1 プロローグ
始めましての方も、いつもありがとうございますの方も、新作です。
よろしくお願いいたします。
本日は連投しますので、読み漏れの無いようにお気をつけください。
エインセルは、住んでいる森の入口の方からおかしな気配がするのに気付いた。
早朝の冷気に、外套を手にして小屋を出て、辺りを見回す。念入りに張っておいた人避けの魔術は、ちゃんと残っていて、綻びもないことを確かめて、ようやく安心する。
編んで一纏めにした豊かな黒髪を背中に払って、外套を着こむと、見回りのために人避けの魔術の外側に出た。万が一にもこの住処を奪われないために、危険があればそれを取り除かなければならない。
身を隠しているエインセルだが、全てを自給自足できる訳もなく、街へ必要な物資を買いに行く必要があった。そのため、足跡を辿られないように途中の道のりにも似た仕掛けをしているが、そこは住処の周り程強い魔術を敷いている訳ではなく、たまに森の恵みを略取しようとする輩が迷い込むことがある。
先ほどのおかしな気配は、その道に誰かが入り込んだような気配だった。
この森は、〝帰らずの森〟と呼ばれていて、恐ろしい怪物や人食いの魔女がいると言い伝えられ、地元の人間は恐れて浅い場所までしか入らない。この地方では、大の大人であろうとその伝説を信じているが、他領の不埒な輩は豊かな資源をかすめ取ろうと密猟が後を絶たなかった。
実際にこの森は、良質な魔素に満ちていて、希少な薬草や木材、鉱石などの自然素材が採れるのと、魔獣と呼ばれる高価な素材の塊のような生き物が横行している。
だが、この森の真価は、希少な素材の宝庫ということではなく、魔族という人間の地を奪おうとする種族との境界線で、その豊富で良質な魔素を用いて、その境界線を魔族が越えて来ないよう、大規模な魔術を敷いていることにある。
森の資源を荒らすということは、その魔術の力を壊す可能性があるということであり、そんな人間が野心を持って訪れてもこの森が守られてきたのは、偏に人を惑わす魔術を維持する、エインセルのような魔女の存在があったからこそだ。
魔女たちは小さな血族の集団だったが、時に行き場を亡くした女性を受け入れ、魔力の高い女性には秘伝の魔術を伝えていた。国にも知られることなく、ひっそりと力を仲間に引き継いで、いろいろな場所で悪いものから人間を守ってきたような一族だ。
エインセルは、この森に来て三年だが、先代魔女も認める魔術の素質があって、普通は十年かけて身に付ける、帰らずの森を守る魔術をたった一年で身に付けた。エインセルは、自分が世の中の難解な魔術でもすぐに身に付くことを知っていた。
何故ならこの世界は、前世でプレーした乙女ゲームの世界であり、『エインセル』と名乗る前のこの世界での名前と身分は、そのゲームのラスボスで、ヒロインとヒーローを追い詰めて、最後にはデッドエンドを迎える「希代の悪女、イグリット・ギルモア」という悪役令嬢だったからだ。
前世の知識から、ラスボスになってデッドエンドになる未来を回避するために、様々な対策を取ったはずなのに、結局はラスボスになるきっかけとなったこの森に捨てられることになったのは、ゲームの強制力かと思ったが、現在は案外平和に暮らしている。
だから、自分の生活を脅かす不安材料は、芽どころか根こそぎ排除するに限る。
そうして、魔女エインセルは、自分の縄張りを守るべく、結界の魔術を震わす「何か」の正体を確かめに行った。
結界からかなり入り込んだ、一番近くの集落まで続く道の途中に、その原因がいた。
いや、いたというか、転がっていたと言うべきか。
それは、遠くから見ると、何やら服に埋もれた黒い塊のようだった。
近付くと、大きな服の中に蹲って気を失っている、黒髪の三歳くらいの幼児だった。
付近に大人がいた形跡はなく、捨て子だと思われた。ただ、質素だが仕立ての良い服に包まれているのは、キナ臭い状況しか思い浮かばない。寒さに凍えないようありったけの服で包んだようだが、その服の質からも貴族の子供の可能性が高かったから、どこぞの後継争いに敗れて捨てられたように見えた。
『ついてないわ』
心の中で呟いてから、エインセルはその子供の様子を見るために近づいた。
いくら世捨て人のように暮らすことを決めたからと言って、こんな森の中でこんな小さな子を捨て置けば、結界があるといっても獣は出るし、何よりもまだ晩秋だというのに体の芯まで凍えるような寒さの中、幼児などすぐに体温を奪われて死んでしまうだろうことが分かっているのに、放っておくことなどできなかった。
そっと近付くと、幼児は恐ろしいほど整った顔立ちをしていて、髪色と同じく濃いまつ毛に縁どられた目は固く閉ざされていた。手袋を外して、赤い頬なのに触れてみれば驚くほど冷たく、相当な時間を放置されていたと思われた。
そう思って、ふと違和感に気付く。
森がざわついたのはつい先ほどだ。それからすぐにエインセルはこの場所に向かった。
だから、親なり他の大人なりの気配がこれほどないということは、この子供がこの寒さの中、早朝の森をこの服を引きずって歩いてきてここで力尽きたということだ。
顎に手を当てて「うーん」と考え込むが、取りあえずは子供をこのまま放置する訳にはいかないと、意識が戻るか試してみることにした。
軽く頬を撫でたり、肩をゆすってみたりすると、その幼児はゆっくりと目を開けた。
「……まいったわ」
思わず呟いてしまったが、それは完全に厄介ごとの匂いしかしなかったからだ。
幼児の瞳は、前世でピジョンブラッドと呼ばれる、美しい最高級ルビーのような紅い目をしていた。
黒髪に赤目は、この地方の大領主の家系にだけ現れる色であり、その領主は、本来のゲームのストーリーでは、エインセル――元の身分の公爵令嬢イグリットの夫であり、最後にラスボスとなったイグリットをヒロインと共に殺す、トリスタン・ウォルフォードの血族であることが確定していたからだ。
また乙女ゲームです。
でも、今度はちゃんとした乙女ゲームです。
あまり長くならないよう頑張りますが、気長にお付き合いください。