僕の妻は遅すぎる
思い返してみれば……。
結婚する前からなにか違うとは思っていたのだ。
だが恋というのは恐ろしい熱病だ。
熱に浮かされてしまうとあらゆる欠点が見えなくなる。
特に、大失恋をした後というのは心が弱って判断を誤る。
僕のように自尊心の固まりのような男が振られると、あっけない。
一緒に暮らし始めた初日に、僕はもうこの結婚を後悔していた。
◇
僕、一之瀬廉太郎は、超一流と言われる大学を出て超一流と言われる商社に入社して順調に出世街道を歩んできた勝ち組だ。
彼女は大学時代マドンナと呼ばれていた同級生の朱音だった。
初めて朱音と出会った頃の僕は、受験勉強一筋で遊びの一つも知らない朴念仁だった。
あの頃はつまらない男だったと自分でも認めよう。
朱音は大学入学当時から垢抜けていて、ガリ勉男達には輝いて見えた。
彼女をおとすのは誰かと、学部内の八割がガリ勉ダサ男のクラスメートたちが半分期待まじりに噂し合った。
みんな受験戦争を勝ち抜いたプライドだけは高く持っていて、この勢いのままにモテ期が到来するのではないかと、愚かにも信じていた。
僕ももちろんその一人だ。
学部中、いや大学中の男達が秘かに自分こそ彼女に相応しいと思っていた。
しかし完ぺきすぎる才媛の朱音は、仕送り生活の貧乏な学生などを相手にする女ではなかった。
成績トップクラスの将来有望な秀才も、掃き溜めの鶴のごとく稀にいるイケメンも軽くあしらって三十を過ぎたIT社長と付き合い始めた。
校門前にスポーツカーで迎えにくるかと思えば、長い休みにはプライベートジェットで南の島へバカンスに行ってきたとお土産を配っていた。
貧乏学生たちは届かぬマドンナの充実生活を指をくわえて見ているだけだった。
僕もその一人だった。
だが人生とは大逆転があるものだ。
大学を卒業して有名商社に入社すると、急にモテ期が始まった。
貧乏学生から高給とりになって、華やかな先輩たちを見習ってオシャレにも気を配るようになると、女たちが放っておかない。
もともと金がなかっただけで、素材は悪くなかったんだ。
面白いようにモテるようになって、ずいぶんいろんな女と遊んだ。
そして三十を前に一通り遊び飽きると、学生時代手の届かなかったマドンナを思い出した。
あの頃はさっぱり手の届かなかった朱音も今なら手に入るかもしれない。
朱音は大学を卒業すると、手堅くエリート官僚の道を歩んでいた。
彼女は顔もセンスもいいが、頭も良かった。
これほど完ぺきな女は他にいない。
まさに勝ち組の僕に釣り合ってあまりある女性だ。
朱音との最初のデートは就活の面接ぐらい緊張した。
僕の家柄と職歴と現在の巨大プロジェクトの抜擢などをプレゼンのごとく説明して、近い内に海外への転勤があるだろうとまくし立てた。
彼女は一通り話を聞き終わると「そろそろ日本にも公務員にも飽きていたの」と一言つぶやいた。
つまり僕との将来を考えてもいいということらしい。
及第点をもらった僕は朱音と付き合い始めた。
多少の無理はした。
プライベートジェット持ちのIT社長に始まり、名だたる金持ちとばかり付き合ってきた彼女だ。その辺の汚い居酒屋に連れていくわけにはいかない。
デートには高級車をレンタルして、ミシュラン星のついた高級店に連れていく。
宿泊は一流ホテルか、二流のスイートルーム。
誕生日にはボーナスをごっそり使って高級腕時計をプレゼントした。
それだけの投資をする価値のある女だ。
それで朱音を永遠に手に入れられるなら惜しくはない。
だが半年付き合って、いよいよ婚約という時期になって……。
僕の人生は転落し始めた。
仕事で些細なミスをおかし、プロジェクトの海外組から外されてしまった。
転勤先は海外ではなく、北海道になった。
左遷というほどではない。断じて違う!
北海道組もプロジェクトの重要な一翼を担っている。
だが朱音は「寒いところは苦手なのよね」という一言を残して一切連絡が取れなくなってしまった。
冷たい女だと言ってしまえばそれまでだ。
彼女は非常に頭が良くて合理的なのだ。
緻密に計算し尽くした将来設計に、僕は見合わないと判断した。
同じタイプの僕だからよく分かる。
ただの失恋だと言われれば確かにそうだ。
もっと手軽な女なら掃いて捨てるほどにいる。
朱音は諦めて他の女にすればいい。
だが、どの女を見ても彼女と比べてしまう。
そして比べるべくもなく、見劣りしてしまう。
完ぺきな僕の未来のためには朱音が必要だった。
彼女を失った僕は、もう完ぺきではないのだ。
この人生は失敗だ。
朱音を得られなかった僕は敗北者なのだ。
これを愛というのだろうか?
だが愛であろうが執着であろうがどっちでもいい。
僕の完ぺきな人生は朱音なしでは築けないのだ。
自暴自棄になって飲み明かした。
もう一度彼女を手に入れる方法はないものかと必死で考えた。
いっそ会社なんかやめて起業するか。
がむしゃらに働けば大成功を収めてプライベートジェットぐらい買えるようになるかもしれない。
いや、そこまでになるのに何十年かかるんだ。
万が一成功したとしても、それまで彼女が待ってくれるわけがない。
そもそも同級生として出会ったのが不運だった。
優秀な彼女の一歩先を歩くなんて、年齢的有利でもなければ厳しい。
僕が選ばれなかったのは僕が無能だったからじゃない。
断じて違う!
