13 悪女の願い
「……何故だ?」
出会った当初の剣呑な雰囲気を纏わせ、トリスタンが低く尋ねる。
エインセルは用意しておいた答えを口にした。
「これから後継を育てるのに、他の魔女のところから弟子を取るの。魔女の術は秘術だから、いくら領主様とは言っても見られる訳にはいかないわ」
声が震えてないことをエインセルは確認しながら、毅然として伝える。
結界を破られないために秘術だというのは本当のことで、弟子を取るというのも「この先いずれは」という段階だが嘘ではない。
「あなたが持ってきてくれる食事は美味しかったし、なんとなく楽しかったわ。今までありがとう」
何でもないことのように微笑んで礼を言うと、トリスタンの赤い瞳が険しくなる。
「冗談にしては下手くそだな。笑えない」
「冗談じゃないわ。魔女は権力とは遠い場所にいるものよ。会わないのが正しいわ」
厭世的な性格の者が多い魔女は、歴史にもあまり名が上らない。特にこの帰らずの森の魔女はその傾向が強く、魔族の侵入を防いでいる程の偉業が世の中に知られていないのは、偏に世の権力者と交わらなかったからだ。
エインセルの事情は少し違うが、権力者とは関わり合いになりたくない点では同じだった。
告げ終わると、トリスタンは立ち上がってエインセルの方へ歩んで来た。猛獣が獲物を狩るような雰囲気に、本能的にエインセルも立ち上がって後ろに下がるが、ソファにぶつかり下がれなくなる。それをトリスタンに追い詰められた。
「嫌だ」
簡潔な答えに、思わず声が詰まる。
「そんな子供みたいな。駄目よ、決めたの」
「弟子を取りたければ取ればいい。ここに近付かなければいいのだろう? だが、私が権力者だから会わないというのは掟ではないだろう。納得いかない」
拳三つ分ほどしかない距離だが、囲われている訳でもないのに逃げ出せない。
「納得も何も、そもそもあなたがここに来る理由なんてないでしょう」
「本当に分からないのか? それとも分からないふりをしているのか?」
赤い目が猛禽のような鋭さを孕んで、一歩近付くと指を伸ばしてきた。それにエインセルは思わず身を竦ませると、トリスタンは一瞬躊躇ったが、すぐにエインセルの髪をそっとひと房取った。
「貴女に疎まれるくらいなら秘めようと思った。だが、貴女が気付かずに私を遠ざけるなら遠慮はしない」
トリスタンの何か危険なものを感じる瞳はエインセルを捕えて離さず、軽く身を屈めると、指に絡めた髪に自分の唇を寄せた。
その行動の意味は言わずとも明白だが、ずっと考えてきたことを、エインセルは思わず口にしてしまった。
「あなた。私のことが好きなの?」
バカみたいに正直な言葉に、言ってしまってから後悔した。それにトリスタンは、甘いような切ないような微笑みを浮かべた。
「ああ。会えない時はおかしくなりそうなくらい、貴女が好きだ」
「嘘よ!」
咄嗟にトリスタンの言葉を否定した。
「嘘じゃない。貴女を公爵家の花嫁に迎えたくて、家臣を説得した。後は貴女に想いを告げるだけだった」
言われた言葉を理解するのに少し時間が掛かった。一夜の恋ならまだしも、エインセルをトリスタンの伴侶にしたいというのだ。
それは決して許されないことだ。
「何を言っているの? あなたと私とでは身分が違い過ぎる!」
「大丈夫だ。貴女は、気高いこの結界の守護者、帰らずの森の魔女だ。どのような血筋よりもずっと尊い」
魔女の功績だけ言えば、確かにそうかもしれない。だが、エインセルは否定を続ける。
「跡継ぎはどうするの。あなたの血は、血族か魔力の相性が合わなければ、跡継ぎは生まれないんでしょ」
「私の家の呪いをよくご存じだ。だが、貴女とは問題ないはずだ」
魔女との魔力の相性など調べるべくもない。トリスタンは知り得ないはずなのに不可解なことを言った。
だが、それが正しいことをエインセルは知っている。
その先紡がれるトリスタンの言葉が怖い。また下がろうとして、再びソファが踵に当たって進めなかった。
