14 変わりゆく日常
まだ甘々空間続きます。
あの日から、トリスタンの来る頻度は変わらないが、一緒に夜を過ごす日もできた。
イグリットの変身を解いたのはあの日だけで、いつもどおりエインセルの姿で生活するのは変えなかった。
ただ、普段の生活は、トリスタンの出現で随分と変化した。
本当に〝冷酷公爵〟という二つ名があるのか、というくらい、エインセルには甘く溶けた表情や仕草を見せるのだ。
原作のゲームでも、冷酷そのものの冷たい表情や態度が、ヒロインには柔らかく微笑んだりスキンシップが多くなったりと、ベタな甘さが急増するキャラだ。そのギャップから萌え狂うファンが多発したのだが、あれは二次元だから許されるのであって、実際にその攻撃を受ける身には、かなり辛いものがあるということに気付かされた。
甘く細められた目で見つめられ、後ろから不意に抱き締められ、時に情熱的に求められ、朝目覚めた時に目の前に圧倒的美貌が微笑んでいるというのが、非常に心臓や精神に悪いということに。
それでも、トリスタンが傍にいるといつも心臓が落ち着かないのに、一緒の空間にいるだけで満たされた気分になり、いない時間はいつもトリスタンのことを考えてしまう。
これでは完全に恋する乙女ではないか。
できるだけこれまでの日常を崩さないようにしてはいるが、今日は非常に不機嫌な空気を出しているトリスタンだったので、畑の作業を切り上げて、ソファでご機嫌を取ることにする。
この男、大人然とした顔をしているが、時々どうしようもない駄々っ子の時がある。
「どうしたの? 何か嫌なことがあったの?」
今日は、トリスタンの膝の間に座らされ、後ろから覆われるように抱き着かれている。静かに尋ねると、無言で腹に回った腕にギュッと力が入り、額を肩に乗せられたまま大きなため息を吐かれた。背中が擽ったくて身を捩るが、トリスタンはより腕に力を入れた。
「……王命で、二年以内の結婚を命じられた」
なるほど、それで不機嫌な訳だ。
初めて夜を明かした朝に、トリスタンは改めてエインセルへ求婚した。だが、それをエインセルは拒否し、ひと月以上経った今に至る。
「それで? 私が断っているだけならこんなに不機嫌にならないわよね。今、あなた頑張ってる途中だもの」
トリスタンは、エインセルが頷くまで口説く気満々で、いつだってエインセルに愛を囁いているのだから、エインセルが応じないことに苛立っているのではないのは明らかだ。
それにまた、トリスタンのため息が掛かって身を捩るが、今度は額を肩でグリグリとされる感触が追加された。
「弟の元の妻を娶るか、聖女を引き取るよう言われた」
「……それは、嫌ね」
かなりショッキングな内容に、エインセルは思わず呟いてしまった。
ちなみに、弟の元妻というのは、トリスタンの亡くなった弟の妻で、未亡人ということだ。
少し前に、お互い婚約破棄した後に、どのように過ごしていたかを少しずつ話し始めた。その時に、当時は跡取りだったトリスタンが当主になっていたので、その経緯を聞いていたのだ。
あまりに苦痛な内容だったが、イグリットとしてもエインセルとしても聞いてほしいと言われ、その話を夜通し聞いた。
トリスタンには、二十年前には当時の最強の騎士と呼ばれた前ウォルフォード公爵の父がいた。権威的で厳格で冷酷で、自分以外の人間を駒のように扱う人だったようだ。そして、何より自分の名声を非常に誇っており、王族にすらその態度を取ることもしばしばだった。
しかし、人間は年と共に体は衰えるものだ。
徐々に長男であるトリスタンが才能を見せ始め、十四の時に父を剣で越えてからは、父からの冷遇が顕著になった。そして、剣だけでなく、魔力や当主としての技量も超えられていき、領民や家臣や王家からの信頼もトリスタンに移っていくと、実の息子を憎むようになっていった。
トリスタンは常に、ウォルフォード家の務めとしての魔族討伐の最前線に立っているが、父はトリスタンを殺そうとしているとしか思えない作戦を授けて送り出すようになる。