どう自分を弁護してみても、朱音を失ったことだけが目の前に突きつけられる。
やがて別れてたった一ヶ月後に、朱音が僕もよく知っている同級生と付き合い始めたと聞いた。
大学での成績も就職先も、似たり寄ったり。
だがイケメン度は僕の方が上のはずだ。
ヤツは二ヵ月後にニューヨークに海外赴任が決まっているらしい。
ニューヨークの冬も結構寒いと聞くが、まあ、そういうことなんだろう。
僕はあおるように酒を飲んだ。
彼女に振られたことを知っている同僚たちが仕事はフォローしてくれていたが、半分アル中のような状態だったと思う。
酩酊状態の僕はまともじゃなかった。
どこかの線が切れておかしくなってたんだと思う。
だから初めて彼女、乙葉を見た時に、特別に輝いているように見えたんだ。
論理的で合理的な朱音と真反対の乙葉は、あまりに違いすぎて比べられなかった。
だから他の女のように見劣りしているように思わなかった。
負けが確定した僕の人生を唯一救ってくれるような気がしたんだ。
北海道赴任が目前に迫っていた僕は、勢いのままに彼女と結婚した。
慌ただしく籍だけ入れて、バタバタと北海道に引っ越したのだ。
そして現在。
僕はすでに後悔していた。
なぜこの僕が、こんな負けきった女と結婚してしまったのか。
引っ越しやら仕事の引継ぎやらで忙しくて、酒をあおるヒマもなくなった僕は、ようやく酒がぬけて正気になったのだ。
◇
飛行機で北海道に着いてすぐに、会社が用意してくれた社宅に行った。
昼には引っ越し業者が到着する予定だったが、僕は先に歩いて行ける距離の支店に挨拶に行くことにした。
「悪いけど引っ越しの荷物は任せるよ、乙葉。僕も挨拶が終わったらすぐ戻ってくるから」
「はい」
彼女はいつも通りにこにこと、いい返事をした。
そう。返事だけはいいんだ。いつだって。
外見も悪くはない。
前の彼女ほど華やかな美人ではないが、笑うと目が三日月になって愛嬌のある可愛い雰囲気だ。嫌いじゃない。
いつも攻撃的と言ってもいいほど人目を引く原色のワンピースを着ていた朱音に対して、乙葉は大きめの白シャツにジーンズをゆったりと着ている。
だがまあ嫌みなく似合っていて悪くはない。それはいい。
朱音がロングストレートの髪を色っぽく後ろでまとめていたのに対して、乙葉の洗いざらしのようなゆるふわショートも……うん、いいだろう。
これはこれでちょっと新鮮で可愛い。
しかし、問題はそこではない。
そこではないんだ。
支店で話し込んで夕方になった僕は、新居に帰って唖然とした。
「え? 全然片付いてないじゃないか」
正直、独身の僕の荷物なんて大した量でもない。
だがダンボールは山積みでリビングの真ん中に置かれていて、フローリングの床もほこりだらけだった。
ダンボールが一つだけ開けられていたが、乙葉のどうでもいい日用品が入っている。
「ごめんなさい。今引っ越し屋さんが帰ったところで今から片付けようとしていたところなの」
「今帰ったとこ? だいたいダンボールはすぐに使う予定のない洋室に入れてもらえば良かったのに。リビングに山積みにされたら落ち着かないだろ?」
「そ、そうなのね。それで引っ越し屋さんが何度も確認したのね。リビングに置いた方が片付けやすいと思ったんだけど……」
「とりあえず必要なダンボールだけ残して洋室に運ぼう」
僕は少しイラッとしながらもダンボールを洋室に運んだ。
「リビングのフローリングを拭いてくれる? 大きな家具だけでも配置するから」
引っ越し業者が入る前に床ぐらい拭いておけばいいのに、気が利かない。
しかもソファーも食卓もテレビも、なんでここなんだという場所に置かれている。
引っ越し業者も要領を得ない指示に手間取ったのだろう。
「えっと……雑巾は……えーっと……」
乙葉はリビングの隅に残されたダンボールと洋室に運ばれたダンボールを行き来しながら、時折全然関係ないダンボールのガムテープをぴりぴりと剥がして首を傾げている。
「ここだよ! 雑巾じゃなくてフローリングワイパーでやった方が早い」
僕はイライラと掃除用具のダンボールを開けて、フローリングワイパーを手渡した。
「あ、そっか。ありがとう廉太郎さん」
にこにこと笑顔で受け取る乙葉に、一旦イライラを収めた。
しかし。
「え? ガスが出ないけど。ガスの元栓開けてもらってないの?」
「あ……忘れてた……」
忘れてたじゃないだろ。
家を出る前にまず最初にガス会社に連絡しろと言っておいたのに。
「もういいよ。僕が連絡するから」
「ごめんなさい……」
少し申し訳なさそうな顔をしても三日月の目が笑ってる。
乙葉の顔は標準仕様が笑い顔なんだ。
それが悪いわけじゃないけど、イライラしている時には腹が立つ。
ガス会社に連絡してなんとかすぐに来てもらってリビングに戻ると、乙葉は真剣な表情でフローリングワイパーのウエットシートを取り付けていた。
まるで技術者が国家レベルの精密機械を取り扱うような慎重さで、シートの端を揃えている。
「あのさ……、もしかしてまだ全然掃除してないの?」
僕はまさかと思いながら尋ねた。
「あ、うん。今シートを取り付けたから、今から拭くわね」
(おそっっ!!)
喉から飛び出そうになった言葉を僕はグッと飲み込んだ。
乙葉はフローリングワイパーを手に、スリッパをぺたこん、ぺたこんと言わせながら隅から拭き始めた。
彼女の行く手の邪魔にならないように、大きな家具を移動させている僕は、ぺたこんぺたこんと通り過ぎる乙葉をじれじれと見守っていた。
(おそい……)
駆け足で通り過ぎていってるはずなのに、いっこうに拭き終わらない。
(なんなんだ、この生き物は……)
僕は初めて出会った未知の生物のように、乙葉を観察した。
僕は出来る女が好きだった。
朱音でなくとも付き合った女は、みんなキャリアウーマンタイプだ。
中には家事が嫌いな女もいたが、出来る女たちは家事も効率が良かった。
朱音などは部屋もモデルルームのように綺麗で、泊まった翌朝なんかはオシャレな朝食を魔法のような早さで食卓に並べた。
「料理はあまり好きじゃないけど、出来ないことがあるのって嫌いなの」
そう言って、僕が食べたいと言えば、どんな料理も完ぺきに作ってみせた。
「ちょっと拭いててくれる? そこのコンビニで夕食の弁当買ってくるから。何か食べたい弁当ある? 幕の内? とんかつ弁当?」
あまりの遅さに痺れを切らせて、僕は尋ねた。
「えっと……かわいいお弁当がいい」
「かわいい?」
かわいい弁当ってなんだ?
たこさんウインナーがのってるとかそういうの?
それとも色鮮やかなの?
ああ、サイズがかわいいってこと?