「イグリット・ギルモア。私はずっと貴女を捜していた」
目の前が暗くなった。その名を呼ばれることは一生ないようにと願っていたのに。
「な、何を言っているの? 私があの〝悪女のイグリット〟? 冗談じゃないわ」
自ら告げて〝悪女〟という言葉がチクりと胸を刺すが、正体がバレるよりいい。
そんなエインセルを切なげに見て、トリスタンは首を振る。
「〝悪女〟などと言わなくていい。いや、私が言わせたのか。すまなかった。それでも、あなたはイグリットだ」
一瞬、トリスタンの言葉にグラついた。初めて自分を悪女ではないと言ってくれたのが、皮肉にもゲームでは自分を殺すはずだったトリスタンだったとは。
それでもエインセルは、平静を装い否定する。
「あはは。あなたも随分想像力が豊かね。幻想もそこまでいくと面白いわ」
渇いた笑いになってしまったが、面白い冗談だと封殺しようとした。だが、トリスタンは少し意地の悪い笑みを浮かべるように、口の端を上げた。
「貴女の『冒険者になる』という夢には及ばないが」
「あ、あれは……、っ!!」
結構本気だった、と言おうとして、慌ててその言葉を飲み込んだ。
それは、イグリットがトリスタンと交わした会話だったから、反応してはいけなかった。
気付いた時にはもう手遅れだった。発した言葉は戻らない。
とにかくその場から逃げようと横に転ぶように身を捩るが、すぐにトリスタンに腕を掴まれてしまう。そしてそのまま、流れるように右手の中指から姿を変えている魔道具の指輪を抜き去られてしまった。
自分の視界に金色の波打つ髪が零れてきた。
「やはり貴女だった。イグリット」
僅かに赤い瞳が細められたが、元の姿に戻ったイグリットにとってそれは凶兆のように思えた。
「は、放して。いや」
体重をかけて腕を引くが、トリスタンはビクともせずに腕を拘束したままだ。イグリットは全身から血の気が引くのを感じ、いつの間にか震えていた。この森で殺されかけた時に捕まれた腕の感触を思い出したのだ。
「私は何も望まないわ。だから、殺さないで」
イグリットは、自分自身では何も選べなかった。
公爵令嬢であったり、継子であったり、王太子の婚約者であったり、ただ、他人が押し付けてきた役目をこなしてきただけだ。悪女と呼ばれるようになったのも、敵視して攻撃してきた相手だけに仕返しをしただけで、自分から相手を陥れたことはない。
いつだって勝手に周りが決めた道を歩かされただけで、何故蔑まれ、疎まれ、命を狙われなければならないのか。
逃げるために魔法を放とうとした瞬間、グイッと引き寄せられた。両の二の腕を掴まれるが、決して痛みを感じるような強さではなかった。
そして、トリスタンが身を屈めて、イグリットの青い目と視線を合わせた。
「落ち着け。私は貴女を殺すつもりなどない。言っただろう。貴女は私を救った恩人で、貴女は無実だと思っていると。それに、貴女を妻に望んでいる。ただ、貴女の無事を確認したかっただけだったが、暴くような真似をしてすまなかった」
口先だけなら何とでも言えると思ったが、トリスタンの赤い瞳を見ていると、彼が偽りを言っていないことが何となく分かった。
イグリットがいくら強力な魔女だと言っても、魔族に魂を売らない限り、戦いの専門家で最強の騎士でもあるトリスタンには敵うべくもない。彼は〝イグリット〟を排除するだけならば、こうして言葉を尽くす必要はないのだ。
そうだと頭では分かっていても、イグリットは震えが止まらなかった。
「あの時、みんな私を殺せと言ったわ。誰も私の言葉なんて聞いてくれなかった。『お前は悪女だから当然の報いだ』って。私だって、なりたくて悪女になったんじゃない!」
断罪劇のあの場にトリスタンはいなかったが、彼を責めるように言った。それをトリスタンは、詰られるままに黙って聞いていた。
その赤い瞳は静かで、ただイグリットのすること全てを受け入れるかのようだった。
「あなたは、何故あの時いなかったの? 何故助けてくれなかったの?」
