる第二王子シリルの婚約者候補だったが、その苛烈な性格から王族の婚約者に据えられないと判断され、低い身分の家門にも嫁がせられない、誰もが持てあますやっかいな令嬢だった。
そこで、イグリットの嫁ぎ先として選定されたのが、「北部公爵ルート」のヒーローで婚約当時はまだ公爵令息という身分のトリスタン・ウォルフォードだった。
婚約後のトリスタンは、国の建国功臣である東西南北の四公爵家の一つ、特に人類の敵である魔族との境界の地で魔族と戦う勇壮な武門であり、広大な領地を有する大領主「北部公爵」家の当主となるが、魔族どころか人間でさえ逆らう者には苛烈な制裁を下すことで「冷血公爵」と呼ばれていた。
その「冷血公爵」は、実は数代前の公爵が魔族から受けた血の呪いで、呪いの耐性がある血族か余程魔力の相性が良いか、伝説の「聖女」級の聖属性の魔力を持つ相手でないと、子を身籠ると女性は呪いで死んでしまうことから、特定の条件を満たす相手としか婚姻ができなかった。
この世界の貴族の婚姻には魔力の質を落とさないための魔力判定が付き物で、偶然、冷血公爵の魔力との相性が珍しく合う貴族ということで、イグリットは王家の勧めでトリスタンと婚姻を結ばされる。
身分も釣りあい、最悪の悪役令嬢を御せるのはもはやトリスタンしかおらず、ウォルフォード家としても血族婚で濃くなった血を薄めて子孫を残せる相手ならば、希代の悪女であろうとも受け入れた方が得、ということで、方々の緩やかな利害が一致した完全な政略結婚だった。
そうして妥協で嫁いだ北部公爵家は魔族との最前線の地であり、無骨で謹厳な性格の北部カレリア地方の人間と合わずに、我儘を通す公爵夫人に領地の人間は、表面は恭しくも誰も近付こうとしなくなり、徐々に孤立するイグリットは奢侈に耽り、温かくはないが公爵夫人として一応の礼節を弁えるトリスタンに依存するようになる。
そこへ聖女降臨で魔族との戦いに力を貸すためにカレリアを訪れたヒロインに、安らぎを感じて秘めた恋に落ちた夫と、戦いに身を置く夫を献身的に支え、領民にも慕われる聖女の仲に嫉妬したイグリットは、夫と聖女に徐々に攻撃的になっていく。
そして、主要ストーリーでは、自分を選ばない夫と、夫を誑かしたヒロインに憎悪を抱き、魔族に加担して自ら魔族に成り果て復讐しようとし、二人を窮地に追い込むが、最後には敗北する。魔族になるストーリー以外でも、分岐点到達時のヒロインの好感度によって、魔力を封じられて危険な地へ追放されるストーリーや、黒魔術に溺れて破滅するストーリーになることから、「北部公爵ルート」では、ほぼデッドエンドしかない最悪の悪女だった。
「北部公爵ルート」の醍醐味は、冷血なヒーローの心を徐々に溶かして溺愛モードに入るところで、非常に人気の高いルートだが、このルートは、トリスタンの好感度が上がるのがかなり難しい上に、イグリットとの確執や魔族との戦いで戦績が悪いと好感度が下がるため、難易度の高いルートで有名だった。
とはいっても、基本は乙女ゲームなので、バトルでデッドエンドになることはなく、最悪でもトリスタンに告白されないノーマルエンドを迎えるので、乙女ゲーム的な恋愛の難易度は高くても、ヒロインは何かしらの平凡でも幸せな結末が用意されていた。
そして、商業ゲームのチート技、「課金アイテム」があれば、どのルートエンドでも案外簡単にクリア出来た。
その代わりイグリットは、バッドエンドが多彩に用意されているので、コアなファンは、イグリットのバッドエンドの全回収を目指すほどだった。
その希代の悪女(この時はまだ悪役令嬢)のイグリットとして目覚めたのは、トリスタンとの婚約が調う一年前の十七歳の時だった。
王都を襲った流行り病で死の淵を彷徨い、目覚めたらイグリットと元の世界の記憶が流れ込んできた。控えていた侍女らしき女性の制止も聞かずに、ふらつく体で鏡に辿り着くと、そこには金髪碧眼の絶世の美少女がいた。
あまりのことに鏡に縋りついたまま悲鳴を上げてしまったが、元々感情の起伏の激しいイグリットの奇行は不審がられることもなかった。
まだ取り返しのつくうちに前世の記憶が覚醒したので、そのまま病弱を装いなんとか婚約を阻止し、それ以降は、家族との折り合いの悪い生家のギルモア公爵家内で不審に思われないよう、大病で大人しくなったと思わせることに専念した。
それが災いしたのか、予想だにしていなかった転機がきた。
半年後に王太子と第二王子シリルの婚約者が、イグリットと同じ熱病に罹って亡くなり、第二王子だったシリルが王太子に繰り上がった。そのため、王太子に婚約者がいないと世継ぎに不安が出るため、喪が明けたら婚約すべく、急遽婚約者の選定が行われた。
そこで、元々婚約者候補にもあがったことがある、思慮深く別人のようになったと評判になった高位貴族で婚約者のいないイグリットに白羽の矢が立ち、急ぎで無理やり仮の婚約を王太子と結ばされた。