いや、全然分からないんだけど。
「えっと……廉太郎さんにお任せします」
「わ、分かった……」
いや、本当は全然分かってないけど。
僕は悩んだ挙句、刺身の色合いが綺麗な、ちらし寿司を買って帰った。
帰ってみると、まだ乙葉はぺたこんぺたこんとフローリングを拭いていた。
とりあえずリビングの半分はキレイになっていたので、ソファとテーブルだけセッティングして弁当を出すと、乙葉は嬉しそうに目を輝かせた。
「わあ! かわいい! ありがとう廉太郎さん」
どうやらこれがかわいい弁当だったらしい。
いや……なんなんだっっ!
この生き物は!
弁当をかわいさで選ぶって訳が分からない。
まず、味だろ。好きなおかずだろ!
乙葉はパシャパシャとコンビニのちらし寿司をスマホで撮影した。
「写真に撮って後でイラストにするの」
「ただのコンビニ弁当だけど」
「でも新居で廉太郎さんと食べる初めての食事でしょ?」
乙葉はイラストレーターだった。
出会ったのも廃墟のようなビルで乙葉が開いていた個展でだった。
通りに置かれた立て看板の絵に惹かれてフラッと入ってしまった。
酔っ払っていた。
普段は絵になんか全然興味がないのに、失恋で心が折れていた僕は遠慮がちに置かれた小鳥の絵に惹き付けられた。
二匹で寄り添う小鳥が、マッチ売りの少女が覗く陽だまりの家に見えた。
ふらふらと展示場に入って、乙葉と出会った。
にこにこと微笑む乙葉が、マッチの火の中で束の間見える幸福の象徴のように思えた。
いま掴まないと一生手に入らない奇跡だと思った。
ずっと競争社会で生きてきた僕は、恋愛も勝ち負けで考えるところがあった。
出来る彼女を議論で負かせるのが好きだ。
知識の多さを競い、出世の早さを競う。
彼女に負けるのは嫌だけど勝ち続けるのもつまらない。
朱音は勝ったり負けたり、いつも拮抗していた。
一緒にいて成長できる最高の相手だと思った。
それに朱音に対しては心の根底に大学時代のマドンナでもあった美しい容姿に対する憧れがあるので、勝っても軽蔑しないし、負けても許せてしまう。
同性のライバルとは違う特別な存在だった。
別れたらもう競う必要もないと思ったのに、朱音に次の彼氏が出来て海外赴任についていってしまうのだと知ると、負けたような気がした。
今まで許せた『負け』が、別れると許せない『負け』になっていた。
僕も次の彼女を作って、朱音より先に幸せな結婚を見せ付けたい衝動にかられた。
つまり……酔っ払ってたんだ。
気が狂っていたと言ってもいい。
「僕と結婚して北海道に一緒に行って下さい」
出会ったばかりの強引すぎるほどの僕のアプローチに、乙葉は何も答えなかった。
ただ困ったようににこにこと笑っているだけだ。
焦らされているのだと思った。
急いで手に入れなければもう二度とこんな人と出会えない。
その時は不思議にそんな焦りに支配されていた。
今考えてみると、乙葉は焦らすなんて高度なテクニックが使える女じゃない。
たぶんあまりの急展開についていけず、ぼんやり聞いていたのだろう。
だが落ち着き払って笑っている乙葉が、ひどく気高い存在に感じたんだ。
ゆったりとした態度も動じない笑顔も何もかも、知性あるものの余裕に見えた。
お酒というのは恐ろしい。
恋というのは詐欺だ。
芸術方面にだけはさっぱり才能のない僕は、壁に並んだ緻密なタッチで描かれた温かみのある絵の数々を見て、自分が一生勝てないものを持つ乙葉に尊敬を抱いた。
あらゆるものが僕を衝動にかりたてた。
出会って、たった二週間でバタバタと親への挨拶から結婚に関するあらゆる手続きを終えて今日に至る。
思い返せば、朱音より先に結婚しなければという強迫観念に囚われていたのだ。
まったく正気ではなかった。
「あ、お茶を沸かそうか」
乙葉は弁当を前に、余計なことを思い出して立ち上がった。
「お気に入りのかわいい急須セットがあるの。廉太郎さんにこれで飲んでもらいたいと思って一番に荷物に入れたのよ」
引っ越し荷物で一番に急須を入れるってどうなんだ?
もっと大事なものが他にいっぱいあるだろう。
だいたいお茶なんてどれで飲んでも同じだろ。
乙葉は自分のダンボールからゴソゴソと新聞紙に包まれたものを探り始めた。
「じゃあお湯を沸かすよ」
僕は腹が減っていた。
全部を乙葉に任せておくといつになったら弁当を食べられるか分からないから、サッサと立ち上がって自分の台所用品のダンボールからやかんを取り出し、火にかけた。
「お茶の葉はこれでいい?」
香典返しでもらったお茶の葉がちょうどダンボールから出て来た。
「うん。すぐに洗うから待ってね」
乙葉は急須のセットをようやく見つけ出してキッチンに立った。
「えっと……洗剤は……と」
「これ使って」
僕は自分のダンボールから台所洗剤をすっと出した。
「ありがとう。んーと……スポンジ、スポンジ」
「はい、これ」
「わあ、ありがとう。廉太郎さん」
乙葉は、言うと同時に出してくる僕を尊敬の目で見上げた。
いや、尊敬されるほどのことじゃないし。
僕はとにかく早くメシが食いたいんだ。
しかし、待てども待てどもいつまでもお茶が出てこない。
やかんが沸いてしばらくたっても、乙葉はかしゅかしゅとスポンジをこねくり回している。
どうなってるんだと様子を見にいくと、急須の口の中まで丁寧にかしゅかしゅとスポンジで洗っている。
しかも遅い。
いや、本人の真剣な表情を見ると、急いでやろうとは思ってるみたいだ。
だが早送りのスローモーションを見るようなありえない現象が起こっている。
自分と何が違うのか分からないけど、遅い。とにかく遅い。
「コップは洗ったんだよね。水で流して拭いておくよ」
僕は流しに泡まみれで置かれたコップを洗って、キッチンペーパーを出して拭いた。
「ありがとう。廉太郎さんは何をやっても早いですね」
「いや、普通だよ」
お前が遅すぎるんだ、という言葉はグッと飲み込んだ。
乙葉は次に、コーヒー豆をピッキングするカリスマバリスタのような顔つきで茶葉を入れると、やかんのお湯を慎重にこぽりんこぽりんと注いだ。
こぽりん、こぽりん。こぽりん、こぽりん。
しっかり蒸らして、今度は茶器にこぽりんこぽりんと交互に注ぐ。
こぽりん、こぽりん。こぽりん、こぽりん。
こぽりん、こぽりん。こぽりん、こぽりん。
こぽり……うぎゃああああ!!!