その死地をトリスタンは幾度となく潜り抜け、皮肉にも逆に名声を上げることになり、仲を取り持ってくれていた母が病でこの世を去ったことも手伝って、更に親子関係は悪化していってしまった。
ウォルフォード家の嫡子は、トリスタンの他に同母の弟がいた。一歳違いだが、やはりヒーロースペックのトリスタンの才能は群を抜いており、弟も父に倣い、トリスタンを憎むようになっていた。
これは、原作ゲームでもエピソードがあったので、ある程度は知っていたことだ。
父は、自分の名声に遠く及ばないがそこそこ優秀な弟を可愛がり、次期当主に据えようと目論み、弟も公爵という権力を欲して、トリスタンが孤立する図式が出来上がった。
やがて、王命に近いイグリットとの婚約がもたらされるが、それは、悪女を宛がってトリスタンの名声を下げようとする意図で、ウォルフォード家当主意向で提案されたものだったらしい。魔力の相性が良かったのは偶々のことだったらしい。もちろんトリスタンは、イグリットに合う直前まで自分の婚約を知らされていなかった。
トリスタンは、イグリットが嫁いで来ても、ウォルフォード家では二人とも人格を否定するような扱いを受けることが確定的だったため、互いに不幸になるしかない婚姻だと悟りって阻止しようとするが、そんなトリスタンにも誤算があったという。
それまで、人間らしい情緒は死んでいると自覚していたトリスタンだったが、イグリットにほぼ一目惚れ(どうやら性格が気に入ったようだ)したと淡々と告げた。
そして、十年後ならば父は引退しているだろうから、当主になろうともならずとも、必ず生き残って改めて結婚を申し込もうと思い、一時的な婚約破棄の提案を受け入れたというのが、あの時の真相のようだ。
「あの時から、貴女に再会することを糧に生きていたと言ってもいい」
いつも歯の浮くようなことを言うトリスタンだが、その言葉は甘さではなくただその時を思い出しているだけのように聞こえ、それが却って痛ましく聞こえた。
その直後に、イグリットと王太子シリルとの婚約が発表され、その後すぐにイグリットの訃報がもたらされ、一時は失意で何もかもを投げ出すか、王家と聖女に反旗を翻そうかとも思っていたそうだ。
そして、転機が訪れる。
今から約二年前、弟は、魔物の巣窟にトリスタンを誘い込もうとして失敗し、自分も魔物に取り囲まれ、トリスタンの救援も虚しく命を落とした。それを企てた主犯として、失意の父を僻地の荘園へ押し込んで隠居させ、自ら当主となった。
この時の対応で、弟の死がトリスタンの仕組んだものと実しやかに囁かれ、親にも容赦のない対応であったことから、冷血だの冷酷公爵だのとの二つ名が付いたようだ。
王家には爵位の継承の際に、公正な資料を渡した上で承認を得ているので、トリスタンには一切後ろ暗い所はなく、堂々とその噂を受け止めて、その態度が噂の真偽を皆に知らしめたのだった。
これで家のゴタゴタは片付いたかと思われたが、まだ厄介な事案が残っていたのだ。それが例の未亡人の問題だ。
イグリットとの婚姻で名声を下げる予定だった計画がとん挫し、その直後に弟は、トリスタンと同い年の従姉妹である女性を娶っていた。従姉妹は分家でも最高位の家系であり、弟の次期当主としての拍付のための結婚だった。
そもそも、近親婚を重ねたウォルフォード家の血は衰え、直系の呪いに耐えられて、家格を維持するにふさわしい血筋は彼女しかいなかったようだ。もちろん、ほぼ平民と変わらない末端にまで手を伸ばせば、子を設けるだけならば問題ない女性は幾人もいるが、公爵家ともなると女主人の品格も必要とされるため、家格は絶対条件のようだった。
そして、その未亡人の何が問題とは、その従姉妹が未だウォルフォード家に残っており、仮の女主人として権威を揮っているのだそうだ。トリスタンが彼女を生かしているのは、筆頭家臣である彼女の父親の顔を立てた温情であることと、単に面倒だからという理由からだったが、どうも、自分はトリスタンに見初められていて次期公爵夫人になると勘違いしているみたいだ、とトリスタンは言った。
