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徳富芳恵は、その寂れた一軒家の軒先に
車を止めると、いそいそと入っていく
和人君より
「怖いお化けが出たんだヨォ」
と電話が入ったのは、この10分ばかり前の事である
芳恵の心中には期待と不安とが、ぶんぶん飛び回っていた
”期待”とは、これまで昔気質の和人君が
「お家に行くのは結婚が決まってからだぁ」
と言うので、専ら田根盛町南西部のラブホテル”聚楽第”にて
逢瀬を重ねてきたのであるが
今日、始めて和人君のお家に行けるということである
”不安”とは、そのお化けの事で
近頃は、この田根盛町にて
突如、マンホールの蓋が持ち上がり、中から
かぼちゃの煮っころがしを投げつけてくるという
”かぼちゃの煮っころがしおじさん”や
道路わきの茂みより現れ
「ワシをおぶってくれ!」
「おぶってくれええええ!」
と叫びながら、すんごい速さで走ってくる
”Strumこなきジジイ”
といった不審者が出没しているとのニュースを
度々目にするだけに
中々に怖気を走らせるものがあった
芳恵はぬか漬けの壺を投げつけて不審者を撃退したという内容の
何年か前のニュースを思い出すと自宅からぬか漬けの壺を
持ち出して此れを不審者への備えと決め
和人君のお家に向かったのであった
お家の中で和人君は泣いていた
目を潤ませ、しゃくり上げ、しゃくり上げ、泣いていた
「ママッ、ママァーーーーーー」
和人君にとって”母”とは、どんな事をしても
受け入れてくれる暖かく柔らかい存在であった
どんな失敗をしても、逆に仕事も何もしなくても
包み込んでくれて優しい言葉を掛けてくれる存在であった
和人君は常に”母”に飢えてきた
”母”を求めてきた
付言しておくと和人君の母親に何か不幸があったわけではない
彼女は全く健在であるし和人君との間に
何か因縁があるわけではない
ただ、アニメか何かによって形成された
和人君の母親像に”本物の母”が合致しなかった
というだけの事である
その当然の帰結として和人君は恋人に
”母”を求めてきた
いや、母親候補を恋人にしてきた
というのが正確な所だろう
今、和人君は常にもまして”母”を求めていた
なんといっても海岸にて恐ろしいお化けに遭遇し
命からがら逃げ帰ってきたばかりである
それゆえ、芳恵がお家に入ってくると
その両の腕の中に飛び込んで
「びぃーーーーん」と泣きじゃくり始めたのは
ごく自然な成り行きと言うものである
とは言え、和人君にとり
この状況は、いささか不本意ではあった
というのも芳恵はあくまで”予備”
であったのだ
和人君は母親候補を二棚方{TwoBinMethod}で管理してきた
この方法は在庫管理の基本であって
ある物品を二つ用意し、一つを費消したら
一つを補充するというやり方である
管理コストを最小化できる実にうまいやり方である
しかしながら、母親候補という物品は一つとして同じ物がなく
出来不出来に差があるのだから、いきおい
優先順位を付けざるを得ない
それは二つの基準、すなわち
優しさと美しさによってである
この二つを兼ね備えていなければ”母”ではないのである
しかしながら、これまでに和人君が出会えた”母”
は一人だけであった
美代ちゃんである
美代ちゃんこそ本物の”母”であったのだ
芳恵はあくまで予備である
もしもの時の備えである
その、”もしもの時”が来たのである
美代ちゃんは、あの化け物にぶち殺されたに違いない
和人君は”母”を失ったのだ
途方もない喪失感が和人君の心中に溢れかえっていた
その悲しみを”母”に慰めてもらいたかった
その柔らかな胸中に顔面を埋め
只ひたすらに泣きじゃくりたかった
しかし、その”母”はもういない
いるのは芳恵である、この雑巾のしぐれ煮のような風体の代用お母さんである
ぷるぷる震えながら
「お化けがぁお化けがぁ」と繰り返す
和人君を抱きしめて、性格だけは”母”の基準を満たす
芳恵は「怖かったねえ、怖かったねえ」と慰めるのであった
その時である
カタンッと再び玄関の扉が開いた
そして、何かが入ってくる
濁水を滴らせ緑の物が巻きついた、その姿
!美代ちゃんである!