(お、お、遅い~っっっ!!)
頭をかきむしり雄叫びを上げそうになるのを必死でこらえた。
なんなんだ! なんなんだ!
この果てしない悠久の時間は!
だいたい、ぺたこんとか、こぽりんとか、なんなんだ!
乙葉の行動には、なんでそんな間の抜けた擬音が聞こえるんだ!
僕と乙葉では時間軸が違うのか?
急須から出るお茶の流れまでが僕と乙葉では違ってしまってるのか?
ここは重なり合ったパラレルワールドなのか?
秒刻みのスケジュールで仕事をこなし、経済情報、政治情勢の収集にも余念がなく、彼女とも知的な会話を楽しんできたこの僕が……。
なんでぺたこんとかこぽりんとか、そんな擬音に踊らされてるんだ。
しかも、お気に入りの急須って。
ただの真っ白な、ちょっと歪んだような形のティーポットじゃないか。
茶器もちょっと歪んで、ちょっとざらついている。
味があると言えばそうかもしれないが……。
これ、かわいいか?
乙葉のかわいいの基準が分からない。
絵を描く人間は感性が違うのか。
さっぱり得体が知れない。
何一つ共感できない。
どうすればいいんだ。
今から婚姻届を無しに出来ないのか?
酔っ払って間違えましたとか……。
僕は違う種族と結婚してしまったんだ。
結婚初日にして、僕はこの結婚をどうやって白紙にしようかと考えていた。
◇
すたこん。
すたこん……すたこん。
すたこん……すたこん……すたこん。
僕は翌朝、得体の知れない擬音で目が覚めた。
ゆうべは弁当を食べた後、とにかく寝る場所を作ろうと、寝室の床を乙葉が再びぺたこんぺたこんと拭いて、僕がベッドをセッティングした。
独身時代から使っていたダブルベッドをそのまま持ってきた。
新婚の乙葉には申し訳ないと思ったが、とにかくすべてが急過ぎて、新しい家具を買うヒマなどなかったのだ。
新婚初夜ということになるが、僕はどうしたものかと悩んでいた。
もしこの結婚を白紙にしたいなら、余計な手出しはしない方がモメなくて済む。
だがそれはそれで失礼なのかもしれない。
先にシャワーを浴びてパジャマに着替えると、乙葉が自分の着替えやタオルを入れたダンボールを探し歩いていた。
そのぺたこん、ぺたこんという足音を聞いている内に眠ってしまったようだ。
彼女が、その悠久の時間軸で、一体何時間シャワーと着替えにかかったのかは知らない。
だが目覚めた僕はカーテンの隙間から朝日が差し込むのに気付いた。
「朝になったのか……」
ベッドの反対側はキレイに整っていたので、ここで寝たのかどうかも分からない。
そしてキッチンから、謎の擬音が聞こえていた。
すたこん……すたこん……。
僕は鶴の恩返しのはた織りでも覗く心境で、キッチンを覗いた。
すたこん……すたこん……。
どうやら包丁で大根を切ってるらしい。
普通の家庭であるならば、トントントントンと軽快に聞こえてくるだろう包丁音。
それが乙葉に限っては『すたこん』なのだ。
しかも間が長い。
どうしてだろうと観察すると、どうも一回一回大根の形を確認しているようだ。
慎重に丁寧に熱心に。
(遅すぎるっ!)
と怒鳴りあげたいところだが、あまりに真剣な表情なので飲み込んでしまう。
「おはよう、乙葉」
僕はこっそり覗いているのも気まずいので、声をかけた。
ゆうべ先に寝たことを怒っているかとも思ったが。
「おはようございます! 廉太郎さん」
満面の三日月笑顔だった。
まあ……笑顔は嫌いじゃないんだ。
癒されるというか、可愛いと思う。
「ゆうべは先に寝ちゃってごめん。乙葉はちゃんと寝れた?」
「はい。少しですが寝ました。廉太郎さんは今日もお仕事ですから気にしないで下さい。私はお気に入りの洗顔と化粧水を探すのに時間がかかって、結局夜中の三時になったんです」
良かった。先に寝てしまってて。
待ってたらイライラして、ついにぶち切れてたかもしれない。
「三時に寝てこんな早くから朝食作り? 何時に起きたの?」
「私は人より料理に時間がかかるから五時に起きました」
人より動作が遅いというのは気付いているらしい。
「五時? 二時間しか寝てないじゃないか」
「廉太郎さんを見送ったら少し寝ますから大丈夫です」
乙葉はフリーでイラストレーターをしていたので、引っ越しても仕事に大きな支障はなかった。そもそも不定期な仕事があるぐらいで、自立出来るほどの収入はなかったらしい。
二十八になっても実家で親と暮らしていた。
まあ、引きこもりに毛がはえたようなものだ。
だからこんな急な結婚にもあっさりついて来ることが出来たんだ。
乙葉の両親も挨拶にいくと「良かった、良かった」と言って、突然現れた男の急な申し出にも乙葉と同じ三日月目でにこにこと送り出してくれた。
よくよく考えれば気付くことだった。
半分引きこもりのような生活を続ける娘と結婚したいなどという愚かな男に、いいカモが見つかったと差し出したんだ。
こんな、のろくて生産性のない娘に手を焼いていたに違いない。
僕はとんだ出来損ないの女と結婚してしまったんだ。
出かける仕度を済ませてリビングに戻っても、まだ食卓には何も出来ていない。
だいたい引っ越した翌朝の食事なんて、コンビニのパンとコーヒーでよかったんだけど。
「お母さんにぬか床を分けてもらったんです。この漬物を廉太郎さんに食べさせてあげたくて」
昨日の飛行機でやけに重い手荷物を持っていると思ったら、ぬか床を持っていた。
そして最寄の駅前で売っている野菜を嬉しそうに買い込んでいた。
僕が今まで付き合ってきた女たちは、朱音をはじめとしてイタリアンやフレンチが似合う女ばかりだった。
そして僕もイタリアンやフレンチ派だった。
ぬか床には興味はない。
「出来たものから運ぶよ」