トリスタンは断罪劇の王都から遥か離れたこの北の地にいたし、彼には極秘裏にイグリットの処刑は行われた。仕方がなかったことだし八つ当たりだと分かってはいるが、何かに当たらずにはいられなかった。
目の前にある広いトリスタンの胸を、拳で力任せに何度も叩いた。トリスタンは小さく「すまない」と言う。
その低い声に感情が揺さぶられ、イグリットは溢れる涙を止めることができなかった。
「怖いの。私が生きていることが分かったら、またみんなが私の死を望むんじゃないかって。もうあんな思いはイヤ」
涙で歪むままに、トリスタンを見上げた。トリスタンは僅かに目を大きくしたが、何も言わずにイグリットの頬を両手で包んで、流れる涙を拭った。
「あなただったら、あの時私を助けてくれた?」
幼い子のように訊ねると、後悔を滲ませるように眉根をひそめた。
「ああ。私は、あの時あの場所に居なかったことを、死ぬほど後悔した。今となっては信じてもらうしかないが、あの場の全員を殺してでも断罪などさせなかった」
囁くような声は、冷酷公爵らしい不穏な言葉を紡いでいるのに、平坦でありながらどこか甘さすらあった。
トリスタンの赤い瞳を人は血のような不吉の色と言うが、イグリットには美しい宝石のように見えた。
フッと力が抜けるような感覚がして、そっとトリスタンの胸に額を付けた。トリスタンはイグリットの背に腕を回し、壊れ物を扱うように優しく抱いた。
イグリットが怯えないよういつでも逃げられる力で。だが、守るようにしっかりとイグリットを包んで。
この温もりを手放せなくなりそうだ。
「あなたを信じてもいいの?」
これは自分の願望が見せる幻ではないかと、イグリットは怖くなった。
そんなイグリットを一度離し、トリスタンはどこか熱を持った瞳で見つめた。
「どうすれば私は信じてもらえるのだろうか?」
そう少し困ったようにも聞こえる声で言うと、トリスタンはイグリットの右手を取って自分の心臓の上に当てた。
それは、北部で魔力を持つ相手に、偽りのない心をだと誓う儀式のようなものだ。少し魔力を込めれば、簡単に命を奪える場所に触れることを許すという行為で、嘘偽りの無いことを示すのだという。
冷酷で名を轟かせる北部公爵が、こんな風に相手に何かを委ねる姿を見せるなど、想像もつかないことだ。
その姿にイグリットは溢れた想いを口にした。
「私を助けて」
この先イグリットを待ち構えるものが何かを知らせないのは卑怯かと思ったが、皆まで言わせずにトリスタンは誓った。
「私の名に誓って、必ず貴女を守る。たとえ神が敵だとしても」
本当にこの世界が、乙女ゲームの世界であるならば、神に等しい何かが存在するのだろう。
トリスタンはそれと戦うことになったとしても、イグリットの味方であると言った。
ああ、この人とずっと一緒にいたい。
もうこれ以上、自分の心を偽ることはできなかった。
イグリットは、少し背伸びをしてトリスタンの首に腕を投げかけると、トリスタンの頭を少し引き寄せて、唇を重ねた。トリスタンは驚いたのか一度静止したが、ゆっくりとそれに応えながら、イグリットを子供にするように縦抱きにした。
唇が離れて自分を見上げるトリスタンに額を付けながら、イグリットは囁くように言う。
「もう一つ、悪女の我儘を聞いて」
「なんなりと」
おどけて言うトリスタンをイグリットはジッと見つめた。
「今日は、帰らないで」
視線を合わせていたトリスタンの赤い瞳が一度見開かれたが、やがて柔らかく閉じられ、次に開いた時は、確かな熱を持って優しく見つめ返された。
「仰せのままに。森に住む悪女殿」
トリスタンが自分を呼ぶ〝悪女〟は、何故か心地よかった。
頑張ってロマファンで勉強しました。
作者の芸風からすると、ゲロ甘すぎて、胸やけしました。
「よくやった!」と褒めていただけるのなら、リアクションをポチッとしていただけると嬉しいです。
笑いのリアクションじゃなくてね。←フリじゃないですよ。