本来「王太子ルート」は、新しく婚約者になった「王太子ルート」の悪役令嬢である権力志向の強い侯爵令嬢とシリルは性格が合わず、突然王太子となった重圧と、失った婚約者への悲しみで心が疲弊していたところに、降臨した聖女との交流の中で、健気にこの世界のために役目を全うしようとする聖女に徐々に癒され、恋に落ちていく話になるはずだった。
が、結果は、悪役として無気力なイグリットに婚約者候補が変わったことで、物静かなイグリットにシリルが心を開いてくるようになってしまった。
そのうえ、「王太子ルート」で悪役予定だった令嬢は、「宰相ルート」の悪役予定だった隣国から留学に来ている皇女と学園で交流を深め、聖女が来る前に揃って隣国へ行ってしまったのだ。
なんでも「王太子ルート」の悪役令嬢は、女性が爵位を継げないことで、「宰相ルート」のヒーローである義兄を優遇する生家に、自分の実力を認めさせたいがために王太子の婚約者の座を狙っていたが、自国より女性を優遇する隣国に渡ることで、王太子の婚約者の座がいらなくなってしまったのだった。
そもそも、隣国の皇女の留学は、ヒロインである聖女が降臨してから起きるはずだったが、それも二年も前倒しで起こっていた。
イグリットがこちらへ来る以前のことであったし、この国の中のことしか分からないため手の出しようがなかったが、その皇女の留学が早まった経緯には、隣国ルートの「皇帝ルート」と「異国の騎士団長ルート」からの影響がありそうだった。
その、各ルートの恋敵の不在から、イグリットが北部公爵と婚約しなかったことも含め、原作とは大きな齟齬が生じていた。
なんと迷惑な、と思わないでもないが、イグリット自身がバッドエンドを逃れるため、随分と好き勝手なことをしているので、他の悪役令嬢たちを恨むことも出来ずに、なんとか王太子の婚約者として死亡以外の未来を別に模索しようとしていた。
そのタイミングで、異世界から聖女が降臨してきてしまった。
ヒロイン役の聖女「聖来」は、ここが「聖女だって恋がしたい☆」の世界だと知っているようにイグリットには思われた。
そのヒロイン「聖来」は、王道の「王太子ルート」を攻略し、並行して「宰相ルート」、王太子の薨去の追悼の使節団で入国していた「異国の騎士団長ルート」を攻略すべく、その出会いのタイミングをゲームどおりに進めようとしていた。
何故それに気付いたかというと、それぞれの攻略対象との出会いの後、初めて悪役令嬢と遭遇する場面で、シリルと一緒に現れたのがイグリットであったため、「なんで、マリアーナじゃなくて、イグリットと婚約してるの!? 逆ハールートはどうなるのよ!!」と叫んでいたからだ。ちなみにマリアーナとは、本来シリルの婚約者となる予定だった悪役令嬢の名前である。
自分のゲーム攻略知識が通用しないことに焦った聖来は、本来のストーリーの流れに戻そうと画策したが、複数の要因で原作と違う動きをする悪役令嬢たちの誰が原因か突き止められず、とんでもない暴挙に出た。
逆ハーレムルートは特殊要件が必要であるため、それを発動させるべく、一番手近にいたイグリットを標的として、結果を原作ゲームに近付けるため、聖女を殺害しようとした罪人の汚名を着せ、断罪イベントである「帰らずの森への追放」を強制的に起こされたのだ。
追放先に何故「帰らずの森」が選ばれたか考えるに、この地は生きて帰った者のいないと言われる北部公爵の領地の魔族の地との境界線の森で、「王太子ルート」「宰相ルート」、「北部公爵ルート」で悪役令嬢の流刑地となり、「北部公爵ルート」では更に、魔族との内通で魔界とのゲートを広げようとした決戦の地となる場所だったからだ。それに加え、逆ハーレムルートの発生要件が魔族がらみであったため、ここ以外の断罪の地はないくらい、一粒で四度美味しいという場所だ。イグリットにはまったく一つも美味しいことはないが。
そしてイグリットは、原作改変の影響のせいか、魔族や魔物ではなく人間の手に掛かるところを、ここに住む大魔女カーラに奇跡的に救われた。
原作と乖離すればするほど、いつ聖女が悪役令嬢のデッドエンドを求めてくるか分からないことを警戒し、イグリットは死を偽装し、人とは関わらないように生きていくことを決めた。
幸いなことに、第二の人生はすぐに決まった。
イグリットを助けた大魔女カーラが、イグリットを助手にしてくれたのだ。
大魔女とはいっても人を食う魔女などおらず、カーラは穏やかで教養深く、一番近い村では「良く効く薬を作る薬師のおばあちゃん」と慕われており、使い魔のユキヒョウの「スノウ」とシマエナガの「パン」と、薬草を摘んだり、薬を作ったり、畑を耕したりして暮らしていた。
そんな魔女の二代目の生活は、派手なことを嫌うイグリットの性にとても合っており、「自分自身」という偽名の「エインセル」を名乗って、穏やかな暮らしをしていた。
そんな日常を三年送ったある日、その日常が変化するのを、赤い目をした子供を見て、エインセルは受け入れることを決めた。
不要なもの
恥ずかしくて言えないタイトル、それを付ける勇気
そんな訳で、この話のタイトルも無難なものに収まりました。