このままでは遅刻しそうだと思った僕は、仕方なく手伝うことにした。
「茶碗はこれ?」
まだダンボールに新聞紙でくるまれたままの食器を物色して、しゃかしゃかと洗った。
「かわいい茶碗でしょ? 大小の夫婦茶碗になってるの。一目ぼれして二年前に買ったんだけど、結婚する予定もなかったし、夫用のは使うこともないかと思ってたの。使ってくれる人が現れてこの茶碗も喜んでます。良かったね」
乙葉はすたこんと漬物を切りながら、大きい茶碗に話しかけた。
この生き物は食器と会話をするらしい。
「……」
僕は言葉をなくして無言でお椀や小皿などを次々出して洗い続けた。
いや、五時に起きたなら使う食器ぐらい洗っておけよ。
まな板や包丁とも会話してたのか。
そんなことしてるから遅いんだ。
言えなかった文句ばかりがどんどん心の中に積もっていく。
「私がご飯をよそいますね」
乙葉は腕まくりをして炊飯器のフタを開けると、一グラムでも多いと失格になるクイズ挑戦者のような真剣さでご飯をよそっていた。
僕はその乙葉の行動を、眉間を寄せて後ろから観察していた。
「あのさ、そのご飯ってそんなに丁寧に入れなきゃダメかな? 適当にサッサとよそっちゃダメなの?」
僕はついに聞いてみた。
「はい。米粒がつぶれないように、それからかわいいお茶碗とのバランスを考えながらよそうんです。大切に育てられた米粒も、精魂こめて作られた食器も、最高に輝ける状態にしてあげたいんです」
「……」
聞くんじゃなかった。
ますます理解できない。
乙葉にとっては、米粒一つ、茶碗一つも心を宿した生き物に見えるらしい。
これはもう限界かもしれない。
ここで結婚撤回を言ってみようか。
しかし……。
「出来ました。廉太郎さんのおかげでいつもより早く出来ました」
嬉しそうに三日月目で笑う乙葉を見ると、何も言えなくなった。
「あ、ああ。じゃあ出来たものから運ぶよ」
うん。顔は嫌いじゃないんだ。
笑顔もかわいいと思う。
乙葉の笑顔を見るのは、確かに好きなんだ。
乙葉がごそごそと出してきたコットンのランチョンマットに、ご飯と味噌汁と漬物と玉子焼きだけのシンプルな朝食が並んだ。
五時に起きて作った割りに謙虚な品数だ。
乙葉がかわいいと言っている食器たちは、全部どこかいびつに歪んでいる。
ご飯もあれほど慎重に入れてたのに、空気を含んで乱雑に盛られている。
玉子焼きは食器と同じく、やっぱり少し歪んでいる。
しかし……。
全部が少しずつ歪んでいるのに、ランチョンマットにすべてがおさまると、不思議な調和がうまれていた。なぜだか心地いい。
歪んだものたちが、それぞれの歪みを支え合いながら調和を生み出す。
そんな感じなのだろうか。
「いただきます」
そして食べてみても同じだった。
少しうす味の玉子焼きと、濃いめの味噌汁。
それらがほっこりと米粒をたてた白ご飯を挟むと心地よく体におさまる。
そして新鮮な漬物が口の中を爽やかにリセットしてくれる。
なんというか……。
美味い……。
一日の最初を穏やかに支えてくれる心地よさ。
嫌いじゃない。
そう思うと、何も言い出せなくなっていた。
◇
新しい職場は東京本社とは全然違った。
巨大ビルのフロアを行き来しながら、各セクションと腹の探り合いをして駆け引きしていた日々が、ワンフロアでおさまる支店のアットホームな毎日に変わった。
電話で様々な言語を使って商談する声があちこちから聞こえる喧騒が、釣りの穴場を話し合う和やかな雑談になった。
乙葉だけではなく、職場の時間軸も僕と違ってしまっていた。
僕はイライラしていた。
仕事はずいぶん楽になって、時間に追われることも、ギリギリの商談にハラハラすることもなくなった。同じ給料で楽になったのだから、たいがいのヤツは喜ぶだろう。
だが野心を持つ僕は、仕事が楽になればなるほどイライラした。
こんなことをしている間に、同期で海外に行ったヤツはどんどんスキルを伸ばして差が開いているんじゃないのか。
こんなぬるま湯のような仕事をしていたら、出世が遠のくばかりだ。
早くプロジェクトに必要な契約を終えて本社に戻らなければ。
転勤を拒否して地域限定社員になっている部長は言う。
「一之瀬くん。そんなに慌てて仕事しなくても、まだ時間はたっぷりあるんだ。新婚なんだしせっかくだから北海道の観光地を奥さんと巡って、美味しいものを食べてゆっくり堪能していくといいよ」
いや、あんたらのように出世から外れた人間と一緒にしないでくれ。
僕はもっともっと上を目指す人間なんだ。
のん気に北海道観光なんかしてる場合じゃないんだ。
朱音と結婚する同級生より成功した人生を送ってやるんだ。
イライラと家に帰ると、もっとイライラした。
引越しの荷物は、乙葉が昼間に片付けるより、僕が仕事終わりに夜片付ける荷物の方がずっと多い。……というより、乙葉が昼間の膨大な時間を使ってどこを片付けてるのか分からない。
ただ、気付けば少しずつ家の中がいびつな置物で侵食されていっていた。
玄関のかさ立て。トイレのアロマポット。洗面所のはぶらし立て。
キッチンの調味料入れ。風呂場の座椅子。
形がいびつな物もあれば、イラストがいびつな物もある。
どうやらイラストは乙葉が自分で描いたものらしい。
乙葉は動物の絵を描くことが多く、いろんな物にワンポイントのように動物のイラストを描いている。カレンダーやカーテンにも、無地のシンプルなものに乙葉のイラストが飛び交っていた。
ほとんどは独身時代から使っていたものだが、中には結婚してから描いているものもあるようだ。どうも大半の時間をその無駄な創作に費やしているらしい。
正直分からない。
カーテンやカレンダーにイラストを描いたとして、誰が見るんだ?
