幸せは泡のようなもの
海の国にはカレドナイトという優秀な兵士がいた。彼の纏める部隊は一人も欠けることがなく、誰からも憧れられる存在だった。
彼を始めとしたバハリアという種族は身体が小さく、ペスカトーレという身体の大きな種族とは喰うか喰われるかという規模の敵対関係にあった。バハリアは身を守るために生まれつき身体を動かしやすい雄として生まれる。しかし歳をとり、身体の動きが衰え始めるとホルモンなどの影響で子を作れるようになる。条件を満たせば若くてもできなくはないが、それが一番常識的な子作りだった。
少し老いを感じ始めたカレドは引退を考え始めていた。誰かと結ばれて可愛い子供を産み育てたいと思っていた。しかし良い縁も無く、部下にも辞めないで欲しいと頼まれるため惰性で現役を続けていた。
バハリアの上層部は困っていた。優秀なカレドの存在によって増えすぎる兵士の間引きが出来なくなっていたからである。実際のところ、バハリアとペスカトーレの敵対関係はお互いの利害の一致によって仕組まれたものであった。ペスカトーレはバハリアを食糧などの目的で襲い、バハリアは兵士たちに気づかれない自然な戦死という方法での間引きを行っていた。だからカレドを貶めることにした。生死は問わず戦場から消す。そのためにカレドに海域調査の単独任務を与え、その近辺にペスカトーレの兵士を仕込ませた。兵士を派遣していたのは悪趣味だということで有名なペスカトーレの富豪。単独であったこともあり、カレドはあっという間にペスカトーレによって連れ去られた。
拘束された上での子作りと暴行の繰り返し。肋骨は数本折れ、傷ついた骨盤から痛みが走る。生命を宿したと思われた矢先に腹部を中心に暴行を加えられる。その結果、夢であった子供を作ることができない身体になってしまった。
与えられる食糧も粗末なものだった。薄いスープと硬いパン、薄い焦げた肉の切れ端。その一方で富豪はカレドに濃いポタージュを冷ますためにかき混ぜ、柔らかいパンを一口大にちぎり、分厚いステーキを切るように命じた。もちろんカレドには一口も与えられることは無い。冷ましすぎたポタージュを頭からかけられた。柔らかいパンは細すぎて床に落ちた。油が泡立つステーキの鉄板が本当に熱いのかを試したいと、鉄板に手を押し付けられた。
日を追う事にカレドには怖いものが増えていった。それでもなんとか生きていた。程よい悲鳴を上げなくては罰が増える。悲鳴を上げたから罰が増える。先のない子作り。さらに減った食糧。
しかしカレドの絶望的な生活はある日突然終わった。他国民を中心とした権利団体が海の国を解放したのだ。これによりバハリアとペスカトーレ共に自由に生きることができるようになった。その一方でカレドは左半身の麻痺を抱えていた。
崖の上の病院に搬送され入院生活が始まった。そしてカレドの新しい生活が始まると共に、バハリアとペスカトーレが協力していく社会も始まった。同室の患者がテレビをつけるとペスカトーレたちも映る。それを見てカレドは震えながら吐いた。看護師は小言を言いながらベッドを掃除してくれた。
どうやらカレド以外のバハリアは思っていたよりペスカトーレを怖がっていないらしい。だからカレドの方がおかしいものとして扱われていた。
レクリエーションのための大部屋に連れて行かれた日のことだった。福祉の授業のために子供たちが病院にやってきた。その中にはペスカトーレの子供もいた。それに対してカレドは泣き叫ぶようにして拒絶した。すぐに部屋に戻されたが、問題はその後だった。現場を見ていたバハリアの子供たちがそのできごとについて両親に話した。ペスカトーレの子は泣いていたとも。かつての英雄の陥落はいいネタになる。噂はあっという間に広がり、記者たちが病院に押しかけるようになった。対応に追われ続けた結果、医師も看護師もカレドを毛嫌いするようになっていった。しかしカレドには帰る場所が無いため最早居場所の無い病院での生活を続ける他無かった。
病院のある崖の下には深い海がある。そして運のいいことにカレドの右半身はまだ動かせた。屋上は開放されており、何時でも行き来できるようになっていた。
「リハビリ……リハビリ……」
そうブツブツと呟き続けながらカレドはゆっくりと階段を登っていく。本当にリハビリなのだと思い、屋上に着いても止める者はいなかった。冬の快晴だった。ゆっくりと金網へ近づいていく。金網に手をかけても誰も来なかった。半身が動かないのに無理だ。そんな考えが浮かばない程、カレドは集中していた。
「カレドナイトさん!!」
慌てて扉を開いてやってきた看護師が見たのはズルリと落ちていくカレドの姿だった。
海に落ちてすぐに近くにいたペスカトーレに救助されたことでカレドは一命を取り留めた。しかし両脚共に動かすことが出来なくなってしまった。
「カレドナイトさん、死にたいのならこれを使うと良いですよ。」
看護師に渡されたのは小瓶。恐らく毒薬。
「早く死んでほしいの?」
看護師はその問いには答えずに部屋を出て行った。