もう一つの配偶者候補である聖女の聖来は、近頃は天真爛漫を超えて不謹慎な態度が多く見られるようになり、それが貴族だけでなく王族にも飛び火してきており、聖女という肩書が邪魔をして罰することもできず、できれば早めに身を固めさせその夫に監視させたいという、国王の安易な回避方法の被害者に、トリスタンが選ばれたということだった。
ウォルフォードは国の守護の要。今のトリスタン以外の直系が誰もいない状況は、王家も深刻に考えているようだ。たとえその結果が、婚姻相手を、粛清のあったいわくつきの未亡人だの、瑕疵のありまくる聖女だのという、当事者が受け入れがたい人選だったとしてもだ。
その要因があって、王家からの介入で、最悪の二択になりそうだったといのが、今回のトリスタンの不機嫌の理由だ。
トリスタンは、ずっとエインセルとの結婚の根回しをしていたというのに、王家から急かされるように決断を絞られて、以前説得したと言っていたトリスタンの家臣も、エインセルよりも望ましい(家臣目線では)その二択を推しているようだ。
主の相手が得体の知れない魔女だと言われれば、自分だってそう思う、とエインセルはどこか他人事のように考える。
「俺は絶対に嫌だ。俺は貴女でないと生きていけない。それに俺は、あの女たちの顔を見るだけで、斬り殺してやりたくなる」
トリスタンは、エインセルの前では一人称を崩すようになっていた。
口調は甘えているが、言っていることは物騒なことこの上ない。元から聖来のことは辛辣に言っていたが、親戚で公爵家の奥向きを(勝手に)担っている従姉妹にまで嫌悪感を示しているのはただ事ではない。
「従姉妹……カトリーナは、権力志向が強く、幼い頃からずっと次期公爵となる俺に付きまとってきたヤツだ。血筋も教養も、あいつより公爵夫人に相応しい人間は当時いなかったから、何をするにしても、俺の婚約者かのように勝手に振舞っていてうんざりしていた。それが、父が弟を次期当主にする意向を家臣に伝えると、掌を返したように弟の婚約者に収まって、俺を冷遇するようになったんだ。だが、俺が公爵位を継ぐと、それまでの俺の扱いがなかったかのように擦り寄って来て、俺は自分の頭がおかしくなったのかとさえ思ったよ。その上今は、公爵夫人でもないのに、勝手に茶会を開いたり、財政に口出しをして高価なものを買い漁ったりで、そろそろカトリーナの家以外の家臣たちも嫌気が差している」
あまりに冷たい声に、よほどその従姉妹が嫌いなのだと分かった。
エインセルは、トリスタンの腕を解くと、少し間を空けて隣に座ってポンポンと自分の膝を叩いた。トリスタンはすぐに意図を察して、嬉しそうにいそいそとそこに仰向けに寝転がる。自分の膝に無防備に頭を預けるトリスタンを可愛いと思い、そのサラサラとした髪を丁寧に撫でると、気持ち良さそうに目を細めるのが、なんとなく猫の時のスノウに似ていた。
「あの女には、貴女の存在を知られると厄介だから、最後に知らせて追い出すつもりだが、きっと婚約後ですら絶対にあの手この手で貴女を陥れて、今の仮初の権力を守ろうとするだろう。だが、俺は絶対に指一本貴女に触れさせないよう、全ての憂いを取り去る。だから、安心して俺の元に来てほしい」
エインセルを見上げながら、トリスタンが少し機嫌を直した声で伝えた。
見事な掌返しを見せた女性なので、恐らくエインセルの存在が知られれば、何らかの排除の動きが出るだろう。エインセルとの結婚に対する家臣の動きが否定的なのも、筆頭家臣であるカトリーヌ嬢の家の顔色を窺っている一面があるのも間違いない。エインセルでは、どんなに頑張っても、初めから家臣団との軋轢が生じることが目に見えている。
トリスタンのことは愛しいと思うし、彼と普通の家庭を築きたいとも思っているが、どうしても踏み切れない想いはそこにあった。
責任ある立場の人間は、自分たちだけの想いで結婚はできない。大貴族の結婚にはそれだけ多くの人間の利害が絡み、場合によっては国が荒れることまであって、数えきれないほどの人間が被害を受ける可能性があった。
