タクシー
『タクシー』
千葉彰雄
やけに暑い。闇夜に雪が乱舞しているというのに、タクシーの中はまるで蒸し風呂のようだった。
平時ならおそらく適温なのだろう。しかし、今日は違う……。あれを実行することを考えているうちに咽は張りついてカラカラに渇き、不快な汗が脇の下を滑り落ちていく。体感の温度が割増で感じられるのも無理はなかった。
「お客さん、大丈夫ですか。顔色がわるいようですが……」
車窓に目を遣る。ちらほらと人出のあった街中の場景は、次第に点在する閑静な高級住宅街へと変わっていく。
「ええ……」
一昨日、会社から業績悪化による解雇を言い渡された。感染症が猛威を振るい、景気が急速に悪化していくこの世情ではいたしかたないという見方もあるだろう。
だが、私には足の悪い年老いた母親と認知症の父親がいる。そして何より生活を逼迫させているのが、別れた妻と子供への仕送りとサラ金への返済だった。この年で貯金はゼロ。二ヶ月後には家賃の支払いと生活費だけで資金は底をつく。
寄る辺のない生活は人間から生きる気力を奪うのに十分すぎる。来月からの仕事はない。いくら業績悪化が理由だとしても、こんなに簡単にクビにはできないと思い込んでいた。そんな自分がどこまでも愚かだった。
「運転手さん、ちょっとエアコン下げてくれ」
「あっ、はい。すいません、少し暑かったですよね」
ルームミラーにぶら下がる芳香剤と饐えた臭いがブレンドされた車内―極度の緊張からか吐き気さえ覚える。
ラジオから流れてくる相変わらずのニュースは、日に日に増えていく感染者と失業者の話ばかり……。苦しいのは自分だけじゃないことはわかっている。わかってはいるが、世界中の金融緩和と財政政策のカネ余りによる富裕層の膨張はさらなる格差をもたらすだろう。この不条理な世の中についていける気がしない。
「お客さん、明日も最低気温がマイナスになるそうですよ」
マスクと感染対策のビニールに阻まれて声がくぐもる。
「……」
「この地域もまた感染者が増えてるみたいで、ほんと嫌になっちゃいますよね」
「……」
「早くワクチンが出来るといいですねえ……」
「……せえ……」
「えっ……」
「うるせえって言ってんだよ」
「えっ、あっ、すっ、すいません―」
車内ではラジオから流れる不自然な笑い声だけが響いている。
次第に貧乏ゆすりのペースが速くなっていく。
爪先にあれが当たった。次の瞬間、私の中で何かがはじけた。
コの字型に囲まれた駐車場に人気はない。時刻は午前一時を回っていた。
「お客さん、着きましたよ」
「……」
外は強い吹雪に変わっている。
「お客さん?」
「ここ、どこだよ……。お前、ふざけてんのか」
「えっ、ここじゃないんですか?」
「……けやがって……料金払わねぇからな」
「ちょっ、ちょっとそれは困ります」
ドアを開ける。あれを握って外に出る。
男も外に出た。迷いはなかった。私はすぐさま反対側にまわると、男に襲いかかった。
「うっ……」
不意を突かれた男は蹲るようにして頭を抱えた。驚愕の顔をこちらに向ける。痛みと恐怖のせいか、その顔は歪んでいた。
それも束の間、私は再び腕を振り上げると男の頭部目掛けて金槌を振り下ろした。
男は鈍い音とともにその場に崩れ落ちた。
「……」
男はピクリとも動かない。意識を失っているのか、それとも死んだのか……。
私は生まれて初めて人を殴った。長年、身を粉にして働いてきた結果がこの様だ。私が悪いのか……? 否、死ぬ気で働き、家族を支える名もなき労働者たちを苦しめ続けるこの社会が悪いのだ。
「お客さん、こんなに人気のない高級住宅街に住んだら駄目ですよ」
私は男の財布から八枚の万札を抜き取ると、何食わぬ顔で車内に戻り駐車場をあとにした。
完