母の思い
切り立った氷の山の間を縫うように進むと、その先に雲まで届く大きな黒い山が見えた。
その山に沿うように上昇し、霧か雲か区別がつかない白いもやのなかに突入する。
トオカとコトミを乗せた竜は何度も羽ばたきながらゆっくりとのぼっていき、もう一匹の竜は羽を少したたみ急上昇していった。
視界は真っ白だが眼前の黒い山肌だけは見える。
そして白いもやを抜けたところで、パーンっと青空が広がった。
緑の大地には円形に木造の家屋が配置され、その円を囲うように更に住居がならび、幾重もの円が続いていた。
竜態でいるものはなく、みな人の姿をしている。
山の下は凍っているのに、この村に冬はなかった。
(私の心はこんなに乱れているのに、ここの風景はなんて穏やかなんだろう)
戻りたくなかった場所なのに、もうすぐマータに会えると思うと素直にうれしかった。
コトミは審判所へ連れて行かれた。
そこには審判所長と村おさのバンリ、そしてトオカとマータがいた。
抱きつきたい気持ちを抑えてコトミはずっとマータを見ていた。
「一応、人の目もあるから審判所へ連れてきたが、トオカの判断にまかせる。
好きにするが良い」
興味がなさそうにそう言うとバンリは出て行った。
「マータ、封じの輪を」
審判所長に言われ、マータはコトミの手足に封じの輪をはめた。
封じの輪をはめられると竜の力が使えなくなり、解放されるまではずされることはない。
「マータ……」
涙ぐむコトミのつぶやきにマータは反応しなかった。
「体裁上、立ち会いをしたが、バンリ様が言ったようにトオカの好きにすればよい。
私も失礼するよ」
そう言って審判所長も出て行った。
「トオカ様、お願いがあります。
私はイプピアーラの群れとの戦闘でケガをしております。
傷が癒えるまでマータと一緒にいさせてもらえませんか?」
コトミは哀願した。
マータは下を向いたまま何も言わなかった。
「ほお、そのことがあっておまえは鳴いたのか。
鳴けば見つかるとわかっていただろうに。
イプピアーラの群れか……波動をだすものもいたのか?」
「はい、そのものと戦って負傷しました」
「倒したのか?」
「はい」
「フッ……子供だと思っていたが、随分と成長したものだ。
ケガがどれほどなのか知っておきたいから、明日医者に診せなさい。
それによってマータに預けるか判断をする。
今夜はマータと一緒に過ごすがよい」
「ありがとうございます」
審判所から出て行こうとしたトオカは立ち止まり、頭を下げているマータに言った。
「マータ、話がある。少し外に出なさい」
トオカとマータが出て行った審判所でコトミは床に座り込んだ。
(とうとう、戻ってきてしまった)
コトミは、手足にはめられた封じの輪を触った。
(こんなの……どうやってはずせばいいの)
外に出たトオカは青く澄み渡った空を眺めながら話を始めた。
「マータ、わかっていると思うが……。
前のようなことをすれば、周りが許しても私はおまえを殺す。
その体を八つ裂きにして、川に捨ててやる。
バカなまねはしないことだ」
マータは返す言葉がなかった。
「おまえのところならば、コトミの心も落ち着くだろう。
私はコトミを嫁にむかえるつもりだ」
考えられない話にマータは驚いた。
「そ、それならばバンリ様のように最初から正妻に?」
「コトミは逃げたのだぞ。
鎖に繋いでおくに決まっている。
女児を産んでも解放はしてやらないという意味だ」
マータは青ざめた。
トオカが想像以上にコトミを恨んでいることが今わかった。
「コトミは、順番では違う者へあてがわれるはずだった。
それを私が父上に頼んで譲り受けさせてもらった。
それなのに、逃げるとは」
「では、トオカ様はコトミを好いていらっしゃったのですか?」
「さあ、逃げる前は確かに想っていた。
今は想っているのか執着なのか自分でもよくわからぬ。
だが二度と逃がさない。
女児を産んで解放されたあとに別の者と一緒になるなど許すわけがない。
一生飼い殺しにしてやる」
マータはゾッとした。
そしてこんな者のためにコトミを、自分の子供を苦しめるわけにはいかないと強く思った。
その夜、コトミはマータと一緒の布団に入った。
村から逃げたあと、今日までどんなことがあったのかマータは聞いてこなかった。
「ねえマータ、村をでるとき私、幸せを見つけてくるって言ったでしょ?」
「うん、言ったわね」
「幸せになれる人と出会えたの。
でもね、ここに来ちゃった」
その話を聞いたマータは目を見開いた。
「この村で、生きているのに自分の心が死んでしまうなら、私はあの人の胸の中で消えてなくなりたい」
「何をバカなことを言ってるの。
ここでの生活を重ねていけば、耐えていけるようになるわ。
その人のことは忘れなさい」
そうは言ったものの、これからコトミに待っているのは、心を失っていく生活であることがわかっていただけに、マータはやるせなかった。
自尊心や羞恥心など全てが消え、人形として生きることを受け入れなければ、気がふれてしまうのは明白だった。
自分もそのせいで、解放されても異性を愛するなどおぞましくてできなくなっていた。
「耐えていけるって……それが嫌なの。
いろいろなこと、たくさん我慢してきたよ。
この気持ちだけは我慢したくない」
マータはコトミを抱きしめた。
そのなつかしい匂いにコトミはうれしくなった。
「マータの匂いがする。わたしの……お母さん」
マータの瞳から涙が流れた。
「そうよ、あなたは私の娘。
お願いよコトミ。もう逃げられないわ。
