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和人君は天にも昇る心待ちであった
なんといっても美代ちゃんが生きていたのである
ほんの数舜前まで
「暫くは芳恵で我慢するより外はない」
と悲壮な覚悟を固めていたことが
遠い昔の事であるように感ぜられた
「バコッ!」
「おかあさあああああああん!」
和人君は芳恵を突き飛ばすと
一心に美代ちゃんを求めた
大きく両手を広げ、その胸に飛び込んでいった
そこに突き出されたものがあった
鉄拳であった
見事に体重の乗った
美代ちゃんの正拳突きであった
「バキッ、ドカッ、ガッシャーン!」
それは和人君の腹にめり込むと
その肉体を真向かいに吹っ飛ばし
箪笥の中央にめり込ませた
数舜後、崩れかけのその家具が
和人君の肉体を吐き出すと
それは畳の上に頽れた
和人君は動けなかった
激烈な衝撃{それは物理的なものと精神的なものがあった}
によってである
かろうじて顔を上げると薄明りの中に何かが浮いている
それだけが激烈な存在感を放っている
顔である、美代ちゃんの顔である
ものすんごい顔であった
人類の誕生以来、幾万年の歴史の中で
非業の死を遂げて来た無数の者たちの怒りと憎しみ
その面相を以って金型とし
その後ろから生命の誕生以来
幾億年の歴史の中で、苦しみのうちに生を終えた
無数の命によって積み上げられ折り重ねられ
練り上げられてきた、激情と怨念からなるゲル状物体
を熱した大槌によって打ち付け打ち付け
打ち出したかのような形相であった
それはメドゥーサも柔和に見えるほどの物凄きものであって
もはや和人君は「あっあっ」と言いながら後ずさる事しかできなかった
この時、和人君の脳中では
二つの事が渦巻いていた
一つは叫びであった、心の深奥からの
声にならない叫びであった
「ママはそんなことしないっ!ママはそんなことしないもんっ!
ママは優しいんだ、何時だって、どんな時だってボクを
許してくれるんだ、味方になってくれるんだ
笑いかけてくれるんだ、受け入れてくれんだっ!」
もう一つは計算であった、冷静な算術であった
これは芳恵のせいに違いない
芳恵が僕に抱き付くのを見られたからに違いない
他人の心情にはとことん疎い
和人君であっても、母親候補Aの前で
母親候補Bといちゃつく事は拙いとの認識はあった
そこで悪い化学反応を起こさぬよう
この二つを分離して管理してきたのであるが
この時ばかりは、そうもいかなかった
一つには海岸にて遭遇したお化けの残影であって
その恐ろしさから逃れるためには
”母”を求めるより他は無かったのである
二つには美代ちゃんは既に死んだとの予断であって
それが生きてこの場に現れようとは
思いもよらなかったのである
三つにはその死から来る喪失感であって
此れを埋めるには”母”に抱き付く
より他は無かったのである
つまりは仕方のない事であったのだ
でも、”母”なら、本当の”母”なら
このぐらい笑って許してくれるに違いない
こう思うと美代ちゃんへの強烈な不満が湧きあがってきた
しかし、和人君はどうにかその気持ちを
押さえつけた、そうするより他はなかった
如何に事大主義と誇大妄想とによって練りあげられた
石筍状物質であるところの和人君であっても
ここで美代ちゃんを失えば同等以上の
”母”を入手できる見込みが皆無であることは
わかりきっていた
であれば、芳恵を切り捨て(パージ)する
事が最良の選択であることは
言うまでもないことである
緊急時の代用品のために本体を失う、というのは
実に馬鹿げたことに違いない
かくして、和人君は何やら喚き始めた
「この女が押しかけて来たんだよぉ
これは僕のストーカーなんだ、これは僕と両想いだって
思い込んでいるんだ、僕がこんな雑巾のしぐれ煮のような女になど
興味が無い事がわからないんだ、いや
この女は自身の外見が麗しいものだと信じていやがるんだ
自己認識の出来ない可哀想な女なんだ
僕と付き合えると思っているんだよぉ」
美代ちゃんは思った
「私はこんな男と付き合っていたのか
こんなガラクタ同然の男と青春の一景を経て来たのか」
この時には美代ちゃんは激烈なる怒りと共に
如何に人殺したる自身であっても
この男よりかは随分とマシな存在であるとの認識に至っていた
何故、美代ちゃんが和人君如きと付き合っている{いた}
のかと言えば、その起源は4年前の今日に遡る
この日、女子ボクシング県大会の準決勝にて
美代ちゃんのアッパーカットが相手選手の頸椎をへし折ったのである
それは、この競技では稀によくある事であって
特に問題になる事もなかった
しかし、美代ちゃんは逃げるように、この競技を引退し
SNSの類も一切辞め、人付き合いもほとんど断ち切って
自宅に半ば引きこもるようになったのである
つまりは美代ちゃんは自身を随分と低く見積もってきたのだ
しかし、海岸にて、あの化け物と遭遇した時
美代ちゃんは久々に人{註:人ではない}を殴る事となった
その時は必死であった、只、我も忘れて、あの化け物と争ったのだ
彼女自身は自覚していなかったが、ポリバケツをその人{註:人ではない}
に叩きつけた時、えも言われぬ快感が彼女を支配していたのだ
だいたい、人を殴りつけることほど面白いことはない
これは原初の悦びとでも言うものである
無論、美代ちゃんが和人君をぶちのめした理由は
それだけではない、と言うより、”理由”の中で
”人を殴る悦び”は全体の7.61パーセントを占めるにすぎなかった
美代ちゃんは怒っていた、心の底から怒っていた
第一に美代ちゃんは捨てられたのだ
何より捨てられたくない場面で捨てられたのだ
第二にはそれは、もう一人の女であった
その部屋の隅で突き飛ばされた恰好のまま
口を金魚のようにパクパクしている女である
無論、美代ちゃんはその女に怒りなどあるはずもなかった
彼女もまた日和見和人に都合よく利用され
今、切り捨てられたに違いない
そう思うと美代ちゃんは火にかけられたようになってきた
その心は暴風雨に吹き散らされるトタン屋根のバラツクのそれであった
美代ちゃんは両の手で以って和人君を持ち上げると
その剛力を以ってその体の半ばまでを畳にめり込ませた
そして彼女は何処かへ去っていったのだ