せいぜい乙葉と僕だけじゃないか。
そんなヒマがあるなら、さっさと家事を済ませて自分のイラストを売り込むなりして収入を得られる方法を考えるべきだろう。
そんなだから二十八の今日まで自立も出来ず、イラストレーターとしての実績もないんだ。
「ねえ、乙葉は学生時代どんな子供だった?」
僕は旬菜のあえものを食べながら尋ねた。
今日の晩御飯は、ご飯と味噌汁と漬物。それに旬菜のあえものと刺身が少し。あとは、ゆばのあんかけだった。メインはハンバーグのつもりだったらしいが、帰った時に今から作ると言ったので、それは明日にしてくれと頼んだ。
定時で帰ると、たいがいメインが間に合わない。
乙葉の予定していた献立を揃えると、だいたい二時間ばかり待つことになる。
「えっと……あまりしゃべらない子でした。私はゆっくり考えてからしゃべるので、私が話す頃には何を質問したのかも忘れられてて、話がかみ合わなくなるので」
だろうな。
僕もさっき質問してから乙葉が答えるまでに、旬菜を食べ終えてしまった。
「イジメられたりはしなかった?」
このスローテンポに周りの人間はイライラしなかったのか?
「ひどいイジメとかはなかったです。なかなかお友達になってくれる人がいなくて、一人ぼっちになることはよくありましたけど。あと話しかけても無視されることは多いですけど」
いや、じゅうぶんイジメられてないか?
こういうの、なんて言うんだっけ?
みそっかす?
嫌われる以前に相手にもされてなかったんだろう。
「高校や大学は?」
「高校はなんとか通いましたが、大学は行ってません。勉強はあまり得意じゃなくて、それよりも絵を描いてる方が楽しかったので」
「高卒? じゃあそれからずっとこの生活?」
「はい」
「会社に入ったりアルバイトしたことは?」
「一度コンビニでアルバイトをしようとしましたが、いろいろついていけなくて」
「……」
僕は唖然とした。
なんてことだ。
僕は結婚相手の経歴すらもまともに聞いてなかったのだと今さら後悔した。
まさか高卒だとは思わなかった。
しかもアルバイトさえも出来ない負け人生。
この僕がどうしてこんな足手まといの出来損ないと結婚してしまったんだ。
今こそはっきり言おう。
僕と君では生活レベルが違い過ぎる。
正直僕は君とやっていける自信がないんだ。
しかし僕より先に乙葉が口を開いた。
「あの……廉太郎さん。ずっと言いそびれていたんですが……」
「なに?」
もしかして自分から身を引くつもりか。
あなたのようにハイスペックな人と私では釣り合いません、とか。
しかし乙葉は、三日月の笑顔で言った。
「こんな私と結婚してくれてありがとうございます」
「……」
「ずっと家の中で絵を描いてるばかりで、父も母も私は一生結婚も出来ずにこのまま暮らしていくんだろうって諦めてたんです。だから、なんだか慌ただしさについていくのが精一杯のままに北海道まで来てしまいましたが、おかげで両親を安心させることが出来ました」
「……」
「それに恋愛とか結婚ってよく分からないけれど、毎日廉太郎さんが何をすれば喜ぶかしらって考えながら過ごす日々が本当に幸せなんです。ありがとうございます」
「……」
少し涙ぐんで言う乙葉に、僕は何も言えなくなった。
しかも……。
ゆばのあんかけがメチャクチャうまいんだ……。
メインのハンバーグの代わりに、乙葉の言葉がメインディッシュになった。
いや、騙されてはいけない。
思った通り、誰にも見向きもされなかった女じゃないか。
僕は朱音には振られたけれど、それ以外ならよりどりみどりだったんだ。
たいていの女は、少し好意を見せると自分から寄ってきた。
そんな僕が、なんだってこんな残りもののみそっかすを……。
その夜も、僕は乙葉のぺたこん、ぺたこんという足音を聞きながら先に眠っていた。
◇
休みの朝も謎の擬音で目が覚めた。
つくたん。
つくたん……つくたん。
つくたん……つくたん……つくたん。
「なんだよ、こんな朝っぱらから。何やってんだよ」
時計を見ると、まだ六時だ。
休みの日ぐらいゆっくり休みたいのに。
つくたん……つくたん……つくたん。
「……」
つくたん……つく……。
「あー、くそっ! 気になって眠れない!」
僕はガバリと起き上がりキッチンを覗いた。
乙葉が何かをキッチン台に叩きつけている。
その顔は頑固な国宝級のそば打ち職人のように厳しい(目は三日月だけど……)
「おはよう、乙葉。なにやってるの?」
「あ、おはようございます、廉太郎さん。パンを作ってるんです」
真っ白な生地をこねていたようだ。
「自分で作るの? 近くに美味しいパン屋があるのに」
正直言うと、わざわざ手間をかけて自分で焼く意味が分からない。
どんなに頑張ったところでプロのパンほど美味しいわけがないのに。
だったら面倒な手間をかけず、買ってきた方がこっちも嬉しい。
「自分で作った方が無添加で好みに合わせたパンが作れるんです。もう少し時間がかかるので廉太郎さんはまだ休んでて下さい」
「……。いいけど……」
できれば添加物が入っててもいいから、プロの作った美味しいパンが食べたいけど。
……とは言えなかった。
そしてもう一眠りして、お腹がすききった頃、ようやく朝食に呼ばれた。
なんというか……。
乙葉の作る食卓は不思議だ。
朱音が豪華な食器やグラスと、色鮮やかな花やフルーツで飾るのと違って、ウッディな平プレートにいびつなパンが無造作に置かれているだけだ。
それなのになぜか贅沢な感じがする。
道端で拾ってきたような花が一輪飾られ、素朴な食器にスクランブルエッグとハムがのっているだけなのに、ほっこりと食卓全体が調和されている。
きっと並んだフォークひとつ、コーヒーカップひとつ無いだけで調和は乱れるだろう。
絶妙にすべてが心地よく食卓におさまっているのだ。
「ちょっと固いけど美味いね」
パンは噛みしめるほどバターの風味が口に広がって心地いい。
「塩バターパンなの。廉太郎さんが好きそうな味付けにしたの。こっちはチーズも入ってるのよ。食べてみて下さい」