我慢してここにいてちょうだい」
そう言いながらも逃がしてやりたり気持ちがどんどん強くなっていた。
「お母さん、ここで苦しむのは……いやだな……」
そう言いながらコトミはすーっと眠りに落ちた。
恐怖や不安を抱えていても、マータが一緒にいるおかげでぐっすりと深い眠りにつけた。
コトミの寝顔を見ていたマータは、封印していた記憶を開いた。
鎖に繋がれ毎夜泣きながら乳母の名前を呼んだあの日々を。
マータは意を決してそっと寝床を出ると、乳母長のラカの家へ向かった。
ラカは高齢のため乳母の仕事はしておらず、乳母たちの相談役になっていた。
マータはラカの家のドアをたたいた。
「ラカ様、もうお休みですか」
そう声をかけると、なかで動く人の気配がする。
「その声は……マータか? 少しまちなさい」
ゆっくりと鍵をあける音がして、ドアが開いた。
「夜分にすみません」
ラカは辺りを見回してからドアを閉めた。
「こんな時間にたずねてくるとは……相談ごとだね。
連れ戻されたコトミのことか?」
「はい、ラカ様はなんでもお見通しですね」
マータが悲しげに笑った。
「それだけに……話の内容も察しがついてしまう」
ラカはそう言ってため息をついた。
ラカはポットからお茶を注いでマータの前に置いた。
それを飲みながらマータは話し始めた。
「薬をいただきにきました」
ラカは一瞬、お茶をすする手を止めた。
「やはりそういうことか。
とめることはしないが……。
まあ使わずにすむことを祈るしかない」
そう言ってラカは再びお茶をすすった。
「トオカ様は、コトミに執着しておいでです」
「なんと……。それはやっかいだね。
であれば見張りも厳しくなっているはずだが、ここへ来るのは大丈夫だったかい?」
「はい、とくに人をつけられることはありませんでした。
今日、トオカ様にたいそう脅されました。
脅したからおとなしくしているだろうと、高をくくっているはずです。
でも明日から本格的に見張りが厳しくなるかと。
それにコトミは今日来たばかり。
まさかその日に動き出すとは思っていないでしょう」
「連れてこられた今日がことを起こすタイミング……か。
それにしても、よくコトミの望みを叶えてやる気になったね」
「あの子の希望は聞きましたが、叶えるとはまだ言っておりません。
ただできることは全てしてあげたい……私も命をかけます」
「なっ!なぜおまえまで」
「トオカさまが、以前のようなことをすれば私を八つ裂きにするとおっしゃいました」
「ああ……前にコトミを逃がしたことか」
「今夜私はコトミを逃がすために戦います。
あの子が逃げ切れれば薬を使わずとも、好きな人と添い遂げて幸せになれるでしょう。
そうさせてあげたい」
ラカは小さくため息をついた。
「いつも思うけれど、竜族の女は逝くことに戸惑いをみせない。
よく言えば潔いが……。
やはりこの村の、子をもうける仕組みが悪いのだろう」
ラカは立ち上がると、棚の中に並ぶ陶器の壺のなかから、赤い壺を持ってきた。
「まさか……それが?」
驚くマータの表情を見たラカは少し笑った。
「みんな同じような表情をするね。
そんなところに……って。
隠していないほうが、見つかりにくいもんだよ」
そう言ってその壺のなかから、油紙に包まれた小さな包みを1つ取り出した。
「この紙に包んだままウロコの下に隠すように言いなさい。
直接隠すと毒が回ってしまうからね」
「ありがとうございます。
あなたが乳母長で良かった。
すくわれた者がどれほどいたか……」
マータの目はうるんでいた。
「この際だから話してあげよう。その薬を誰が調達しているか」
「いえ、めっそうもない。それに興味もありませんし」
「そうか……。じゃあ独り言だ」
そう言ってラカは話だした。
昔、ラカは首の後ろにおおきなアザのある男児を産んだ
偶然その子を見つけ、掟に反して母であることを告げてしまった。
それからは隠れて2人で会っていた。
その子はいつも不憫な母と自分のおいたちを嘆いていた。
成長した息子は過去に類を見ないほど、強く大きな竜となり村でかなうものはいなかった。
そしてその力で村おさとなり、女の竜のかかえこみはせずに最初から正妻をめとった。
ラカの息子はバンリだった。
最初から正妻を取ることに異論を唱えた者もいたが、ここで争いが起これば村が焦土になると思いとどまった。
竜族は普通に子をもうけていては、女児が不足し滅びてしまう。
この村の、子をもうける仕組みは、過去の危機感から生まれたものだ。
バンリがこの不平等な村のしくみを変えたくても、なかなか代替えの策は見つからなかった。
苦しむ竜族の女のために薬を調達しているのはバンリだった。
命を絶つことは望まないが、それ以上の苦しみを課すのもつらいと。
薬を望む者には自分の命を自由にできる選択肢を与えてやりたい、その思いで密かにラカに薬を渡していた。
バンリは、息子のトオカにもその意思を継がせたいが、トオカは正妻との子で、村の子として育てられた経験がないせいか、バンリの気持ちを理解できないでいた。
「村の仕組みを必ず変えるとバンリは約束してくれた。
いずれこの村も、女にとって住みやすくなるはずだよ」
口に手をあて、息を吸い込んだまま吐き出すことを忘れてしまうほどマータは驚いた。
返す言葉がみつからず、ただラカを見つめた。
「さあ夜も更けた、帰りなさい」
マータはもらったつつみを握りしめ深々と頭をさげると部屋を出て行った。
「また1つ……減ってしまったね」
赤い壺をみながらラカはつぶやいた。