同室の患者たちが遊びに行ってしまう中、カレドは放置されていた。だからぼんやりと妄想に耽る。かつての仲間たちが見舞いに来てくれたという設定。可愛かった部下は寄せ書きをくれた。同期の仲間は戦果を報告してくれた。相棒は外での出来事を事細かに教えてくれた。やがて何から何までが妄想なのか分からなくなり始めた。食事を運んできてくれた看護師にその日の出来事を話す。
「寄せ書きと言えば……」
看護師は何か思い出したように呟いた。
「……?」
スタスタ早歩きで出て行った看護師。カレドには何も分からない。放置されたご飯を食べようとして手を滑らせてこぼしてしまったところで看護師が何かを持って戻ってきた。露骨に嫌そうな顔をする。
「カレドナイトさん宛に仲間から手紙が来てましたよ。」
看護師は封筒から手紙を出すと、カレドにそれを渡してこぼしたご飯の処理を始めた。カレドはわくわくしながら手紙を読み始めた。
『カレドナイトへ。先日のニュースを見て変わり果てた貴方にとても驚きました。でも、本当にペスカトーレの何が怖いのですか?差別的な意図があると捉えられても仕方がないと思います。早く兵士としての視点を捨て、現代に適応するべきです。』
ここまで読んでカレドは手紙を閉じて破り捨てようとした。しかし片手では難しい。看護師に捨ててもらおうとしたが、もう部屋から出て行った後だった。
誰も自分の苦しみを理解してくれない。そろそろ毒薬を飲んでしまおうかと思っていた頃、新しい看護師の青年がカレドのもとにやってきた。青年の名はリナライト。カレドに会うために看護師になったと彼は語る。
「怖いものは仕方ないですよ。今まで耐えて耐えて、僕と出会ってくれてありがとうございます。」
リナはカレドの右手を優しく握った。久々の温かい感覚にカレドはボロボロと涙をこぼし始めた。どうすればいいのか分からない。そういう類の冗談かもしれない。怖い。こわい。
「もう大丈夫ですよ。カレドさんは安心していいんです。」
リナの父親は兵士でペスカトーレによって殺されてしまったらしい。リナは憎くて堪らなかったが、世間に合わせて誤魔化しながら生きてきた。そんなある日、カレドのことを知り、カレドを助けたいと思い始めた。
「僕になんでも言ってください。絶対に誰にも話したりしませんから。」
最初は要所要所をぼかしてカレドは話し始めた。しかしリナが頷いて聞いてくれることが嬉しいあまり、何もかもを包み隠さず話し尽くした。なんでもない時にふと思い出してしまうこと。目を閉じると悪夢を見てしまい眠れないこと。だが、唯一毒薬については話さなかった。
リナに出会ってから、カレドの生活は一変した。少しずつ眠りも深くなってきた。ご飯の味がわかるようになった。妄想が必要なくなった。笑う回数が増えた。
「きっとこれ以上幸せなことは無いなぁ。」
カレドはいつもそう言っていた。
リナはカレドを退院させて自分の家に招いてあげようと思っていた。そしてもっとカレドを幸せにするつもりだった。
「カレドさん、おはようございます!」
とある朝のこと。
「あれ、まだ寝てるんですか?」
カレドは起きない。呼吸と鼓動を確認したが、どちらとも停止している。瞳孔も動かない。
「……カレドさんっ!!」
その表情はあまりにも安らかだった。外傷も無い。しばらくあちこちを見ていたら枕元から薬が出てきた。それはかつて海の国で必要のない兵士を殺害するために使われていたという代物だった。そして薬よりも奥の方から封筒が出てきた。
『リナくんのおかげで毎日がとても楽しくなりました。私は誰よりも幸せだと思います。でもこの幸せを手離したくないので、今のうちに死ぬことにしました。ありがとうございました。』
片腕しか使えないから字はガタガタだった。今までカレドに与えられた幸せなんて、誰かと話せること、ご飯が美味しいこと、ゆっくり眠れること。ごくごく当たり前の小さなものだ。あと1週間もしないうちにもっと楽しい所へ連れて行こうと思っていたのに。まだ怖いものが残っていたのに、一人で大丈夫だろうか。そんなことしか考えられなかった。
リナライトは今はもう自分の家庭を持っている。それでも初恋はあの人だったと微笑んでいた。もう20年以上前の話。
「今日は、取材に協力していただいてありがとうございました。でも、ほとんどの取材を断るのになんで私は取材をさせていただけたんですか?」
記者はなんとなく疑問を投げかけた。
「……それは一番聞かれたくなかったかも。」
そう呟いて照れ臭そうに笑う。
「え、あ!すみません!!」
「ううん。いや、君があの人に驚く程似ててね。……押し付けがましいけど、どうか幸せになっておくれ。ちゃんと話を聞いてくれるような素敵な人に出会うんだよ。」
リナの笑顔は記者のことを見ているように見えなかった。しかし記者はあまり気にしない。
「烏滸がましいかもしれませんが、カレドさんの分も幸せになります。」
「うん。ありがとう。」
社交辞令。記者はわかっていた。ほんとうに自分に幸せになって欲しいと思われていないだろうということ。もういない人を重ねられるとどうも気持ちがいいものではない。それでもこの人生は自分のものだ。
挨拶程度の握手を交わして記者は帰路に着いた。