だから、多くに祝福をされずとも、反対されない状況まで行かなければ、満たされるのはエインセルとトリスタンだけという身勝手なものになってしまう。
そんなエインセルの気持ちを正確に読み取ったのか、トリスタンの表情が一瞬曇り、上半身を起こしてエインセルに近付いた。
「いっそ、あいつらを全員始末すれば、今すぐにでもあなたを迎えられるのだろうか」
本当に苛立っているらしく、家臣団や従姉妹には相当に理不尽な要求をされていることが窺えた。
トリスタンは冷酷などと言われているが、誰よりも領民のことを考える賢明な領主だ。本当だったらこんなことで煩わせたくなかったし、進んで血を見るようなことはさせたくなかった。
「駄目よ」
できるだけ平静に言って、トリスタンの引き締まった頬を撫でる。すると、その手にトリスタンは自分の手を重ねた。
「あんなやつらにまで慈悲を与えるなんてな。俺にだけ向けてほしいのに」
明後日の方向の嫉妬を滲ませながら、トリスタンに口付けられる。
本当は、ただあなたのためだ、と言えればいいのだけれど、そのまま好きにさせて、トリスタンが飽きるまで受け入れた。
やがてトリスタンが離れると、まだ熱が冷めないのか、底光りがするような目で見つめられた。『あ、これは駄目なヤツだ』とエインセルは気付き、トリスタンの顔を両手で覆うと、ジッと赤い瞳を見つめた。触れ合いで翻弄されて、うやむやにされてはいけない。
「それで? もう一つの肝心の聖女はどうなったの?」
多分、トリスタンが伏せたがっていることを暴く。自分に対する欲があるのも間違いないだろうが、トリスタンは殊に聖女については話題を避けているから、先ほど結婚候補に名前を挙げてしまって恐らく焦ってもみ消そうとしているだろうと睨んでいた。
「あの女の話はしたくない」
案の定、触れるのも嫌だという姿勢だ。
「何故そんなに聖女のことが嫌いなの?」
「あいつは、貴女を残酷な方法で陥れた。本当は八つ裂きにしてやりたいくらいだ」
それも嘘ではないと思うが、トリスタンからはどこか恐れのようなものも感じられた。
原作では魔族落ちした魔王級のイグリットすら恐れずに立ち向かう勇敢な人なのに、どうしてか聖女には近寄りたくもないという苦手意識を感じたのだ。
「ねえ。本当は、聖女との間に何かあったのでしょう? 私にもちゃんと教えて。私は彼女のことを知る権利があるし、知ることで身を守る術ができるわ。それに、あなたが私を守ってくれているように、私もあなたが抱えていることを分かち合いたいの。きっとあなたの知らないことを私は知っていると思うから、一人で悩まないで」
真摯に訴えれば、トリスタンは一度目を大きく見開いた後、正面からエインセルを抱きすくめて、その肩に顔を埋めた。
「貴女には敵わないな。どこまで俺を狂わせるつもりなんだ」
聞いている方が恥ずかしくなるようなことを言うので、エインセルは無理やりトリスタンを引き剝がして「ごまかさないで」と叱る。
トリスタンは少し不貞腐れたように顎を引いて、最後に大きなため息を吐いた。
「考えてみれば、聖女の問題は、貴女にとっては大切なことだった。隠し通すことが貴女の為だと思っていたが、思い違いだったな。すまなかった」
素直に謝るトリスタンは、ようやく話すことを決意したようだった。
エインセルは、ちゃんと話を聞きたくて、トリスタンをダイニングテーブルへと誘い、気持ちを落ち着ける薬草茶を淹れた。
トリスタンは、顎の下で薬草茶の湯気をくゆらせて、「何から話そうか」と少し考えるように首を傾けた。
ほんの少しだけ躊躇したあと、ゆっくりと口火を切った。
「俺が幼子になったのは、聖女の呪いによるものだ」
思ってもみなかった事実に、エインセルは静寂の中で、自分の息を飲む音を聞いた。
前回もゲロ甘ですが、今回もまだイチャイチャしてます。
作者の作品の中で、トップクラスの激甘ヤローです。
作者が書きづらくてしゃーないので、トリスタンは自粛してほしいですね。
次回はようやくタイトルの幼児がなんだったのか説明できる……はず。