乙葉の料理は、時間もかかって品数も少ないけど、不思議に美味い。
料理を食べる前は、毎日のように今日こそ離婚を切り出そうと思うのに、料理を食べてしまうと結局飲み込んでしまう。
……………………………
そんなことをしている内に、乙葉の遅すぎる行動にも慣れてきた。
そして謎の擬音が聞こえると、今度は何かと楽しみにすらなっていた。
あばたもえくぼと言うが、だんだん愛着のようなものが湧いていた。
そして家の中のあらゆるものに、乙葉のほっこりしたイラストが描かれ、乙葉色に侵食されていっていた。
そんなある日、大学時代の友人からメールがきた。
余計なことを知らせなくてもいいのに、朱音が例の同級生と結婚してニューヨークへ旅立ったと教えてくれたのだ。
僕は乙葉の作るゆるい時間軸からようやく正気に戻った。
そしてその日に限って、会社から帰ると夕食の準備が何も出来ていなかった。
「ごめんなさい。急にイラストの仕事の依頼があったの。急いで何パターンかサンプルが欲しいって言われて、さっきやっと終わったところなの」
乙葉は三日月の目で謝った。
「今すぐ晩御飯の用意するから……」
「いいよ! 今から作ったんじゃ乙葉のスピードじゃ今日中に出来ないだろ!」
僕はイライラしていた。
これが朱音だったら、急な仕事が入ったとしても魔法のように僕の帰りに合わせて夕食を作れていたはずだ。
いや、それ以前に才媛の彼女となら家事分担に不満はない。
僕が家事を請け負っても納得できるハイスキルな仕事をしてるのだから。
乙葉のどうでもいいようなイラストと、国を動かすキャリア官僚では比べるべくもない。
イライラする。
乙葉を見ているとイライラするんだ。
「廉太郎さん……」
乙葉は僕の冷たい言い方に驚いたようだ。
そうだ。
僕は心の中であれこれ思っていながらも、結局今日まで何も言えずにいた。
苛立ちも不満も全部心の中にしまったまま、蓄積させてきたのだ。
今日こそ言わなければ。
これ以上一緒にいたら、このままずるずると一生この時間軸にのせられてしまう。
僕は乙葉ごとき低ランクの女と暮らす男じゃないんだ。
「前から言いたかったんだ。どうしてそんなに何をやっても遅いんだ! 僕は何でもテキパキ出来る女性が好きなんだ!」
「ご、ごめんなさい。あの……今度からはもう少し何でも早く出来るようにします」
乙葉はショックを受けたように三日月の目を曇らせた。
その傷ついた表情にすらイライラした。
「だいたい一番イライラするのは、そのスリッパの音なんだ!」
「スリッパ?」
乙葉は驚いたように自分の履いているスリッパを見下ろした。
「なんだよぺたこん、ぺたこんって」
「ぺたこん?」
どうやら乙葉には聞こえてないらしい。
「毎日毎日ぺたこんぺたこんうるさいんだよ!」
「ごめんなさい。そんなにうるさいと思わなくて……」
「それだけじゃない。全部全部うるさいんだ! もういいかげんにしてくれっ!!」
「ご、ごめんなさい……」
完全な八つ当たりだ。
そんなのは分かってる。
でも僕は親も諦めていた出来損ないの乙葉と結婚してやったんだ。
これぐらいの八つ当たりは許されるはずだ。
「もういいよ。そこのコンビニで弁当でも買ってくるから」
僕は気まずくなって、ぷいっと財布だけ持って玄関を出た。
外に出ると、すぐに後悔し始めた。
ずいぶん傷ついた顔をしていた。
標準仕様の笑い顔も、さすがに落ち込んで沈んでいた。
いつもの三日月目もショック過ぎたのか、まんまるく見開いていた。
不満を溜め込んでしまうから爆発するんだ。
いつかは言ってしまうなら、もっと少しずつ穏やかな口調で言えばよかった。
「しかもスリッパのぺたこんって、何言ってんだよ……」
その変な擬音は僕に聞こえるだけで、実際にそんなにうるさい訳じゃない。
乙葉にしたら、言いがかりもいいとこだ。
それに僕は……。
乙葉のゆるい擬音がそんなに嫌いじゃなくなっていた。
むしろ、本当ならもっとイライラしていた日々を、乙葉の擬音がほぐしてくれていた。
ただ、毎晩、ぺたこんのせいで先に寝てしまう自分に腹が立っていた。
今晩こそは、もう少し乙葉に近付こうと思うのに、気付けば朝になっていた。
あのぺたこんは、睡眠導入剤のように僕を眠りに誘う。
でも裏を返せば、それだけ乙葉との日々にリラックスしていたってことだ。
離婚を切り札に持っているつもりでいて、本当はもうこのままでいいかもと思い始めていた。
僕のような男と結婚できたことは奇跡なんだと、ちょっと思い知らせてやりたかっただけだ。
「ちょっと言い過ぎたな。帰ったら謝ろう」
僕はコンビニでデラックスちらし寿司を買って家に帰った。
だが……。
家にはもう乙葉はいなかった。
「乙葉?」
明かりの消えたリビングに声をかける。
暗闇で泣いているのかとも思ったが、すぐにいないのだと分かった。
なぜなら部屋の調和が崩れているから。
玄関の傘立ても、リビングの小物たちも、寝室のカーテンも。
歪んだままにバランスを崩し、ほっこりしたイラストたちも安定を失って淋しそうにしている。
乙葉のいないこの家は、すっかり調和を失っていた。
あれほどほっこり温かな空間だったはずなのに、乙葉がいないだけで殺風景でぬくもりのない空間に様変わりしていた。
「まさか……出て行ったのか……」
たったあれだけのことで?
それに出来損ないのみそっかすの乙葉がここを出て行ってどうするつもりなんだ。
乙葉にとったら僕のようなハイスペックな男と結婚できるなんて奇跡のはずだ。
こんなことぐらいで逃げ出してどうする。
僕に感謝して、敬って、少々の暴言ぐらい我慢するのが賢明だろう。
冷静になって損得を考えたらきっと戻ってくるはずだ。
だが……。
損得って? 賢明って?
乙葉にそんな発想があったか?
いつだってどうでもいいことに一生懸命で、くだらないことに全力だった。
僕の学歴がどうとか、一流の会社だとか、そんなことを喜んだことがあったか?
僕に群がる他の女は、みんなそこに釣られて近付いて来た。
でも乙葉はそんなことを話題にしたこともなかった。
じゃあ乙葉にとって大事なことって何なんだ?
僕はハッとリビングに置かれたままの乙葉のパソコンに視線をやった。
イラストデータを送ったままに、画面が開いている。
そこにはゆる~く寝そべる動物たちが、何パターンも描かれている。
乙葉の生み出した、乙葉の分身たち。
乙葉の絵は嫌いじゃない。
いや……好きなんだ。
大好きなんだ。
一目見た時から。
乙葉のゆるい温もりを凝縮したような絵に、僕は一目ぼれしていた。
あれは気の迷いなんかじゃなかった。
酔っ払って、おかしくなってたわけじゃなかった。
僕は確かに乙葉の分身のようなこのイラストたちに心奪われていた。
そしてこのゆるい温もりを生み出す乙葉自身に惹かれたんだ。
大失恋をして、日々の競争にも虚栄にも疲れて酔っ払っていたあの時期こそ、正気だったんだ。
本当に美しくて愛おしいものが、あの時の僕にはきちんと見えていた。
ひっそりと誰にも見つけられず輝いている、温かな慈愛に満ちた命を見つけた。
あれこそが奇跡だったんだ。
なんとしても乙葉と結婚したいと思った日々こそが、僕の魂が求める真実の衝動だった。
そして私用というフォルダに目を止めた。
クリックして開いてみる。
そこには……。
最初の日に食べたちらし寿司のイラストに始まり、寄り添うように置かれた夫婦茶碗、初めての朝食、カーテンやカレンダーに描かれたイラストの下書きが並んでいた。
そしてその合間、合間に……。
「!!」
有り得ないはずの絵が……。
それは。
「ははっ。酔っ払って判断力を失ってたのは僕の方だと思ってたけど……」
僕は笑おうとして、こみあげるものに思わず口を押さえていた。
「やっぱりバカだな、乙葉は……」
たくさんの僕の絵があった。
着ている服はまぎれもなく僕だけど、絵の中の僕はとても温かい目をしていて……。
「勘違いもいいとこだ。乙葉にはこの虚栄心ばかりの僕が、こんな温かな笑顔で笑っているように見えてるのか? 心の中でいつも自分勝手な悪態ばかりをついていた僕を……」
バカじゃないのかと笑ってやりたいのに、どうしたことか涙が溢れる。
「こんな僕を信じて、信じきって……愛してくれていたのか……」
絵の中の僕には乙葉の『愛情』という魔法の粉がかかっていた。
そうだ。
いつだって乙葉は僕を喜ばせることばかりを考えていた。
僕が過ごすこの家のすべてに、全力で愛情を注いでいた。
乙葉の愛情という魔法で、すべてが調和されていたんだ。
だから乙葉がいないだけで、すべてがバランスを失った。
「乙葉を探さないと……」
僕はふらりと立ち上がり、玄関に向かった。
玄関には乙葉のスリッパがきちんと揃えて置いてあった。
乙葉が履いた時だけぺたこんと鳴るスリッパは、魔法が解けたように普通のスリッパになっていた。
「探すってどこを探せばいいんだ」
僕は乙葉の何も知らない。
こんな時、どこに行くのかも分からなかった。
僕の本性に気付いて実家に帰ったのか?
もうこんなつまらない男と一緒に暮らしたくないと飛行機に飛び乗ったのか。
それともまさか……。
ショックで自殺なんてしてないよな。
いや、でもずっと両親の元で、このゆるいイラストに囲まれて過ごしてきた乙葉だ。
信じていた僕の暴言に想像以上のショックを受けたかもしれない。
分からない。
僕はまだ……乙葉の何も知らないんだ。
「このまま乙葉が戻らなかったら……」
想像しただけで心が冷えていく。
朱音に振られた時の敗北感とは全然違う。
この空虚感は味わったことのないものだった。
「乙葉……。頼むから帰ってきてくれ……」
乙葉のスリッパにポタポタと涙が落ちた。
「廉太郎……さん……?」
「!?」
絶望していた僕は、ふいに乙葉の声が聞こえてバッと顔を上げた。
「乙葉……」
乙葉は玄関を開けたまま驚いて突っ立っていた。
「どこに……行ってたんだ……」
乙葉は三日月の目を丸くしている。
そのゆるい表情は、自殺も家出も匂わせていなかった。
「あの……駅前の雑貨店まで……これを……買おうと思って……」
乙葉はゴソゴソとカバンから袋を取り出した。
「?」
見ても意味が分からなかった。
「あの……ルームシューズを……」
「ルームシューズ?」
なんでこんな夜にルームシューズを買いに行くんだ?
夫の暴言に腹を立ててルームシューズを買いに行った?
なんで?
いやいや、さっぱり理解が及ばない。
「あの……廉太郎さん、スリッパの音が嫌みたいだからこれなら大丈夫かと思って」
乙葉は嬉しそうに三日月の目で微笑んだ。
「……」
やっぱり乙葉はバカだ。
あんな八つ当たりを本気にしてどうするんだ。
こんな自分勝手な男の言うことなんて適当に聞き流せばいいのに。
「は……はは……」
あんまりバカで笑いがこぼれる。
「それで……駅前まで……?」
こんなつまらない男のためになんでそこまでするんだ……。
夜中に出歩いて何かあったらどうするんだ!
僕がどれほど心配したと思ってるんだ!
怒鳴る代わりに……。
「!!!」
力いっぱいに乙葉を抱き締めていた。
「廉太郎さん……?」
乙葉は急に抱き締められて驚いているようだった。
そりゃそうだ。
僕達はいまだに手を握ったことすらないんだから。
腕の中の乙葉は真っ赤になって固まっていた。
なんというか……たまらなく可愛いんだ。
「さっきはごめん。ちょっとイライラしてて言い過ぎた。乙葉は何も悪くないんだ」
「え……でもスリッパの音が……」
「いいんだ。ぺたこんでもつくたんでも好きなだけ鳴らしてくれ」
「つくたん?」
乙葉は困ったように首を傾げた。
その無邪気な顔がまた、たまらなく愛おしかった。
「じゃあ一つだけ努力して欲しいことがある」
「はい……」
「夜はもう少し早く寝室に来てくれ。乙葉を待ってる内に眠ってしまうから……」
「はい……」
乙葉はますます真っ赤になってうつむいた。
今から仕切りなおしだ。
いろいろ順序は逆になったけど、これからもっと乙葉のことを知っていこう。
「今日は絶対起きて待ってるから」
幸いルームシューズを買ってきたから、ぺたこんの足音で眠りに誘われることもないだろう。
もう大丈夫だ。
今夜こそは乙葉との距離を縮めよう。
そしてその夜……。
かぽてん。
かぽてん、かぽてん。
かぽてん、かぽてん、かぽてん。
乙葉はルームシューズに履き替えたのだが……。
少しサイズが大きかったせいで乙葉が歩くたび新たな擬音が廊下に響いていた。
かぽてん、かぽてん。
かぽてん、かぽてん、かぽてん。
そして僕は……。
そのゆるい擬音を聞きながら……。
またしても幸せな眠りに落ちていたのだった。
END